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12月, 2014の投稿を表示しています

パディントン像を追って歩く12月のロンドン

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映画「パディントン」の封切りを記念して、ロンドン各地に、約50のパディントンの像が置かれていました。基本の形は同じで、それを、それぞれ、別の著名人がデザインするという趣向。12月30日(昨日)展示が終わった後は、このうちのいくつかが、オークションで売られ、売り上げは慈善団体に寄付されます。 これを、全部見て回ろう・・・という気も、少しはありましたが、私は、どちらかというと、シティーを中心とした、ロンドン東部をほっつき歩くのが好きなので、コヴェントガーデン以西にある、ロンドン西部に配置してあったものは、見ずに終わりました。ただ、パディントン駅にあった御馴染み青のダッフルコートと、赤の帽子のものは見に行けば良かったかな。 という事で、見て回ったパディントン像は全部で10個。これら写真を、ここで全て載せ、2014年にさよならをする事とします。(映画「パディントン」に関しては以前の記事、 こちら まで。この中には、シャーロックホームズの衣装のパディントン像を載せてあります。) ロンドン・ブリッジ駅入り口のすぐ外のものから始めましょう。ロンドンブリッジ駅一帯は、お色直しがいまだ続いており、この駅を通る電車のダイヤは、長い間かなりめちゃくちゃとなっています。ロンドン・ブリッジ駅を利用する通勤者には、頭の痛い状態ではありますが、数年後は、ぴかぴかになっているのでしょうね。 シャード を背景にポーズを取るパディントン。 バラ・マーケット の像にはカラフルな食べ物の絵が沢山描かれていました。 クリスマス前に出向いたので、マーケット内には、まだツリーやリースなども売られており。  グローブ座の前にあった、シェークスピア時代の衣装を身につけたパディントン像は、「シェークスベア」と命名されていました。 テート・ギャラリーの前のものは、「割れ物注意」と書かれ、ちょっとモダンアート風か。 テートの前にはいくつかの、カラフルなクリスマスマーケットの屋台が立っていました。その中のひとつの屋根には、スクルージ風の像もお目見えしていました。 テート・ギャラリー前から歩道橋を渡り、セント・ポール寺院のある対岸の北側へ渡ります。かもめたちは、12月だと気付いているのか、のんびり、橋の上を行きかう人を眺め、テムズ川を眺め。  セン

エリザベス女王のクリスマス・メッセージ

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毎クリスマス、3時になるとテレビ、ラジオで女王からイギリス国民への、クリスマスのスピーチが放送されます。スピーチ内容は、大体、一年間を振り返って、その年にあった事のハイライトなどを含めて書かれており、クリスマスのご飯が終わった後に、居間のソファーにどてんとひっくり返って、ふくらんだお腹を撫でながら、家族でクィーンのスピーチを見るというのが、イギリスでは御馴染みの光景。クリスマスの日のニュースでも、女王の今年のクリスマス・メッセージはこんな内容でした、と報道されるのが常。 私は、昔、はじめてイギリスでクリスマスを過ごした年に、外国人学生を、クリスマス期間、家庭に滞在させ、イギリスの普通の家庭のクリスマスの経験をさせるという慈善団体に連絡し、その慈善団体に登録していた、とある家庭に招いてもらいました。私が自費で出したのは、その家庭に辿り着くまでの交通費だけで、あとは、宿泊、食事、すべてホストの家庭がもってくれたのです。赤の他人をそうやって、両手広げて受け入れてくれるとは、本当に、有難い話だったと、今になって思います。この家庭で、クリスマスの日にご飯を食べた後、「さあ、3時だから、クィーンを見るよ。」と、家族のメンバーと一緒に、テレビでメッセージを見たのが、女王のクリスマス・メッセージの初経験でした。この時のスピーチの内容はさっぱり覚えていませんが、女王のクリスマス・メッセージというと、あの家庭でのイギリス初めてのクリスマスを思い出すのです。 さて、このクリスマス・メッセージの起源は、女王のおじいさんである、ジョージ5世の時代に遡ります。当然、この頃は、まだテレビが無いですから、ラジオのみ。遠方への報道に適した短波を利用して、オーストラリア、カナダ、インド、ケニア、南アフリカ等、大英帝国各地のイギリス国民に、王からクリスマスのメッセージを送る事が主な目的。なんでも、短波というのは、受信の具合が夜の方が良いのだそうで、イギリス時間で3時が、他の植民地の放送には最も適切と見られ、3時という時間が選ばれます。 こうして、ジョージ5世は、1932年のクリスマスの日、ノーフォーク州サンドリンガム宮殿(Sandringham)の書斎からの、初のラジオ放送を行います。この記念すべき初回の放送のスピーチを書いたのは、ラドヤード・キップリング(Rudyard Kipling

クリスティーナ・ロセッティのイン・ザ・ブリーク・ミッドウィンター

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クリスマス時期、一番好きなものは、ラジオから流れてくるキャロルでしょうか。以前、 ベツレヘム でのキリスト誕生の話を書いた記事にも言及した様に、うちのだんなの大好きなキャロルは、イン・ザ・ブリーク・ミッドウィンター(In the Bleak Midwinter )。日本語では、「わびしき真冬に」とか「凍えそうな寒い冬」と呼ばれているキャロルです。 毎年の様に、クリスマスの午後はラジオ、クラッシクFMで、国民の好きなキャロル・カウントダウンを聞きます。リスナーによる投票で、ナンバー30からカウントダウンしていくのですが、トップ10に入るキャロルは、いつも同じ感じ。イン・ザ・ブリーク・ミッドウィンターは、2つのバージョンがあり、ひとつは、グスタフ・ホルストによるもの、ひとつは、ハロルド・ダークのバージョン。両バージョンとも、大体いつも、トップ10入りするのですよね、これが。だんなは、ハロルド・ダークのバージョンがいいのだそうです。両バージョンとも、わりと似ているので、どちらがどちらだかわからなくなる時もありますが。日本ではさほど知られていない感じの、このキャロルですが、なぜか、こちらでは人気。歌詞やメロディーが、イギリスの冬景色を思わせるものがあるからか。 この詩を書いたのは、ビクトリア朝の女流詩人、クリスティーナ・ロセッティ(Christina Rossetti、1830-1894)によるもの。え、ロセッティ?と西洋絵画が好きな人は、この名にピンとくるかもしれませんが、ラファエル前派の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)の妹です。彼女が書いたこの詩に曲がついて、キャロルとなるのは、彼女が亡くなってからの話となりますが。ちなみに、彼女の名前のカタカナ表記は、日本ではロセッティが主流のようですが、英語の発音では、にごらせてロゼッティと発音するのが普通の感じです。 敬虔なクリスチャンであった彼女ですから、最初の一節は、冬の風景を歌っているものの、非常に宗教心深い詩なのです。こんなわびしい冬の中で、幼子イエスには、納屋と飼い葉おけ、マリア様の暖かさだけで十分だった。貧しい私は、何も持たぬが、そんなイエス様に心を授ける・・・というのが詩の概要です。 In the bleak mid-winter Fro

クリスマス前の小包

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クリスマス前の最後の土曜日であった昨日は、「パニック・サタデー」と称されるのだそうです。「まだ、クリスマスプレゼントを全部買っていない、どうしよう。今からオンラインで注文しても配達は間に合わない!」という人たちが、パニくって、買い物のため、町中へ繰り出す事から、こう呼ばれるのだとか。クリスマスのプレゼントはほとんど買わない、スクルージの様な私たちは、この時期の、特に週末の繁華街はできるだけ避けて、身を潜めています。 クリスマスプレゼントというのも、大体の場合、欲しくない物をもらってしまうケースが非常に多いのだそうで。先日、近所のおばあちゃんも、「どうしょうもないプレゼントは、もらっても、クリスマスが終わってから、慈善団体に寄付して終わりだからね。子供たちには、何もくれなくていいからと言ってある。」なんてぼやいていました。特に消耗品で無い物は、趣味と反するものをもらうと、ただのゴミと化す可能性大。かと思うと、「私へのクリスマスプレゼントは、この中から選んで」、なんてリストを送ってくる人もいるのだそうで。その交換に、「あなたは何が欲しいの?」そんなんだったら、自分で好きなもの買うのと同じ。なぜに、わざわざ他人に買わせねばならぬのか???小さな子供のいる家ならともかく、イギリスのクリスマスプレゼント交換というものが、いまだ、疑問に思えて仕方ないのです。その上、多くの人が、クリスマスが終わった後の、クレジットカードの請求書に腰を抜かすのだから。ただ、クリスマスプレゼントに限らず、「この人はこんなもの好きそうだ」、と時間をかけて考えてくれたような贈り物を受け取るのは、うれしいものです。特に、思いもかけない時にもらったりするとね。めったにない事ですけど。 さて、そんな昨日の、パニック・サタデーの朝、私宛に細長い箱の小包が届き、それなりに、何だろうとわくわくして開きました。中にあったのは、今年の第一次世界大戦開始100周年にロンドン塔の堀に展示されていた陶器のポピー。ロンドン塔の堀に展示された、888246個のポピーは、ひとつ25ポンド+送料で、一般に販売され、売り上げは慈善団体に行く事になっています。これが、大人気で完売。私は9月に、 このポピー植えを手伝い 、ついでに、記念として、ひとつ注文してあったのです。ポピーの配送は、11月に展示が終わった後に始まりましたが

イギリスのクリスマスツリーの歴史

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ロンドンのバッキンガム宮殿(Buckingham Palace)には、18年前にはクリスマスツリーが飾られていなかったという話を、昨日の朝のラジオで聞きました。 とある男性が、18年前の12月に、 トラファルガー広場のクリスマスツリー を眺めてから、ちょっと歩いて、バッキンガム宮殿にたどり着くと、どこにもクリスマスツリーの気配が無いのに、いささかびっくりしたのだそうです。この人、家に帰ってから、「クリスマスツリーをイギリスに導入したのは王室なのに、そのロンドンの宮殿に、クリスマスツリーが飾っていないのは、いとも残念」と感じ、エリザベス女王に、「バッキンガム宮殿にツリーを飾ったらどうでしょうか」と、手紙を書いたのだそうです。数日後、宮殿の女王の秘書から「それは良い考えです。女王に、直々貴殿の手紙を見せ、考慮する事にしました」のような内容の手紙が、氏のもとに届いたのだそうです。まあ「考慮するなんていうのは、当てにならない、そのままだな。」と思っていたところへ、更に数日後、再び「日が暮れてから、バッキンガム宮殿の前を通られてみては?」のような手紙が届いたのだそうです。「ツリーがもう飾られてあるから」と。かなり素早い反応で、氏はびっくりしたようですが、以来、ずっとバッキンガム宮殿にツリーは飾られ続けているようです。有名なトラファルガー広場のツリーはともかく、バッキンガム宮殿のツリーには、実は、私は、このニュースを聞くまで気がつきませんでしたが。 年間、女王の元に届く手紙は、数え切れないほどだそうで、その一つが取り上げられ、行動に移されたという、めづらしいケース。こういう一般からの手紙を読む係りというのも、面白い仕事でしょうね。大半は、女王に見せるに足らない、どーしょーもない事が書かれているのでしょうが。 室内にクリスマスツリーを飾るという、もともとはドイツの風習を、イギリスに導入したのは、上記に書いたとおり、ドイツのハノーバー朝に遡るイギリス王室。 まずは、18世紀に、ジョージ3世の奥方でドイツ人であったシャーロット女王が、クリスマス時期にツリーを飾り始め、これが、上流社会の間で、真似されたようです。 この風習を、一般庶民にも浸透させるのは、ヴィクトリア女王と、やはりドイツ出身の夫君アルバート公。女王夫妻と王家の子供たちが、ウィンザー城内でクリス

アマデウス

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イギリスの戯曲家ピーター・シェーファーの芝居「アマデウス」(Amadeus)を元にして作られた同題名の映画は、公開からすでに30年です。オーストリア土産の モーツァルトクーゲル を食べた、という単純な理由から、この「アマデウス」もう一度見たくなり、DVDを購入しました。何よりもこの映画がいいのは、芝居の中のキャラクターを重視して、客引きのための大スターを使っていないこと。シナリオは、ピーター・シェーファー本人が担当。 オーストリアの天才音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart)。そして、モーツァルトの才能と音楽に驚嘆、感動しながらも、同時に強い嫉妬に身を焼く、ウィーンのヨーゼフ2世に仕える宮廷音楽家アントニオ・サリエリの話でした。 モーツァルトのミドル・ネームである「アマデウス」とは、神の愛を意味します。ラテン語の「amare」(愛する)と「Deus」(神)をくっつけた名。モーツァルト誕生時の本名は、ヴォルフガング・テオフィラス・モーツァルト(Wolfgang Theophilus Mozart)、とミドル・ネームは、やはり「神の愛」を意味するギリシャ語源のものだったのですが、本人が、このラテン風ミドル・ネーム「アマデウス」の方を好んで使ったそうです。 音楽を通して、神への愛を捧げようと子供時代に誓ったサリエリではあったものの、その神が、脳天気で、往々にして下品、時に傲慢なモーツァルトの様な人物へ、溢れるほどの音楽の才を与えながら、自分には、それを評価する能力と凡才しか与えてくれなかった事に憤りを感じ、神への愛は憎しみに変わる。そして、復讐に、神が愛する天才、アマデウス・モーツァルトの成功を阻止し、破壊させる事を決意するに至るわけです。アントニオ・サリエリは、それまでは、ほぼ名の知れていなかったマーリー・エイブラハム。ぴったしでしたね。モーツァルトの死後、彼の名声とその音楽の評価が高まるに連れ、自分の評判が消え、忘れられていくのを見てきた、年老いたサリエリ。彼は、ある雪の日に自殺未遂を図り、精神病院に担ぎ込まれ、そこで、牧師を相手に、モーツァルトを死に追いやった過去のいきさつを語り始めるという形式で描かれています。 私は、これ、映画館でなく、声が吹き替えがされている日本のテレビで見ました。です

オーストリア土産はモーツァルトクーゲル

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今年は、春に、1年ほどなりを潜めていた、だんなのが 白血病 が背骨へと移転してしまいました。珍しいケースなのだそうですが、またもや、貧乏くじを引いた感じです。初夏はキモセラピーのための入院、真夏は1ヶ月毎日続いた放射線治療、その後、2ヶ月ほど、血液の数値があがらずに、週に2,3回、輸血のために病院通いと、振り向くと、わりと大変な年ではありました。「治った!」と思って、再発という状態に慣れっこになりつつあり、ショック感が鈍化して、それなりの日常を送れる様になっています。発病から4年と3ヶ月、有難い事に、まだ生きてますし。日本の母親が、学校時代の同窓会を、「生きてるかい?」と命名したと言っていました。名簿係の人は、毎年、死んでしまった人の名を、横線で消しているのだそうで、先月の同窓会でも「死んでしまうと、こうして横線引かれてしまいますからね。皆さん、健康に注意してがんばって長生きしましょう!」とお開きになったようです。うちも、まさにそんな感じ。 先日、だんなは、単発で、オーストリアはウィーンでの仕事をいきなり依頼されました。肺も弱っており、ぜいぜいする事もあるので、酸素の少ない飛行機に乗って良いものか・・・という心配はあったものの、何人かの医者に聞き、まあ、大丈夫だろうという事で、発病してから初めて海外へ、1日ですが、ぽこぽこ出かけて行っていました。べニューがホテル内であったため、空港ーホテルー空港、ちょっとだけ外のレストラン、という典型的ビジネス旅行で、クリスマス迫るウィーンの町並みを楽しむなどという事はできなかったようですが、「全然、問題なかった」と帰国。「何かをやった」という気持が、楽しかったようで、引き受けて良かった、と喜んでいました。帰りの空港で、お土産に買ってきたのは、赤いコートを着たモーツアルトの絵の包み紙にくるまったお菓子、モーツァルトクーゲルと、ホテル・ザッハーの缶入りファッジ・ケーキ。 モーツァルトクーゲル(Mozartkugel)は、1890年に遡り、モーツァルトの故郷のザルツブルクのチョコレート職人であったパウル・フュルストが考案し、1905年、パリで開催されたお菓子展示会で、堂々の金賞を取った代物なのだそうです。クーゲル(Kugel)は「球」の意味で、クーゲルン(Kugeln)はその複数形。英語では往々にしてモーツァルトボールなどと

ヤン・ステーンの「聖ニコラウスのお祭り」

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私は、黄金期17世紀オランダの、こちらではジャンル・ペインティング(Genre Painting )と称される、日常の風景を描いた風俗画が好きです。カメラの無い時代、当時の人たちがどういう生活をしていたのか、どんな環境の中を生きていたのか、どんな服装をしていたのか、というのを覗き見できるのが楽しい。色々な美術館へ繰り出しても、この黄金時代のオランダをはじめ、昔の風俗画を目にすると、その周辺で立ち止まる時間が一番長いです。日本の浮世絵なども、こういうタイプの絵ですね、考えてみれば。 そんな黄金期オランダ画家の一人のヤン・ステーン(Jan Steen 1626-1679)も大好きで、画集も持っています。「ヤン・ステーンの家庭」というと、オランダでは、ぐじゃぐじゃの大混乱の室内を意味するようで、彼の絵の多くは、確かに、人が沢山いる室内で、あらゆる騒動が起こっており、床の上には所狭しと物が散らばっている。 昨日12月6日は、 聖ニコラス (聖ニコラウス)の日でした。ヤン・ステーンのこうした混沌の絵画の中でも、最も有名なもののひとつに、アムステルダム国立美術館蔵「聖ニコラウスのお祭り」(The Feast of St Nicholas)という絵があります。オランダを初め他の大陸ヨーロッパの国々では、いまだに、この人気の聖人の日のお祝いは続いているようですが、イギリスでは、聖ニコラスの日を含み、聖人の日は、一般では、ほとんど取りざたにされる事はありません。ですから、12月6日は、普通の日として、誰も何も気付かずに過ぎて行きます。 サンタさんの元祖であるセント・ニコラスは、もともとは、 クリスマス・イブ ではなく、この12月6日の前の晩に、暖炉の前に並べられた靴の中に、子供たちにプレゼントを置いていく事になっていたわけで、絵は、その日の様子を、とあるオランダの家庭を舞台に描いてあるものです。 私の画集による、この絵の説明は、 ほぼ絵の中心に描かれている女の子は、聖ニコラスからもらったプレゼントを抱えていますが、この子の持っているお人形は、洗礼者ヨハネを模したものだそうです。女の子の右手背後に描かれている男の子が手にするのは、やはり聖ニコラスからのプレゼントのゴルフのクラブ、ボールは前景の床の上に転がっています。この男の子は、泣いている兄さんを指差して笑って

クリスマスのまえのばん

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1823年12月に、クレメント・クラーク・ムーア(Clement Clark Moore)によって書かれたとされる詩、「クリスマスのまえのばん」(The Night Before Christmas)のイラスト入りの本を、ちょろりと入ったセカンドハンドの店で見かけ、購入しました。新品並みのコンディションで50ペンスは安いですし、昔風のイラストも気に入りましたので。 「クリスマスのまえのばん」は、アメリカのニューヨーク州トロイにて、最初は、新聞に無名で掲載された詩です。発表時は、「セント・ニコラスの訪問」(A Visit from St. Nicholas)のタイトルがついていましたが、瞬く間に人気をはくし、そのうちに、詩の冒頭の「Twas the night before Christmas・・・」(それは、クリスマスの前の晩の事でした・・・)から取った名で呼ばれるようになるのです。 以前の記事、「 セント・ニコラスからサンタへの変身 」で、キリスト教の聖人であった聖ニコラスが、アメリカにて、文学や挿絵を通して、徐々に現在のサンタクロースへと変化していった過程の歴史を書きました。この「クリスマスのまえのばん」も、「聖ニコラスは、聖人という厳かなイメージではなく、陽気なおじいさんのイメージなのだ」と、一般人の間に定着させるのに、かなりの力をふるったようです。詩の中では、サンタクロースと言う名はまだ使用されておらず、「セント・ニコラス」とはなっていますが、もう、この段階で、聖ニコラスがプレゼントを配りに来る日が、聖ニコラスの日である12月6日で無く、クリスマス・イブとなっていますしね。 詩の概要は、 静かなクリスマスの前の晩、暖炉の前には、靴下がつる下げられており、子供たちはお菓子の夢を見ながらベッドの中、奥さんも隣のベッドですやすや。著者は、戸外の物音に目覚め、窓から外を覗くと、セント・ニコラスが、8匹のトナカイがひくソリに乗ってやってくる。そして、セント・ニコラスは、煤にまみれ、煙突から室内へ降りてきて、覗き見をしていた著者に気がつくものの、ウィンクしただけで、何も言わずに、子供たちへのおもちゃを靴下につめ、再び、煙突へ。最後は、「メリークリスマス、グッド・ナイト」と叫びながら、ソリで去っていく。 ウィキソースに、英語の原文が載っていますの

楽しい映画「くまのパディントン」とパディントン展示会

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クリスマスに向けてのファミリー映画という事で、マイケル・ボンド作の「くまのパディントン」(A Bear Called Paddington)を映画化した「Paddington」(パディントン)が封切りになったので、さっそく見に行って来ました。だんなが、「え、パディントンは、パス!」と言うので、一人で映画館へ。だんなは、年を経るにつれての私の幼児化傾向が気になる様子。それにしても、何年ぶりでしょね、ひとりで映画館なんて。こういう映画は、子供を連れずに、大人だけで見に行くと、チケットを買う時に、バツが悪い思いをします。映画館のそばの学校に通う12歳の、友達の子供を借りて一緒に行こうかな、という考えも頭を過ぎったのですが、何もそこまでする事ないか、と思い直しました。恥と外聞捨てて、行って良かった。とても楽しかった。 マイケル・ボンドの第一作目「くまのパディントン」出版は1958年。それこそ、「 イミテーション・ゲーム 」のアラン・チューリングが死亡した、ほんの4年後なのです。元BBCのカメラマンであったマイケル・ボンド氏は、1956年にロンドンの大手デパート、セルフリッジズで、ひとつだけ棚に残っていたくまのぬいぐるみを、奥さんのプレゼントとして購入。このぬいぐるみと、家の近くのパディントン駅からインスピレーションを得て執筆。戦時中に、パディントン駅などのロンドンの各駅から田舎へと疎開して行った子供たちの様に、くまのパディントンは、くたびれたスーツケースをひとつだけ持ち、首から「このくまの面倒を見てやってください。ありがとうございます。」の札をさげて登場。 原作は、戦時中の疎開の子供たちのイメージの他にも、デパートに軍の放出品コーナーがあるなど、時代を思わせるものがあります。また、パディントンのホスト・ファミリーとなるブラウン家が住んでいるポートベロー・ロード、ノッティング・ヒル・ゲイト付近の家などは、この頃は、一般の中流家庭でも手に入る値段であったのが、今や、こんな家を新しく買って住もうと思ったら、超大金持ちでないとまず無理。だから、現在であれば、ブラウン家なども、ロンドンから電車で1時間の郊外に住んでます、などという話になっていたかもしれない。(原作については、以前の記事、 こちら まで。) それでも、わりと上手に、時代を現在にアップデートして作ってあり