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キャロル・オブ・ザ・ベルズ

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今年もまた、クリスマスは、ラジオから流れるキャロルを楽しみました。 好きなキャロルのひとつ、キャロル・オブ・ザ・ベルズ(鐘たちのキャロル)を紹介しておきます。つららや、雪の結晶を思い起こさせるような、きらきら光るイメージのあるメロディーが、とても綺麗なキャロルです。実際のところ、今年のクリスマスは10度を越し、つららとは程遠いものでしたが。 オリジナルのメロディーは、1916年に書かれた、ウクライナの民謡という事で、ウクライナでは、新年の祝いに歌われたものであったということ。後、1936年に、アメリカ人作曲家によって、英語の歌詞が付けられ、クリスマス・キャロルとして再デビュー。 このキャロルは、映画「ホーム・アローン」でも使われていました。クリスマスに、パリへ旅行へ出かける大家族。一家そろって朝寝坊して、あわてて空港へと向かう混沌の中、両親に忘れられ、家に置いてけぼりとなった少年ケビンの話でしたが、ケビンが教会へ入り、近所に住む怖いと思っていた老人と話をするシーンで、教会内のキャロルシンガー達が背景で、この歌を歌っていました。 ユーチューブで、ロンドンの少年合唱団、リベラ(Libera)の歌うキャロル・オブ・ザ・ベルズがありましたので、 こちら まで。ラジオで何度か聞いたものは、全てこのリベラのヴァージョンでした。 歌詞と、ざっと訳したものを載せておきます。 Hark how the bells, sweet silver bells, all seem to say, throw cares away Christmas is here, bringing good cheer, to young and old, meek and the bold. Ding dong ding dong that is their song with joyful ring all caroling. One seems to hear words of good cheer from everywhere filling the air. Oh how they pound, raising the sound, o'er hill and dale,

セント・ポールのドームを見上げ

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帰宅の途中、クリストファー・レン設計のセント・ポール大聖堂のドームが夜空に浮き上がっている様子を見ると、いつも、気分が明るくなるのです。上を向いて歩こうよ、とばかりに、多少気がめいっていても、ドームを眺めながら、なんとなく顔にスマイルが戻ってくる。 20年以上も前に、イギリスに行きたいと思い、やって来て、気がつくと、そのまま住処となってしまい、幾度見たかもわからない光景ではあるのですが、いまだ、これを見るたびに、「ああ、この国に来て良かった、住めて良かった。」と思うのです。 第2次大戦の戦火(ブリッツ)も生き延びた寺院。300年以上経った今もどんと構え、また、同じ年月が経った後も、ここに立っているのでしょうか。そう思うと、安心する・・・そんな感じです。クリスマスツリーを背景に、また一段とムードがあります。 さて、2ヶ月以上前から、セント・ポールのそばに陣取っている「プロテスター」たちのテントはまだあり、現在も、たてこもっています。かなり暖かい冬なので、もうしばらくねばるかもしれません。聖堂の正面わきには、プロテスター用に仮設トイレまで立ち並んでいる始末。 それにしても、一体、何にプロテストしたいのか良くわからない人たちです。「バンカー」が世界の経済危機を引き起こしたなどと言って、それなら、金融機関のオフィスの前ででもテントを張ればいいのに。また、この「バンカー」の定義も本人達、おそらく、曖昧でわかっていないのではないでしょうか。資本主義社会に反対・・・はいいが、「あんたが身につけているそのピアスやらネックレスやら、資本主義ならではじゃないの?そんなに資本主義が嫌なら、北朝鮮へでも移民したら?」と思うのです。私も、度の過ぎた消費者社会や使い捨て文化には反対ですが、見た目からは、この人たち、消費するのは、嫌いでないな、という印象受けます。 大体、働き盛りの様な年で、比較的良い身なりをし、数ヶ月、何もせずにうだうだしていられる、というのは、比較的裕福なバックグラウンドだったり、親が金持ちだったり、国から補助金を受けていたりするケースが多いのではないのでしょうか。この人たちの処置のために、かなり公費もかかっているはず。お騒がせの、ただの暇人という感があります。何か、社会を良くする事をしたいのなら、特にクリスマス時期には、ホームレス等のため

ヘンリー2世のお家騒動

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うちのだんなが、間もなく予定されている骨髄移植にむけての事前治療のため、入院してから1週間が過ぎました。見舞いへ行く前後には、気晴らしになるよう、余裕があれば、何か楽しい事をするようにしています。欝になると嫌ですので。 ・・・という事で、友人が舞台劇「The Lion in Winter」(冬のライオン)が、ロンドンのヘイマーケット・シアターでかかっているのを見に行くと聞いて、便乗してきました。この「冬のライオン」は1968年の、ピーター・オトゥールとキャサリン・ヘップバーンの映画の方が有名ですが、もともとは舞台劇です。作者が、米人ジェームズ・ゴールドマンなので、ブロードウェイではかけられた事があるけれども、ロンドンの舞台にかかるのは、これが初めてだとか。主演は、ロバート・リンジーとジョアナ・ラムリーでした。イギリスでは、テレビでもお馴染みの2人ですが、日本では、さほど知られていないかもしれません。 1183年、ヘンリー2世が、クリスマスに、フランスのシノン城(上の写真)へ、自分の家族メンバーと若きフランス王フィリップを招いて起こる騒動、という設定で、季節柄はぴったりの興行ではあります。今の世でも、クリスマスに家族全員集合したはいいが、口論の末、不穏な空気で終わる、というケースは多々ありますが、これは、12世紀版、クリスマスに集まった家族の相続をめぐっての大喧嘩。一応、歴史劇の形はとるものの、半分コメディー調で、くすっとさせられるセリフが沢山入っています。 この作品のあらすじは、以前書いた映画記事 「冬のライオン」 をご参照下さい。 征服王ウィリアムから始まるノルマン朝3代目の王、ヘンリー1世(上記家系図参照)は、男児の世継ぎ無く、娘のマチルダに後を継がせる事を希望しますが、王亡き後、幾人かの貴族達は、女性の後継者を嫌がり、マチルダのいとこにあたるスティーブンを王として担ぎ上げ、イングランドは、この2人と双方の支持者の間で、一時内戦状態と化します。 マチルダの夫は、フランスはアンジューのジェフリー。この2人の間に生まれるのが、カリスマ王、ヘンリー2世です。ヘンリー2世は、イギリス、プランタジネット朝初代の王。プランタジネットとは、ヘンリーの父のジェフリーが、黄色い花を紋章に使っていた(黄色い花をヘルメットに挿していたという話も聞いた事がありま

ディップ・マニア

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ここで言うディップは、ジョニー・ディップではありません。食べるディップ(dip)です。 ギリシャやトルコ、レバノン、更にはエジプトなどでも食されるディップ類、フムス、タラモサラタ、ザジキなどが大好きです。簡単なランチやスナックには、これらのディップを並べて、短冊に切ったニンジン、セロリの野菜や、トーストですくって食べて、大満足できるのです。 スーパーでも、既にで作られたものがパックに入って売られており、最近まで、こうしたスーパー商品を買っていたのですが、ある日、たらこで作るタラモサラタの味が、以前より薄くなったな、と材料の詳細ラベルをじっくり読むと、たらこの含有量はなんと7~8%くらい・・・思わず目を疑いました。これはショックです。その他、水分やら化学調味料でごまかしているのです。油も、きっと安い植物オイルでごまかし、オリーブオイルなど使っていないのではないでしょうか。タラモサラタは、うっすらピンク色ですが、この色も、たらこ本来の色ではなく、野菜のビートルート(beetroot、テーブルビート、赤カブ)で色付けしているようです。ヒヨコマメで作るフムスの、ヒヨコマメの含有量は、50%とくらいと、ずっとましですが、マメは、たらこより、原価が安いので、スーパーも、そこまでごまかす必要はないのでしょう。 いずれにしても、ディップの作り方レシピを調べると、全部比較的簡単。何も、スーパー物に頼る事もないかと、ここのところは、全て、自分で作ることにしています。 *フムス(hummus)の作り方* (材料4、5人分) 缶入りヒヨコマメ200グラム オリーブオイル テーブルスプーン2杯 レモン汁 テーブルスプーン2杯 タヒニ(ペースト状の練り白ゴマ) テーブルスプーン2杯 ヨーグルト(グリーク・ヨーグルト)テーブルスプーン2杯 パプリカ テーブルスプーン1杯 ガーリック 粗く切ったものを1片 塩 1・全てをボールに入れる。 2.電動ハンドブレンダーで、クリーミーになるまで、場合によって、オリーブオイル、ヨーグルト、レモン汁等の量を増やして混ぜる。味をみながら、塩を加える。 *タラモサラタ(taramosalata)の作り方* このタラモサラタ、写真だけ見ると、「なんだ、フムスとほぼ変わりないじゃん」と思われてしまうかも。色をもう少し、

職場のクリスマス・パーティー

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本日、この辺りでは初めて雪がちらついていました。地面に落ちると共に消えてしまうような雪でしたが、国内で、場所によっては、積もっているところもあるようです。 上の写真は、ロンドン、シティー内の、オフィスに囲まれたブロードゲイト・アイス・リンク。予約なしで、ふらっと現れて滑れる、屋外アイススケート・リンクです。狭いですけど、一度、ここで、スピードスケート選手まがいのピチピチのユニフォームを着て、何度も何度も、かなりのスピードで、ぐるぐる回っている人がいて、こちらの目が回りそうになりましたが、大体の場合、こういった、普通にその辺の通りを歩いていそうな感じの人たちが滑っています。 さて、本日は、クリスマス1週前の金曜日とあって、あちこちで幾つもの、職場のクリスマスパーティーが開かれる日です。人呼んで、マッド・フライデー。大体、金曜日、土曜日の夜は、大都市では、アルコール関係の病人や怪我人で、各病院の緊急治療課は、てんてこまいとなるのが常ですが、本日は、それに拍車がかかる模様。羽目をはずして、がば飲みし、気分が悪くなったり、怪我をしたりする人物が続出する日で、この日、救急車が呼び出される数は、例年跳ね上がるという話です。天候の悪い地域では、滑って転ぶ人物も増えるとみられ、大都市のあちこちでは、緊急手当場なども設置、巡回するお巡りさんの数も増やして、対処ということ。 怪我人のみならず、あまりにへべれけになり、醜態をさらしてしまい、翌週、オフィスに通勤するのが気恥ずかしい・・・などという人も多々出ることでしょう。いや、気恥ずかしい、くらいならまだ可愛いものですが、中には、あまりに度を越した行動に出て、会社から、懲戒処分や、解雇となるケースもあるそうですので、日本でもイギリスでも、やはり悪酔いは要注意なのです。

トラファルガー広場のクリスマス・ツリー

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気がつくと、もう12月も半ばにさしかかろうとしています。スコットランドやイングランド北部では、場所により、雪騒動が始まっているものの、こちらはまだ、今のところは、比較的マイルドな冬。本日も、強風ではあるものの、妙に生暖かい風が吹いています。 昨日、トラファルガー広場を通りかかりました。トラファルガー広場、毎年恒例のクリスマスツリーは、すでに設置済みです。「屋根より高い鯉のぼり・・・」ではないですが、ツリーの背丈は、日本の民家の屋根よりは高いかもしれませんが、ネルソンズ・コラムより少々低め。 トラファルガー広場のツリーは、1947年以来、毎年、クリスマスのシーズンになると、第2次世界大戦での、ヒトラーをへこます為の協力と尽力のお礼に、ノルウェーから送られてきます。オスロ市民から、ロンドン市民への友情のしるし。数年前、テレビで、ノルウェーの森で、子供たちがキャロルを歌う中、トラファルガー広場用に選ばれた木が切られている様子を放映しているのを見たことがあります。クリスマスシーズン終了後、ツリーは、ちゃんとリサイクルされるそうですので、エコが気になる方はご心配なく。 ツリーの他に、現在、広場に設置されている電光掲示板は、来年夏の ロンドンオリンピック までの秒読みボード。上の写真を撮った時点では、開会式まで、233日と3時間15分41秒。この裏側は、パラリンピック開催までの秒読み表示になっています。 人との待ち合わせの時間まで間があったので、トラファルガー広場北側に位地するナショナル・ギャラリーに足を踏み入れました。 ナショナル・ギャラリーの常時展は入場無料ですが、現在、レオナルド・ダ・ヴィンチの特別展が行われていて、こちらは、有料なのですが、大変な人気だそうで、その混みようから、じっくり見れない、と不満の声も出ている模様。ポーランドのクラクフにあるチャルトリスキ美術館蔵「白貂を抱く貴婦人」(Lady with an Ermine)などが目玉のようです。 ルーブル美術館 からは、「ミラノの貴婦人の肖像」(La Belle Ferronnière) がお目見えしているようですが、さすがに、モナリザは、来ていません。ルーブル美術館の箱入り娘は、最近は、たとえ近場のロンドンへでさえ、旅をさせるには、あまりにも貴重で、外に貸し出すには、危険すぎるのでしょう。19

オスカー・ワイルドのサロメ

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先日、ラジオで、アル・パチーノがオスカー・ワイルド著の戯曲「サロメ」について語っている番組を聴きました。彼が監督も手がけた最新の映画「Wilde Salome」は、この戯曲とワイルドに関するドキュメンタリーだという事で、彼は、ロンドンの舞台で、イギリスの役者、スティーブン・バーコフがヘロド役をやったサロメを見て以来、この作品に、非常に惹かれているのだそうです。かなり前の話ではありますが、私も、このスティーブン・バーコフのサロメは、ロンドンで見たのです。あの時、アル・バチーノが同じ劇場内で見ていたりして。ひょひょひょ!パチーノは学生時代大ファンでしたし、サロメも好きな戯曲ですので、このドキュメンタリー映画は、ぜひ見たいところです。 サロメの筋をざっと書くと・・・ユダヤの王のヘロドは、妃の連れ子である、美しいサロメを気に入っている。サロメは、サロメで、捕らわれの身の預言者ヨカナーン(洗礼者ジョン/洗礼者ヨハネ)に魅せられ、何とか彼の気を引こうとし、接吻を要求するものの、ヨカナーンは、彼女を冷たく拒絶。ヘロドに、自分のために踊りを踊れば、何でも好きな物をやるといわれ、承諾したサロメは、踊り終えた後、褒美に、ヨカナーンの首を請求する。ヘロドが何とか説得して、褒美を他の物に変えさせようとするのだが、サロメは一切ひかず。やがて、銀の皿に盛られて、サロメの元へ運ばれてきたヨカナーンの首。その唇に、サロメが接吻するのを見、ヘロドは、彼女を処刑する。 セリフは詩的で美しいのです。特に、恋に憑かれて言い寄るサロメと、それを振り払うヨカナーンのやりとりはいいです。この戯曲を英語で読むのは、 こちら まで。 この作品は、ワイルドがパリに滞在中に、フランス語で書いたものだそうで、英語版は、後、彼の恋人アルフレッド・ダグラス(愛称ボージー)により翻訳されています。洗礼者ジョンが登場する宗教的題材を使用し、また、内容的にいかがわしいとされ、イギリスでは上演禁止となり、彼の在命中にイギリスで舞台化されたことはなかったそうですが、同性愛者であった彼が、イギリスで、わいせつ罪で逮捕され投獄中に、オリジナルのフランス語版が、パリで上演されたとの事。また、投獄中に、フランスの文筆家の友人達から激励の手紙などを受け、ワイルドの、フランス文化と文化人に対する尊敬と感謝の念は高まったようです。 サロメは

ウィロー・パターン

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イギリスの陶器の歴史に関するテレビ番組を見ている時、「これは、どこの家庭にでもありそうなウィロー・パターンの陶器・・・」と、上の写真の陶器の柄が画面に映りました。ある、ある、うちにもひとつあるのです。うちのはデザート用のボールで、一体いつ、どうやって入手したかも覚えていない。今の家の前の持ち主がおいていったものだったかもしれません。ロンドンで下宿していたころも、キッチンに備え付けでおいてあった食器がこの柄だった気がします。 ウィロー・パターン(Willow Pattern 柳柄)または、ブルー・ウィロー(青柳)と呼ばれるこの柄は、1780年に、イギリス陶器の老舗、ミントンの創始者、トマス・ミントンによって考案されたデザインで、色は青と白のみを使った、中国風デザイン。この柄には、お話がついているのですが、これは、中国の本物の伝説ではなく、この柄の陶器のセールス促進のために、デザインに組み込まれている要素を用いて作られた、イギリス製、偽伝説。 ウィロー・パターン伝説をざっと書くと・・・ 昔々、ある中国の官僚に、美しい娘がおりました。官僚に使える秘書は、この娘に恋していたのですが、官僚は、秘書ごときに、大切な娘はやれぬと、彼を解雇し、2人が会えない様に、家の回りに塀を立てます。彼は、娘を有力な貴族と結婚させる事とし、この貴族は、結婚のため、贈り物の宝を積んで、船に乗ってやってくるのです。ところが、宴の後、変装をした秘書が、館に乗り込み、娘を連れて逃げます。館の者たちは橋を渡って逃げる2人を追いかけますが、何とか逃げ切ります。その後、小さな島の館で幸せに暮らしていた2人は、やがて、官僚に発見され、殺されてしまいます。それを見ていた神は、恋人達を2羽の鳩に変え、2羽は、永遠に仲良く空を飛び続けるのです。 伝説としては、いかにも、ありそうで、まことしやかではあります。 いずれにしても、効をなして、人気となったウィロー・パターンは、次々と他の陶磁器のメーカーにも使用され、多少のディテールは違うものの、デザインは独り立ちし、200年以上経った現在も、使われ続けているわけです。めでたし、めでたし。 普段は注意も払わないような、ありきたりな身の回りのものにも、色々面白い歴史が潜んでいるものです。

霜はまだ・・・

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しばらく、ぐずぐずとした天気の、雲に覆われた日が続いた後、久しぶりの実に気持ちの良いお天気の日曜日となりました。 Remembrance Sunday(レメンブランス・サンデー、追悼の日曜日)の本日は、例年通りに、ホワイトホールにある戦争慰霊碑(Cenotaph、セノタフ)の前で式典がありました。今年は、第一次世界大戦に参戦した生存者が全て亡くなってしまい、第一次大戦の直接の記憶を持つ人物いない最初の式典となります。 *レメンブランス・サンデーについては、過去の記事 「全ての戦争を終わらせるための戦争」 をご参照下さい。 式典で演奏する、この人の真剣な表情、何とも言えません。 まだ木々に残る葉に、そして、ホワイトホールを挟む建物にふりそそぐ秋の陽光も美しく。 ***** まだ、木々に残る葉・・・そうなのです、今年は、まだ霜が降りておらず、10月、11月と妙に暖かい天気が続いているため、落葉樹は、まだ半分近く、枝にその葉を残している感じです。庭では、フクシアの、ランタンの様な赤い花も咲き続けており。思い起こせば、 去年の11月末 は、大雪に見舞われ、大変な騒ぎとなったのでした。 先日、スーパーマーケットで、雪かき専用シャベルが売られているのを見て、うちのだんなが、また前回の冬の様になったら大変だと、これをひとつ購入。シャベルを持ち上げ、ショッピング・カートに入れながら、そばにいた人に、「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。あはは・・・。」と話しかけ。この、どうしようもないジョークに対し、話しかけられた人は、「そういうもんですよ。あはは・・・。」と、お行儀よく答えてくれていました。そして、また、レジについてからも、レジの女性に、「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。あはは・・・。」と、性懲りも無く、まったく同じセリフを繰り返していました。 うちのだんなは、今月末から、骨髄移植のため、かなり長い間入院となり、おそらく年が明けるまで、退院はできそうもないので、その間、雪にやられたら、私が、この新規購入のシャベルで、雪かき係をすることになります。今年は、なんとかこのまま、この暖かさが少しでも長く続いて、雪の無い、短い冬になってくれると助かりますが。「こういうのを買う時に限って、雪は降らなかったりするもんですよね。」という

過ぎ行くものへの封印

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この絵は、英国ヴィクトリア朝のラファエル前派のうち、私が一番好きな画家、ジョン・エヴァレット・ミレーによる、Autumn Leaves(秋の落ち葉)。今時分の田舎の風景を、枯葉を踏みながら歩く時、また、どこかから、かすかな焚き火のにおいがする時、この絵を、よく思い浮かべます。 ひとつの季節が終わり、その残骸を燃やした煙が、冬も間近の空へ舞い上がる・・・。葉を燃やすモデルとなった少女達も、いつかは年を老う。彼女達は、キャンバスにその若い姿を留めながら、当然、もうこの世にはいない。 手持ちの画集の説明によると、ミレーは、 「枯葉を燃やすにおいによって目覚めさせられる感覚ほど、すばらしいものはあろうか?私にとっては、過ぎ去った日々の思い出を、これほど甘く伝えてくれるものは無い。それは、旅立つ夏が、空に捧げる別れの香(こう)であり、過ぎ去ったもの全てに、時が静かに封印をしたという、幸福な確信をもたらしてくれる。」 と言ったそうです。 焼き払った秋の葉の灰は、風に運ばれ、空に舞い、羊が点在する野に落ち、海の波に飲まれ、いつの日か、また、他の生物、事物に形を変えて再生し。 ここで一句、 去る時を とどめるすべは 知らずとも  たたえよ 金の残照の中 *当記事は、2009年11月21日、ヤフージャパンにて投稿したものを多少書き直したものです。

フィッシュ・アンド・チップス

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フィッシュ・アンド・チップス・・・今では、すっかりお馴染みで、英国の代表的お国料理のひとつではありますが、その歴史はさほど長くないのです。 フィッシュ(白魚のフライ)とチップス(ポテトの揚げ物)をコンビとして一緒に食べるようになったのは、1860年代頃であろうと言われますが、フィッシュとチップスを、別々には、すでにその半世紀前から食べられていた模様。一説によると、移民が多くいた東ロンドンで、ユダヤ人移民の料理であるフィッシュと、フランスまたはアイルランド移民のもちこんだチップスが、合体して出されるようになり、以来、この組み合わせは、瞬く間に人気となり、イングランドのみならず、アイルランド、スコットランドでも頻繁に食べられるようになったとか。 フィッシュは主にコッド(鱈、cod)かハドック(haddock)。英和辞典を見ると、ハドックも「鱈の一種で、codほど大きくない」と載っていました。 チップスは、魚のフライだけでなく、他のメインコースの付け合せにも良く登場します。「Chips with everything(何でもチップスで)」なんていう題名の、英劇作家アーノルド・ウェスカーによる戯曲もありました。私が、いつでもキッコーマンのマイ・ボトルをテーブルに置いて、何にでもしょうゆをかけるのを見て、昔フラットシェアをしていた人に、「Soy with everything(何でもしょうゆで)」とからかわれた覚えがあります。ちなみに、日本で言うおやつのポテトチップスはこちらではクリスプス(crisps)ですので。 フィッシュ・アンド・チップスはパブで食べる他、料理をするのが面倒なとき、テークアウェイで買って来て食べる事もしばしば。テークアウェイの時は、大体、マッシーピーというグリーンピースをつぶした物も買ってきます。フィッシュ・アンド・チップスのテークアウェイ店は、香港チャイニーズの人達の経営のものも多く、ちょっと不思議な光景です。移民たちの持ち込んだ食事から出来上がった、今や最もイギリス的な食べ物が、別の移民によって販売されているわけです。ある意味では、そんな光景こそが、非常にイギリス的なのだ、とも言えます。 北部出身のうちのだんなによると、イギリス北部では、フィッシュ・アンド・チップスは、植物油でなく、牛脂で揚げる事が多いので、味が濃厚で美味しいのだそうです。また、フィ

冬のライオン

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英国プランタジネット王朝の創始者ヘンリー2世。一般的には、カンタベリー大司教トマス・ベケットを暗殺させた人物、と、有り難くないイメージで歴史に名を残してしまった王様です。その領土はイングランドのみならず、南はピレネー山脈までの現フランス西部一帯を含む広大なもの。 もともとは、舞台劇であった「冬のライオン」は、このヘンリー2世の治世の後期を時代背景とし、ヘンリーと、政治的影響力の強かった女性と言われる、ヘンリーの妻、アクイテインのエレノア(Eleanor of Aquitaine)が主人公。表立ては、王一家のクリスマスの集いとしながら、2人の間に生まれた、3人の息子達(リチャード、ジェフリー、ジョン)の誰が王位を継承するかの、いがみ合いが繰り広げられます。 この頃の英国王家は、ヘンリー自身も、大陸ヨーロッパとの絆が強く、実際に使用した言葉もフランス語。ですから、映画の中で、登場人物達が英語で会話する事自体、もう、間違いなのですが、まあ、そんな固い事を言っても仕方がない。主人公達の迫真の演技と、巧妙に書かれたセリフを楽しみましょう。ヘンリーはピーター・オトゥール、エレノアはキャサリン・ヘップバーン。息子リチャード(後の獅子心王、リチャード1世)は、アンソニー・ホプキンス。 映画の最初に、エレノアは、イングランド内の城で軟禁状態の捕らわれの身となっていますが、これは、1173年に、息子達が、父ヘンリーに反旗を翻した際に、彼女が息子達側に組したため、以後は、夫の事実上の囚人となり、領土内の城に、常に軟禁されていた事情によります。彼女が、夫と会うのは、セレモニー等のため、召集された時のみ。 ということで、1183年、エレノアの軟禁の始まった10年後のクリスマス。エレノアは、夫に、フランスのシノン(Chinon)へ、息子達と共に招集されます。同時にシノンへやってくるのは、フランス王フィリップ2世。フィリップは、腹違いの妹アリスと、ヘンリーの世継ぎとの結婚を要求するが、ヘンリーは、末息子ジョンに、エレノアはお気に入りの息子リチャードに、其々王座を継がせたい。両親のどちらからも愛されていないジェフリーは、フィリップと組んで、陰謀を企てようとする。そこへもってきて、ヘンリーは、ちゃっかりアリスを自分の愛人にしてしまっているのです・・・。各人、お互いの腹を探りながら

ライフ・オブ・ブライアン

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モンティ・パイソンの映画、ライフ・オブ・ブライアンは、うちのだんなによると、公開当時、「キリスト教をこけにした」と、一部の怒りを買い、イギリス内では全面公開禁止は無かったものの、場所によって、放映禁止を取った地方自治体もあったそうです。また、アイルランドを初め、幾つかの国では、しばらく公開禁止。 イエス・キリストと同じ日に、マリア様がキリストを生んだすぐ側の納屋で生まれたブライアン。星に導かれ、救いの御子を一目見ようとやって来た 東方の三賢者 達は、このブライアンをイエスと間違え、其々持ってきた贈り物を、マリア様とは程遠いがめつい母親に手渡すのですが、即、間違いに気づき、贈り物を取り返し、本物のイエスのいる納屋へ。こうして始まるフライアンの生涯。 青年になったブライアンは、ユダヤの地がローマに支配される事に反対するゲリラ・グループのひとつに参加。こういった反ローマのゲリラグループは多々あるものの、一致団結してローマを追い出すことよりも、グループ間で、くだらぬ事での小競り合いにエネルギーを費やすため、まったく、埒が明かない。また、それぞれのグループの活動も、子供のいたずらの様な事ばかり。やがて、ゲリラ活動参加中に、ローマ軍に追われ、民衆に演説をぶつふりをして追っ手を逃れるうち、今度は、聴衆たちに、「救いの御子」だと勘違いされ、多くの信棒者を集めてしまう。全くもって、意味の深い演説をぶったわけでも何でもないのに。やがて、ローマ軍に捕まったブライアンは、他の罪人達と共に十字架にかけられてしまうのです。こうして、イエスと間違えられて始まった人生が、イエスと間違えられて終わる・・・。 当然ストーリーはおとぼけ放題、ナンセンスなギャグで綴られていきます。メンバーは、一人何役も、違う役で登場。 キリスト教信者たちを一番怒らせたのは、ラストの十字架のシーンで、十字架にかけられた者たちが、皆で、「Always Look On The Bright Side of The Life」を口笛し、合唱するところだったようです。 いつも人生の明るい面を見ていこう・・・ と陽気に歌う様子が、キリストの苦しみを馬鹿にしていると映ったようです。歌自体は、メロディーも歌詞も、いつ聞いても、なかなか元気が出るものなのですが。すぐに怒ってしまうタイプのクリスチャンは、やは

サットン・フーのヘルメット

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1939年、サフォーク州サットン・フー(Sutton Hoo)。周辺の地主であったエディス・プリティー婦人は、自分の土地にある幾つかの古墳風のぽっこりとした小山の調査と発掘を、地元の歴史家に依頼。そうして、掘り起こした古墳から出てきたのは、なんと7世紀アングロサクソン時代に遡る27メートルの船の残骸。定かではないものの、イースト・アングリア地方一帯を支配した王、レドウォールド(Raedwald)が内部に埋葬された船墓とされています。 船内からは、数々の貴重な埋葬品が共に発掘。戦士にふさわしい剣や盾の他、金や銀のブローチ、皿、リラ、角でできたカップ・・・これらの中でも、最も有名なのが、上の、儀式用ヘルメット。アングロサクソンの戦士、というと、すぐにこのサットン・フーのヘルメットを頭に浮かべるのは、この国では、私だけではないはずです。発掘品は全て、国に寄贈され、現在は、 大英博物館 に展示。ヘルメットは、館内のイギリス関係の展示物の中では、おそらく、最もアイコニックで、最も大切な一品のひとつ。 この船墓は、墓掘り泥棒に荒らされた形跡も無く、全て埋められた時のまま。まさに、タイムカプセルを開ける様な作業であった事でしょう。ただし、上のヘルメットの写真からも分かるように、一部の発掘品はかなり朽ちてしまっています。このヘルメットも、大英博物館の研究所で、ボロボロの破片を、ひとつひとつ継ぎ合わせて、時間をかけて再生されたとの事です。また、船の中心部に置かれていたであろう王の遺体自体は、周囲の酸性土により消えて無くなってしまい。遺体が置かれていた辺りには、おそらく王の皮のベルトにつながれていたという豪華な模様を施した財布の金具、そして625年頃の金貨が発見されています。あの世でも、お金に困らぬように、死体にもお財布を付けていた、ということでしょうか。埋葬品の中には、海外からの品も含まれ、海外との物流が盛んであった事も忍ばせています。 上の写真は、朽ちる以前のヘルメットは、こうであったろう、というレプリカ。 1939年と言えば、第2次世界大戦勃発の年ですので、それは大忙しでの探索で、この際には、王の船墓の納まった古墳と、やはり小規模の船が埋められていた古墳(こちらは、1860年にすでに簡単な調査が行われていたそうです)の発掘のみで終わっていますが、サットン・フーにあ

5000年前のエジプト人

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大英博物館 内、古代エジプト展示物のあるギャラリーは、いつ行っても人気です。特に、エジプトのミイラとその棺のケースの前では、にこっと笑って写真を撮る観光客の姿を必ず見かけます。 古代エジプト・ギャラリーには、そうした人気のミイラ達の他に、砂漠の砂の中に直接埋葬されていたという、5000年以上前の死体も展示されています。上の写真がそれ。紀元前約3400年に死んだ、この人・・・後の時代の様に、身体を真っ直ぐに伸ばした形ではなく、横になってちじこまった姿で埋葬され、回りには、幾つかの壷等が共に埋められ。エジプトでミイラ保存が始まるのは、紀元前約2700年という事です。なのに、それ以前に埋葬された、この人の身体は、毛や、指や足の爪に至るまで、腐らずに、それは良く保存されているそうなのです。何故でしょう。 人間の身体はその75%が水分なのだそうです。この様に、直接死体を熱い砂に接触させて埋めると、体内の水分は、周りの乾いた砂に吸収され、水分を必要とするバクテリアの繁殖を防ぎ、腐敗に至る事が少なかった。そして、この人も、そのまま5000年、骸骨と化すことなく、現在、多くの観光客に「これは、すごい」と眺められる結果とあいなった訳です。また、ミイラ化での死体保存が始まった後も、ミイラにするお金のない貧民は、これと似たような埋葬を続けていたという事です。 ミイラにしても、こうした自然保存にしても、死んだ後も、ずっとほぼ同じ形を留めていたいか・・・というのは、文化、宗教により考えは異なるし、時代によっての変化もあるでしょう。私もうちのだんなも、死んだら、「自然に帰りたい」ではないですが、ダンボール等でできたリサイクル可能な棺おけを使用して、埋葬後、上に木でも植えて欲しい、または、森林の中にでも埋葬されたい、などと思っています。実際、火葬よりもエコであるという事も手伝い、そういった自然な、森林内での埋葬を行える場所が、イギリスでは増えてきているようです。 少なくとも、私も、そうやって、死後、イギリスの オークの木 にでも変身すれば、5000年経ってから、「これは、5000年前にイギリスに住んでいた日本人女性の死体ということだ。良く保存されてるな。真っ直ぐな針金の様な髪までよーく残ってるよ。見てご覧。」なんて、写真取られてしまう心配はないのです。

ルイス島のチェス駒

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大英博物館 の有名展示物でありながら、日本ではさほど知られていないものに、ルイス島のチェス駒(Lewis Chessmen)があります。謎に包まれた背景と、それぞれの駒のひょうきんな顔のため、私もお気に入りにの展示物のひとつです。上の写真は、王と女王。歯痛か、悩みを抱えるようなポーズの女王様です。 スコットランドの北西沖に位地するルイス島(Isle of Lewis)。チェス駒達は、この島の西海岸線の砂丘に隠されていたのを、1831年に発見されます。いくつかの駒が欠けているものの、全4セット、いくつかは、発見時には赤く染められていたと言います。白組と赤組対抗チェスだったわけですね。93個ある駒のうち、11個は、エジンバラのスコットランド国立博物館、残る82の駒は、大英博物館蔵。セイウチの牙とクジラの歯を使用して掘られており、時代は1150年から1200年の間。チェスは、この頃には、すでに、ヨーロッパの貴族達の間で人気のゲームだったと言います。 どこで作られたかは定かではないものの、いくつかの駒が、北欧神話に登場する戦士達の姿に似ているため、北欧、特にルイス島は、当時、ノルウェーの下にあった事から、ノルウェーで作られた可能性が一番高いようです。駒は、ほとんど使用された形跡が無く、ノルウェーからアイルランドへ渡る途中の商人が、何かの理由で、ルイス島に隠していった、という説が一般的であるようです。いずれにしても、何故、所有者が、そんな何も無い地へ、これらを隠して去ったのか、その人物に何が起こったのかは、今では、知る術もないでしょう。想像力のある人は、これを題材にミステリー小説でも書けそうです。 チェスは、元々紀元前500年頃のインドが起源で、その後、中東を経て、10世紀末までにはヨーロッパに伝わっていたという事です。駒の姿形は、もちろん、所変われば、で、元のインドのものから、中東の影響を受け、さらに、ヨーロッパ風に変えられています。例えば、インドでは、戦いに使われた像を模した駒が、ヨーロッパではビショップ(聖職者)に姿を変え。 各競技者につき駒は16個。王と女王が各1駒、ルーク(城の形をした駒である事が多い、オリジナルの意味はチャリオット・戦車)が2駒、ビショップ(聖職者)2駒、ナイト(騎士)が2駒、残り8駒はポーン(歩兵)。上の写真は、左から、戦士を模っ

大英博物館

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先日、久しぶりに、大英博物館(ブリティッシュ・ミュージアム)の中に入ってきました。ロゼッタ・ストーン、エルギン・マーブルズ、エジプトのミイラ・・・内部の有名展示物を、いちいち数え上げていてもきりがありませんので、今日は、ざっと、博物館と建物の歴史を書いてみることにします。 大英博物館の設立は、18世紀中ごろに遡ります。そのきっかけとなったのは、上の彫刻の人物、ハンス・スローン(Hans Sloane)。彼は、アン女王、ジョージ1世、ジョージ2世に仕えた著名な医師であり、アイザック・ニュートンの後を継いで、イギリスの科学学会である王立協会(ロイヤル・ソサイエティー)の会長ともなった人物。彼は、今は、瀟洒な高級住宅地としても知られるロンドンのチェルシーにあった荘園を購入し、その土地は、現チェルシー・フィジック・ガーデン(チェルシー薬草園)の基となっています。このため、「スローン・スクエア」を初め、チェルシー周辺には、彼の名が由来の土地名が点在します。 さて、ハンス・スローンは、その他に、精力的な収集家としても知られ、彼が収集した本、写本、動植物等の標本、鉱物、コインやメダル、版画、デッサン等を含む骨董品の数々、あわせて7万1千点が、彼の死後、彼の子孫が、2万ポンドを受ける事を条件に、ジョージ2世に寄与され、1753年、このコレクションを母体として大英博物館設立の法が通ります。放置状態であった17世紀の貴族の館、モンタギュー・ハウスが博物館用に購入され、1759年1月より、内部は一般公開となります。この頃から、知識欲のある一般庶民のため、と入場料は無料。2つの世界大戦の最中を除けば、以来、その門を閉じた事がありません。 基になったスローンのコレクション内の、多くを占めた動植物、鉱物標本等は、後に、 ロンドン自然史博物館 へと移動されます。 大英博物館のコレクションは徐々に拡大していき、1823年に、ジョージ4世が、父であるジョージ3世の図書館(キングス・ライブラリー)の本、6万冊を国に寄贈した際に、ついに、モンタギュー・ハウスは手狭となり、同地に、ロバート・スマーク設計による、古代ギリシャの影響を受けた現博物館の建物の建設が開始されます。この完成は、1852年。 上の写真は、ロバート・スマーク設計による現館内で、一番最初に完成された棟にあるキングス・ラ