丘の上のハーロー校

Harrow Schoolは、創立は16世紀に遡る、イギリス名門のパブリック・スクール(歴史ある私立校)。日本語では、ハーロー校と訳される事が多いようですが、発音は、ハロウ校の方が近いです。LとRの発音の仕分けが、あまり良くできない日本人の悲しさで、「こんにちわ」のハロー(Hello)かなどと思って、Hello School(こんにちは学校)などと綴ったら、それは大間違いです!最も有名なハーロー校出身者は、ウィンストン・チャーチル、最近では、俳優ベネディクト・カンバーバッチが当校出身です。

イートン校同様、なにせ、学費が高額なので、その辺の一般庶民は、子供を超有名パブリック・スクールに入学させるのは、まずあきらめた方がいいでしょう。大体、金銭的に大変な思いをして、入学させたところで、周りの上品坊ちゃんたちと、社交面でついて行けず、結果、子供がみじめな思いをする可能性もありますし。

以前にも、何回か当ブログで書いていることなのですが、イギリスの学校システムは、まだまだ階級社会の名残があり、富裕者は子供のために、一般公立では得られない、優れた教育を金で買うことができます。そして、問題は、公立学校は、場所によって、その教育レベルに雲泥の差がある事。親があまり教育熱心でない、比較的悪いエリアの学校は、その教育の質も悪かったりすることが多々。本来なら、悪いエリアこそ、国は金をかけて、良い教育を施すようにするべきでしょうが。この教育体制を根本から変えて、全ての子供が、親の態度や、財政状態にかかわらず、良い教育を受けられるようにしない限り、この国の、いわゆるソーシャル・モービリティー(貧しい家庭の子供が裕福な上の階級へ移動する事)は向上しないでしょう。最近では、俳優などになるのも、富裕な家庭に生まれた子女が多いようです。貧しい家庭に生まれては、俳優学校に行っている金銭的余裕も、心理的余裕もないのかもしれません。将来的に優位なコネも作りにくいでしょうし。

と、書きながら、私も実際、子供がいて、近くの公立学校の質が悪かったら、いい公立のあるエリアへ引っ越すか、子供に頑張ってもらって、公立の選別校グラマー・スクール(テリーザ・メイ、マーガレット・サッチャーなどもグラマー・スクールの出です)に送るか、または自分たちで頑張って稼いで、パブリック・スクールの名門とはいかずとも、さほど高くない私立を探して行かせるかもしれませんので、パブリック・スクールに子供を送る親をそこまで非難もできないのです。

さて、ハーロー校は、Harrow on the Hill(直訳:丘の上のハーロー)というロンドンの地下鉄メトロポリタンラインの駅から徒歩10分ほどです。その名の通り、小高い丘の上のデーンと構えていて、ごちゃごちゃとした駅周辺や、街中を、ふふんと見下ろしています。この辺り一帯は、学校の所有地。確かに、駅周辺の雑踏を離れ、丘を登り始めると、全く別の空気が流れている感じです。校舎から校舎へと移動する生徒たちの一団と出くわしましたが、訪れたのは冬だったのに、皆、手に麦藁帽を持っていた・・・ハーロー帽と呼ばれ、ユニフォームの一部なのですが、こんなものも購入する必要があるので、ますます、高い学費の上に雑費が積み重なっていくのでしょう。

あちこちで、学校側が掲げた「私有地、入るな」の看板が目に入ります。見晴らしのいいテラスがあったので、ここのベンチに腰かけてちょっとサンドイッチなどを食べましたが、このテラスを出た後で、開け放した門の脇に、やはり、「私有地、入るな」サインが掲げられていたのに気づき、「あ。」と思いました。他に誰もいなかったし、まあ、いいとしておきましょう。

別の方角の景色を望む見晴らし台の入り口は、門が閉まっており、やはり「私有地、入るな」のサイン。まあ、学校としてみれば、こうした見晴らしのきく、いい場所にあるので、観光客や地元民に、生徒用のベンチ等を乗っ取っられては困るというのはわかります。が、ちょっと、カチンともきます。その理由は・・・

多くの私立校は、いわゆるCharitable Status(慈善団体ステータス)を持っています。ハーロー校もそう。これは、どういう事かというと、慈善団体として登録してあるということ。このステータスがあると、色々な税金を払わずに済むという特権があるのです。金持ちしか行けない学校の、何が慈善なのか・・・という事になりますが、要は教育というものを施すことが、慈善と考えられていたようなのです。さすがに、貧富の差の広がりが取りざたされる昨今で、私立学校の慈善団体ステータスは、単なる税金逃れと見られ、非難される事が多くなってきました。このため、最近は、私立学校は、積極的に、公のためになる行為を行う事を強いられつつあるようですが、この公のためになる行為というものは、個々の学校に、判断をゆだねてあるので、まだまだグレーゾーンです。ですから、そうした団体が、一般庶民に対して、「俺たちだけの土地だ!入るな!」などと言ってくると、「何が慈善団体だ!ならみんなと同じように、税金払え!」と、やり返したい気分になります。

東側へと丘を下っていくと、丘のふもとの緑地は学校用のサッカーグラウンドとテニス・コートなどがありますが、この緑地への一般民のアクセス問題が、裁判沙汰となり、しばらく話題になっていました。

学校所有地であるものの、この緑地には長い間、パブリック・フットパスと称する一般民が、歩いて通る権利のある散歩道がいくつか走っていたのですが、学校側が、ゲームの妨げになると、このうちのいくつかのフットパスを迂回させ、また、ひとつを除去してしまうという手段に出たのです。実際、このスポーツグラウンドが生徒によって使用されている時間というのは、限られていて、ほとんどの場合、上の写真のように誰もいない。学校側の態度に怒った地元民と、ランブラーズ・アソーシエーションというイギリス全国に組織を持つハイキング団体が、ハーロー校を相手に訴訟を起こし、なんと14年という月日の後に、2012年に勝利したという事。このゲームの妨げになる・・・という学校側の言い分に対しては、「フットパスの上に牛や羊がいたら、歩く人は、それをよけて、自ら迂回する。フットボールをしていたら、それも同じで、よけて通ればいいだけ。大体、ほとんどの場合、プレーしている事はない。」と反論したようです。ただ、実際訴訟に勝ったとはいえ、今、フット・パスがどうなっているのか、スポーツ・グラウンドには、はっきりとした道しるべが立っておらず、どこを歩いていいのか、いけないのか、はっきりわかりませんでした。あいまいに、そのままにしてあるのでしょうか。

それにしても、金持ちは丘の上、他の人たちは丘のふもと・・・というのは、良くあるパターンです。

話が飛びますが、黒沢明の「天国と地獄」(英語のタイトルはHigh and Low)という映画がありましたが、丘の下の貧民街に住む青年が、丘の上のデーンとたつ豪邸に住む実業家を憎らしくなり、その息子を誘拐しようと試み、間違って運転手の子供を誘拐してしまう・・・という筋書きでした。捜査する警察側も、ごみごみと蒸し暑い下町から、丘の上の豪邸を眺め、「確かに、あの豪邸、ちょっとカンに触るな。」というような意見を漏らすシーンもありました。

三船敏郎演じる実業家は、自分も裸一貫から成功した人物で、最終的に運転手の子供のためにも、事業が危機に陥るにも関わらず、請求された高額の身代金を払うのです。犯人役の山崎努が、上手かったです、特にラスト・シーン。私は、「たたりじゃー!」という言葉を流行らせた、映画「八つ墓村」を映画館へ見に行ったのですが、この中で二役こなした山崎努も、鬼気迫るものあって印象強かったですね。

どんな環境に生まれても、丘の下から、丘の上に這い上がる事が、自分の努力次第で、比較的容易であれば、丘の上への憧れは、「よし、俺も」という向上心へと繋がる事も多いでしょうが、自助だけでは、どうにもなりそうもないような社会では、丘の上への羨望は、憎悪、やがては殺意へと落ちていく事もあるのでしょう。逆境にもめげず、という人は、当然いますが、それは、かなり意志の強い人たちです。一方、この国に関して言えば、戦後、「ゆりかごから墓場まで」の福祉社会が、確立された際に、権利(福祉)の裏側の支えとなる、義務(自助)の観念が、いささか無視されてきて、現在にいたり、日本に比べて、その意識がいささか低い気はしないでもないです。

何はともあれ、ハーロー校の事を考えていたら、思いもかけぬ、古い映画鑑賞につながりました。

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