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8月, 2017の投稿を表示しています

アイ

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アイの城跡からの眺め アイ(Eye)というサフォーク州の小さな町に行ってきました。このアイと言う名は、目玉のアイではなく、島を意味する言葉からきたそうで、初めてここに集落ができた時は、周辺を水で囲まれており、その後もしばらくは湿地で、大水の後などは島状になっていたようです。今は、そんな形跡などは一切ありません。 ここにたどり着くには、まずロンドンのリバプールストリート駅から、ノーフォーク州の州都 ノリッチ へ行く電車に乗り、(Diss)という駅で下車。ロンドンからは、ディスまで約1時間半。ディスからは、タクシーかバスとなります。私たちは、当然、けちってバス。駅の近くのバス停からは10分足らずで到着。 まずは、周辺の地と、素晴らしいという評判のセント・ピーター・アンド・セント・ポール教会の塔を見下ろせる、城跡のある小山の上に登りました。 アイにあった最初の城は、ノルマン人征服のすぐ後に建てられます。ヘンリー2世の時代の1173年、王の長男が父親に対して反旗を翻した際、当時の フラムリンガム城 の城主であった、ノーフォーク伯、ヒュー・ビゴッド(Hugh Bigod)も反乱側に加わり、アイにあった城を攻撃。やがて反乱は収められ、フラムリンガム城は、ヒュー・ビゴッドから取り上げられ、破壊されるのですが、彼の息子の時代に再び、フラムリンガムの土地はビゴッド家に返され、フラムリンガム城は再築。現在も、その立派な外壁が丘の上に堂々と残っている次第。 一方、アイにあった城は、その後、そのまま、すたれていきます。城内の牢獄には、ブラディー・メアリーこと、カソリックのメアリー1世の時代に、プロテスタント信者たちが、何人か、処刑の憂き目にあう前に投獄されていたそうで、牢獄としては、17世紀まで使用され続けたということ。19世紀前半に、ウォータールーの戦い(ワーテルローの戦い)に参戦した、アイの住人、エドワード・ケリソン(Edward Kerrison)将軍は、この小山の上の城跡に、ウォータールーの戦いで、自分にお供をした従僕のために、隠居用の家を建ててあげたという話で、リビングルームやキッチンの壁などが、崩れかけながらも、今も残っています。慈善家であったという彼は他にも、アイに貧民の子供のための学校なども建設。 さて、城跡から降り、教会へ。教会の墓

ダイアナの死20周年

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1997年8月31日のダイアナ妃、プリンセス・オブ・ウェールズの死から、もう20年も経ちましたか、早いものです。同年の春には、若かりしトニー・ブレアが、労働党を大勝利に収め首相となったばかりで、国のムードは、希望に満ちて、明るいものがありました。彼女もトニー・ブレアに、自分の公人としての価値を見出してくれる人が登場した、と世界をまたにかけた、チャリティー活動などのキャンペーンに更なる力を入れだした矢先だった気がします。 ダイアナの死に関連するドキュメンタリーなどもいくつかテレビでかかっていました。20年も経つと、さすがに、心の整理も済んでいるのか、かつては、母が死んだときの事は聞かないで欲しいなどと言っていた王子たちも、当時の気持ちを語っていました。15歳の少年だった息子のウィリアム王子は、葬儀の際に、公の目の前で、母親の棺の後をついて歩くのが、義務とは言え、やはり、苦痛であったようで、うつむきながら、そのころはまだあった前髪の下に、顔と表情を隠す気持ちで歩いた、などとインタヴューで言っていました。その彼も、今は、2児のパパで、若禿のため、隠れられる前髪も無くなっているわけです。やはり、インタヴューで、母を死に追いやったパパラッチたちが、車が衝突した後も、ケガをして車内にいる瀕死の母を助けようともせず、写真を撮り続けた・・・というのが、今も一部のメディアに対する不信感につながっているようです。それはそうでしょう。 以前、 ケンジントン宮殿観光の記事 で書いたように、私は当時、彼女が住んでいたケンジントン宮殿近郊のノッティングヒルに住んでいたため、彼女の死後、何度かケンジントン・ガーデンズを歩くごとに、山と積まれた花束の数が増えていき、その香りがむせるようだったのを今でもよく覚えています。私は、ウィリアム王子とは違って、髪の毛はまだ沢山ありますが、当時の自分の生活を思い返すと、状況の変化も大きく、思えば遠くへ来たもんだと感じます・・・。 数年前に、2000年生まれの姪っ子がイギリスに遊びに来た際、 セント・ポール寺院 の前を通った時、「チャールズとダイアナが結婚した場所だよ。」と教えると、「ダイアナって誰?」と言われ、世代のギャップに衝撃を受けたのです。自分が、大変な過去の人になった気がしました。姪には、ちゃんと、ユーチューブであとから、ダイアナの結婚

ビーリー・アビー・ガーデンズにて

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エセックス州ブラックウォーター川河口の町 マルドン (Maldon)近郊にある、ビーリー・アビー・ガーデンズ(Beeleigh Abbey Gardens)を訪れました。  アビーという名でわかるよう、ヘンリー8世が、イギリス国教会を打ち立て、 修道院解散 を行った以前は、修道院であったのが、その後、周辺の土地は個人の手に渡り、居住用の館などが建てられ、今は、修道院時代の名残は館に組み入れられた一部を除いては、ほとんど残っていません。現在の館の持ち主は、2009年から敷地の庭園を夏季の間の数日のみ、一般公開しています。 2012年の訪問、藤棚の下で 私は、過去、2012年の 藤の花 が咲く季節に一度訪れたことがあったのですが、今回は、ちょっと違う花が見れるかな、と晩夏の先週再訪しました。現入場料は、大人6ポンド。 入場の時にもらったパンフレットにのっていたざっとしたビーリー・アビーの歴史は、 1180年に、厳格な、Premonstratensian派の修道院として設立。敷地の北側を流れるチェルマー川(River Chelmer)のそばから泉が湧くため、この地が選ばれたようです。水は大切ですから。ビーリーで生まれ、後にロンドン司教となり、マグナ・カルタの署名にも立ち会ったロジャー・ニガー(Roger Niger)という人物は、後に聖人となり、彼の心臓が、当修道院の祭壇に埋葬されたため、1241年から、それを目当てに巡礼者も多く訪れたのだそうです。修道院解散後の、この土地の初めての所有者は、9日間の女王 ジェーン・グレー を支持したことから、1553年に打ち首の刑。修道院解散の破壊の後に、わずかに残った部分は、17世紀に建設された個人の館の一部として組み入れられたそうです。庭園の大本の基本は、この当時からさほど変わっていないということ。 現館の所有者は、2009年に庭園の一般公開を始めてから、少しずつ、色々な要素を加えていっているようで、2012年に私が来たときは、無かったものもいくつか目に入りました。 この噴水も去年設置したものだそうです。 イギリスはガーデニング王国ですので、庭園訪問が好きな人はどっちゃりいます。私たちが到着したのは比較的遅い時間だったのですが、この日も、かなり賑わっていました。 敷地内の

デべナム

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サフォーク州のデべナム(Debenham)という村を訪れました。 イギリス人にデべナムというと、ほとんど皆、老舗デパートのデべナムズ(Debenhams)を思い浮かべると思います。デべナムズの創立者の一人は、ウィリアム・デべナム(William Debenham)という人で、彼の名前が会社の名となったわけですが、この人は、サフォーク州の別の村の出身のようです。でも、デべナムという名は、苗字としては非常に稀な名で、他に聞いたことがありませんから、おそらく彼のご先祖様は、このデべナム村の出身ではないでしょうか。村自体の名前は、村の西側を水源とするデベン川(River Deben)からきています。デベン川は、デべナムの村を流れ、やがては、いまだに起動している潮力水車のある ウッドブリッジ を通り、北海へ流れ出ます。 さて、ここへ行くのには、私と友人は、サフォーク州の州都 イプスウィッチ からバスに乗って行きました。イプスウィッチからデべナムへは、同じ会社によって運行されている、少しだけルートを異にする2つの違う番号のバスが通るのですが、時間的に、行と帰りで、この違う2本のバスを使う事になりました。往復でチケットを買うと少しだけ安くなるので、行に、バスの運ちゃんに、「デべナムまで往復で買ったら、帰りは別の番号のバスで戻ってもいいの?同じ会社でしょ?」と聞くと、運ちゃん「いいような気がするけどね、ぼくは。運転手なんて、そんなチケットじろじろ見ないし。」「え、はっきりわからないの?」「うーん、へへへ、僕はいいと思うんだけどね。ま、君たち次第だよ。」「・・・。(心の中では、あんたねーーー!と叫んでいました。)」よく言えば、おおらか、悪く言えば、かなりいい加減な返事に、「ここはイギリスじゃ!」と改めて思ったのです。帰りのバスの運ちゃんが厳格な人で、とがめられ、別料金を請求されても嫌なので、片道ずつ買うことにして乗り込みました。チケットには、たしかに、乗ったバスの番号も印刷されているので、それで正解だった気がします。 バスを降りて、まずデベン川が、ちょろり、ちょろちょろ流れだしている辺りを見に行きました。村のはずれから西へむかう小さな田舎道は、デベン川が水源から流れてくる川底にもなっていて、私たちが訪れた時は、川というより、水たまりがあちこちにたまっている

ポルステッドと赤納屋殺人事件

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ポルステッドの池 前回の記事 で、サフォーク州ネイランドからストーク・バイ・ネイランドまでのハイキングの話を書きましたが、その翌週、今度は、ストーク・バイ・ネイランドから出発し、そこから北にある村、ポルステッド(Polstead)へと出向きました。このポルステッドという村は、バスも通っていないので、ストーク・バイ・ネイランドにバスで到着後、歩いてポルステッドまで行き、見学した後、再びまたストーク・バイ・ネイランドへ戻る必要がありました。ポルステッドとは、「池のある場所」を意味したそうで、村には、その名の通り、大きな池があります。 イギリスの片田舎の村々は、スリーピー(sleepy)という形容詞がぴったりのところが沢山あります。スリーピーは、「眠い」という形容詞ですが、そこから更に、何も起こらないような、平和な、静かな・・・という意味にも使用されます。ポルステッドも、外見は、本当に典型的スリーピー・ヴィレッジなのですが、19世紀前半に、「Red Barn Murder、赤納屋殺人事件」という殺人事件の起こった場所として、一躍有名となり、新聞などでも大幅に取り上げられた話題の殺人のあった村を一目見ようと、多くの物見高い人たちが訪れ、事件当時は、スリーピーどころの騒ぎではなかったようです。赤納屋殺人事件を知る人もかなり少なくなった現在では、再び、ポルステッドは平和な面持ちを取り戻しています。うちのだんなも、「レッド・バーン・マーダーのあったポルステッドにお出かけしてくるね。」と私が言っても、「なにレッド・バーン・マーダーって?」「ほら、前に見た推理小説と過去の殺人事件の歴史のドキュメンタリーでやってたでしょ?覚えてないの?」「そうだっけ・・・。」 とりあえずは、イギリス社会史にも残る、この悪名高き、レッド・バーン・マーダーとは・・・ ポルステッドの小さなコテージに、モグラ取りの父と、継母と、共に住んでいたマライア・マーティン(Maria Marten)は、未婚でありながら、26歳までに、二児を設け(二人とも別の男が父親だという話も)、関係を持った紳士から維持費を受け取っていた。やがて、マライアは、また別の男、コーダー・ハウスと呼ばれる大きな館に、未亡人の母親と妹と住む、ウィリアム・コーダー(William Corder)と関係を持ち、身ごもってしまう。