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ルパートベア(くまのルパート)

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来年のカレンダーはルパートベア! 12月になると、来年のカレンダーをどうしようと、買い物に出かける度、なんとなく心に留め、気に入ったのがあったら購入するようにしています。イギリス各地の風景の写真、イギリスの有名な館の写真、ロンドン有名建築物の写真、イギリスの動物の写真、なんたらかんたら、と気が付くと、来る年、来る年、似たようなものばかり購入し、「あれ、こんな写真、以前買ったカレンダーで見たぞ・・・」などと思う次第。来年(2018年)のものは、ちょっと、今までとは違うものを買いたいなと思っていたところへ、先日目に入ったのが、ルパートベア(Rupert、くまのルパート)のイラスト絵のカレンダー。店の棚にひとつしか残っていなかったので、即レジへ持っていき購入。 ルパートベアは、同じイギリス出身の、他のくまのキャラクターである、 くまのプーさん や、 パディントン などに比べると、日本での知名度はぐっと落ちるでしょうが、イギリスでは、実に100年近く親しまれています。ルパートは、新聞デイリー・エクスプレス(Daily Express)に、1920年からずっと掲載され続けている息の長い漫画で、当然、原作者メアリー・タートル(Mary Tourtel)は亡くなっており、イラストレーター兼ストーリーライターは、以後、何人かにバトンタッチされ、今日に至っています。中でも一番名の知れた人物は、1935年、引退したメアリー・タートルの後をひきついだ2代目のルパート作家アルフレッド・べストール(Alfred Bestall)氏。彼は、約273ほどのルパートの物語を手掛けたそうです。 ルパート誕生の理由は、ライバル紙であったデイリー・メイル紙(Daily Mail)に掲載されていた漫画のテディー・テイル(Teddy Tail)の人気に対抗し、売り上げを伸ばすため、エクスプレス紙の副編集長ハーバート・タートルが、イラストレーターの奥さんの描いたルパートを載せる手はずを取ったのが始まり。これが、テディー・テイル以上の、大当たりとなるのです。特に今では、ネズミのキャラクターであるテディー・テイルを覚えている人もあまりいないのではないでしょうか。 くまのルパートは両親とナットウッド(Nutwood)というイギリスの村に住んでいる設定で、近所の友達と遊んだり出かけたりする最中に遭

ローランド・ヒルと切手の誕生

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キング・エドワード・ストリートのローランド・ヒル像 上の写真のお方は、ローランド・ヒル(Rowland Hill、1795-1879)。社会改革者として知られ、中流家庭の子供に、サイエンスを含んだ有用な教育を与える教育制度改革に貢献した他、何よりも、イギリス、ひいては世界の郵便制度の発展と改革に貢献した人物として有名です。 ローランド・ヒルの青銅の像が立つのは、 セント・ポール大聖堂 からやや北に行った、キング・エドワード・ストリート(King Edward Street)。キング・エドワード・ストリートの東側に並行して走る通り、セント・マーティンズ・レ・グランド(St Martin's le Grand)の東西両側には、かつて中央郵便局(General Post Office)として使用された建物があり、近くには、以前の記事にも書いた、郵便局職員がお昼休みに憩いの場所として使った ポストマンズ・パーク もあります。ついでながら、セント・マーティンズ・レ・グランドの東側の旧中央郵便局建物は取り壊されたものの、西側の建物(1 St Martin's le Grand)は、1984年に中央郵便局が移動した後の、1987年ころ、野村インターナショナルが購入し、改築改造。その後、野村がヨーロッパの本拠地として使用しており、2014年に、これをシンガポールの企業に売って手放すまでは、ノムラ・ハウスとして知られていました。 さて、話を、ヒル氏に戻します。ウスターシャー州キダミンスター(Kidderminster)に、学校の校長先生の息子として生まれたローランド・ヒル。彼が8歳の時に、後の彼の人生に影響を与える、とある事件が起こります。誰かが自宅のドアをノック、母がドアを開けると、そこには手紙を手にした郵便配達員が立っていた。お母さんは、どきっ!さあ、困った!・・・というのも、当時は、手紙は受取人が払うことになっており、その支払い金額も、距離や手紙の枚数によって異なるものの、約1シリング(現在の40ポンドほど)とかなりの高額。よって、郵便配達人が戸口に立つ姿は、多くの家庭にとって、あまり有り難いものではなかったのです。お父さんは仕事で家におらず、自宅に現金がなかったため、母はローランドに、いくつかの所持品を渡し、大急ぎで町の質屋へ使いに出し、ローラ

ヤドリギの下でキスをする

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クリスマスの室内の飾りに良く使用されるヤドリギ(Mistltoe、ミスルトゥ)。常緑の細長い葉の間に真珠のような白い実。これを束ねて逆さに吊るし、その下に立つ人には、キスができるというのが習慣ですが、この習慣がどこから来たかというのは、定かではないよう。 ヤドリギで作った矢に刺され死んでしまうバルドル 一説によると、北欧神話に由来するという話があります。バルドル(Baldr)という美男の神様がおりました。彼は、自分の死を見る悪夢に襲われ、母親の女神フリッグ(Frigg)は、それを聞いて、心配し、植物を含む地上のあらゆる生物に、バルドルを決して傷つけないという誓いをたてさせるのです。が、この時、フリッグは、寄生植物であるヤドリギを見過ごしてしまう。ともあれ、この後、バルドルは、不滅の体となり、他の神々がふざけて物を投げつけても、一切、傷つくことがなかった。ところが、心の曲がった神、ロキ(Loki)は、ヤドリギが見過ごされていた事に気づき、ヤドリギを使って矢のような武器を作る。ロキは、バルドルの盲目の兄弟、ヘズ(Hod)に、このヤドリギでできた矢を、バルドルにむかって投げつけさせる。矢に突かれたバルドルは、瞬く間に死んでしまい、他の神々は、やさしく美しかった彼を悼んで悲しんだ・・・とここまではいいのですが、この後のストーリーは、多少のバリエーションがあります。まず、そのひとつは、母のフリッグの流した真珠のような涙は、ヤドリギの実となり、フリッグは、ヤドリギを罰する代わりに、その後、平和と友情の象徴とした・・・というもの。また別のストーリーは、神々は、なんとか、バルドルを死の世界からよみがえらせることに成功し、喜んだフリッグは、ヤドリギを平和と友情のシンボルとし、その下を通るものはキスをするという誓いをたてたとやら。この他にも、また別の説を読んだことがあります。 ヤドリギは、キリスト教以前の古くから、常緑であるため、冬の飾りや行事に使用されており、豊穣の象徴であるとしてドルイド教(Druid)などの異教でも崇められてきた植物。実際、正式にはキリスト教とは全く関係なく、一般では、18世紀ころから、クリスマスの装飾として使用されるようになるものの、ホーリー(西洋ヒイラギ)やアイビー(蔦)と異なり、キリスト教の教会内にヤドリギを飾るという事はほとんどないよう

ブルームバーグ・タブレット

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ポンペイの夫婦の壁画 上の絵は、79年ヴェスビオ火山の噴火により、埋もれた都市ポンペイにて発見された有名な壁画。パン屋のテレンティウス・ネオ(Terentius Neo)とその奥さんの肖像とされます。この壁画、夫婦が平等に描かれていることから、当時、女性の地位が確立されていたという証拠として取りざたされる他、この二人が、それぞれ、書類(手紙)を手にしていることから、両者とも読み書きができ、教養があったという事を示すものとされます。そして、この二人がそれぞれ手にする書類は、ローマ帝国で使用された2つのタイプの筆記用具を知るに、便利なものです。まずは、だんなが手にするのは、いわゆる、「柔らかい」媒体であるパピルス(紙)。そして奥さんが手にするのは、「硬い」媒体である板のタブレット。 パピルスは、おそらくエジプトから輸入されたものを使っていたのではないかとされますが、その他にも、輸入品が入手しがたい際は、木材をうすーく削ったものを紙として使用することもあったようで、この上にペンとインクで筆記をすることとなります。一方、奥さんの持つタブレットは、2枚の木の板を合わせ、その片側をかなめで留め、カードのように開くようにしたものです。木の板の内側は浅く凹型に掘られ、そこに、すすを混ぜて黒くした蜜蝋を入れ、滑らかにならし、その蝋の上に、スタイラスと称される鉄製ペンで筆記。奥さんが口元にあてがっているのが、タブレット用に使用するスタイラスです。往々にして、スタイラスの片側には、魚のしっぽのような平たいものが付いており、間違えをしたら、こちらの方で、蝋をこりこりひっかいて消す・・・要は消しゴム付きエンピツの感覚。また、書いたものの大部分を修正したい場合には、大きなヘラのようなもので、蝋を削り、再び蜜蝋を入れて、やり直しもできたようです。 さて、場所をイタリアからイギリスへ移します。ローマ軍は、 43年 にイングランドへ侵入した後、どんどん領土を伸ばしていくのですが、スコットランド部分の制覇は無しえず終わります。ローマ皇帝ハドリアヌスの時代、スコットランドからの野蛮人の侵入を抑えるために、現在のイングランドとスコットランドの境界周辺に、122年ころ、ハドリアヌスの長城が建築されます。1973年、このハドリアヌスの長城付近のローマ駐屯地ヴィンドランダ(Vindolanda)

ロンドンのミトラス教神殿遺跡

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ロンドン博物館内のミトラス神の頭 ロンドンのシティー内、かつては、ウォルブルック(Walbrook)というテムズ川にそそぐ川が流れていた場所に南北に走る、歩行者専用の通りは、今もその名残からウォルブルックと呼ばれます。ちなみにウォルブルック川は、今も地下を、ささやかにちょろちょろと流れてはいるのですが、道行く人の大半は、その存在を知らずに大急ぎで歩いていきます。 このウォルブルックの西側は、かなり長い間、新しいブルームバーグ社ヨーロッパ本拠地の建物建設のため、一大工事現場と化し、封鎖されていました。かつてここにあった、バックラーズベリー・ハウス(Bucklersbury House)と呼ばれた、味気ない、おんぼろビルが取り壊された後、ノーマン・フォスター氏デザインによる、新しいブルームバーグ社建物建設前に、考古学団体による発掘が行われ、ローマ時代の遺品がいくつも発見されるに至り、一時は、「北のポンペイ」などと呼ばれ。この地は、ウォルブルック川のそばの比較的湿った地質であったため、木材や皮製品の保存状態が特に良いのだそうです。 もっとも、この地が考古学者達の一大興味の対象となったのは、今回のみならず。戦時中に、ここにあった建物がドイツ空軍の爆撃で崩壊し、戦後の土地開発で、1954年、この場所にローマ時代の紀元240年に遡る、ミトラス教の神殿(Temple of Mithras)遺跡が掘り上げられ、大騒ぎとなったのです。英語の発音は、「ミトラス」より、「ミスラス」に近いものがあります。 1950年代のミトラス神殿の発掘 発掘当初は、ローマ時代の屋敷か倉庫の跡地と思われていたのが、なぜ、ミトラス教の神殿跡と分かったかというと、ある日、若く神々しくハンサムなミトラス神の頭(一番上の写真)が泥の間から発見されたため。これが、新聞で大きく取り上げられたのも手伝い、当時、それは大勢の人間が、この遺跡を一目見ようと列を作り。この神殿跡をどうするべきか、というのは、国会でも取り上げられ論議の対象になったものの、戦後、金欠の内閣の事、政府は神殿保存のために金を払う事を拒否。保存のための資金は、土地開発者のおさいふから払わせることと相成りました。そういうことになると、どうしても、節約のため、手抜きになるのですよね。 ロンドン博物館内、ウォルブルックで発

ドレーパーズ・ホールのクリスマス・フェア

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ドレーパーズ・ホールへの入り口(左手前方)があるThrogmorton Street 前回の記事 に、ロンドンのギルド(同業組合)にあたるリヴァリ・カンパニー(Livery Company)の事を書きました。 その中でも、第3番目に重要とされるリヴァリ・カンパニーである、ドレーパーズ・カンパニー(Worshipful Company of Drapers)のギルドホール、ドレーパーズ・ホール(Drapers Hall)内にて、先日、比較的高級な衣料、アクセサリー、食べ物の屋台が並ぶクリスマス・フェアが催されていたので、10ポンドの入場料を払い、入館しました。普段、こうしたリヴァリ・カンパニーのホールを、一般人が見学するには、直接、連絡を取り、ツアーを依頼する方法はあるものの、観光地として公開されてはいないので、こういう行事がある時は、ここぞとばかりにでかけないと。歴史あるリヴァリ・カンパニーのホールは、立派で豪華絢爛なものが多いですから。 ホールへの入り口は、イングランド銀行の裏手にあたる通りを西へ少し行った、スロッグモートン・ストリート(Throgmorton Street)。昔働いていた会社へむかう、駅からの道中にあったため、過去何回も、その前を行きつ戻りつしているのですが、内部に入館するのは、これが初めてです。 この場所は、ヘンリー8世の 修道院解散 以前は、修道院があった場所の一部でありました。ヘンリーの右腕として修道院解散を決行したトマス・クロムウェルは、この周辺に住んでいたのですが、没収した修道院跡の一部を購入し、ちゃかり自分の屋敷を拡大しています。後の1540年、トマス・クロムウェルが、ヘンリーの怒りを買い、失脚し処刑となると、数年後、今度は、ドレーパーズがこれをヘンリー8世から購入して自分たちのギルド・ホールとしたのが始まりです。1666年のロンドン大火で焼け落ちた後に建て直され、再び1772年の火事で被害を受け再建。19世紀の改造後、現在もドレーパーズのホールとして使用されています。 ドレーパーズ・カンパニーの守護聖人は聖母マリア様。ドレーパーズ・ホールのある周辺の通りには、ドレーパーズの紋章が掲げられていますが、この紋章は、青を背景に、冠の載った3つの雲から、陽光が降り注いでいる、というもの。マリア様の慈愛が、太陽の

ロンドンのリヴァリカンパニー

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中世の西欧諸国、諸都市で発達したいわゆる商業組合は、英語では一般にギルド(guild)として知られます。ギルドとは、サクソン語の''gildan"(支払う)から派生した言葉で、同業組合に所属し、メンバーになるためには、会員費を「支払う」必要があったため。 中世の時代、同業を営む者たちは、同じ地域に居住し働くことが多く、現在でもロンドンでは、クロス・フェア(Cloth Fair、布市場)、アイアンマンガー・レイン(Ironmonger Lane、金物通り)、ブレッド・ストリート(Bread Street、パン通り)その他もろもろの、かつて、その通りで働いた業者たちの名残を残す名前にお目にかかります。こうした同業者たちは、競争規制や商品やサービスの水準の維持などを目的としてギルドを結成。職業以外でも、ギルドは、精神的金銭的な互助会の役割も果たし、メンバーが病気になったり年老いて身寄りがなかったりした場合のアームズハウス(almshouse、救貧院、養老院)も設立。かつては、キリスト教との結びつきも深かったため、それぞれのギルドは特定の教会や守護聖人との関わりを持ち、メンバーの葬式、または死んだメンバーのための祈祷などもギルドの重要な役割となります。特に、それぞれのカンパニーが、自分たち専用の館(ホール)を建設するまでは、教会で会合なども行われていました。 特に、ロンドン(シティー・オブ・ロンドン)に存在してきたギルドは、リヴァリ・カンパニー(Livery Company)と言う名で呼ばれています。リヴァリとは、中世の時代、貴族や学校、ギルドなどが所有する館や屋敷内で、そこに所属する者たち、その経営に司る者たち(従業員)に与えられた衣服、食べ物、飲み物を指した言葉ですが、やがて、所属する組合や館特有の衣類や紋章を意味する言葉として限定されていきます。そうしたリヴァリ(装束、紋章)によって、各ギルドに所属する者たちは、他のギルドとの識別、同朋意識を養い、やがてロンドンのギルド自体がリヴァリ・カンパニーと呼ばれるに至ります。 中世のロンドンで、ある特定のリヴァリ・カンパニーのメンバーとなり、自由にシティー・オブ・ロンドン内で働けるようになるには、まず、約7年間、見習い(apprentice)として、親方の下で修業。修行を終えると、ジャーニ

聖バーソロミュー病院

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ロンドンの聖バーソロミュー病院(セント・バーソロミューズ・ホスピタル、St Bartholomew's Hospital)というと、最近では、ベネディクト・カンバーバッチ主演のテレビ・ドラマ「シャーロック」の撮影にも使用されたことから、海外でも知っている人が沢山いるようです。シャーロックが、自分の死を偽造するため、建物の屋上から飛び降りた場所としてより、愛称「バーツ、 Barts」で知られるこの病院は、約900年もの間、同じ場所で病院として機能してきた事で、もっと有名であるべきなのですが。現在、バーツは、イギリスの医療機関NHSの一部として、主に、心臓病と癌の治療を専門としています。 以前、聖バーソロミュー・ザ・グレート教会(St Bartholomew the Great)の事を説明した記事で、映画「フォー・ウェディング」の撮影に使用された当教会は、ヘンリー8世の 修道院解散 で閉鎖されるまで存在し、ヘンリー1世の時代の宮廷人であったと言われるラヒア(Rahere)という人物によって設立された、アウグスティヌス派の修道院の一部であったことを書きました。聖バーソロミュー病院は、やはり、ラヒアによって、1123年、修道院と同時に、修道院の隣、当時のロンドンの市壁の西側すぐ外の ウェスト・スミスフィールド の地に設立されます。ラヒアが、なぜ、聖人セント・バーソロミュー(聖バルトロメオ)に捧げる修道院と病院を設立するに至ったかは、この 聖バーソロミュー・ザ・グレート教会の記事 を参照ください。 聖バーソロミュー病院敷地内へ入るゲートハウス 修道院は、上記の通りヘンリー8世の修道院解散により潰されてしまったものの、病院の方は、シティー・オブ・ロンドンからの嘆願、そして、リチャード・グレシャム( トーマス・グレシャム の父)などの時の有力者からの依頼もあり、ヘンリーは、病院として存在しづつけることを認め、自らの死の2週間前に、当病院と、 べドラム病院 の経営権利をシティーへ与えています。こうして、セント・バーソロミュー病院の再創立者として、1702年に建てられた病院敷地へと入るゲートハウス(門楼)には、ヘンリー8世の像が据えられることとなります。 ちなみに、この像は、ヘンリー8世を模したロンドンで唯一の戸外の像です。 中世の建物は

ロード・メイヤーとロード・メイヤー・ショー

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ロンドン博物館内のロード・メイヤーズ・コーチ さて、来週の土曜日(11月11日)は、ロンドンで、ロード・メイヤー・ショー(Lord Mayor Show)が執り行われます。新しく選出された、ロード・メイヤーが、金ぴかの馬車に乗って、ロンドンのシティー内をパレードする日。 以前の ディック・ウィッティントン の記事でも書いたように、ロード・メイヤーとは、ロンドン市長と訳されますが、現在の、ロンドン全域(Greater London)の代表であり、ロンドン市民の選挙により選ばれ、任期4年のメイヤー・オブ・ロンドンとは異なり、ロード・メイヤーは、シティー・オブ・ロンドンのみの代表者で、任期は1年のみ。かつては、ロンドンと言えばシティー・オブ・ロンドンを指したので、ロード・メイヤーがまさにロンドン市長であったわけですが。 一番最初のロンドンのメイヤー(当時はまだロード・メイヤーとは呼ばれていなかった)は、12世紀に遡り、ヘンリー・フィッツアルウィン(Henry FitzAilwin)という人物。在位中はほとんどイギリス国内にいなかったリチャード1世が、十字軍の遠征に、えっちらおっちら出かける前の、1189年には、フィッツアルウィンは、すでに、シティー内で、王様とシティー有力者たちを代表する人物として、メイヤーに任命されていたのではないかとされます。彼は、今の任期の1年どころか、約20年メイヤーの座を維持し、後は、親族に引き継がれたという事。この時のメイヤーは、まだ王によって任命されていたのが、1215年、だめ王、ジョンは、マグナ・カルタにサインをする6週間前に、シティーに、毎年、自分たちでメイヤーを選出する権利を与えます。また、マグナ・カルタ内の条項、13条には、特定して、ロンドン(シティー)の自由と過去からのしきたりを重んじるという内容も加えられる事となります。 過去一番有名なロード・メイヤーは、おそらく上述のリチャード(ディック)・ウィッティントン。 シティーは、小さな区(Word、現在25区)に分かれており、それぞれの区はオールダーマン(Alderman)という代表者を持ち、ロード・メイヤーに選出されるためには、まず、現役のオールダーマンである必要があります。またシティーには、現在は、特に意味のある役割を果たさないものの、かつては税金の収集を行