投稿

9月, 2018の投稿を表示しています

みんなの水飲み場

イメージ
水は人間が生きていく上で基本的なものですから、文明はすべて、水を与えてくれる川のそばに生まれ、発達してきたわけです。川が人口増加で汚染されるようになってからは、安全な飲料水を万人が飲めるようにするにはどうすればいいか、というのは重要な問題。 ロンドンを歩く時、道端で、今は使われていない、ヴィクトリア朝に作られた水飲み場(Drinking Fountain)に出くわすことがあります。今は、家庭では、水道をひねれば、じゃーと蛇口から、飲むに堪えうる水が出てくる、外に行けば、手軽にボトル入りの水や飲料が買えるとあって、公共の場所にある水飲み場というものが、かつては、どんなにありがたい存在であったかは、あまりピンときません。 19世紀、ロンドンの人口がどんどん増えていく中、水道会社というものはいくつかは存在したものの、その供給量も少なく、家庭に水を引く値段も高く、水質もあぶなっかしいものがありました。また、公共ポンプからの汚い飲み水が原因で、コレラなどの病気が広がったりすることもしばしば。 初の水飲み場設置のオープニング・セレモニー そんな中、由緒正しき家系の、銀行家で、国会議員、慈善家でもあったサミュエル・ガーネイ(Samuel Gurney)の掛け声で、メトロポリタン・フリー・ドリンキング・ファウンテン・アソシエーション(Metropolitan Free Drinking Fountain Association、大都市無料水飲み場協会)が、1859年に設立され、浄水された清潔な水を、市民が無料で使用できる水飲み場の設置が始まるのです。 当団体により、最初に設置された水飲み場は、シティー・オブ・ロンドン内の、セント・セプルカ・ウィズアウト・ニューゲイト教会(St Sepulchre-without-Newgate)の脇にあります(上の写真)。これが、設置と共に大人気となり、1日平均約7千もの人々が使用。昔ながらの、鎖につながれたカップが、まだ設置されています。 この後、数年で、瞬く間に、こうした水飲み場の数は増えていきます。上の写真は、シェークスピアの ファースト・フォリオ の記念碑があるセント・メアリー・オールダーマンベリー教会の跡地の外に設置されている水飲み場。こちらもカップ付き。 やがて、1867年には、すでに

初期ヴァージニア植民地

イメージ
ヴァージニア・カンパニーの紋章 イギリスによる、北米植民地というと、 ピルグリムファーザーズ によって確立されたニューイングランドのプリマス植民地が有名ですが、最初の成功した、恒久的イギリス植民地は、1607年に、チェサピーク湾に注ぐジェームズ川沿いのジェームズタウン(Jamestown)に設立された、ヴァージニア植民地です。ピルグリムファーザーズより13年前のこと。 ヴァージニアという土地は、もともと、ヴァージン・クウィーンこと、エリザベス1世にちなんでなずけられたもので、当時は、現ヴァージニア州に留まらず、北米のフロリダ以北の、東海岸に面した土地一帯を指したようです。 ジェームズタウンが、イギリスによる最初の「成功した」植民地と書いたのは、これより以前、エリザベス1世のお気に入りの忠臣、 ウォルター・ローリー が、女王より、ヴァージニア内に、植民地を設立する権利を与えられ、彼の出資と努力により、1585年、現ノースカロライナ州に属するロアノーク島(Roanoke)に、ロアノーク植民地なるものを築いているからです。が、ロアノーク植民地では、数年で移住者たちは死亡、または植民地を放棄し散々し、消滅。失われた植民地としてのみ、名を残すことになります。 やがて、ウォルター・ローリーの北米に植民地を築く権利は、幾人かのロンドンの商人たちの手に渡り、彼らは、ヴァージニア・カンパニーなるものを打ち立て、時の王、ジェームズ1世から、勅許を与えられます。そして、このヴァージニア・カンパニーにより、ヴァージニアに、100人あまりの植民者が送られることとなります。こうして、彼らは1607年5月に、ジェームズタウンで恒久的北米イギリス植民地開発の第一歩を踏み出すこととなるのです。宗教の自由を求め、新天地を開拓定住を目的としたピルグリムファーザーズとは異なり、ジェームズタウンへ向かった移住者たちは、金銀を見つけ、一獲千金を狙うタイプの人間が多かったという事。 キャプテン・ジョン・スミス 最初の植民者たちは、食糧不足、病気、更には、総長パオハタンに率いられた地元のインディアン部族の襲撃などにより、かなりの人数が死んでいく。初期、植民者の間のリーダー格となったのが、元軍人の、キャプテン・ジョン・スミス。まだ、若かったものの、彼は、それまでに、オランダやハンガリ