投稿

11月, 2019の投稿を表示しています

エリザベス・シダル

イメージ
ジョン・エヴェレット・ミレーの「オフェリア」部分 リジー(Lizzie)、ことエリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)。19世紀後半、ヴィクトリア朝イギリス絵画界に旋風を巻き起こしたラファエル前派のモデルであり、そして、ラファエル前派の中心核の一人、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻ともなった人物です。 彼女のモデル歴の中で、最も有名な絵が、ジョン・エヴェレット・ミレーによるオフェーリアでしょう。ロンドンのテート・ブリテン美術館蔵のこの絵は、いまだに当美術館での一番人気で、絵葉書の売り上げもナンバー1であるという話です。ついでながら、この絵は、夏目漱石の「草枕」の中で、何度か言及されますが、漱石は、ロンドンへ留学しているので、この絵を実際に見た、最初の日本人の一人かもしれません。 デヴェレルの「十二夜」の下絵、リジーのヴィオラは左手 ナイフ職人の娘としてロンドンで生まれたエリザベス・シダル。もともと彼女自身、アートや詩に興味があったようです。やせ型のすらりとした彼女は、アメリカ出身の画家であり、ラファエル前派のメンバーとも関係が深かったウォルター・デヴェレル(Walter Howell Deverell)に見出され、彼女のモデルとしてのデヴューは、デヴェレルがシェークスピアの「Twelfth Night」(十二夜)の一シーンを描いた1850年の絵。男装をしているヴィオラとして描かれています。デヴェレルは、この作品の4年後に、若くして病死。 この後、彼女は、ウィリアム・ホルマン・ハントの「 A Converted British Family Sheltering a Christian Priest from the Persecution of the Druids 」(1850)という長たらしい名前の絵や、 シェークスピアの「ヴェローナの二紳士」を基にした「 Valentine rescuing Sylvia from Proteus 」(1851)、そして、やはりシェークスピアの「ハムレット」で、川に身を投げ、重いドレスに川底へ引きずられて死にゆくオフェリアを描いた、ジョン・エヴェレット・ミレーの「Ophelia」(オフェリア、1852年)などに、モデルとして登場。 「オフェリア」全体 さて、この「

ハイゲイト西墓地訪問

イメージ
墓地への入り口のコロネード 2年前、ロンドンで一番有名な墓地、ハイゲイト墓地の東地区を訪問しました(その時の記事は、 こちら )。ハイゲイト墓地には、通りを隔てて西地区と東地区があり、東墓地は、特に予約を入れずとも、ふらっと訪れて入場料を払って入れますが、西墓地は、普段は門が閉められており、ガイドツアーに参加した人のみが、見学できる方法を取っています。 という事で、先日、あらかじめ、ガイドツアーを予約して、ハイゲイト西墓地を訪れて来ました。天気予報が良い日を選んだつもりであったのに、最近のころころ変わりやすい天気のため、調度ツアーの時間はぐずぐずの雨模様となってしまいました。雨傘を持ったガイドさんは、その雨傘はささずに、ステッキのごとく、物を指すためだけに使用していましたが。 ハイゲイト東墓地 での記事に書いた通り、ハイゲイト墓地の歴史は、ロンドン市内の人口増加により、ロンドン中心部の教会の墓地が満杯になってしまうという状態に達する19世紀前半に遡ります。幾人かの実業家たちが、1804年に開園となったパリにあるペール・ラシェーズ墓地(Pere-Lachaise)をモデルとした埋葬場所を、ロンドン郊外に設置し始めるのです。こうした新しい郊外の墓地は、ぎゅうぎゅう詰めで、死者の威厳も何もない、ロンドン中心部での埋葬に比べ、広々と、よく手入れされた庭園のイメージを持ち、ガーデン・セミトリーと称され、富裕層に人気を博すこととなります。 ロンドン郊外のガーデン・セミトリーとして、ハイゲイト墓地(西地区)は、ケンサル・グリーン墓地(Kensal Green)、ウェスト・ノーウッド墓地(West Norwood)につぎ、3番目に作られたもので、1839年に完成。1845年には、すでに、訪問者・観光客用の最初のガイドブックが発行されるに至ります。ハイゲイト東地区がオープンするのは、1854年で、これは、1852年に、ロンドン中心地での埋葬が完全に禁止となったことによる、更なる需要拡大のため。 戦後、放置状態となり荒れ果てていたハイゲイト墓地は、1975年に設立された団体フレンズ・オブ・ハイゲート・セミトリーにより、保護、手入れ、運営をされ、現在に至っています。ガイドさんは、去年、はじめて、ツアーによる収益が、埋葬による収入を上回ったという話をしていました。

ダーウィンの楽しい我が家、ダウン・ハウス

イメージ
進化論なるものを世に発表した「種の起源」(On the Origin of Species)の著者、チャールズ・ダーウィン(1809~1882年)が、その半生を大家族と過ごした田舎家が、ケント州ダウン村(Downe)にあるダウン・ハウス(Down House)。「種の起源」も、この家で書かれています。田舎・・・などと言っても、ロンドンのゾーン内ですので、ロンドン内の乗り物パスであるオイスターカードで行ける圏内です。オーピントン(Orpington)、またはブロムリー・サウス(Bromley South)駅から、それぞれ、バスで、20分ほど。 チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父に、自然哲学者エラスマス・ダーウィン、母方の祖父に陶器ウェッジウッドの創始者ジョサイア・ウェッジウッドを持ちます。彼の妻となるエマ・ウェッジウッドは、いとこにあたり、彼女の父方の祖父が、やはりジョサイア・ウェッジウッドです。ダーウィン家もウェッジウッド家も、裕福でありながら、リベラルで、インテリ、 奴隷制度に大反対 を唱えていた家風です。 エマと結婚する前に、ダーウィンは、結婚すべきか否かをきめるために、結婚に関して良い事と悪い事のリストを作ったとされます。良いことは、「生涯の伴侶ができる」などを挙げ、悪い事は、「自由な時間と、本に使用できる金銭が少なくなる」などを挙げたようですが、最終的に「生涯の伴侶」という魅力が勝ったようです。これは、良い決断となり、幸せな結婚生活で、生まれた子供の数は計10人(うち3人は幼くして死亡)。幼い時、病気がちな子が多かった事に関し、また最愛の娘アニーを10歳で亡くした事に関して、ダーウィンは、いとこと同士の結婚という血の近さのためではないかと気にしていたそうです。私が、一緒にここを訪問した友人は、同僚の一人が、ダーウィンの子孫だと言うのですが、これだけ子だくさんだったので、子孫も沢山いるでしょうね。 結婚後、二人は、ロンドンの大英博物館に近いガワーストリートに居を構えたものの、もっと静かな田舎家を求め、ロンドン郊外のダウンにて、当館を購入。ダーウィンは、当時、ダウン・ハウスを「古くて醜い家」と称したそうですが、たたずまいが気に入り、1842年に引っ越し、徐々に家族のニーズに合わせて改造と増築を行い、1882年に亡くなるまでの、40年間をダウン・

チャーチル・ウォー・ルームズ

イメージ
もう何年もイギリスに住んでいながら、ロンドン内でさえ、まだ行っていない観光場所というのはあるものです。チャーチル・ウォー・ルームズ、または、キャビネット・ウォー・ルームズ(Cabinet War Rooms、内閣戦時執務室)と呼ばれる博物館もそのひとつ。行こう行こうと思いながら、月日が経ち、先日やっと行ってきました。ここは、第2次世界大戦中の作戦、戦略等を、爆弾などの妨害に合うことなく遂行できるよう地下に設けられた施設で、その一部が当時の面影を残して一般公開されており、また、ウィンストン・チャーチル博物館も、内部の一角に設置してあります。 ここへ観光に繰り出そうと決めたら、2017年の映画「Darkest Hour」(邦題:ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男)を、行く前に、ぜひ見てみましょう。映画背景は、第2次世界大戦中、アメリカが参戦する以前の1940年5月。ドイツ軍の電光石火の攻撃に追われ、フランスの海岸線ダンカークに追い込まれていく英軍。その緊急時に、戦時内閣は、ヒトラーと話し合いをして戦いを辞めようという派と、首相チャーチルを中心とした戦争続行派に別れます。チャーチル派が最終的に反対派を押し込め、ダンカークから、多くの小舟を利用しての兵士たちのイギリスへの一時撤退作戦、オペレーション・ダイナモが決行されるまでの過程を描いています。このオペレーション・ダイナモ自体の様子は、やはり2017年に「ダーケスト・アワー」より先に公開された映画「Dunkirk」( ダンケルク )でおなじみです。 本物ではなく、スタジオで再生されたもののようですが、映画内のかなりの場面が、この地下のキャビネット・ウォー・ルームズ内で起こった出来事を描いており、「あ、この部屋、映画のシーンで見覚えがある。」などというのに、沢山行き当たります。一番上に載せた写真、キャビネット・ルーム(閣議室)もしかり。この部屋で、停戦派を相手にチャーチルが激論を飛ばしていました。 入り口でチケットを買うと、オーディオガイドを無料で借りれるので、大体の観光客がこれを聞きながらルートを辿っていました。どうやら日本語のオーディオガイドが無いようで、そういった意味でも、映画を先に見ておくと、説明がはいらずとも楽しく回れます。英語に自信のある人は英語オーディオガイド使用になるかと思い

南アフリカの国歌

イメージ
ラグビー W杯などの世界スポーツ大会では、各国の国歌を聞けるのも楽しみの一つです。国歌流れる間、絶唱する選手もいれば、口をなんとなくもごもご動かすだけの選手もいる、感無量で泣き出す選手もいる、その様子もまた興味深いです。 私は、南アの国歌の前半部が好きです。オルゴールから流れて来るような優しいメロディーに、「コシシケレーリー、アーフリーカー」と、外人にとっては、おまじないのような、魔法の呪文の様な不思議な響きの、コサ語の歌詞で始まるのもいい。 南ア国歌の前半と後半がかなり違うメロディーであるのは、2つの違う歌が合体されているため。前半はコサ語、ズールー語、ソト語で歌われる「Lord, Bless Africa」(神よ、アフリカに祝福を)、後半はアフリカーンス語と英語で歌われる「The Call of South Africa」(南アフリカの呼び声)。南ア内の公式言語は11語。そのうち最も良く喋られる5語が使われているというユニークなもの。前者は、もともと讃美歌であったアフリカ国民会議(ANC)の歌で、アパルトヘイト時代には、当時の白人政権への抵抗として歌われたもの。後者は、アパルトヘイト時代の南ア政権の国歌。これが合体して、ひとつの国歌となっています。 私の日本の学校時代、歴史か社会科の本に、南アのアパルトヘイトの記載があり、「ただし、日本人は名誉白人として扱われる・・・」とありました。それを読みながら、「なんだ、名誉白人って・・・黄色人種でわるかったね!」と内心おもしろくないものがありました。アパルトヘイトが終わり、初の全人種参加選挙で、ネルソン・マンデラが大統領となったのが、1994年。 ネルソン・マンデラのリーダーシップのもと、過去の恨みつらみを一切捨て去り、新しいスタートを切るため、さっそく、全ての人種を統合し、結束した国家を象徴する国旗と国歌が作られます。レインボー・ネーションの誕生。そして、1995年、南アがホストとして開かれた第3回ラグビーW杯でこの新しい国歌が歌われる事となるのです。 ホスト国として、南アが、見事初優勝を果たしたこの大会も、もうはや、24年も前の事。当時の南ア・ラグビー・チームが、ネルソン・マンデラからトロフィーを渡された様子も、遠ざかる記憶として、なんとなく覚えています。それまでは、ラグビーは白人のスポー