トーマス・ハーディーの生家

ドーセット州ハイヤー・ボッカンプトン(Higher Bockhampton)にある、藁葺きのコテージ。1840年、作家トーマス・ハーディー(Thomas Hardy)は、ここで生まれます。

当コテージは、1800年に、ハーディーの曾おじいさんが建てたと言うもので、コテージの前には花や野菜が植えられたガーデンが広がり、周辺は森林に囲まれ、駐車場からは、この森林を通り抜け、徒歩10分。ハーディーは、人生の最初の22年間をここで過ごします。

トーマス・ハーディーは、最初は、建築家となる教育を受け、1862年には、ロンドンに一時職を見つけ、この地を離れるものの、1867年に、再び舞い戻り、この家で、小説を書き始めるのです。1871年、最初に出版された「Desperate Remedies」(窮余の策)は、作品としてはいまいちで、三文小説風なのだそうですが、それなりに売れ、その後、作家業に専念。このコテージで書き上げた作品は、他に、1872年の「Under the Greenwood Tree 」(緑樹の陰で)、そして、1874年には、「Far from the Madding Crowd」(遥か群集を離れて)。

1874年に、結婚したハーディーは、このコテージを去りますが、ドーチェスター(Dorchester)郊外の新居「Max Gate」に移ってからも、1928年に亡くなるまで、徒歩や自転車で、何度も、愛するこの家を訪れていたのだということ。ドーチェスターから、ハイヤー・ボッカンプトンまで約3マイル(4.8キロ)。ハーディーの若い頃は、学校そして仕事へも、ドーチェスターへ、毎日、往復歩いて行っていたわけですが、当時の人は、本当に良く歩きましたよね。


コテージの中へ入ると、一階の本棚に、ハーディーの本が沢山並んでいましたが、棚の一段は、日本語訳の本が沢山。

ハーディーが誕生した直後、死産ではないかと思われたようですが、すぐに赤ん坊が息をしているのがわかり、皆ほっと一息。

内部は、ハーディーの生家でなくとも、昔ながらのイングランドのコテージとして十分見る価値あります。この窓際のアームチェアに座って読書でもしたら、日が沈むまで、時間が経つのも忘れそう。

ハーディーが著作を行ったのは、2階のこの部屋。窓際に置かれた机に座って。

窓からは、コテージのガーデンとその向こうの森を望み。簡素ですけれど、確かに、創作意欲はそそりそうな環境です。どうしても筆が進まなければ、ひょろりと戸外へ出て、森を歩き、更には森を抜けてヒースまで足を伸ばして、眼前に広がるドーセットの風景にインスピレーションを得。

「Under the Greenwood Tree」(緑樹の陰で)の冒頭は、

To a dweller in a wood almost every species of tree has its voice as well as its feature.
森に住む者は、全ての種の木が独自の外観の他に、独自の声を持っているのを知っている。

で始まり、其々の種類の木が風に吹かれて違った音をたてる様子を描写しています。周辺の風景が生活の一部になっている人の観察。違った種類の木どころか、毎日、スローペースで歩くことで、一本一本の木の特徴や、其々の場所に在る岩、藪、切り株云々の特徴なども把握していたかもしれない。ハーディー作品に登場する地名は、全て異名を使って、ぼやかして書かれていますが、ほとんどは、この周辺の土地とそこに生きる人々の様子を描いたものであり、実際にこの場所に生まれていなかったら、もっと違ったタイプの作家になっていたかもしれません。または、作家になっていなかったかもしれないし。まさに、土地に育まれた作家です。

トーマス・ハーディーは、近くの村、スティンスフォード(Stinsford)の教会の墓地に、最初の妻と一緒に埋葬されるのを望んでいたそうですが、有名作家であったばかりに、ウェストミンスター寺院の詩人コーナーに埋葬されるべきだという意見が出、妥協策として、彼の心臓だけが、スティンスフォードに、残りの遺体の灰をウェストミンスター寺院に、という妙な結果となった次第。たしか、チャールズ・ダーウィンなども、本当は、住んでいた場所の墓地に埋葬して欲しかったのに、あまりに名があったため、ウェストミンスター寺院行きとなった、という話ですし。故人の意思は尊重してあげれば良いのに、と思いますよ。ちなみに、スティンスフォードは、「緑樹の陰で」などでは、メルストック(Mellstock)という別名で登場する村です。

ほぼ閉館時間と共に、トーマス・ハーディーのコテージを出て、私たちの旅も終わりとなり、後は、家に向かう長いドライブのみ。

帰途に着くべく、近郊の村を通過中、今回の旅行で一番最後に取った写真は、これ。橋の真ん中になにやら書かれた札が取り付けてあるのです。読むと、

この橋を故意に破壊する者は、重罪を犯したとみなされ、有罪判決後、(オーストラリアへ)生涯追放される可能性があることをこころすべし・・・

の様な内容。

家に帰ってから、この札の下に記入されている、「7&8 GEO 4」という表記を調べてみると、どうやら、ジョージ4世時代の1827年に出された、「Malicious Injuries to Property Act」(悪意による建築物破壊法令)という法令の一部に基づくもののようです。不満を持つ労働者や小作人が、暴動を起こし、橋などの公共物を破壊するのを防ぐためでしょうか。いずれにしても、トーマス・ハーディーの生まれる前の法令ですので、彼にもお馴染みの表示板であったはずです。

実際には、オーストラリアという言葉は、掲示の中には出てきませんが、この時代「transport for life」(生涯追放、流罪)と言えば、間違いなく、オーストラリアでしょう。現在だったら、「え、オーストラリアへ連れて行ってもらえるの?じゃ、橋壊そう!」なんて、わざと破壊行為に走る人物もいそうな気がしますが、当時は、かなり過酷な状態のオーストラリア。流された罪人の中では、死亡率も高かったようなので、恐怖の島送りであったのです。

それにしても、一ヶ月前に行った旅行の一連の話を、やっと、これで書き終わりました。この行為自体が、長い(時にいささか大変な)旅行だったような・・・。旅行の楽しみ、というか旨みは、3つあるなどと言いますから。まずは、出発前の企画の楽しみ。旅行自体の楽しみ。そして、戻ってから、あそこはあーだった、こーだったと思い出し、頭で整理、そして、あの場所で目にしたあれは、一体なんだったのか・・・などと、上の橋の表示の様に、後から調べたりもし。色々な物事を収穫できた、実りの秋の、実りの旅でありましたが、ここで終止符を打って、これから、またブログで、別の事が書ける・・・という、ちょっと、開放され、ほっとした気分もあります。

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