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ルイジアナ買収

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前回の、映画「 レヴェナント 蘇えりし者 」に関する記事の中で、アメリカ合衆国による1803年の「ルイジアナ買収」(Louisiana Purchase)の話に少々触れたので、今回は、これについてまとめてみることにします。 ミシシッピ川西部に広がるアメリカ中部の広大な土地は、1682年に、フランスの探検家ロベール=ガブリエル・ド・ラ・サールにより、フランスの領土として、当時のフランス国王ルイ14世の名にちなんで、ルイジアナと命名。もっとも、領土と宣言したはいいが、多くのインディアン部族の徘徊する、ワイルドで、あまり役に立たない土地と見られ、ぽつぽつとフランス軍の砦が点在するのみのまま時が経ちます。 そんな使い勝手の悪い土地であったせいもあってか、フランスのルイ15世は、イギリスとフランスが、カナダの領土をかけて戦った、フレンチ・インディアン戦争(1755-1763年)の際に、味方であったスペインのカルロス3世に、贈り物として、ルイジアナ領土をあげてしまっています。スペインはその後、銀鉱のあるスペインのメキシコ領土をイギリスの野心から守るため、ルイジアナを、一種のクッションのような緩衝地帯として、ほぼ野生のまま保持するのみで、やはり積極的な土地の使用は行わず。 イギリスから独立後、人口が増えていくアメリカ合衆国では、東海岸の州を離れ、アパラチア山脈を越えて、ミッシッピ川東岸のケンタッキー、テネシーなどのフロンティアの土地へと移住していく人間も増えていきます。1780年代の初めには、そうしたミシシッピ東岸のフロンティア農家の生産物が、大量に、東海岸の州へと出荷されており、ミシシッピ川は、そうした物資を運ぶために重要な役割を果たすのです。貨物を陸路で運ぶより、ミシシッピ川から支流に入り東部の州に運ぶほうがずっと楽ですから。そして、また、ミシシッピ川の南部河口の町ニューオーリンズも、フロンティアの住民達にとっては、大切な貿易港。よって、合衆国には、誰がニューオーリンズを支配しているのかは、非常に気になるところであったわけです。合衆国の人口の西への移動に多少の脅威を覚え始めたスペインは、一時的に、ニューオーリンズへ出るミシシッピ下流への通行拒否などを行ったりもし。まだ、包括したひとつの国という観念の弱かった合衆国のフロンティア住民の中には、自分達の繁栄のために...

ミッション

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ブラジルのサッカー・ワールド・カップにちなんで、もう一度見てみたくなった映画のひとつが、これ、「ミッション」。昔、映画館で見て、どどーっと流れるイグアスの滝と、ジェレミー・アイアンズのうるうるとしたつぶらな瞳が印象に残っています。そして、あの気分高揚するエンニオ・モリコーネの音楽。 スペインは、バスク人のイグナチオ・デ・ロヨラを中心としたメンバーにより、1530年代に創設されたキリスト教団体イエズス会。教育に重きを置き、世界各地でのキリスト教布教活動で知られ、日本では、フランシスコ・ザビエルでおなじみ。海外での布教では、イエズス会は、その地の民族の文化言語を尊重し、イエズス会宣教師たちは、布教先の言語取得にも余念がなかったようです。 先住民族へのキリスト教布教と西洋文化伝授を目的とした、イエズス会の南米での活動は、すでに16世紀半ばから始まり、各地に、イエズス会伝授所・ミッション(albeias)が設立され、改宗した原住民達の労働により、非常に効率の良いサトウキビ、マテ茶などを生産するプランテーションも経営。ところが、自らの農場で原住民を奴隷として使用したいという思惑のある南米の移住者達にとっては、、イエズス会は、面白くない存在であり、イエズス会が、南米に根を下ろしてまもなく、すでに、南米移住者達とイエズス会の間での衝突が始まるのです。この映画「ミッション」は、そんな、南米各地であった、植民地移住者達とイエズス会とのいさかいの中、18世紀に起こった最悪の衝突をもとにして、「 我が命つきるとも (全ての季節の男)」などを書いたロバート・ボルトがストーリーと脚本を担当したドラマ。 ドラマの背景史実を書くと・・・ 現パラグアイ、アルゼンチン、ブラジルの境界線にあたる土地に、スペインからのイエズス会により設立された伝道所がいくつかありました。原住民のグアラニー族は、比較的温和で、多くがすすんで、キリスト教に改宗。それに目を付けるのは、サンパウロなどからの奴隷商人たち。すでにイエズス会農場で働き、西洋的習慣にも慣れたグアラニー族は、奴隷としては非常に魅力的。映画の物語の設定となる時代以前から、すでに奴隷狩りは、この周辺のミッションをターゲットとして行われていたため、イエズス会は、伝道所の場所を、南西へと幾度か移動させていたものの、奴隷商人たちは、めげる...

奴隷貿易大国ブラジルの歴史

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ブラジルでのサッカー・ワールド・カップも真っ只中。このワールド・カップにちなんで、いくつか、テレビ、ラジオで、ブラジル関係の番組が流れていましたが、特に、ブラジルの歴史は、学校の世界史でもやった記憶がなく、初耳であった事などもありました。イギリスもかなりの関わりを持つその歴史、忘れてしまう前に、ちょっとブログでまとめておく事にします。 他の南米の国々がスペイン語を喋るのに、南米大陸の3分の2を占める一番大きいブラジルのみがポルトガル語を喋る、という事実の原因は、新世界発見の気風も強い1494年に、当時の強国スペインとポルトガル間に結ばれ、ローマ教皇もお墨付きの、トルデンリャス条約。この条約で、西経46度37分(アフリカの西海岸沖の島カーボベルデから西へ370リーグのところを走る子午線)を利用し、ここから西に新しく発見された土地はスペイン領、東の新地はポルトガル領と、なんとも勝手に2国間で決定。ブラジル北東部は、この分割法で行くとポルトガル領に入るのです。 1500年4月22日、ポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルは、インドへ行く途中に、航路を誤ったため、ブラジルに行き当たり、さっそく、「ここはポルトガルのもの」と宣言。船乗りを幾人か後に残し、本人は、そのまま、当初の目的であったインドへむかったのですが。1501年、および、1503,4年に再び、この地での資源発見のため、ポルトガルより、更なる探索団が送られます。が、商業的価値を持つもので見つかったのは、金でも銀でも、スパイスでもなく、パウ・ブラジル(赤い木)と呼ばれた木、ブラジルボクのみ。このブラジルボクは、染料として使用できたため、ブラジルボク輸出のため、海岸線に、いくつかの拠点が作られることとなります。後の30年間、ポルトガルの主なる海外活動の焦点はインドと東洋であったため、この新しい領土はそのまま、ブラジルボク輸出の港として、ひそやかに存在し、ポルトガルからやってきたのは、新天地での再出発を求める職の無い人間や、罪人など。やがて、彼らは、現地民の言葉を覚え、半現地化して、母国ポルトガルとは、あまり関係の無いような生活を送ったようです。 ところが、そのうち、フランスが、この染料となるブラジルボクに目を付け、ブラジル海岸沖に出没するようになり、現地人との直接の取引、挙句の果てには、輸出港...

アモーレス・ペロス

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愛の痛み、喪失の痛みを、メキシコシティーを舞台とした3つのストーリーを追って描いていく映画。最初はギャングスター映画まがいのカーチェイスで始まり、やがて起こる交通事故で3つのストーリーが遭遇しますが。 *一筋目:オクタビオとスザナ 乱暴者の兄の若い妻スザナに恋してしまった弟オクタビオ(ガエル・ガルシア・ベルネル)。オクタビオは金をためて、スザナと彼女の子供を連れてどこかへ夜逃げしようと計画をたて、愛犬を使い闘犬で金儲けを始める。恋と欲望に無我夢中で、ついには、冒頭のカーチェイスの末、交通事故に巻き込まれる。 *二筋目は:ダニエルとバレリア オクタビオのひき起した交通事故に巻き込まれ、重症を負ったモデルのバレリア。ファッション雑誌出版者の愛人ダニエルが、やっと妻と別れ、二人は一緒に暮らし始めた矢先。もうモデルとしての復帰の見込みもなくなり、落ち込むバレリアと、仕事と彼女の看護に疲れるダニエルの関係は緊張し、罵り合いに展開する。バレリアの心の安らぎだった愛犬も、床にあいていた穴に落ちてしまい、這い上がってこられず、床下に何日も閉じこもったまま。 *三筋目:エル・チボとマル 平凡な教師であったが、ある日、より良い社会を作ろうという情熱に駆られ、ゲリラ活動を始めるため、妻と2歳の娘を置いて出て行った男、エル・チボ。20年間の刑務所送りになり、出てきてからは、リヤカーを押してのゴミ拾いと、殺し屋として生計をたてる。再婚した妻には背を向けられ、それでも娘、マルが愛しく忘れられない。浮浪者のような生活の中、何匹もの飼い犬に愛情をそそぐ。たまたま、交通事故に居合わせ、傷を負っていたのオクタビオの愛犬を助け出し、手当てをするのだが、闘犬で鍛えたこの犬、良くなるや、エル・チボの他の犬を全部かみ殺してしまい・・・。死んでしまった犬達の前で子供の様に泣きじゃくるエル・チボ。オクタビオの犬を撃ち殺そうと拳銃を向けるものの、殺せずに、犬の頭を殴って、「こんな事してはだめだろう!」と叫ぶのみ。 3人の主要人物は全て犬を飼っていて、その犬の状況が、主人公たちの心と生活の状況を反映しています。 最後の、エル・チボの話が一番好きです。彼の傷ついた聖人のようないでたちと顔つきも良いのです。エル・チボは、やがて、もじゃもじゃ髭をそり、髪を短く切り、住んでいたボロ屋を...

サンタ・サングレ

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映画にサーカスのシーンが出てくると聞くと、見たくなってしまうタイプです。鮮やかな色と非日常性に惹かれるのでしょうか。サーカス団が常に場所を移動するということからくる、何とは無い寂しさなどもあるかもしれません。 この映画、「サンタ・サングレ、聖なる血」は、究極の非日常でした。通っていた英語学校のクラスメートのスペイン人の女の子と一緒に、確かノッティング・ヒルの映画館まで見に行った懐かしい映画でもあります。見ている最中、大笑いしたり、ぎょえっと叫んだり、はっと息を呑んだり、喜怒哀楽が手に取るようにわかった彼女の素直な反応も、「面白かったねー」と言いながら、2人で映画館から出た事も、良く覚えています。 舞台はメキシコ。ナイフ投げの父の経営するサーカスで育った、主人公のフェニックス。とある町で興行中、浮気した父に食って掛かった母の両腕を、父はナイフで切り落とす!(ぎょえ!)その後、父は、のどを切り自殺。(どひゃ!)これを目撃してしまったフェニックスは、精神に異常をきたす。(そりゃそうでしょう・・・。) 精神病院で大人になったフェニックスを、ある日、腕の無い母が迎えに来る。その日からフェニックスは、二人羽織よろしく、母の腕代わりとなって生活を始める。 すっかりフェニックスの心をコントロールする母は、フェニックスに近づく女性を全て「殺せ」と命じ、フェニックスは次々と殺人を犯す。ヒッチコックのサイコも真っ青の殺人シーン。加えて、このお母さんの狂ったような目つきと笑い声が、不気味。 サーカス時代、フェニックスが恋していた、おしでつんぼの少女、アルマは、そんなフェニックスを探し出し、救おうとする。「ずっと待っていたんだ。」とアルマを抱きしめるフェニックスに、母は、「殺せ」と叫ぶ・・・。 シュールな物語と、展開の意外性、血が沢山出てくるにもかかわらず、詩的な映像で、忘れられない映画となりました。アレハンドロ・ホドロフスキー監督のびっくりするような想像力に拍手。フェニックス役は監督の息子だそうです。 母の手となって舞台でパフォーマンスをするシーンのUチューブのクリップは、 こちら まで。 原題:Santa Sangre 監督:Alejandro Jodorowsky 製作:1989年 言語:英語

セントラル・ステーション

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リオデジャネイロの中央駅・・・人生へのあきらめからか、シニカルでドライなハイミス、ドーラ。元教師の彼女、駅の構内にテーブルを出して、読み書きの出来ない人々のために、手紙を書いてあげる代筆業者として生計をたてていますが、「郵便で出しておく」と約束した手紙でさえ、帰宅後破って捨ててしまうような、モラルなどくそ食らえの、ちょっと荒んだ心の持ち主。髪はぼろぼろ、顔はしわが刻み込まれた、このドーラ役の女優さん(フェルナンダ・モンテネグロ)のかもしだす生活感はとても現実味あります。文盲の人など、まだまだ沢山いるのですね、ちょっと驚きでしたが。貧しければ、学問どころか、小さいうちから日々の糧を稼ぎ出す事が第一ですか、確かに。 そんなドーラの元へ、ある女性が息子(ジョズエ)を連れてやってきて、「一度も父に会った事がない息子が頼むので、飲んだくれで、しばらく会っていない夫に手紙を書く」とドーラに代筆を頼む。数日後に、「前の手紙は、少し口調がきつすぎたので書き直して欲しい」と再びやってくる母と息子。その帰りに、駅の前で、この母親は車にはねられ死亡。ドーラは、母の他に、リオに身寄りの無いジョズエを預かることに。 最初は、ジョズエを、新しいテレビを買うために、人買いに売ってしまう(!)などという行動を取るドーラですが、後悔して、ジョズエを人買いから無理やり取り戻し、共に、ジョズエのの父親を探しに旅に出る。そして、舞台はセントラル・ステーションの雑踏から、広々としたブラジルの田舎へと移っていきます。アフリカのサバンナにも似たような風景の中の珍道中で、二人の間に友情が生まれ、ドーラ自身も、やさしい気持ちを取り戻していく。自分だけを頼りにして無我夢中で生きてきても、他人との暖かい絆は、人間、やはり必要なのです。 2人が、別々の人生へと別れて行くラストシーンは・・・かなり泣かせてくれます。 この映画、英語の字幕つきでしたら、Uチューブで見れます。パート1は、 こちら まで。 ニューヨークやロンドンを「人種のるつぼ」などと呼んだりしますが、リオデジャネイロなどのブラジルの大都市は、両親やご先祖様の人種が混ざり合っているという意味で、人種が一番ミックスしているのだ、という話を聞いたことがあります。この映画の出だしで、ドーラに手紙を書いてもらいに入れ代わり立ち代り現れる人々は、確かに、お肌の色や、顔の感...

まいにちスペイン語

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今年の初めから、スペイン語を勉強しています。 英語は喋れるものの、その他のヨーロッパ言語は、幾度かにわたる試みもむなしく、ほとんどものになっていません。こちらの英会話学校で勉強していた頃は、クラスにイタリア人が多かった事と、イタリアへ旅行する機会が多かったので、イタリア語を少し勉強しました。かなり前の話です。イタリア旅行へ行った際、レストランでの注文や、簡単な道を聞くなどはできるけれど、それ以上進歩ないまま、現在にいたっています。フランス語も、パリに行くとき便利だから、とちらっと独学してみたものの、発音が大変で、こちらもそのまま、一切進歩なし。 スペイン語は、スペインが好き、というより、世界言語として、スペイン語が喋られている国が多い事、後は最近、南米の歴史に興味を持ち始めた理由で、勉強しています。イタリア語と同様、日本人には、発音が比較的らくなのも利点。何とかして、今度こそは、もうひとつ語学を習得したいものだと、多少、むきになっています。 文法的には、未来形、現在進行形、過去完了、過去、命令形などなどを、すでに学んで、頭ではわかっているつもり・・・。でも、実際に、ネイティブスピーカーが普通のスピードで喋るのを聞く、ネイティブスピーカーと会話する、となると、まだ箸にも棒にもかからない状態。 先日、ベネズエラ出身の女性と喋る機会があって、スペイン語だけで喋ってみようとしたのですが、大変でした。現在形だけを使った簡単な事ですら、口から出てこない。脳みそはマヒ状態で、しどろもどろ。彼女は非常に辛抱強く相手をしてくれましたが、後で、「なんだ、全然喋れないや」と、それはがっくりしました。 語学とはそういうものです。読む事よりも、実際に話すのが、とても難しい。ひとつのフレーズが、考えずにポンと会話の中で使えるようになるには、同じフレーズをかなりの回数、聞いたり、口に出して言ってみる必要があるのです。基本を何度も繰り返す「しつこさ」が決め手。 日本にいたころ、英語はNHKのラジオ英会話に大変お世話になった事は、以前の記事、 「ラジオ・ガ・ガ」 で書きました。NHKスペイン語のラジオ講座がインターネットに載せられていないか探したところ、ありました!NHK語学口座「まいにちスペイン語」(El español de cada día)。番組構成も、私が日本で...

子供の目で見る闘争

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チリの映画・・・なんてあまり聞きません。私も見たのは、2004年公開の、マチュカ(Machuca)が始めて。監督のアンドレス・ウッドによると、チリでは、アウグスト・ピノチェト(こちらでは、ピノシェと発音しています)による軍事独裁政権の間、映画は20年近く制作されていなかったそうなのです。 日本では、「マチュカ~僕らと革命」の邦題でDVDが販売されているようですが、お奨めです。特に、少しでも20世紀の南米の歴史に興味があれば。 映画は、1973年、チリのサンティアゴを舞台に、1970年の選挙で大統領になった社会主義のサルバドール・アジェンテ政権が、新しく軍の司令官に任命されたピノチェト率いる軍のクーデターで倒される前の、社会の緊張感が描かれています。一種の政治映画でありながら、話が2人の少年の視線で描かれていくので、とても入りやすいのです。 裕福な家庭の息子、11歳のゴンザロ・インファンテは、サンティアゴの、私立学校へ通う。社会主義派のアジェンデ政権の設立と、学校長マッケンロー牧師の方針で、今まで支払い能力のある金持ちの子供のみを受け入れていた、この学校に、近郊のスラム街からの子供達も通わせる事になり、ゴンザロのクラスにも、数人の貧しい子供が新しく入ってくる。その中の一人が、ペドロ・マチュカ。2人は次第に仲良しに。お互いの住む場所を訪ねあい、そのまったく異なった環境が明らかになっていく。ゴンザロは、やはりスラム街に住、おませ娘、シルヴァナとも知り合い、彼女に淡い恋心も抱くようになる。 一方、学校の富裕層の親達の中からは、この貧しい子供を入れる方針を「共産主義的」と攻撃する声が出てくる。また、アジェンデ政権の社会改革を支持する左派と、体制維持の右派とで、社会一般はまっぷたつ。内戦の恐れも漂い。巷では、双方の陣営がデモを繰り返す日々。浮気と、高価なお洋服購入に余念のない、いささか退廃的なゴンザロの母も、右派のデモに参加するまでになるのです。 ゴンザロがペドロの家(掘っ立て小屋)を訪れた際、飲んだくれのペドロのお父さんは、ペドロがゴンザロを「友達」と称するのを聞いて、あざ笑い、「こいつは、やがて、金持ち父ちゃんの事業をひきつぐだろうが、お前は、いつまでたったて、トイレ掃除の仕事でもしているのがおちだ。数年たったら、お前の名前だって覚えちゃいないだろう。友達だって!けっ!」 ...

frivolousなガーデン小物達

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こういう風に、バードケージ(鳥かご)に植物の鉢を収めて、外壁に吊り下げたり、庭に置いたりするのが、ここしばらく、お洒落だと人気のようです。ロマン派ガーデン小物を置く店でも、よく売っているのを目にするのです。 先日、お茶に立ち寄ったティールームでも、多角経営というやつでしょうか、レンガ塀で囲まれた裏のガーデンで、鉢植えの植物や庭用小物を売っていました。紅茶とケーキで一服した後、それでは、とガーデンへ繰り出して、所狭しと並べてある、鉢、植物、プランター類、庭の置物、そしてもちろん、バードケージを眺めて回りました。 こういうのを見ていると、私の心の奥深くに眠っていた、レースのリボンをつけた浪漫を愛する乙女心がむくむくむくと膨れていき、思わず、バードケージを欲しくなってしまうのです。・・・だんなに言うと、「こんなのすぐ錆びて、崩壊するよ。長持ちさせるには、しょっちゅう、ペンキ塗っちゃー、乾かし、塗っちゃー、乾かししないと。」良質で長持ちするものが好きながっちり堅実おじさんです。そして、「こんなfrivolousな物を欲しがるなんて、ぶつぶつ。」 frivolousは、「軽薄な、浅はかな」と、要は、見かけばかりで中身の無い物事を形容する言葉です。まあ、言われてみればそうなんですけどね。お値段も結構なものありますし。 でも、こうして一挙に目の前に並べられると、frivolousな物達の見かけの愛らしさにひかれ、手が出そうになるのです。写真だけでも取って帰りましょうかと、ぱちり、ぱちり。 家に帰って、自分の庭を見て、「あのバードケージは置き場もなし、買わずに正解」とは思ったのですが・・・ 上の写真に取った、自分の翼の上に横たわって眠る天使(キューピット?)の像をまじまじ眺め、この子が、夏の花壇のフューシャ(フクシア)の花影で、蜂の羽音がけだるい空気を揺らす中、眠っている姿を思い浮かべて・・・「ああ、これは買えば良かったか。」こんなのは、多少かけても、コケが生えてきても味が出る一生物ですし。 ***** 話は全く飛びますが、キューバからのニュースで、チェ・ゲバラの友人で、映画 「モーターサイクル・ダイアリーズ」 にも出ていた、アルベルト・グラナード氏が、ハバナで亡くなったそうです。何で、このニュースが頭に浮かんだのか・・・眠る天使を見て連想したのかな。88歳。frivolousとは...

チョコレートを溶かす水のように

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メキシコも含めたラテンアメリカの数カ国で飲むホットチョコレートは、水を沸騰させ、その中に、ミルクチョコレートのかたまりを落として溶かすのだそうです。 "como agua para chocolate"「チョコレートを溶かす水のように」という表現は、ここから来ていて、情熱や官能の高まった気分、また、胸の中でふつふつと燃え上がる怒りをを現すのだとか。ふーむ。色気より食い気派なので、こんな話を聞いても、「おいしそーね。」という気が先立ちますが。私は、時にミルクを沸かして、ダークチョコレートを落として飲んだりします。 さて、直訳では、「チョコレートを溶かす水のように」というタイトルのこの映画は、メキシコの女流作家ラウラ・エスキヴェル(監督の以前の奥さんだそうです)の同名の小説が原作です。南米独特のマジカル・リアリズムあふれる不思議な世界。私もそうですが、ガブリエル・ガルシア・マルケスの小説などが好きな人には楽しい映画だと思います。日本語のタイトルは、「赤い薔薇ソースの伝説」、英語タイトルは、もう少し原作に忠実な「Like Water for Chocolate」。 時代は20世紀初頭、メキシコ革命の頃。アメリカとの国境も程近いメキシコにて。主人公のティタは料理が好き。美青年ペドロと愛し合っているけれども、母が、末娘のティタは親の面倒を見るべきだ、と結婚を許さず、ペドロは、仕方なく、姉と結婚する事に。結婚後も、ティタをずっと思い続けるのですが。 家の事を支配する母親の下で、思うように行かぬ人生の中、ティタの胸に湧き上がる行き場の無い情熱と怒りと悲しみのはけ口は、料理。ティタの調理したものを食べた者達は、料理のときにティタが抱いていたのと同じ感情を経験します。数々の不思議な出来事も楽しく、美しいお料理は目の保養。 面白かったのですが、ただひとつ、個人的な文句は、ペドロ役の役者さんの顔が濃すぎて、好みでなかったために、ティタの彼への情熱が理解できなかった事。それに、お姉さんと結婚した後、ちゃんとやる事はやって、子供も作っちゃってる彼の信念の無さも、なんとなく魅力ないし。私だったら、やさしくしてくれたお医者様と結婚するな・・・と思いましたが。 それにしても、飲食物と愛の関係は深いのですねと再確認。「ママ・ミーアの作った美味しい料理を...

モーターサイクル・ダイアリーズ

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若かりしエルネスト・チェ・ゲバラが、生涯の友、アルベルト・グラナードと共に、故郷アルゼンチンを出発し、南米を旅した際の日記の映画化。ポンコツのオートバイは途中で壊れてしまいますから、後半は題名に偽りあり・・・ですが。 映画では、ゲバラが、社会主義に目覚めていく過程が強く描かれていますが、原作を読んだ限りにおいては、冒険と人生を楽しんでいる、まだ、悩みなき青春の日記という感が強かったです。映画は、原作に少し手は加えてあり、多少劇的にしてあるものの、主旨がよくわかり、心に響く、いい映画になっていると思います。 ゲバラもグラナードも、正義感、平等の意識が強い人間だったようですが、私が以前読んだゲバラの伝記によると、2人の違いは、グラナードは敵に銃を向けたとき、相手の家族などの顔を想像してしまい引き金が引けないタイプ、ゲバラは個人の悲劇や感情を超え、理想のためなら、引き金をためらいなく引くタイプということ。だんなか友達にするには、グラナードの方がいいかもしれない。 真の革命は、市民を武装させなければ到達し得ない、理想だけの平和主義では、平等な社会を作る前に、暴力を使う事を怯まない体制側にやられてしまう、というのがゲバラの考えだったようです。実際、若い頃、グラナードに、平和的反政府デモに参加しないかと誘われ、「そんな事してどうする。警察の奴らに思いっきり殴られておしまいだ。」という感想をもらしたというエピソードも、同じ伝記で読んだ覚えがあります。これは、独裁者または、体制側が、どれだけ、国際意見を無視して、冷酷に振舞えるかにもよるでしょうが。 2人は、チリのチュキカマタ銅山(Chuquicamata)を訪れ、そこでの鉱夫たちの扱いに怒りを感じる・・・時は経ち、今では、南米では比較的良くやっている感のあるチリ、時折ストライキの話は聞くものの、その鉱夫達の待遇もかなり改善されている様子で、給与も国内の他の産業従事者に比べ悪くはない、という話ですが。最近の救出劇で人気者になった鉱夫たちも記憶に新しいところです。 また、一生働いてきたものの、病気になり、家族の厄介者となってしまった老婆の看護を頼まれた際、貧民への無料の医療提供の大切さを痛感するくだりは、原作のほうでもかなり印象に残っています。 雄大な風景はとても美しく、彼らが少年時代に「本でしか知らなかっ...

パタゴニアの風を感じる映画2作

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「Historias Minimas」(ほんのささやかな物語)という映画があります。アルゼンチン南部のパタゴニア。草木も無い、だだっ広い風景の中、3人の登場人物がそれぞれの理由で、サン・フリアンという町へと向かう過程を描く、3つのささいな物語。第3者からしてみれば、何と言う事はない、ある日のスケッチですが、それぞれの登場人物には、記憶に残る出来事。調べた限りにおいては、日本で公開されていないようで、邦題はわかりません。 さて、この3人のうちの1人は、視力も悪くなり、息子夫婦に後を継がせた雑貨店の前にじっと座っている老人。3年前にどこかへ行ってしまった愛犬を、知り合いからサン・フリアンで見たと知らされ、反対する息子に隠れて、夜中に家を出、サン・フリアンにむかって広大な景色の中を歩いて行く。この愛犬の名は、なんと「変な顔」。 もう1人は、トラベリング・セールスマン。サン・フリアンに住む未亡人に恋して、彼女の子供の誕生日のために、ケーキ屋でケーキを特注し、それを持って行き、彼女を驚かそうという寸法。最初はサッカーポールの形をしていたこのケーキを、今ひとつ、気にいらず、次々と手が入り、姿がどんどん変わっていく過程が楽しいです。 最後の1人は、小さな赤ん坊を連れた若いママ。ちょっとした景品をもらえる、テレビのゲームショーに出演するため、サン・フリアンへと。 たてつづけに喋るセールスマンのロベルト役以外は、ほとんどが素人だそうで、その何とないぎこちなさが、妙に映画に現実感を与えてます。(ケーキ屋の役は本当のケーキ職人だとか。) 窓辺に座って、道行く人を眺めながら、この人はどこへ行くのだろうな、などと考えるのが好きなような人には、楽しい映画です。 南米、それに、パタゴニアなど、おそらく一生行くことが無いような場所と、そこでの生活風景を見れるのも、英米ヨーロッパ圏外の、ワールドシネマの醍醐味でしょうか。南緯40から50度あたりは、陸地が少なく、ほとんどが海洋なため、風が強いなどといわれますが、映画の背景で、確かに、かすかな風の音も聞こえてきます。音といえば、それくらいしかないような場所でもあるのでしょうが。郷愁誘うような音楽もいけます。 Uチューブで見るこの映画の広告ビデオは、 こちら 。 原題:Historias Minimas 監督:Car...

宝島

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 エジンバラ出身の作家、ロバート・ルイス・スティーブンソン(Robert Louis Stevenson)の1883年出版の小説、宝島(Treasure Island)と言えば、海賊冒険物の古典。改めて読んでみて、やはり面白いのです。 おうむを肩に乗せた片足のキャプテン・シルバーは、後の海賊のイメージの雛形。(ちなみに、この本では、海賊をpirateより頻繁に、buccaneerと称しています。)主人公であり、語り手のジム・ホーキンスが、勇敢な少年だというのも、アドベンチャー物として男の子達の夢と冒険心を掻き立てるのに一役買って。 18世紀のイギリス海岸沿いで、アドミラル・ベンボーなるイン(飲食店兼旅館)を営んでいた両親を助けるジム・ホーキンス。ある日、このインに、怪しげな船乗りビリー・ボーンズが現れ、宿を借り、そのままいっこうに出て行こうとせず、いついてしまう。毎日の様に、ラム酒を飲んで酔っ払っては、海岸線をそぞろ歩き。何者かに見つかるのをを恐れている様子で、ジムに、「片足が無い船乗り風の男」を見たら教えるよう言いつける。ビリーの所持品は、宿の部屋に担ぎ込んだ小箱のみ。 酔っ払っては、ビリーが歌うのは、 Fifteen men on the dead man's chest Yo ho ho, and a bottle of rum! 15人の野郎が死人の箱の上 それきたどっこい、ラム一瓶 小説の後半でも、何度か、海賊達に歌われるこの歌の歌詞、主人が子供の頃は、知り合いの男の子は皆、知っていたなんて言っています。そして、片足でぴょんぴょん跳ねて、キャプテン・シルバーのまねをしたり。 海の男の飲み物、 ラム酒 やそれを水で薄めたグロッグも、小説内、それは何度も出てきます。 さて、このビリー・ボーンズを探して、2人の怪しげな人物がインを訪れた後、ビリーは、ラム酒の飲みすぎで死亡。ジムと母親が、ビリーの小箱を開けると、中には、海賊達の宝の眠る島の地図があった。この宝は、過去最も恐れられていた悪名高き海賊、キャプテン・フリントが埋めたもので、フリントの死後、船上にいたビリーが、地図を手に入れていた。この地図をジムは、知り合いのリブシー医師と、地主のトレローニに見せ、3人は、宝を求めて、このカリブの島...

ラム酒と船乗り

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ラム酒(rum)・・・サトウキビから作られるこのリカーは、1655年に、イギリスがスペインよりジャマイカを獲得して以来、イギリス海軍とは切っても切れない仲となり、船員達には、大切な飲み物となります。 昔の船乗りは、船内で、一日、最低でも半パイント(注:1パイント=568ml)の薄めていないラム酒を供給されていたそうですが、アルコールが強すぎて、酔っ払いが出たせいでしょうか、1740年、エドワード・ヴァーノン提督によって、水を2、ラムを1の割合で薄めたもの(Grog)を代わりに配給するようになったという事です。このイギリス海軍の伝統が終わったのは1970年と、わりと近年。 HMSベルファスト 内にも、配給用のラム酒を入れていた樽が展示されていました。 さて、トラファルガーの海戦にて船内で死亡したネルソン提督。その死体は、陸に戻るまで保存するため、ラム酒の入った樽に入れられたそうです。ある逸話によると、ネルソン漬けの、彼の血の混じったラム酒を飲むと、勇敢になれるのでは、と船員達が樽の下に穴を開け、その液体をくすねて飲んだ、という話があります。面白い話ですが、やはり真偽のほどはわからないようです。 我家は、それほどアルコール好きの家ではないので、キャビネットに一応2本入っているラム酒のボトル、なかなか使い切らず、残っています。前回大量に使ったのは、 クリスマス・プディング を作った際に、ブランデーの代用にして、ドライフルーツをラム漬けにした際でしたか・・・。 1本は、ニカラグアの知り合いからのお土産でもらったもの。裏ラベルには、「7年間、オークの樽で寝かせた一級品。できれば、割らずにストレートで飲むか、オンザロックで、水割りか、ソーダウォーターで割るのが良し」、なんて書かれてます。ドライフルーツ漬けるのに使ったら申し訳ないところでしょうか。 もう1本は、その辺のスーパーで売っているLamb's Navy Rum(ラムのネイビー・ラム:日本人には、ちょっと手ごわい発音の商品名です)。こちらのボトルの裏ラベルには、「アルフレッド・ラムが、テムズ川沿いに倉庫を設けたのは、1849年の事。当時は、まだ、貴重なこのリカーをロンドンへ運ぶため、ウィンドジャマー(windjammer、貨物を運ぶ大型帆船)が、海賊船を振り切って海を渡...

ロビンソン・クルーソー

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ダニエル・デフォー(Daniel Defoe)の小説「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)」の名が、最近読んだ2冊の本( The Kit-Cat Club と 月長石 )に出てきました。 ロビンソン・クルーソーと言えば、「無人島」くらいは知っていたものの、考えてみたら、実際に読んだことは一度も無かったので、図書館から借りて、さくさくっと読んでみました。 読んで意外だったのが、クルーソーが無人島に到着する前のいきさつ。ざっと書くと・・・ ***** まず、クルーソーは、アフリカへ渡り、モロッコで、ムーア人に捕まり、白人奴隷として2年間仕える。その後逃げ出し、ポルトガル船の船長に助けられる。このポルトガル船は、ブラジルへ渡る途中だったので、クルーソーはそのまま、ブラジルへ。 ブラジルで土地を手に入れた彼は、タバコのプランテーションを経営し、数年で裕福になる。プランテーションを拡大すると人手がいる、ここは黒人の奴隷でも欲しいところ、でも・・・ 小説の設定の時代では、中南米での黒人奴隷の売買は、スペインとポルトガル王国に支配されていた為、一般プランテーション経営者が個人的に黒人奴隷を購入しようにも、その数は少なく、金額が高かった。そこで、数人のプランテーション経営者が集まり資金を出し合い、直接アフリカに赴き、奴隷を連れて帰り、自分達の間でその奴隷を分けようと計画。クルーソーは、アフリカにいた経験から、その航海に随行するよう頼まれる。そして、この船が、オリノコ川沖で難破し、一人だけ助かったクルーソーが無人島に流される・・・。 書かれたのが1718年で、物語の設定は17世紀半ばですから、奴隷の売買や使用など、まだタブー視する向きも無く、罪悪感なども全く無かった時代ではあるのでしょう。 クルーソーは、スペインの、中南米原住民に対する取り扱いのむごさを非難していますが、イギリスも、後、黒人奴隷に対して酷いことをするわけなので、あまり、えらそうな事を言えた身分では無いのです。 また、両親の言うことを聞かず、船乗りになり外へ飛び出したクルーソーが、無人島で、徐々に、教会や聖職者という媒体を通さず、自ら神の愛に目覚めていくという、宗教色も結構あります。 デフォー 自身が、イギリス国教会に必ずしも賛同しない非国教徒のプロテスタ...

ジャマイカの走者達

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ベルリンで行われていた世界陸上競技選手権大会が、本日で終了しました。 今大会の思い出は、やはり、ジャマイカのウサイン・ボルト、ボルト、そしてまたボルト。100メートル、200メートル共、超人的なタイムで世界記録を更新。(それから、お茶目な当大会のマスコット、熊のベルリーノ君。) ボルトを含むジャマイカ勢のパワーで、ジャマイカという国のプロファイルがぐっと上がったようです。こんな小国が、メダル・テーブルがアメリカに次いで2位というのは快挙。 ロンドン・オリンピック で、本物ジャマイカ走者達にお目にかかりたいけれど、短距離陸上競技のチケット入手は難しい事でしょう。 ジャマイカの公用語は英語。旧大英帝国の一部で、コモンウェルス(The Commonwealth:イギリス連邦)に属します。 1494年に、ジャマイカに上陸したのは、クリストファー・コロンブス。初めはスペインの支配下に入ります。 スペインは、当初は、島の先住民を奴隷として使用していたものの、先住民は、スペインからの侵略者達が持ち込んだ、新しい病気と厳しい労働により、大多数が死滅。そこでスペインが目をつけるのが、アフリカの黒人達。16世紀前半から、プランテーションで、西アフリカから連れてきた 黒人奴隷の使用 が始まります。 1655年、オリバー・クロムウェル下の英国は、スペインからジャマイカを略奪。英国下でも、サトウキビのプランテーションで、黒人奴隷使用は続きます。1807年に、ようやく、奴隷貿易の廃止、1833年に英国領内での 奴隷制の廃止 。 ジャマイカのイギリスからの完全独立は、1962年。まだ、50年も経っていないわけです。 ジャマイカだけにとどまらず、カリブの他の国々や、アメリカなどでも黒人選手の活躍が目に付く陸上競技。 アフリカから、特に頑強そうな人員が奴隷として売買され、その後、大西洋を渡る間、ぎゅうぎゅう詰めの船の中で息をひきとった者も多数。まず、その難関を生き残り、更には過酷な労働の日々を生き残った人達の末裔が沢山いる国々です。その肉体的に優れた遺伝子を受け継いで、陸上で活躍する人物が多いのは、確かに、うなづけます。 陸上競技を離れると、ジャマイカ・・・と言えばレゲエのボブ・マーリー。いまだ、貧困は蔓延、殺人なども非常に多いこの...

奴隷制を廃止せよ

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(前回の記事 「白い金、黒い奴隷」 に続きます) 強欲の皮を突っ張らせ、黒人を物同様に扱い金儲けをする人間がいる中、良心と良識に従って、社会悪に物申す人間もいるものです。 18世期イギリスで、奴隷制廃止主義者(アボリショニスト)達は、奴隷制で儲けた社会の有力者を相手に戦いを挑んだわけですから、かなりの精神の強さと信念が要った事でしょう。 彼らは、市民レベルでの理解を深めるため、実際に奴隷たちがプランテーションでどのような扱いを受けているかの説明を始めます。何気なく飲み物に落とす砂糖がどういう環境で作られたか、考えたことも無かった人も多数いたでしょうから。 また、黒人が、自分たち白人より劣ると言うのは間違いであるとして、実際に英国に住む洗練された黒人達を生き証人に、世論を、奴隷制反対へと傾けていきます。 茶器の製造でお馴染みのウェッジウッド。創始者のジョサイア・ウェッジウッド(Josiah Wedgwood)は、コーヒー、紅茶、更には砂糖の人気上昇のおかげで、商売繁盛したのですから、奴隷制にもしっかりお世話になっていたわけです。 奴隷貿易廃止の気風が高まる中、ジョサイア・ウェッジウッドは、積極的に廃止運動に参加。「我は、同じ人間であり兄弟ではないのか」とのうたい文句を掲げた奴隷制廃止キャンペーン用のメダリオンを自費製造し配布します。モチーフはひざまずいた黒人奴隷のカメオ。廃止支持者はこのメダリオンを帽子につけたり、ブローチ、ネックレスとして身に着けたり、または嗅ぎタバコの箱につけたりなどしたようです。(ちなみに、ジョサイア・ウェッジウッドは、チャールズ・ダーウィンの祖父でもあります。) こうして、反奴隷を唄うことが、段々ファッショナブルになっていき、砂糖のボイコット・キャンペーンなども起こります。 ただ、奴隷制廃止を支持する人物の中にも、ユダヤ人、アイルランド人など別な人種への蔑みを隠さぬ人もいたというので、少々、偽善的な部分があったことも否めないようではあります。また、イデオロギーはともかく、風向きが変わって来て、皆と逆方向に立っていたくないと、奴隷反対派に便乗する人もいた事でしょう。 奴隷制廃止のヒーローの座を占めるのは、やはりウィリアム・ウィルバーフォース(William Wilberforce)。 裕福...

白い金と黒い奴隷

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織物を初めとした、製造加工品や武器を積んだ船がイギリスの港を出、西アフリカに辿り着く。アフリカの港で、これら製品と交換に船に詰め込むのは、現地の奴隷商人から得た黒人奴隷達。奴隷を乗せ、船は荒れる大西洋を渡り、新大陸と西インド諸島へ。ここで、奴隷と交換に、砂糖、ラム、たばこ、綿等を得て、船はイギリスへと戻る。・・・これが、大西洋三角貿易です。 イギリスが、アフリカの黒人奴隷に目をつけるのは、エリザベス朝に遡ります。1562年、船乗ジャック・ホーキンスは、黒人奴隷が、スペイン植民地で、金になる物品として扱われているのに着目。そこで、彼は、西アフリカへ出向き、300人の奴隷を船に乗せ、大西洋を渡る。そして、カリブ海スペイン植民地で、その奴隷達と交換に、皮、砂糖、真珠等を入手し持ち帰ったのが始まり。 1600年代初頭、新しい砂糖の栽培方法が、英領西インド諸島のバルバドスに導入、砂糖プランテーシン設立。英国の主な奴隷市場先となります。 1665年にオリバー・クロムウェルがスペインからジャマイカを頂戴。 そして、スペイン王位継承戦争の後のウトレヒト条約(1713年)の結果、スペインから、植民地での奴隷販売の権利を得る事になり、がばがば儲かる大西洋三角貿易はいよいよ波に乗り。 英国内でのコーヒー、紅茶の需要拡大につれ、人気が高まる「白い金」と呼ばれた砂糖、及び、英国織物業の原料となる綿や麻のプランテーションでの生産と輸入において、奴隷は、重要な労働力であり、無くてはならない物品。 特にイギリス大西洋側の港町、ブリストル、リバプールなどは、こうした奴隷貿易で巨額を築き上げます。築かれた富は、産業革命に向けての新しい技術や事業に投資されていますので、イギリスの富は奴隷貿易の上で築かれたとも言えるのでしょうか。 西アフリカで船に乗せられた奴隷は、ぎゅう詰め状態で、ろくに飲食物も与えられず、目的地に着く前に、船内で死んだ者も多数。 そして、悪名高きゾング号の事件。 1781年に奴隷を積んでアフリカを出発しジャマイカへ向かったゾング号。船中、奴隷達の中で病気が発生し、他の船員に移る事を恐れた船長が、133人の奴隷を、手かせ足かせをつけたまま、海に投げ捨てます。もちろん、全員死亡。一説では、船中での飲料水が不足したので、奴隷を海へ捨てたという話もあ...