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タワーヒルの処刑場とトリニティー・スクエア

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以前の記事で、 ロンドン塔内で処刑 された人の数は、意外と少ない、という事を書きました。ロンドン塔敷地内の処刑は、公衆の見世物にならないで済むよう、アン・ブリン、キャサリン・ハワードや ジェーン・グレイ などの王妃たちを含む、特に高貴な身分の人物たちに与えられた特権(?)であったためです。 それでは、それ以外の人物たちの処刑はどこで行われたか・・・というと、ロンドン塔北西部に位置するタワーヒル(Tower Hill)の処刑場がそのひとつ。現在は、この処刑場の跡地は、トリニティー・スクエア(Trinity Square)と呼ばれる、ちょっとした公園の一角にあり、その血みどろの歴史を抱えて、静かに息をひそめています。ロンドン内、 ウェスト・スミスフィールド など、他にも処刑場として名を残している場所は、いくつかありますが、タワーヒルは、比較的地位のある人物たちが、斬首刑にあった場所として有名です。罪状は、反逆罪が多いです。(斬首以外の処刑もいくつか行われてはいますが。) ロンドン塔から、処刑されるべく、この場所へ連れてこられた者たちは、ここで首をなくし、遺体は再び、ロンドン塔内の教会へ埋葬されるべく持っていかれ、頭は、ロンドン橋あたりにさらされる、などという事になったのでしょう。 タワーヒル旧処刑場には、ここで命を失った、幾人かの著名人たちの名が刻まれた記念のパネルが設置されています。記念パネルに名が刻まれている、 サイモン・サドベリー 、 トマス・モア 、トマス・クロムウェル・・・などを含め、はっきりわかっているだけでも、合計約125名の人間が、この一カ所で、生涯を閉じているのです。もっとも、サイモン・サドベリーの場合は、暴徒たちにより、隠れていたロンドン塔から引きずり出されて、ここで首を打たれていますので、正式な処刑ではありません。処刑の日には、この界隈は、まるでお祭りのように、見物人でいっぱいであったのでしょうが、この写真を取った日は、これを眺める観光客は、私以外は、一人もいませんでした。 トリニティー・スクエアには、また、ホワイトホールにある 戦争記念碑 (The Cenotaph)をデザインした事でも知られるエドウィン・ラッチェンス(Edwin Lutyens)による、タワー・ヒル記念碑(Tower Hill Memorial)が

タワーブリッジ

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帆船を通すために橋げたを上げるタワー・ブリッジ タワー・ブリッジ(Tower Bridge)をもって、「これが、 ロンドン・ブリッジ (London Bridge)だ。」と勘違いしている人がわりといるという話はあります。昔々は、上に家や店なども立ち並んだロンドン・ブリッジも、今では、何の変哲もないコンクリート橋なので、 ロンドン塔 のそばに美しくそそり立つ、ロンドンのイメージを代表するような、この橋こそが、ロンドン・ブリッジなのでは、と思ってしまう気持ちはわかります。 1729年に、ロンドン西方にパットニー・ブリッジが建設されるまでのそれは長い間、ロンドンでテムズ川を渡れる橋は、ロンドン・ブリッジのみでした。その後、次々に、ウェストミンスター・ブリッジ(1750年)、ブラックフライヤーズ・ブリッジ(1759年)などが建設されるにいたるのですが、ロンドン・ブリッジの東側には、一向に橋は建てられず、ロンドン東部で川を渡るには、大混雑のロンドン・ブリッジか、小舟やフェリーで、岸から岸への渡し船サービスに頼るほかは無かったのです。 1843年には、ロンドン東部のドックランズに、マーク・ブルネルとイザムバード・キングダム・ブルネル親子による、世界初の 水底トンネル が完成するのですが、これは、後に鉄道が走るようになるものの、当初は歩行者のみのトンネルであり、大量の物資や、馬車の移動には不向きで、ロンドン・ブリッジの混雑や、テムズ川東部の水上混雑の解決には至らずに終わります。 太鼓橋のようなタワーブリッジ最初の案 そして、ついに、「ロンドン橋の東にも、橋をつくらにゃならん。」と決まり、そのデザインのコンペが、1870年代に行われます。これには、人や荷物を移動させる舟渡業に携わる人々から文句が出たようですが。 このコンペで選ばれたデザインは、 レドンホール・マーケット や、 スミス・フィールド食肉市場 などの設計で知られる建築家のホーレス・ジョーンズ(Horrace Jones)。彼は、また、審査員の一人でもあったというのですが、本人もちゃっかりコンペに参加し、当然、自分のデザインを押したのでしょうね。もっとも、彼が最初に提案したのは、二つの塔の間に太鼓橋のようなものがサンドイッチされている、ちょっと、すっきりしないもので、こちらは、審査委員会に

セント・パンクラス・ガーデンズ

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旧セント・パンクラス教会とセント・パンクラス・ガーデンズへの入り口 セント・パンクラス(St Pancras)と言うと、今は、ロンドン・キングスクロス駅隣接の、ユーロスター発着駅 セント・パンクラス駅 がすぐ頭に浮かびます。が、この駅名は、もともとは、駅の裏側(北部)にある旧セント・パンクラス教会(St Pancras Old Church)とその教区の名に由来します。 セント・パンクラス(聖パンクラス)は、4世紀のローマで、14歳にしてキリスト教を信仰していたため、首をはねられ殉教した聖人です。ちなみに、膵臓の事を、英語では,パンク ラ スならぬ、パンク リア ス(Pancreas)というのですが、タクシーの運転手をしている人と話をしていた時、「よく客に、セント・パンクリアス(聖・膵臓)駅に行ってくれと、言われる。」などと笑っていました。さほど、名の知れた聖人でないので、パンクラスだか、パンクリアスだか、ごっちゃになってしまう人も多いようです。 さて、この旧セント・バンクラス教会のかつての墓地が、今は、セント・パンクラス・ガーデンズ(St Pancras Gardens)と呼ばれる、ちょっとした、市民のための緑のオアシスになっています。前回、当ブログに書いた、イギリスの 赤いテレフォン・ボックス のインスピレーションとなったジョン・ソーン(John Soane)の墓が、ここにあるので、それを見学がてら、当教会とガーデンを訪れました。 教会の起源は、ノルマン人征服以前に遡り、この辺りで一番古い教会のひとつとされています。中世に拡大された後、 現在の建物は、再び、ヴィクトリア朝、19世紀中ごろに増築改造を施されています。 墓地は、セント・パンクラス教区の埋葬地としての他にも、人口増加で、埋葬場所がぎちぎちとなってしまった、ロンドン市街地の教会の遺体の埋葬にも使用されていました(特に、トテナム・コート・ロード駅近くにあるセント・ジャイルズ・イン・ザ・フィールド教会)。また、数少ない、カソリックを埋葬できる場所でもあったため、フランス革命を逃れて来た人たちも、ここに埋葬されたそうです。貧乏人を大量に埋葬する場所もあり、無一文で死んでしまったという、ヨハン・セバスチャン・バッハの息子でやはり音楽家であったヨハン・クリスチャン・バッハも

イギリスの赤い電話ボックスの歴史

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最近はみんな、携帯、スマホの時代ですから、外出先から連絡が必要なときに、電話ボックスに駆け込み、硬貨を落とすなんていう事をする人はいなくなりました。それでも、イギリスのシンボルの一つの様な、赤い電話ボックスは、まだ巷に残っており、ロンドン内では、観光客が、その前や、中でポーズを取って写真を撮る姿も良く見かけます。内部の電話は、もう取り去られているものがほとんどですが。 この電話ボックスをデザインしたのは、建築家ジャイルズ・ギルバート・スコット(Giles Gilbert Scott)。ロンドンのバンク・サイド発電所(現テート・モダン美術館)、リヴァプール大聖堂設計、戦後のシティー内ギルド・ホールの修理増築などで知られている人物。ギルバート・スコット家は、有名な建築家一族で、ジャイルズの祖父、ジョージ・ギルバート・スコットは、ロンドンの セント・パンクラス駅 の駅舎、及び駅舎に隣接のミッドランド・ホテルが代表作。ジャイルズの父のジョージ・ギルバート・スコット・ジュニア、更には、ジャイルズの息子のリチャード・ギルバート・スコットも建築家です。 最初の赤いテレフォン・ボックスは、ジャイルズ・ギルバート・スコットが、総合郵便局(General Post Office、略してGPO)によって行われた電話ボックスのデザインコンペに出し選ばれたもので、1926年から導入され始めます。当時は、通信関係は郵便局の管理であり、電話、昨今ではインターネットなどを扱う通信会社であるブリティッシュ・テレコム(BT)が、郵便局から独立して設立されるのは、1981年と、かなり後になります。 イギリスの電話ボックスのインスピレーションとなったジョン・ソーンの墓 ただの立方体ではなく、頭がひょこっと丸まっている形は、やはりイギリスの著名建築家ジョン・ソーン(John Soane)が、自らデザインした、彼と妻の墓からインスピレーションを得ています。 ただし、ジャイルズ・ギルバート・スコット本人は、外観の色は銀色を選んだようですが、郵便局が、最終的に赤に決めたという事。やはり、赤い色の方が、ぱーっと目だって、「あ、電話、あそこだ!」とすぐわかりますから、これは良い判断であったと思います。この一番最初に作られた、K2というデザインの物は、ロンドンを中心に設置。Kというのは、Ki

ベス・チャトーのガーデン

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適材適所という言葉があります。それぞれの人間を、その人の気質・特徴にあった内容の仕事や役目につかせる、というような意味で良く使われていますが、愛想のいい明るい人なら、セールスや客商売、細部に気の届く、数字に強い人なら会計などの仕事・・・といった感じ。 植物にも、適材適所というのがあります。・・・というより、自然の成り行きで、砂漠では、水が無くても育つように進化したサボテンのような植物のみが生き残り、沼地では、ぐちゃぐちゃと湿った場所でも腐らないような体質を整えた植物ができあがった。ある条件の場所で生きていくために、それに見合う特徴を持った植物が成功するという意味で、適所適材と言った方が妥当かもしれません。 自然の世界ではそうであるものを、これを人が作った庭園となると、人間の手が入るため、好きだから、綺麗だから、と、ある種の植物を、その特徴に合わない場所に無理やり育てる、という事は多々あります。よって、育てる側は、場違いの植物が、ハッピーに育つような環境を人工的に作り上げねばならず、あの手この手で、面倒を見て、リラックスして楽しむための庭園に振り回され、疲れ果てるような事態も起こります。金があれば、庭師をやとえばいいでしょうが。 手間がかかるだけなら、個人の勝手で、まあいいですが、最近は、環境問題につながることもあります。以前、イギリスから移住した人たちが、オーストラリアでも、イギリスでのように エメラルドの芝生 を自分の庭に敷きつめ、乾燥した気候の中でも茶色くならないように、常にスプリンクラーで水やりをする必要があり、水不足に拍車をかけているという話を読んだことがあります。昨今、地球温暖化が騒がれる中、ますます、猛暑の夏を経験する国で、濡れるような芝生などと言うのは、植物の適所適材にまっこうから反抗するような感じです。こういう無理は、そろそろ、諦め時かもしれません。 エセックス州でイングランド最古の街として知られるコルチェスターの近く、エルムステッドマーケット(Elmstead Market)という場所に、有名なべス・チャトー・ガーデン(Beth Chatto Gardens)は、あります。 去年(2018年)に、94歳で亡くなった、園芸家のべス・チャトーは、ご主人と、1960年に、当時は、荒れ地であったこの場所を、開拓して庭園作りを開始

丘の上のハーロー校

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Harrow Schoolは、創立は16世紀に遡る、イギリス名門の パブリック・スクール (歴史ある私立校)。日本語では、ハーロー校と訳される事が多いようですが、発音は、ハロウ校の方が近いです。LとRの発音の仕分けが、あまり良くできない日本人の悲しさで、「こんにちわ」のハロー(Hello)かなどと思って、Hello School(こんにちは学校)などと綴ったら、それは大間違いです!最も有名なハーロー校出身者は、ウィンストン・チャーチル、最近では、俳優ベネディクト・カンバーバッチが当校出身です。 イートン校 同様、なにせ、学費が高額なので、その辺の一般庶民は、子供を超有名パブリック・スクールに入学させるのは、まずあきらめた方がいいでしょう。大体、金銭的に大変な思いをして、入学させたところで、周りの上品坊ちゃんたちと、社交面でついて行けず、結果、子供がみじめな思いをする可能性もありますし。 以前にも、何回か当ブログで書いていることなのですが、イギリスの学校システムは、まだまだ階級社会の名残があり、富裕者は子供のために、一般公立では得られない、優れた教育を金で買うことができます。そして、問題は、公立学校は、場所によって、その教育レベルに雲泥の差がある事。親があまり教育熱心でない、比較的悪いエリアの学校は、その教育の質も悪かったりすることが多々。本来なら、悪いエリアこそ、国は金をかけて、良い教育を施すようにするべきでしょうが。この教育体制を根本から変えて、全ての子供が、親の態度や、財政状態にかかわらず、良い教育を受けられるようにしない限り、この国の、いわゆるソーシャル・モービリティー(貧しい家庭の子供が裕福な上の階級へ移動する事)は向上しないでしょう。最近では、俳優などになるのも、富裕な家庭に生まれた子女が多いようです。貧しい家庭に生まれては、俳優学校に行っている金銭的余裕も、心理的余裕もないのかもしれません。将来的に優位なコネも作りにくいでしょうし。 と、書きながら、私も実際、子供がいて、近くの公立学校の質が悪かったら、いい公立のあるエリアへ引っ越すか、子供に頑張ってもらって、公立の選別校グラマー・スクール(テリーザ・メイ、マーガレット・サッチャーなどもグラマー・スクールの出です)に送るか、または自分たちで頑張って稼いで、パブリック・スクールの名門とはいか

モニュメントに登ろう

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前回は21世紀の建物 ウォーキー・トーキー の最上階からの眺めの事を書きましたので、今回は、一番最初にロンドンの景色を高所から楽しめる観光場所となった、17世紀建設のザ・モニュメント(The Monument)の事を書くこととします。私が働いていたオフィスの窓から大きく見えていたので、私には、愛着強い建造物でもあります。 ロンドンの地下鉄モニュメント駅下車すぐの、このモニュメントとは、1666年9月に、ロンドンに大被害をもたらした ロンドン大火 の記念塔です。高さは約62メートル。独立してたたずむ石柱としては、世界で一番高いもの。ロンドン大火の出火場所はプディング・レイン(Pudding Lane)にあった、パン屋ですが、モニュメントは、この場所から、62メートル離れた場所にあり、これがどーんと横倒しになると、 大火の始まったプディング・レーン プディングレーンにてっぺんが届くという話です。 なんでも、モニュメントは、南東にやや30センチ傾いているのだそうで、「ロンドンの斜塔じゃ!」などという話もありますが、肉眼ではわかりません。ので、ピサの斜塔のように、倒れる斜塔を支えるかのようなポーズで、写真を撮る観光客は、当然一人もいません・・・。 設計は、大火後、 セント・ポール寺院 及び、その他多数のシティー内の教会を設計したクリストファー・レン(Christopher Wren)及び、大火後、焼け跡と化したロンドンのサーベイを任せられた、レンの友人、ロバート・フック(Robert Hooke)ですが、ほとんどは、ロバート・フックによるものとされます。建設は1671年から1677年。建設費用は、セント・ポールや、再建された他のシティー内の教会と同様、ロンドンへ運び込まれる石炭にかけられていた石炭税で賄われます。 完成直後は、立っている通り(フィッシュ・ストリート・ヒル)の名を取って「フィッシュ・ストリート・ピラー(フィッシュ・ストリート柱)」と命名されたそうですが、すぐに、ザ・モニュメント(記念碑)の名が定着。確かに、フィッシュ・ストリート・ピラーでは、さえない電信柱みたいですから。 天文学者、数学者であったレンも、科学者のフックも、記念塔とは言え、その建設にあたっては、天文・科学実験にも使える建築物にしようと、色々工夫を凝らすので