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歩け、歩けと、万歩計

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初代万歩メーターの広告、レトロな髪型がなんともいえません! 私は、どこでも比較的よく歩く人です。歩くのが、一番手ごろで金のかからぬ運動などとも言われていますが、実際のところ、時には、歩くだけでなく、多少、ぜいぜい、はあはあと、心臓がある程度ばくばくする運動は必要なようです。全く同じ年で、誕生日も近い友人が、ジョギングの女王のような人で、時々、ハーフ・マラソンなどにも参加しているのですが、彼女は夜中もぐっすり眠れるなどと言う。私は、比較的眠れないタイプなので、それを言うと、それはジョギングなどのエアロビクス運動が足りないんじゃないか、などと言われました。 半信半疑で、町に買い物に出かける時、行きの道を、ジョギングしてみようと思い立ちました。町の繁華街までは、そのほとんどを小川に沿って木々に囲まれた歩道を辿って行けるので、気分もいいのです。それではと、家の前から、さっそうと走り出したはいいが、200メートルと行かぬところで、すでに息切れし、自分の体力の無さに改めてびっくり。その後、少し走っては、歩き、少し走っては歩き。途中で、かなり速いペースの本格ジョギングお姉ちゃんに追い越されてしまいました。約1・5キロほどの町の中心についた時には、もう太ももがわなわな。この夜、私にしては、良く眠れたのですが、それがこのジョギングを試みたことによるかどうかはわかりません。 色々、調べたところ、ジョギングなどの運動もやりすぎは健康にも逆効果があるようです。強度の運動をしゃかりきにやった結果、脳卒中、心臓麻痺を起こしたなどという話も耳にしますしね。何事も八分目。 いずれにせよ、ジョギングやウォーキングに出た時の、合計歩数や距離を知りたいと、初めて、万歩計を購入。万歩計にあたるものは、英語ではペドメーター(Pedometer)といいます。ラテン語源のペド(足)とギリシャ語源のメーター(測量)が合体した言葉の様です。なんだか最近のペドメーターは、色々なアプリなどに連結しているものもありますが、私はごくシンプルな操作簡単なものを買いました。 ペドメーターの歴史は、なんでもレオナルド・ダ・ヴィンチあたりまで遡り、彼が、軍用に、または地図作製などのために、歩数を数える事によって距離を知るのを目的に、ペドメーターというものを試案し、彼の手による、振り子式のペドメーターのスケ

ダウニング街10番地

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10 Downing Street(ダウニング街10番地)と言えば、言わずと知れた、イギリスの首相官邸。ただドアだけ見れば、何の変哲もない、ロンドンのあちこちにある、テラスハウスへの入り口なのですが。場所は官庁街のホワイトホールから入る袋小路で、当然ながら、政治行政の中心地にあります。在任中、英国首相が住み、仕事をし、内閣の話し合いが行われ、多くの迎賓パーティーが行われる場所。 なんか・・・ちっちゃそうだなあ、という印象ですが、内部は意外と広く、12番のほとんども、首相官邸の一部として繋がっているということ。映画「ラブ・アクチュアリー」に内部が出てきてた、と思い出す人もいるかもしれませんが、この映画の撮影自体は、当然、本物のダウニング・ストリート10番では行われておらず、スタジオ内に作ったものを使用しています。 お隣の11番は、1828年から、財務大臣(Chancellor of the Exchequer)の官邸と定められます。 先日訪れた、 チャーチル・ウォー・ルームズ に、昔の、オーク材で作られた、ダウニング街10番のドアが飾られていました(上の写真)。このドアは、1991年、IRA(アイルランド統一を目指すアイルランド共和軍)による、ダウニング街爆弾騒ぎの後、現在の、爆弾に耐えうるものに取り換えられたという事。この爆弾騒ぎ、ホワイトホールに止められた白いワゴン車から迫撃砲で発射された爆弾が、10番の庭に落ち、炸裂。周辺の窓ガラスを割り、庭にクレーターを作ったものの、死者負傷者は出ず。内部では、調度、時の首相のジョン・メイジャーが内閣会議を行っていたという事。以来、周辺の警備はより慎重になっています。 ダウニング街10番のドアは、外からは開けられないようになっており、護衛係りの人物が常に内側に待機し、人を入れるようになっており、首相ですら鍵を持っていないのです。 写真では、ちょっと光ってしまって見にくいですが、郵便受けの金属部の上には、「The First Lord of the Treasury」(第一大蔵卿)というタイトルが刻まれています。これは、1714年に設立された、国家財政を司る機関の長に与えられたタイトルで、1721年にロバート・ウォルポール(Robert Walpole)がこの座につきます。彼が国家の「Prime Mini

エリザベス・シダル

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ジョン・エヴェレット・ミレーの「オフェリア」部分 リジー(Lizzie)、ことエリザベス・シダル(Elizabeth Siddal)。19世紀後半、ヴィクトリア朝イギリス絵画界に旋風を巻き起こしたラファエル前派のモデルであり、そして、ラファエル前派の中心核の一人、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの妻ともなった人物です。 彼女のモデル歴の中で、最も有名な絵が、ジョン・エヴェレット・ミレーによるオフェーリアでしょう。ロンドンのテート・ブリテン美術館蔵のこの絵は、いまだに当美術館での一番人気で、絵葉書の売り上げもナンバー1であるという話です。ついでながら、この絵は、夏目漱石の「草枕」の中で、何度か言及されますが、漱石は、ロンドンへ留学しているので、この絵を実際に見た、最初の日本人の一人かもしれません。 デヴェレルの「十二夜」の下絵、リジーのヴィオラは左手 ナイフ職人の娘としてロンドンで生まれたエリザベス・シダル。もともと彼女自身、アートや詩に興味があったようです。やせ型のすらりとした彼女は、アメリカ出身の画家であり、ラファエル前派のメンバーとも関係が深かったウォルター・デヴェレル(Walter Howell Deverell)に見出され、彼女のモデルとしてのデヴューは、デヴェレルがシェークスピアの「Twelfth Night」(十二夜)の一シーンを描いた1850年の絵。男装をしているヴィオラとして描かれています。デヴェレルは、この作品の4年後に、若くして病死。 この後、彼女は、ウィリアム・ホルマン・ハントの「 A Converted British Family Sheltering a Christian Priest from the Persecution of the Druids 」(1850)という長たらしい名前の絵や、 シェークスピアの「ヴェローナの二紳士」を基にした「 Valentine rescuing Sylvia from Proteus 」(1851)、そして、やはりシェークスピアの「ハムレット」で、川に身を投げ、重いドレスに川底へ引きずられて死にゆくオフェリアを描いた、ジョン・エヴェレット・ミレーの「Ophelia」(オフェリア、1852年)などに、モデルとして登場。 「オフェリア」全体 さて、この「

ハイゲイト西墓地訪問

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墓地への入り口のコロネード 2年前、ロンドンで一番有名な墓地、ハイゲイト墓地の東地区を訪問しました(その時の記事は、 こちら )。ハイゲイト墓地には、通りを隔てて西地区と東地区があり、東墓地は、特に予約を入れずとも、ふらっと訪れて入場料を払って入れますが、西墓地は、普段は門が閉められており、ガイドツアーに参加した人のみが、見学できる方法を取っています。 という事で、先日、あらかじめ、ガイドツアーを予約して、ハイゲイト西墓地を訪れて来ました。天気予報が良い日を選んだつもりであったのに、最近のころころ変わりやすい天気のため、調度ツアーの時間はぐずぐずの雨模様となってしまいました。雨傘を持ったガイドさんは、その雨傘はささずに、ステッキのごとく、物を指すためだけに使用していましたが。 ハイゲイト東墓地 での記事に書いた通り、ハイゲイト墓地の歴史は、ロンドン市内の人口増加により、ロンドン中心部の教会の墓地が満杯になってしまうという状態に達する19世紀前半に遡ります。幾人かの実業家たちが、1804年に開園となったパリにあるペール・ラシェーズ墓地(Pere-Lachaise)をモデルとした埋葬場所を、ロンドン郊外に設置し始めるのです。こうした新しい郊外の墓地は、ぎゅうぎゅう詰めで、死者の威厳も何もない、ロンドン中心部での埋葬に比べ、広々と、よく手入れされた庭園のイメージを持ち、ガーデン・セミトリーと称され、富裕層に人気を博すこととなります。 ロンドン郊外のガーデン・セミトリーとして、ハイゲイト墓地(西地区)は、ケンサル・グリーン墓地(Kensal Green)、ウェスト・ノーウッド墓地(West Norwood)につぎ、3番目に作られたもので、1839年に完成。1845年には、すでに、訪問者・観光客用の最初のガイドブックが発行されるに至ります。ハイゲイト東地区がオープンするのは、1854年で、これは、1852年に、ロンドン中心地での埋葬が完全に禁止となったことによる、更なる需要拡大のため。 戦後、放置状態となり荒れ果てていたハイゲイト墓地は、1975年に設立された団体フレンズ・オブ・ハイゲート・セミトリーにより、保護、手入れ、運営をされ、現在に至っています。ガイドさんは、去年、はじめて、ツアーによる収益が、埋葬による収入を上回ったという話をしていました。

ダーウィンの楽しい我が家、ダウン・ハウス

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進化論なるものを世に発表した「種の起源」(On the Origin of Species)の著者、チャールズ・ダーウィン(1809~1882年)が、その半生を大家族と過ごした田舎家が、ケント州ダウン村(Downe)にあるダウン・ハウス(Down House)。「種の起源」も、この家で書かれています。田舎・・・などと言っても、ロンドンのゾーン内ですので、ロンドン内の乗り物パスであるオイスターカードで行ける圏内です。オーピントン(Orpington)、またはブロムリー・サウス(Bromley South)駅から、それぞれ、バスで、20分ほど。 チャールズ・ダーウィンは、父方の祖父に、自然哲学者エラスマス・ダーウィン、母方の祖父に陶器ウェッジウッドの創始者ジョサイア・ウェッジウッドを持ちます。彼の妻となるエマ・ウェッジウッドは、いとこにあたり、彼女の父方の祖父が、やはりジョサイア・ウェッジウッドです。ダーウィン家もウェッジウッド家も、裕福でありながら、リベラルで、インテリ、 奴隷制度に大反対 を唱えていた家風です。 エマと結婚する前に、ダーウィンは、結婚すべきか否かをきめるために、結婚に関して良い事と悪い事のリストを作ったとされます。良いことは、「生涯の伴侶ができる」などを挙げ、悪い事は、「自由な時間と、本に使用できる金銭が少なくなる」などを挙げたようですが、最終的に「生涯の伴侶」という魅力が勝ったようです。これは、良い決断となり、幸せな結婚生活で、生まれた子供の数は計10人(うち3人は幼くして死亡)。幼い時、病気がちな子が多かった事に関し、また最愛の娘アニーを10歳で亡くした事に関して、ダーウィンは、いとこと同士の結婚という血の近さのためではないかと気にしていたそうです。私が、一緒にここを訪問した友人は、同僚の一人が、ダーウィンの子孫だと言うのですが、これだけ子だくさんだったので、子孫も沢山いるでしょうね。 結婚後、二人は、ロンドンの大英博物館に近いガワーストリートに居を構えたものの、もっと静かな田舎家を求め、ロンドン郊外のダウンにて、当館を購入。ダーウィンは、当時、ダウン・ハウスを「古くて醜い家」と称したそうですが、たたずまいが気に入り、1842年に引っ越し、徐々に家族のニーズに合わせて改造と増築を行い、1882年に亡くなるまでの、40年間をダウン・

チャーチル・ウォー・ルームズ

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もう何年もイギリスに住んでいながら、ロンドン内でさえ、まだ行っていない観光場所というのはあるものです。チャーチル・ウォー・ルームズ、または、キャビネット・ウォー・ルームズ(Cabinet War Rooms、内閣戦時執務室)と呼ばれる博物館もそのひとつ。行こう行こうと思いながら、月日が経ち、先日やっと行ってきました。ここは、第2次世界大戦中の作戦、戦略等を、爆弾などの妨害に合うことなく遂行できるよう地下に設けられた施設で、その一部が当時の面影を残して一般公開されており、また、ウィンストン・チャーチル博物館も、内部の一角に設置してあります。 ここへ観光に繰り出そうと決めたら、2017年の映画「Darkest Hour」(邦題:ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男)を、行く前に、ぜひ見てみましょう。映画背景は、第2次世界大戦中、アメリカが参戦する以前の1940年5月。ドイツ軍の電光石火の攻撃に追われ、フランスの海岸線ダンカークに追い込まれていく英軍。その緊急時に、戦時内閣は、ヒトラーと話し合いをして戦いを辞めようという派と、首相チャーチルを中心とした戦争続行派に別れます。チャーチル派が最終的に反対派を押し込め、ダンカークから、多くの小舟を利用しての兵士たちのイギリスへの一時撤退作戦、オペレーション・ダイナモが決行されるまでの過程を描いています。このオペレーション・ダイナモ自体の様子は、やはり2017年に「ダーケスト・アワー」より先に公開された映画「Dunkirk」( ダンケルク )でおなじみです。 本物ではなく、スタジオで再生されたもののようですが、映画内のかなりの場面が、この地下のキャビネット・ウォー・ルームズ内で起こった出来事を描いており、「あ、この部屋、映画のシーンで見覚えがある。」などというのに、沢山行き当たります。一番上に載せた写真、キャビネット・ルーム(閣議室)もしかり。この部屋で、停戦派を相手にチャーチルが激論を飛ばしていました。 入り口でチケットを買うと、オーディオガイドを無料で借りれるので、大体の観光客がこれを聞きながらルートを辿っていました。どうやら日本語のオーディオガイドが無いようで、そういった意味でも、映画を先に見ておくと、説明がはいらずとも楽しく回れます。英語に自信のある人は英語オーディオガイド使用になるかと思い

南アフリカの国歌

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ラグビー W杯などの世界スポーツ大会では、各国の国歌を聞けるのも楽しみの一つです。国歌流れる間、絶唱する選手もいれば、口をなんとなくもごもご動かすだけの選手もいる、感無量で泣き出す選手もいる、その様子もまた興味深いです。 私は、南アの国歌の前半部が好きです。オルゴールから流れて来るような優しいメロディーに、「コシシケレーリー、アーフリーカー」と、外人にとっては、おまじないのような、魔法の呪文の様な不思議な響きの、コサ語の歌詞で始まるのもいい。 南ア国歌の前半と後半がかなり違うメロディーであるのは、2つの違う歌が合体されているため。前半はコサ語、ズールー語、ソト語で歌われる「Lord, Bless Africa」(神よ、アフリカに祝福を)、後半はアフリカーンス語と英語で歌われる「The Call of South Africa」(南アフリカの呼び声)。南ア内の公式言語は11語。そのうち最も良く喋られる5語が使われているというユニークなもの。前者は、もともと讃美歌であったアフリカ国民会議(ANC)の歌で、アパルトヘイト時代には、当時の白人政権への抵抗として歌われたもの。後者は、アパルトヘイト時代の南ア政権の国歌。これが合体して、ひとつの国歌となっています。 私の日本の学校時代、歴史か社会科の本に、南アのアパルトヘイトの記載があり、「ただし、日本人は名誉白人として扱われる・・・」とありました。それを読みながら、「なんだ、名誉白人って・・・黄色人種でわるかったね!」と内心おもしろくないものがありました。アパルトヘイトが終わり、初の全人種参加選挙で、ネルソン・マンデラが大統領となったのが、1994年。 ネルソン・マンデラのリーダーシップのもと、過去の恨みつらみを一切捨て去り、新しいスタートを切るため、さっそく、全ての人種を統合し、結束した国家を象徴する国旗と国歌が作られます。レインボー・ネーションの誕生。そして、1995年、南アがホストとして開かれた第3回ラグビーW杯でこの新しい国歌が歌われる事となるのです。 ホスト国として、南アが、見事初優勝を果たしたこの大会も、もうはや、24年も前の事。当時の南ア・ラグビー・チームが、ネルソン・マンデラからトロフィーを渡された様子も、遠ざかる記憶として、なんとなく覚えています。それまでは、ラグビーは白人のスポー

日本人の弱点、ああ、LとR

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ラグビー W杯も、いよいよ、今週末が決勝。決勝に進んだイングランドも、盛り上がっており、強敵オールブラックスを破った、先週末の準決勝のテレビ放送は、こちらでは、朝9時のキックオフという早い時間にかかわらず、日本国内での日本戦のテレビ視聴率には及ばないものの、ラグビー観戦にしては、かなりの高視聴率を記録。チケットは無くとも、今から、リックを背に日本へ繰り出し、決勝戦の雰囲気だけでも味わおう、なんて人も出てきています。プリンス・ハリーも見に行くようですし。大体、毎日毎日、泥沼状態に陥っているブレグジットのニュースばかりで、腐り果てた気分漂う中、久しぶりに、重く垂れ込むブレグジットの黒雲を忘れて、すかっとした気分を味合わったという人も多かったことでしょう。うちも、しっかり見て応援しました。 と、それはさておき、W杯の試合の日に、ラグビーファンでにぎわう、横浜の国際総合競技場へと行く途中の道の様子を放映したビデオを見ていた時、とある看板が大アップで映り、思わず、「あーあー」と声を上げてしまいました。ビール大好きの、海外からのラグビーファンを目当てに、「ビール1杯 x円」と英語で書かれた看板だったのですが、これが、 A grass of beer   x yen と書かれてあったのです。ほとんどの方がご存知だと思いますが、「grass」とは、「草」を意味します・・・。日本語の「グラス1杯」にあたるのは、「a glass of」。日本人は、LとRの発音の区別ができない、と言われていますが、この弱点が、書く英語にも出てしまった!「お客さんは、牛か?」って事になってしまいます。スペルがいまいち不安だったら、辞書で確認してから書きましょうよ。 こういう事があると、いつも思い出すのが、もう10年以上も前、だんなと一緒に日本旅行をしていた際、泊まったホテルでテレビをつけ、たまたま、妙なクイズ番組が流れていた事。クイズに答える人は、巨大な円盤の様なものに手首足首を縛り付けられていて、問題を出していた白人のお姉さんは、確か、ワンダーウーマンのような衣装を着けていました。回答者が、間違った答えを出すと、このねーさんの「トルネードー・スピン!」という掛け声と共に、その円盤が、回答者をのせたまま、くるくる回ってしまうというもの。まさに、日本ならではのクイズ番組だ、と、だんなと笑

地球温暖化対策のため、ビーガンになれるか?

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ミスター・ブロッコリー 日本で台風と大雨の被害が大変だった一方、カリフォルニアでは森林火災が猛威を振るい。毎年のように、地球のあちこちで、異常気象の影響での災害が起こっている感があります。やはり地球温暖化でしょうか。今後、再びこうした事が起こった場合にどう対処するか、頭が痛いところでしょうが、その原因であるだろう、地球温暖化にどう歯止めをかけるかは、更に闇の中。 ロンドンには、ロンドンを洪水から守るために テムズ・バリア という、緊急時に、テムズ川に流れ込もうとする水を遮断する建造物がありますが、これも温暖化が続く中、2030年以降には、役立たずになるのではないかという話です。そのうちに、たとえ、毎年作り直しても、対処できないような状況に陥ることもあるかもしれません。原因を抑えない、事後だけの対処とは、そういうものです。 西ヨーロッパ内で一番気温が上がっているというスイスでは、氷河が後退していき、グリーンランドなどでも、今まで雪の下にあった地表が露出されつつあるようです。太陽光を反射する白い雪が減っていくと、温暖化はますます加速すると言いますからこれは心配。にもかかわらず、露出されたグリーンランドなどの地表から、貴重な資源が掘り出せるのではないかと、目をつけている国々もあるわけですから、もう、地球は行くところまで行くしかない、と思いざるを得ないような気持になる時もあります。 エクスティンクション・リベリオン(絶滅に対する反抗)は、そうした、人類が生存の危機に向かっていると思われる状況にありながら、何もしない各国政府に働きかけ、何とか地球温暖化に歯止めをかけるための緊急対策を取らせようという運動です。ロンドン及び、イギリス内の大都市、更には世界の大都市でプロテストを何度か起こしています。 2週間ほど前に、市民の生活の妨害になると、そのプロテストが禁止となっていたロンドンで、エクスティンクション・リベリオンによるプロテストが大々的に行われていました。禁止となっているため、プロテスト参加者の中では逮捕されてしまう人も多々。何かしなければ、という参加者の気持ちはわかるのですが、内容は個々人に任せるプロテストであったため、中には、地下鉄の屋根に登って、地下鉄を止めてしまうプロテスターまで現れ、実際、車よりもずっとエコである電車を止めて、どういうつもりだ

木の実の季節とくるみ割り

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殻に入ったままの色々な木の実を、スーパーからどっさり買ってきました。どんぶりに、ざらざらと全部あけて盛っておくと、秋にはぴったりのムードになります。 すでに殻をむいてあり、食べやすいナッツ類はいくらでも売っているのに、こういうものを買ってしまうのは、やはり季節を感じたいから、というのが強いのでしょうか。夕食後、テレビを見ながら、木の実をひとつひとつ取り上げて、ナットクラッカー(くるみ割り)で割っていくのも、面倒でいながら、原始的で、楽しいものがあります。ただし、ガキっと割った木の実の殻の小片が、いくつか、勢いよく、部屋のかなたに飛んでいき、後で、カーペットにはいつくばって拾い上げねばならぬ、という手間も出てきますが。 それでは、ここで、木の実あてクイズ。これら4つの木の実がどのナッツだかわかりますか?答えは、最後に書いておきます。 ちょいと脱線しますが、先日、テレビの園芸番組を見ている時に、ピーナッツを育ててみた、という人が、ずぼずぼっと土からピーナッツを取り出したのを見て、うちのだんなは、「え、ピーナッツって、枝からぶらさがってるものかと思ってた。」と、衝撃を受けていました。地面の下になるものだと、今まで生きてきて初めて気がついたようです。たしかに「ナッツ」とは言いますがね・・・。私は、子供の時、遠足でピーナッツを抜きに行った記憶があります。 さて、本物のナッツの殻を割るための、我が家のくるみ割りは、一番上の写真でもわかるように、U字型をしていて、圧力測定でもするように、片手でぐっと握るタイプです。だんなの両親が使っていたもので、フランス製。 Creation "Moulin Legumes"  Made in France Mouli Nutcracker  Patent Pending ムーラン・レギューム作 フランス製 ムーリ・ナットクラッカー 特許申請中 という文字が刻まれています。 調べて見ると、このムーラン・レギューム(直訳は「野菜風車」)社は、ジャン・マンテレ(Jean Mantelet)という人物が、1930年代にきずいた会社で、最初は、ムーラン(野菜ミル)と呼ばれる、ハンドルをぐるぐる回して、野菜を裏ごしし、ピューレ状にする台所用品を発明し、販売し始めた会社です。彼のこの野菜ミルが、

ヒーバー城

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ケント州にあるヒーバー城(Hever Castle)を、訪れました。13世紀に遡るこの城は、幾人かの所有者を経て、現在は、私営の会社によって一般に公開されています。その長い歴史の中、何と言っても、ヘンリー8世の2番目の妻で、エリザベス1世のお母さん、アン・ブリン(Anne Boleyn)が、少女期を過ごした館として、最も有名です。 比較的貧しい家の出身であった、アン・ブリンの曾おじいさん、ジェフリー・ブリン(Geoffrey Boleyn)が、ロンドンの最も有力な リヴァリ・カンパニー (ロンドンの商業組合)であるマーサーズ(高級布地業者)のメンバーとなり、ロンドンの ロード・メイヤー に選ばれるまで立身出世をし、やがて、ヒーバー城を入手するのが、15世紀後半。 アンの父、トマス・ブリンは、この館で生まれ、有力なハワード家から、妻エリザベスをもらいす。(ハワード家に関しては、フラムリンガム城についての記事で言及していますので、ご参照ください。 こちら 。)2人の間に、成人した子供は、アンを入れて3人(メアリー、アン、ジョージ)。館内には、メアリーとアンの子供時代の寝室であったという部屋もあり、それが、比較的小さいのが意外でした。 アンより美人であったとされる、姉のメアリーは、アンがヘンリー8世に目を付けられる以前に、ヘンリーの愛人であったのでは、と噂されてます。真偽のほどはさておき、傍若無人のこの王様と結婚しなかったおかげで、彼女は、死刑の憂き目に合う事もなく一生を終えます。メアリー・ブリンの存在は、2008年の映画「ブーリン家の姉妹」(The Other Boleyn Girl、もう一人のブーリン家の娘)で、一般にもおなじみになりましたが、この映画は、実際の歴史から、かなりかけ離れたメロドラマになっており、歴史や、本当の姉妹の性格、その他が知りたい人には、あまり参考にならない感じです。100パーセント正しい歴史映画などというものは無いでしょうが。メアリーは、ヘンリー8世との愛人関係をつなぐ以前にも、フランスに滞在している際に、フランソワ1世含む他の男性とも関係を持ったとされていて、うぶでシャイなスカーレット・ヨハンセンのメアリーとは、かなり違った人だったでしょうし。 アンは、綺麗さではメアリーに劣っても、聡明でコケティッシュな魅力があった女性の