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6月, 2019の投稿を表示しています

かき氷の旗に誘われて

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暑い日は、引き寄せられる、かき氷の旗 昨日は、イギリス南部もついに30度に突入し、ヒースロー空港では、今年最高の34度を記録。慣れていないと、30度でも、暑い・・・のです。もっとも、熱波も一日で終わり、本日は、おとなしく、25度くらいにとどまってくれるようですが。 日本に 前回帰国 したのは去年の6月だったな、結構暑かったな、とその時取った写真に、久しぶりに目を通し、ふと気になったのが、上の写真。アスファルトも熱する街中を歩き回っている時、かき氷の旗に、涼しさを感じて、写したのだと思います。(ちなみに、旗は裏側から取っていますので、氷の字はひっくり返っています。)これを、しげしげ眺めていているうち、デザインの中に、波のしぶきのようにして、千鳥が組み込まれているのに、今更気が付きました。氷という字は赤で、涼やかさを連想させる色ではないのですが、遠くからも良く見える。涼感は、旗の下の、 北斎の波 のような、青いうねる海のデザインをもってして、かもし出しています。考えてみるに、こういう、全国つづうら浦、定番のデザインで、ぱっと見て「お、あの店でxxを売っている。それ行け!」と、わかるようなもの、イギリスでは考え付きません。遠くからでも、それとわかる、このかき氷の旗は、かなりのすぐれものです。こういうのを見ると、日本は、デザインや図形で、簡潔に、言いたいことを伝達をする術が、優れた国なのだと思います。今では、すっかり英語にもなっている、「絵文字」なんてのも、発祥が日本というのは、こうした文化が背景にあるからですね、きっと。 この写真をきっかけに、かき氷、ひいては、氷というものの歴史をちらっと調べて見ました。 かき氷の事を、一番最初に書きしたためてある文献は、清少納言の「枕草紙」であると言います。冷蔵庫などが無い時代は、真夏の都市で、氷を入手する事、しかも、それをかき氷にして食べる、などというのは、富裕階級、貴族階級のみができた事。雪国では、冬季に、凍った池や湖などから氷を切り出し、氷室に貯蔵することなどが可能であったものの、それを、溶かさないように移動するのは、大変です。よって、雪国から遠く離れた都会に住む一般庶民には、かき氷は、長い間、ほとんど縁のない食べ物であったわけです。 時代すすんで、江戸時代の鎖国が終わると、はるばるボストンから、天然氷のボ

ハドリー城

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「ハドリー城」作成のための油絵スケッチ(1828-29)テート・ブリテン蔵 イギリスの画家、 ジョン・コンスタブル (John Constable)が、エセックス州、テムズ川北岸にあるハドリー城(Hadleigh Castle)の廃墟を訪れたのは、ただ一回だけ、今から205年前の、1814年の夏の事です。コンスタブルは、幼馴染であり、後に妻となるマライアに当てて、 At Hadleigh there is a ruin of a castle which from its situation is a really fine place - it commands a view of the Kent hills, the Nore and North Foreland; looking many miles to sea. ハドリーには、城の廃墟があり、眺めのたいへん良い場所だ。ケント州の丘、テムズ河口の砂州、ケント州のチョークの岸壁の地などが臨め、景色はその彼方の海へと広がる。 という手紙をしたためています。 この時、彼はエンピツでの廃墟のスケッチ画を描いています。が、この訪問の際のスケッチ画の構図をもとに、実際に、「Hadleigh Castle The mouth of the Thames - morning, after a stormy night、ハドリー城 テムズ河口 嵐の夜の後の朝」と題した、大きなキャンバス画を作成し、発表するのは1829年になってからと、かなり時が経っています。冒頭に載せた絵は、この完成作のため、1828年から29年にかけて作られた、実物大、油絵のスケッチのひとつで、ロンドンのテート・ブリテン美術館にあります。完成作品の方は、イギリス外で最も充実したイギリス絵画のコレクションを持つという、米イェール大学内にある、The Yale Centre for British Art所蔵。 コンスタブルによるハドリー城のエンピツスケッチ 1814年 エンピツのスケッチ(ロンドンV&A博物館蔵)は、縦8・3センチ、横11・1センチと、かなり小さいもので、これをもとに、できあがった油絵は、更に右側に構図を伸ばして、テムズ川を挟んだケント州の岸の風景も取り入れています。が、実際に、この場を訪れたのが、一度だ

パリのアメリカ人画家メアリー・カサット

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先日、テレビで、マスターマインド(Mastermind)というクイズ番組のファイナル(決勝戦)をテレビで見ていました。このクイズ番組は、出場者がブラックチェアと称される、倒す前の歯医者の椅子の様な黒椅子に座り、専門クイズ、一般常識クイズと、2回にわたり、いくつかの質問に答え、2部門の合計点が一番上の人物が生き残るという勝ち抜き戦。前半の専門クイズは、出場者がテーマを自分で選ぶことができます。この専門テーマが、名前も聞いたことが無いような、マイナーな小説家の、ある作品であったり、テレビのドラマシリーズであったり、またこれもマイナーなロック・バンドであったりと、クイズにされても、全くわからないようなものが多いのです。よって、普段は、前半は飛ばして、後半の一般常識クイズの部分だけ、時に見たりしているのですが、この日は、たまたま決勝だったのもあり、最初の専門クイズ部分も見ました。そして、出場者の一人が選んだ専門テーマが、画家メアリー・カサット(Mary Cassatt)。 このメアリー・カサットに関するクイズの中で、出場者は、2,3間違った答えを出した他に、ひとつ、答えられずに、諦めて、パスをした質問がありました。それは、 「1890年、カサットは、エコール・デ・ボザールにおいて開催された、ある国の美術展覧会を見学し、影響を受け、翌年、10枚の版画を発表した。この展覧会は、どの国のものだったか。」 私は、メアリー・カサットの人生は詳しく知りませんでしたが、彼女の絵と、生きた時代は、大体頭にあったし、なんと言っても日本人ですから、答えが「日本」だとすぐわかりました。19世紀後半のフランスの美術界に一番大きな影響を与えた国と言えば、どう考えても、鎖国後、今まで知られていなかった独自の文化が西洋に流れ出し、ジャポニズムの波を巻き起こした日本でしょう。私は、それ以外の質問は、一切答えられませんでしたが、その一方で、逆に、この出場者が、あてずっぽうでも答えられそうな、この質問だけにパスを出したのも不思議でした。(ついでながら、トップが同点であったりすると、パスの数が少ない方が勝者となるので、まるっきり検討がつかなくても、何か言った方がいいのです。) ・・・と、前書きが長くなりましたが、これをきっかけに、パリで活躍し、当時のフランス画家と同様、日本の浮世絵にも影響を

狼男アメリカン

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昼間は普通の人間、しかし、満月の夜になると、体に毛が吹き出し、牙がむき出し、狼に変身するのは、ご存知、狼男(werewolf)です。英語の「werewolf ウェアウルフ」は、were(昔の英語で男を意味する)とwolf(狼)が合体してできた言葉。これをもじって、 ウォレスとグルミット の映画で、ウォレスが満月の夜にウサギに変身してしまうという、「The Curse of Were-Rabit」(直訳:ウサギ男の呪い、邦題:ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ!)というのがありました。 古くから、色々な場所で、人間が狼に変わるというような、伝説はあったのでしょうが、中世のキリスト教社会で、狼は悪魔の化身と見られるようになり、人間が、何かのきっかけで、うちに持った魔性や獣性をあらわにする、狼男への変身というパターンが確立されていったようです。満月を見ると変身・・・というのはどこから生まれたかはわかりません。狼は月に吠える、というイメージからでしょうね。 狼男を主題とし、人間から狼に変身する場面がド迫力、と評判であった映画が、「An American Werewolf in London」(邦題:狼男アメリカン)。話題の変身場面は、何度か、テレビで見た事があるのですが、映画自体は最初から最後まで見た覚えがなかったため、先日、立ち寄ったセカンド・ハンドの店で格安DVDを見かけ、やっと見ました。笑えるホラー映画です。 簡単なあらすじ アメリカ人の青年、デイヴィッドとジャックは、3か月の休暇でヨーロッパへやってきて、まずはイギリスからリックを背負っての旅を始める。殺伐とした ムーア のただ中の、とある村へ、夕刻にたどり着いた二人は、村のパブへ暖を求めて入る。2人が入ると、よそ者が来たとばかりに、中にいた村人たちは、ぱたりと喋るのをやめる。星型のペンタグラム(pentagram、五芒星)が、狼男のシンボルだそうで、入ったパブの壁には、この五芒星が書かれていた。異様な雰囲気にいたたまれなくなった二人は、再び外へ。その時、村人の一人から、「月に気をつけろ。道路を離れるな。」の忠告を受ける。外を歩きだした二人はいつの間にか、村人の忠告を忘れ、道をはずれ、ムーアの中を歩きはじめており、空には満月が、そして、獣の叫び声が聞こえてくる。やがて、現れた巨大な狼に襲われ、

ロンドンのスリにご用心!

私は、イギリスで、すりに合った事は一度もありません。 今まで、すりにやられたのは、20年以上前、イタリアのミラノで一回のみ。地下鉄に乗る前に、バリアを通るのにおたおたしていた時、後ろからこうやるんだと、教えてくれた兄さんがいました。ニコッと笑って、ありがとうを言うと、兄さん、いきなり踵を返し、すたこら逃げた。えっと思って、持っていたきんちゃく型のバッグを見ると、がばっと開いており、財布がない!ちょっと離れたところにいた、イタリア人の友人に、「あの男に財布やられた!」と言うと、彼は、だーっと後を追いかけたけれど、途中で、もうだめだと引き返してきました。「イタリアでスリにあって、警察に訴えても、時間の無駄で、何もしてくれないから、忘れるしかないよ。」と言われました。当時、このイタリア人の友人が良く言っていたジョークによると、「北イタリアでバスに乗ったら、バス内に1人はスリがいる。中部イタリアでバスに乗ると、バス内の3分の1はスリ。これが南イタリアへ行くとバス内の半分はスリ。」 幸い、この時、財布の中にあったのは、多少の現金と、イギリスでしか使えない、銀行カード。速攻で、カードを止める処理をする必要もないので、銀行への届けは、イタリアでのホリデーを終えてからしました。「忘れるしかない」と言われ、どのくらい、ぐずぐず考えていたかは、覚えていません。被害が大したことがなかったので、せっかくのホリデーを台無しにしたくないと、わりとすぐ立ち直った気がします。スリにむかって、「ありがとう」なんて微笑んでしまった、という間抜けな自分を笑いの種にし。ただ、ミラノというと、いまだに、他の何よりも「スリ」を連想します。もっとも、一日しかおらず、他のイタリアの街に比らべ、感慨も少なかったのはありますが。これを教訓として、簡単に開けられてしまう、巾着型のバッグなどは、以来、人の多い町に出るときなどは一切使わないようになりました。 先日、ロンドンのピカデリー・サーカス近郊のカフェで、友達とコーヒーと軽食しながら歓談した後、「それじゃ、そろそろ出よう」という事になり、友達が立ち上がって、床においてあったバッグを持ち上げようとしたところ、「あれ、私のバッグ・・・どこ・・・?」とあたりを見回し、彼女は、自分が置いた場所から、多少離れた椅子の裏側にあったバッグを見つけ、「なんで、こんな場所に

スケープゴート

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The Scapegoat by William Holman Hunt, Lady Lever Art Gallery 前回の記事で話題にした絵画、「The Light of the World( 世の光 )」に続き、本日は、また、イギリス、ヴィクトリア朝のラファエル前派の画家、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt)による別の絵の事を書くことにします。 この絵の題名は、「The Scapegoat(贖罪の山羊)」(1854-1856年)。荒れて何も育たないような地を背景にさまよう山羊・・・、説明がなければ、なんだかよくわからん絵ですが、これは、人物を一切描かず、山羊だけ、という風変わりな宗教画なのです。 スケープゴートは、日本語にしようとすると、直訳は「贖罪の山羊」ですが、そこから派生した意味で、「身代わり」「犠牲」「生贄」などと訳されますが、ピンとくる日本語の適訳が思いつかない言葉です。ちょっと長く、くどくどとなりますが、「責任を押し付けられ犠牲となる人」。イギリスでは、比較的、良く使われる言葉です。ある団体などが、不祥事を起こし、社会から責任を問われた時、「あいつが悪い。」と、一人の人物を指さし、不祥事の全責任をその人物一人に背負わせて、その人物を解雇するなど、処分する事により、団体としては罪の清算をしたとして、それで事を済ませる・・・というような話はよくありますが、こういった場合に、全責任をおわされてしまう人が、スケープゴートなどと描写されます。スケープゴートの語源は、旧約聖書にあり、これをホルマン・ハントが描いたわけです。 旧聖書のレビ記(Leviticus 16-21)によると、贖罪の日(Day of Atonement)に、身代わりとして選ばれた山羊の頭に手を据え、イスラエルの民の罪をすべて転嫁し、その山羊を荒野へと追い払うという儀式が行われたのだそうです。Scapegoat(スケープゴート)という英単語を作り上げたのは、聖書の英語への翻訳を行った ウィリアム・ティンダル 。 ウィリアム・ホルマン・ハントは、この絵の背景を忠実に描くためにと、自ら死海のほとりへと出かけ、明け方の空の効果をとらえるために、何日も現場でがんばり、しっかり本物の山羊も連れていき、気の毒に、その山羊は死んでしまったとか。代

世界で最も旅した絵画?ウィリアム・ホルマン・ハントの「世の光」

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セント・ポール大聖堂のThe Light of the World I am the light of the world. He that followeth me shall not  walk in darkness, but shall have the light of the life. (John's Gospel 8-12) 私は世の光である。私の教えに従う者は、闇の中を歩く事は無く、人生の光を得るであろう。(ヨハネによる福音書8-12) この聖書に書かれた、キリストの言葉にインスピレーションを得て、ヴィクトリア朝に活躍した、ラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)の画家、ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt、1827-1910年)が描いた絵が、「世の光(The Light of the World)」です。 ハントは、「世の光」を、計3枚描いていますが、一番最初の「世の光」を完成させたのは、彼がまだ若き頃の1853年。現在、この最初の物は、オックスフォード大学のキーブル・カレッジ(Keble College)にあります。若手画家として、それまでは、いまひとつであった、ウィリアム・ホルマン・ハントの評判が、これで一気に上がります。いわば、彼の出世作品。 「世の光」の、2つめのヴァージョンは、少々小さめで、最初のものと、ほぼ同時期に描き始め、1856年に完成。こちらは、現在、マンチェスター市立美術館(Manchester Art Gallery)所蔵。 さて、このブログ記事のタイトルの「世界で最も旅した絵画」というのは、この絵の3つめの、他の2つより大きいヴァージョンです。こちらは、最初の2枚の絵から、約50年も経った、1904年に完成。ハントの人生の締めくくりの期に描いています。この頃には、ハントは、視力の衰えがひどく、完成には、イギリスの画家、エドワード・ロバート・ヒューズ(Edward Robert Hughes)の助けをかりているそうです。この絵は、イギリスの社会改革運動家として知られるチャールズ・ブース(Charles Booth)により購入。 1905年から1907年に渡る2年間の間、この3番目の「世の光」は、カナダ、南アフリカ、ニュージ