奴隷貿易大国ブラジルの歴史

ブラジルでのサッカー・ワールド・カップも真っ只中。このワールド・カップにちなんで、いくつか、テレビ、ラジオで、ブラジル関係の番組が流れていましたが、特に、ブラジルの歴史は、学校の世界史でもやった記憶がなく、初耳であった事などもありました。イギリスもかなりの関わりを持つその歴史、忘れてしまう前に、ちょっとブログでまとめておく事にします。

他の南米の国々がスペイン語を喋るのに、南米大陸の3分の2を占める一番大きいブラジルのみがポルトガル語を喋る、という事実の原因は、新世界発見の気風も強い1494年に、当時の強国スペインとポルトガル間に結ばれ、ローマ教皇もお墨付きの、トルデンリャス条約。この条約で、西経46度37分(アフリカの西海岸沖の島カーボベルデから西へ370リーグのところを走る子午線)を利用し、ここから西に新しく発見された土地はスペイン領、東の新地はポルトガル領と、なんとも勝手に2国間で決定。ブラジル北東部は、この分割法で行くとポルトガル領に入るのです。

1500年4月22日、ポルトガルの探検家ペドロ・アルヴァレス・カブラルは、インドへ行く途中に、航路を誤ったため、ブラジルに行き当たり、さっそく、「ここはポルトガルのもの」と宣言。船乗りを幾人か後に残し、本人は、そのまま、当初の目的であったインドへむかったのですが。1501年、および、1503,4年に再び、この地での資源発見のため、ポルトガルより、更なる探索団が送られます。が、商業的価値を持つもので見つかったのは、金でも銀でも、スパイスでもなく、パウ・ブラジル(赤い木)と呼ばれた木、ブラジルボクのみ。このブラジルボクは、染料として使用できたため、ブラジルボク輸出のため、海岸線に、いくつかの拠点が作られることとなります。後の30年間、ポルトガルの主なる海外活動の焦点はインドと東洋であったため、この新しい領土はそのまま、ブラジルボク輸出の港として、ひそやかに存在し、ポルトガルからやってきたのは、新天地での再出発を求める職の無い人間や、罪人など。やがて、彼らは、現地民の言葉を覚え、半現地化して、母国ポルトガルとは、あまり関係の無いような生活を送ったようです。

ところが、そのうち、フランスが、この染料となるブラジルボクに目を付け、ブラジル海岸沖に出没するようになり、現地人との直接の取引、挙句の果てには、輸出港の設置まで行いかねない事態となっていく。「このままでは、フランスにしてやられる」と、ポルトガルは、1530年から、海岸線の町の防備を強めていき、今までの、野放し体制を改めていくようになります。

やがて、ブラジル北東部で始まるのが、ブラジルボクの輸出よりも有益な、大農園におけるサトウキビの栽培。サトウキビ産業が始まった当初、ポルトガル移民の農場主たちは、原住民達に農場での労働を強いるのですが、ブラジル海岸線の原住民の数は、ヨーロッパ人が持ち込んだ新しい病気、天然痘、結核などの影響で激減。また一部原住民は、奴隷狩りを逃れ、ブラジル内陸部へと移動も行ったため、農場主たちは、もっと確実な奴隷の入手先が欲しかった。そして、アフリカからブラジルへ、大勢の黒人奴隷輸入が開始となるのです。アフリカの黒人は、ヨーロッパ人の病気への抵抗力もあり、南米の原住民よりも、野外での肉体労働にもむいていたという事実もあったようです。1580年代には、スペインのカリブ海植民地でも、原住民奴隷が枯渇してしまったため、スペインもアフリカからの黒人奴隷輸入に積極的となり、アフリカから、中南米への奴隷貿易に拍車がかかります。

ブラジルでの奴隷貿易は、北米もびっくりの規模だったようで、この影響のため、ブラジルは、現在でも、アフリカの国々以外で、一番アフリカ出身の黒人の数が多い国なのだそうです。北米での奴隷制度に比べ、さほど人々の記憶に強くないのは、ブラジルが英語圏ではなかったからではないか、などと言われています。

1763年まで首都であったサルヴァドール(リオより北、ワールドカップの開催地のひとつでもあります)も、こうして運ばれてきた黒人奴隷貿易で栄えるのです。ちなみに、現代でもサルヴァドールの人口の80%は黒人だそうです。そうえいば、ダニエル・デフォー著の「ロビンソン・クルーソー」も、無人島に流される前は、ブラジルに土地を入手し、一時タバコのプランテーションに携わっていましたっけ。そして、もともと、船が難破したのも、アフリカへ奴隷を買いに行く途中での事でした。当然、こんな事は、子供版として短くされているロビンソン・クルーソーには記述は一切ないと思いますが。

1600年より、サンパウロ周辺から、バンディランテス(直訳は旗を持つものたち)と称される者たちにより、海岸線のみでなく、実際はスペイン領土に属する、内陸部への進出も始まります。これは、富裕な土地、鉱物発見の他に、原住民を奴隷として農場主に売るため、うっそうとしたジャングルの内陸へと、奴隷狩りを行う目的もあったようです。

砂糖生産は、長年、ブラジルにとって大切な産業となるのですが、カリブ海諸島からの競争などもあり、徐々にその売値は下降をたどるのみ。そして、17世紀末に、バンディランティス達の探索のかいもあり、ブラジル南部に発見されるのが、金。特に、サンパオロ北部のミナスジェライス地方のものが有名です。この発見が、弱りかけていたブラジル経済の再生に大いに役立ちます。これにより、北東部の古いサトウキビ農場地域よりも、南部の重要性が増したため、1763年には、上記にも触れたとおり、首都がサルヴァドールから、金産業のある内陸部へとの連結がもっと便利な、リオデジャネイロへと移るのです。(ついでながら、1960年より、ブラジルの首都は、リオから、新計画都市であるブラジリアへと移行しています。)

ただし、金産業もサトウキビプランテーションと同様、奴隷の労働力に頼る事は同じ。パニング皿を使用しての、川に沈殿する砂金の振り分け採取は、時間を要する重労働で、サトウキビ畑もひどいものだったのでしょうが、金採取に使用された奴隷の平均寿命なども、かなり短かったそうです。砂糖、金の他にも、徐々に、カカオ、木綿、そして後、重要となるコーヒーなどの生産も増えていきます。

さて、このブラジルに、ポルトガル宮廷が移動してくるのが1808年。おりしも、ヨーロッパは、ナポレオンが大暴れ。ナポレオンの軍隊は、スペインを横切り、ポルトガルへと近づきつつあった・・・ポルトガル王室ピンチ!「ナポレオンが来るぞー!」のパニックの中、ポルトガル王室と上流社会は、一斉に船に飛び乗り、海を渡り、ブラジルは、リオデジャネイロにたどり着くのです。この際に、宿敵フランスとスペインに対し、ポルトガルとの古くからの友好を保っていたイギリスは、ポルトガル上流社会を乗せたこれらの船が安全に目的地につけるようにエスコート。見返りに、ブラジルでの、自由貿易を許されるのです。

ポルトガルとイギリスは比較的古くから関係が友好であったと言えば、また、ロビンソン・クルーソーの話となりますが、彼が災難にあった時、助けられたのも、ポルトガル船の船長でした。そして、チャールズ2世の妃、キャサリン・オブ・ブラガンザはポルトガル王室出身。がばがばビールを飲むイギリスよりも、もっと洗練されたポルトガルからやって来た彼女は、イギリスの上流社会に「紅茶」なる飲み物を紹介した人物とされています。また、フランスのワインを飲む奴は裏切り者で、愛国者はポルトガルのポート・ワインを飲むべし、という一般の見解もあったようですが、実際、皆、陰でフランスのワインも飲んでたようですね。

話を戻し、ナポレオンを逃れ、ブラジルに来たポルトガルの王室の主要メンバーといえば、気の狂った女王様マリアと、摂政である息子のドン・ジョアン(のちのジョアン6世)。その他、大人数のポルトガルの上流社会の人間たち、総計約1万から1万5千人が、人口の3分の1は奴隷と言う、真夏のお日様かんかんのリオデジャネイロにたどり着いたのです。そのミスマッチぶりとカルチャーショックは、かなりのものだったでしょう。それでも、1816年に気違い女王様が死に、王様となったジジョアン6世は、1820年に、自由主義革命が起こったポルトガルから「戻ってきて」のお声がかかるまで、ブラジルに滞在するのですから、慣れてしまえば住めば都か。リオに滞在中、ヨーロッパ文化技術をブラジルに持ち込む事に貢献したジョアン6世は、息子のドン・ペドロをブラジルの摂政として残し、管理をまかせ、ヨーロッパへと戻り、ポルトガルは、立憲王国となります

この直後、再び、ブラジルをポルトガルの植民地として確立させようという、ポルトガル政府の動きに対し、摂政ドン・ペドロは、1822年に、ブラジルの有力農園所有者達と、奴隷制を続ける事を条件に協力し、ポルトガルからの独立運動を開始。ドン・ペドロが、英雄的に、馬上で剣を振り上げ、「独立か、死か!」と叫んだという、「イピランカの叫び」を描いた絵(一番上に載せたもの)がありますが、なんでも、聞いたラジオ番組によると、この時、ドン・ペドロが乗っていたのは馬でなくて、ロバ。さらにドン・ペドロは、下痢気味で最悪のコンディションであり、絵のイメージとはかなりかけ離れた現状であったようです。まあ、大切な建国の瞬間のイメージでありますから、ロバに乗った下痢のリーダーを描くわけにはいかない。

こうして、ドン・ペドロはペドロ1世として、ブラジルを、無事、ポルトガルからの独立させ、1825年にはポルトガルからも独立を承認されるに至ります。この独立の承認にも、イギリスが、今度は、ブラジルと直接、有利な貿易提携を結ぶ事、そして、ブラジルが奴隷の売買をやめる事を条件に、ブラジル帝国の独立を支持するのです。よって、リオデジャネイロには、イギリス人墓地もあり、イギリスの織物工場なども存在したそうで、労働力として多くのイギリス人も移り住みます。サッカーも、もともとは、イギリス人達にによって、ブラジルに持ち込まれたというのに、いまや、導入国イギリスよりもずっと強くなってしまった。

奴隷制を続けるという、農園の主達とペドロ1世との了解のため、奴隷貿易もその使用も、独立後もずっと続きます。ついには1840年代後半に、イギリスが戦闘船をブラジル沖へ送り込み、奴隷貿易廃止を強いるにいたり、。これで奴隷の売買は一応終焉を見たものの、奴隷の使用はそのまま続き、最終的に、奴隷制が廃止になるのは、アメリカ合衆国よりもさらに遅れた1888年。そして、奴隷使用廃止直後の1889年、ブラジルは、帝政に背を向け共和国となるのです。

奴隷によって賄われてきた労働力の代用として、この後、ぞくぞくとイタリア初め、ヨーロッパからの移民がブラジルへとやってきます。彼らは、サトウキビに代わって、重要産業となったサンパウロ周辺のコーヒー農場等で職を得るものの、重労働に耐えられず、都会へと移り住む者も多くおり。そういえば、ブラジルが共和制となった直後の1891年出版の、トマス・ハーディー著の「ダーバヴィル家のテス」内で、テスの愛するエンジェル・クレアも、新地で人生を再開しようと、ブラジルで農業を営むため、一時海を渡るのでした。最終的に、エンジェルは、あまりにもひどいコンディションで、病気になりイギリスへ戻るのですが。やがて、ヨーロッパからの移民のみならず、日本からも移民者が流れ込むわけです。多種多様の肌の色、苗字を持つ、現在の人種のるつぼブラジルの道へと、ひらけーごま!ただし、奴隷制の名残として、現在ブラジル社会でも、肌の色が白いほど、社会的地位も、財力も上であることが多いというのは、一般的に言えるようです。

共和制となったブラジルの近代史は・・・また、いつか、まとめてみることにします。

(英米の奴隷制に関しては、以前の記事を参照ください。奴隷制はこちら。奴隷制廃止運動はこちらまで。)

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