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007 スカイフォール

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イギリスでは、ハーフターム休暇(学期中間期の1週間の休み)の開始に合わせて先月末に公開された、007の新作「スカイフォール」ですが、やっと見に行ってきました。ボンド映画50周年を飾るこの作品、サム・メンデス監督により、今までで最高のボンド映画、などと称する批評家もいた上、ロンドンのシーンも沢山登場すると聞き、映画館で見たいと思っていたのです。 (以下、ざっと筋を書きますので、まだ見ておらず、最後どうなるか知りたくない人は、読むのやめましょう。) タイトル前の皮切りシーンは、イスタンブール。世界各国のテロリスト組織に潜伏するNATOの諜報員たちの名前のリストを収めたハードディスクがコンピューターから抜き取られ盗まれる。盗人を追いかけるは007(ダニエル・クレイグ)と、同僚の黒人女性イブ。街中のカーチェースの後、走る電車の屋根に飛び降りた007は盗人と取っ組み合い、車で電車の行方を追っていたイブは、ロンドンのM(ジュディ・デンチ)から、盗人を射撃するようにと命令を受け、引鉄ををひく。ところが、電車から落ち、川の中へどぶんと落っこちたのは、007の方。盗人は電車に乗ったまま逃げ切る。「あーあ、007、さっそく死んじゃった」というところで、アデルの歌うテーマ曲に合わせてのタイトルとなります。アデルの「スカイフォール」は、いかにもボンド映画という感じのメロディー。この方、声もレトロっぽいですし(レトロっぽい声などというものがあるとしたらですが)。 当然、映画の最初に007が死ぬわけも無く。ちゃんと現地の女性に助けられて、傷を癒しながら、酒と女の日々をすごしていたのであります。一方、盗まれたリストの中から、毎週の様に、数人ずつ、諜報員達の名がインターネットに公表され、顔が割れたものの何人かは、殺害される、という事態に陥い、ロンドンでは、MI6とMが、この不祥事のためごーごーの批判を受けることに。ある日、バーで、MI6のオフィスが、大爆発するニュースを見た007、愛国心がくすぶり返し、ロンドンへ取って返すのです。 リスト盗難とMI6爆破の背後にいる人物を捕まえるため、ボンドは、上海へと飛び、やがて、かつてのMI6のスパイ、ラウル・シルヴァがこの事件の裏にいるとわかる。香港で活動をしていたシルヴァは、いささか信用のできぬ者として、Mに見捨てられ、中国で拷問を

ピルグリム・ファーザーズと感謝祭

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1620年、イングランド、デボン州プリマスを出発した メイフラワー号 。乗組員の多くは、ピューリタン(清教徒)と称された、厳格なキリスト教プロテスタントの信者達。神は絶対であり、王者の上に君臨すると信じる彼らは、当時の王、ジェームズ1世に疑惑の眼を向けられていました。そうした一部のピューリタン達は、糾弾を恐れ、信仰の自由を求めるため、大西洋を渡って新地へと向かう事に。 2ヶ月かかったぎゅうぎゅうずめの船旅の後、たどり着いたのは、北米、現マサチューセッツ州プリマス沖の有名なプリマス・ロック。この北米プリマスに住んでいた原住のインディアンたちは、数年前に、フランス人の漁師達からうつされた黒死病(ペスト)により、ほとんど死に絶えており、ピューリタン達の観点からすれば、「神がわれ等のために、この土地を空けてくれた。」といったところ。 それでも、彼らがこの地に辿りついたのは、寒い冬迫る12月とあって、メイフラワーの乗客の半分は、この最初の冬に死亡する事となります。生き残ったものたちは、黒死病で死んだ原住インディアンたちが貯蔵してあった穀物等を食べ細々食いつなぐのです。 そして、近郊のインディアン部族の数人から、この比較的土壌の貧しい土地で、いかに穀物、野菜を栽培するかのノーハウを伝授してもらい、翌5月に植えた穀物を、11月には見事に収穫。とくに英語を多少喋ったスクアントという名のインディアンには、かなり世話になるのです。新移住者達は11月の終わりに、無事穀物を実らせ、生き延びることができたことを感謝し、祝うため、スクアントを含め約100人ものインディアンたちも招き、七面鳥などのご馳走を用意し、集った・・・これが、アメリカで毎年11月の第4木曜日に行われる祝日、Thanksgiving Day(サンクスギビング・デー、感謝祭)の起源。 こうして始まったプリマス植民地ですが、比較的内向き社会で、外部の人間との結婚などもあまりなく、数年経っても人口はさほど増えないまま、やがて、近くの大きなマサチューセッツ植民地へ組み込まれることtなります。 余談とはなりますが、マサチューセッツ植民地で17世紀後半に起こるのが、悪名高き 「セーラムの魔女狩り」 。糾弾を逃れてやって来た者達が、今度は、省みることなく他者の糾弾に走る・・・良くある話で、コナン・ドイルの 「緋色の

ドレイク船長とゴールデン・ハインド号で世界一周

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1577年12月、フランシス・ドレイク(Francis Drake)船長の船、ゴールデン・ハインド(Golden Hind、黄金の雌鹿)は、プリマス港を出発。2年10ヶ月かかった、世界一周航海の始まりです。ドレイクは、イギリス人としては初めて、世界では二番目に、世界一周航海を果たした人物。 プリマスから西へ舵を取り、大西洋を渡り、南米西岸に出て、それを北上。カリフォルニア沖から、今度は太平洋を渡り、インドネシア経由で、喜望峰を回り、西アフリカ沖を北へ。その後、再びプリマス港にたどり着くのは1580年11月3日。ドレークが、スペイン無敵艦隊を蹴散らす8年前の話です。 エリザベス1世のイングランドは、徐々に頭角を現してきたものの、まだまだ、フェリペ2世のスペインなどに比べれば、ほんの小国。フランシス・ドレイクのような、エリザベス女王の「海の犬」たちは、女王からの許可を受け、金銀を積んだ、スペイン船やポルトガル船を対象に、おおっぴらな海賊行為を働いていました。いわば、彼らは、国家のお墨付き海賊であったわけです。ドレイクが、海賊行為を始めるのは、遡ること、1571年。西インド諸島やパナマ沖で、スペイン船を襲って、そのお宝を頂戴。 この世界一周航海でも、ドレイクは、やはり、ペルー、パナマ沖で、スペン船を襲撃。10トンもの銀を盗み、後、東南アジアで、当時、イングランドで高価であったスパイスを買い込み、帰途に着くのです。よって、ドレークの航海に投資した人間には大当たりとなりました。当然、エリザベス女王の懐も、これでかなりあたたまり、女王のこの年の収入はドレイクのおかげで、通常の2倍だったという話。 到着した翌年の1581年には、エリザベス女王は、テムズ川沿いデットフォードに停泊したゴールデン・ハインドを訪れます。そして、船上にて、一儲けさせてくれたドレイクに、騎士の称号を与えるのです・・・サー・フランシス・ドレイク!これには、スペインからの非難ごーごー。何と言っても、スペインにとって、ドレイクは、騎士どころか、凶暴な海賊の親玉、人呼んで「ドラコ」(ラテン語でドラゴンの意)ですから。 エリザベス女王のみならず、ゴールデン・ハインドには、世界一周した船を見ようと、見物人が押し寄せたようです。そして、それから数百年経った現在も、世界各国からの観光客が、ゴ