投稿

ラベル(その他ヨーロッパ)が付いた投稿を表示しています

自転車泥棒

イメージ
 ここしばらく、ヨーロッパ映画を見ていないな、とふと思い、見たのが、これ、1948年公開、ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」。現代の若い人たちも、まだこういう映画を見ているのかは、知りませんが、未だに、傑作映画の呼び声高い、戦後間もないローマを舞台にした、切ない話です。このくらいの時代の映画は、イギリス映画もそうですが、まだ戦争の傷跡残る都会の風景が印象的。 あらすじは、いたって簡単。職を探す人々の波が職安にたむろしている場面から始まります。ここで、ついに、待ち望んだ仕事を得たアントニオ。ただし、移動しながら、街中にポスターを張る仕事であるため、自転車を持っていることが条件。そこで、妻は、ベッドに敷いてあったシーツなどを引っぺがし、それを質に入れて、その分で、以前、質に入れてあった自転車を取り戻す。シーツは無くなったけど、妻と小さな息子ブルーノも大喜び。翌朝は、張り切って仕事に出たはいいが、仕事半ばで、壁に立てかけてあった自転車が盗まれてしまう。映画の残り部分は、この自転車を見つけ出すため、アントニオとブルーノが、あちこちを奔走することになります。そして、最後に、絶望したアントニオが、自分自身、自転車を盗もうとしてしまう。 自転車が盗まれた直後、アントニオは、警察に届け出るのですが、記録を取った後は、見つかったらまた届けろ、と言うだけで、何をしてくれる様子もない。「探してくれないのか」の問いには、たくさんある自転車から、お前のを探せるわけがない、自分のなんだから、どんなのかは自分で知ってるだろう、もう、リポートすんだから、帰れ、のようなことを言われる。こんなやり取り、笑いながら見てました、今でも、基本的に同じだから。 財布やら貴重品をイギリスやらヨーロッパで盗まれても、警察に届けるだけ時間の無駄。今年の夏、お隣さんはオックスフォードまで車で出かけ、どこかの公共の駐車場に止めた際、彼のホンダ車の下から、三元触媒コンバーターがもぎとられ、盗まれてしまったという事件に会っています。なんでも、日本車のコンバーターは性能が良く、被害にあいやすいとか。こんなのも、埒もあかないと、警察に届けたりしなかったようです。警察も資金不足、人手不足の昨今ですから。数年前に、空き巣に入られた友人は、おじいさんの第一次世界大戦のメダルを盗まれたそうで、これはさすがに警察に届け出。...

赤いギンガムチェック

イメージ
上の絵は、フランスの画家、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard、1867-1947)による「Coffee」で、ロンドンのテート美術館蔵。ボナールの絵の中で、一番好きなもののひとつです。ボナールは、何気ない日常生活の一瞬を描写した、幸せな気分になれる絵を沢山描いているので、もともと好きな画家です。去年、テート・モダン美術館でボナール展があったので見に行きましたが、見終わった後も、満ち足りた気分で美術館内のカフェでコーヒーをすすりました。 絵に登場する女性モデルのほとんどは、彼の長年のパートナー、後に妻となるマルト(Marthe)。彼女は、病弱で、少々精神も病んでいたようで、療養も兼ね、お風呂に入ることがとても多かったそうで、彼女が湯船に横たわる姿や、バスルームにいる絵は比較的多いですが、私は、そうしたお風呂ものより、やはり、食卓や、開く窓、庭を描いた絵の方がいいですね。 この絵は、1915年と、第一次世界大戦の最中に描かれているのですが、戦争勃発時、47歳であったボナールは戦争には行かず(行こうと思えば行ける年ではあったようですが)、戦時中も、絵を描き続けたラッキーな人。西部戦線で繰り広げられる惨状などは、別世界で起こっているような雰囲気。コロナウィルスによるイギリスのロックダウンで、外の世界で起こっている感染を気にしながらも、 ダイニングルーム から庭を眺めて、何の変りもない日常に存在しているという幻想に陥る、今の私たちの生活みたいなものでしょうか。絵は、おそらく、パリの西郊外の借家で描かれたものではないかとされています。 ダイニングテーブルの片側のみを、変わったアングルから描いて、おまけにマルタの頭のてっぺんや、その隣の女性の顔がちょんぎれて見えないところなど、カメラのスナップショットのよう。そしてなんといっても、画面いっぱいに広がる赤いギンガムチェックのテーブルクロスが、心地いいのです。 ギンガムというのは、実際、どこで初めて製造され始めたのか、定かではないようです。ギンガム(gingham)という名も、マレー語の「離れた」を意味する言葉が由来という話もあれば、フランスのブリュターニュ地方にあるギャンガン(Guingamp)から来たという話もあり。いずれにせよ、いつのころからか、西洋世界のあちこちで、白と他の別の色をあしらった、...

ポンペイ

イメージ
積読じゃなくて完読! 対コロナウィルス作戦として、イギリスの ロックダウン が始まった頃に、退屈せぬよう、また、異世界へワープできるような本を、幾冊か注文してありました。 そのうち、英作家ロバート・ハリスの作品で、共和政ローマの終焉期と、その時代に生きた政治家キケロ(Cicero)を主人公とした、「キケロ3部作(Imperium、Lustrum、Dictator)」と、やはり同作家による、79年のヴェスヴィオス火山の大噴火を背景に描いた物語「ポンペイ」(Pompeii、邦題は「ポンペイの4日間」)を読み終わり、その影響で、現在、古代ローマ時代がマイ・ブームとなっています。積読で終わらず、完読できる面白い本と巡りあえてよかった。最近、とみに、「これはだめだ、自分に合わない」と思った本を、無理やり読み終える根性が無くなってきているので。 残念ながら、「キケロ3部作」の方は、日本語訳が出ていないようなので、ここで、詳しく書きませんが、長年、キケロに仕え、秘書として働き、右腕のように頼りにされていた彼の奴隷、 マルクス・トゥリウス・ティロ が、後年、キケロの伝記とその時代を綴ったという形式を取っています。ティロは、キケロの発言やスピーチなどを、すばやく記録するため、独自の速記法を発明し、&(アンド)、etc.(エトセトラ)などの現在も使われている記号や省略文字は、彼が考案したものだとあります。彼は、後に、キケロにより、奴隷の身分から解放されて自由人となり、キケロが殺害された後は、田舎でのんびりと100歳くらいまで生きたという話。実際、彼は、キケロの伝記を残したようですが、後世にそれは失われており、作者は、それがまだ残っていたら、こういう感じではなかったのか、という事を頭において書いた様です。 共和制ローマなどと言うと、皇帝が支配する帝国の時代よりも、良い世界ではなかったのか、と思うと、これを読む限りにおいては、そういうわけでもなく、政治家間での激しい権力争い、暴力沙汰がはびこる恐ろしい世界でもあり。普通に生きている分には、一般庶民にとって、無料のパンをもらいサーカスを楽しむ帝政ローマも、悪くなかったのかもしれません。教科書で学んだローマよりも、人の生活臭がするローマを想像しながら読めるのが、こういう歴小説のいいところです。シーザーの暗殺シーンなども、そ...

マルタとマリアの家のキリスト

イメージ
Kitchen Scene with Christ in the House of Martha and Mary 17世紀スペイン絵画の巨匠ディエゴ・ベラスケス(Diego Velazquez)が、なんと19歳の時に描いたという、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵「マルタとマリアの家のキリスト」。彼が、マドリッドで宮廷画家となる以前の、故郷セビリア時代の絵です。この人やはり、上手いですね、ばさばさ描いているのに、とにかく上手い。さすが、「画家中の画家」と呼ばれる人物です。 これは、それまでは、絵画と言えば、宗教画がメインであった、17世紀スペインで、描かれるようになっていたボデゴン(厨房画)と呼ばれる類の絵。ボデゴン(bodegon)は、厨房、居酒屋などの意味だと言いますが、日常的な食べ物、食器などをアレンジした静物画、またその中での一般庶民の生活ぶりを描写したもので、どっしりとした土臭い感じがいいです。 もっとも、ベラスケスの「マルタとマリアの家のキリスト」は、パッと見ると、厨房で働く女性を描いたボデゴンでありながら、題名からわかるよう、題材は、新約聖書のルカによる福音書、11章からきています。 イエスがある村を訪れ、マルタ(英語でマーサ)という女性の家に招かれた、家には妹のマリア(英語でメアリー)もおり、マリアはイエスの足元に座り、熱心にイエスの言葉を聞く、一方、マルタは給仕をするのに忙しく、イエスのところへ来ると、「主よ、妹が、私一人に給仕を任せているのが気になりませんか?妹に、私を手伝うよう言って下さい。」と頼む。この後はルカの福音書からの引用で 11-41 And Jesus answered and said unto her, Martha, Marth, thou art careful and troubled about many things; すると、イエスはそれに答え、「マーサよ、マーサよ、汝は、様々な事に心を使い、懸念している」 11-42 But one thing is needful: and Mary hath chosen that good part, which shall not be taken away from her. 「しかし、一つ欠けている事がある。そして、メアリーがその...

ヨーロッパの語源となったエウロパ

イメージ
この絵は、ヴェニスの巨匠ティツィアーノによる、米のボストンにあるイザベラ・スチュアート・ガードナー美術館蔵、「エウロパの誘拐」(The Rape of Europa)。エウロパ(日本語では、エウローペーとも)の誘拐をテーマにした絵画の中でも最も知られているものだと思います。白い牡牛にさらわれるエウロパが、「あーれー!助けてー!」と叫んでいる様子が、ダイナミックに描かれています。 こちらは、ロンドンのナショナル・ギャラリーにある17世紀前半に活躍したボローニャの画家、グイド・レーニによる「エウロパの誘拐」ですが、この絵のエウロパは、興奮も過ぎ去り、落ち着き払った様子を見せています。衣装も、ギリシャ・ローマというより、中世風。 さて、それでは、ギリシャ神話のエウロパ(エウローペー)の誘拐とは、どんな話かというと・・・ フェニキア王、アゲノール(Agenor)の娘であったエウロパ(Europa)。彼女が、海岸線を、女友達と、花を摘みながらそぞろ歩いていたところを、主神ゼウスの目に留まります。エウロパの美しさに一目ぼれしたゼウスは、白い牡牛に姿を変えて、乙女たちの前に姿を現す。大人しく、美しい、牡牛に、エウロパは近づき、やがて、その背中に這い上がる。これぞ、チャンスと、牡牛はいきなり、エウロパを背に乗せたまま走り出し、海にざぶんと入ると泳ぎ始める。きゃー!と大騒ぎする、他の乙女たちを海岸線に残して。やがて、ゼウスは、エウロパをクレタ島へと連れていき、エウロペはゼウスの愛人となり、ゼウスとの間に子供を作ることになります。幸い、ゼウスのやきもち妻、ヘラは、エウロパの存在には気が付かずに、エウロパは、ヘラの嫉妬に悩まされる事もなく。 2人の間に生まれた3人の息子は、ミノス、ラダマンテュス、サルペードーン(Minos, Rhadamanthus, Sarpedon)。特にミノスは、青銅器時代クレタ島に栄えた文明、ミノス文明の名のもとになっています。 エウロパをたいそう愛したゼウスは、彼女に3つの贈り物を与えます。ひとつは、彼女の護衛のための、タロス(talos)と呼ばれる青銅の人間。獲物は絶対に逃がさない狩猟犬ライラプス(Lilaps)。そして、目的を必ず射貫く投げやり。 エウロパは、やがてクレタ王アステリオス(Asterius)と結婚し、クレタ女王...

パリのアメリカ人画家メアリー・カサット

イメージ
先日、テレビで、マスターマインド(Mastermind)というクイズ番組のファイナル(決勝戦)をテレビで見ていました。このクイズ番組は、出場者がブラックチェアと称される、倒す前の歯医者の椅子の様な黒椅子に座り、専門クイズ、一般常識クイズと、2回にわたり、いくつかの質問に答え、2部門の合計点が一番上の人物が生き残るという勝ち抜き戦。前半の専門クイズは、出場者がテーマを自分で選ぶことができます。この専門テーマが、名前も聞いたことが無いような、マイナーな小説家の、ある作品であったり、テレビのドラマシリーズであったり、またこれもマイナーなロック・バンドであったりと、クイズにされても、全くわからないようなものが多いのです。よって、普段は、前半は飛ばして、後半の一般常識クイズの部分だけ、時に見たりしているのですが、この日は、たまたま決勝だったのもあり、最初の専門クイズ部分も見ました。そして、出場者の一人が選んだ専門テーマが、画家メアリー・カサット(Mary Cassatt)。 このメアリー・カサットに関するクイズの中で、出場者は、2,3間違った答えを出した他に、ひとつ、答えられずに、諦めて、パスをした質問がありました。それは、 「1890年、カサットは、エコール・デ・ボザールにおいて開催された、ある国の美術展覧会を見学し、影響を受け、翌年、10枚の版画を発表した。この展覧会は、どの国のものだったか。」 私は、メアリー・カサットの人生は詳しく知りませんでしたが、彼女の絵と、生きた時代は、大体頭にあったし、なんと言っても日本人ですから、答えが「日本」だとすぐわかりました。19世紀後半のフランスの美術界に一番大きな影響を与えた国と言えば、どう考えても、鎖国後、今まで知られていなかった独自の文化が西洋に流れ出し、ジャポニズムの波を巻き起こした日本でしょう。私は、それ以外の質問は、一切答えられませんでしたが、その一方で、逆に、この出場者が、あてずっぽうでも答えられそうな、この質問だけにパスを出したのも不思議でした。(ついでながら、トップが同点であったりすると、パスの数が少ない方が勝者となるので、まるっきり検討がつかなくても、何か言った方がいいのです。) ・・・と、前書きが長くなりましたが、これをきっかけに、パリで活躍し、当時のフランス画家と同様、日本の浮世絵にも影響を...

マダム・タッソーの人生

イメージ
マダム・タッソー(Madame Tussaud)というと、ロンドンの地下鉄ベイカー・ストリート駅のそばにあるマダム・タッソー蝋人形館(Madame Tussauds)で有名です。「高額の入場料を払って、有名人そっくり蝋人形を見たいかあ?見たかないよー。」と、実は、まだ一度も入ったことがないのです。大昔、ロンドンに来たばかりの時に、「ロンドン・ダンジョン」なる恐怖の蝋人形館のようなものに入り、ちょっと子供だまし的という印象を受けたのも、足が遠のいた理由のひとつ。以前、母親が遊びに来た時、見たいというので、彼女の分だけお金を払い、1時間ほど、一人で見て回ってもらって、自分は、ちょっとその間、用事をすませていた、という事もありました。彼女は、それなりに楽しかったようですが。 同じお金を払うなら、ロンドン塔やら、 ウェストミンスター・アベイ やら、歴史あるところに行った方がいい、という感覚もあったのですが、最近、マダム・タッソーという人物の略歴をちらりと読み、更には、彼女の人生に関するテレビ・ドキュメンタリーも見て、マダム・タッソーという女性も、彼女の蝋人形館も、それは面白い歴史を持っている事に、今更ながら気が付いた次第。 という事で、今回は、そんなマダム・タッソーの人生をまとめてみることにしました。 84歳のマダム・タッソー マダム・タッソー(マリー・タッソー、 Marie Tussaud)は、ストラスブールで生まれたフランス人。本人が、年を取ってから出版した自伝によると、父は軍人・・・と書いているのだそうですが、実は、彼女の父親は代々、死刑執行人の職業をひきついできた家系。なんでも、死刑執行人の父を持つと、息子は職業を引き継がねばならず、娘は、本来なら、やはり死刑執行人の家系の男性と結婚せねばならないというしきたりがあったのだそうです。そんなこんなで、それを恥と感じ、本当の父の職業を隠し、伝記でも、軍人の家系とうそをついたようです。 マリーの父は、彼女の生まれる直前に死亡。母は、マリーを連れ、スイスのベルンで医者をしていた義理の兄、フィリップ・カーティス(Philippe Curtius)の元へ、家政婦として身を寄せます。カーティスは、解剖学にも役立つ、人体の蝋人形制作などにも余念なく、やがて、ルイ16世や、マリー・アントワネットなど、時代の著名...

クリスティアーノ・ロナウドが刺青をしない理由

イメージ
ポルトガル、ユ―ロ2016年優勝おめでとう 昨夜の、UEFA欧州サッカー選手権(ユーロ2016)フランス対ポルトガルの決勝は、試合内容そのものより、人間ドラマとして面白かったですね。最初から、優勝経験がない、小国のポルトガルを応援していたので、満足いく結果でしたし。 前半25分で、膝を負傷し交代を余儀なくされ、悔しさに涙するポルトガルのキャプテン、クリスティアーノ・ロナウド(Cristiano Ronald)。両チーム合わせても、一番のスターですから、残り時間、彼のいない決勝は、今ひとつ、つまらないし、また、ロナウドに頼るところの強いボルトガル・・・気の毒に、これは、最初から有利と言われていたフランスの勝ちか・・・ちぇ! と思いきや、ポルトガル軍一致団結で、0ー0とフランスに得点を許さず抑え込み、延長時間へ突入。残り10分ほどで、エデルにより、ポルトガル念願のゴール。興奮したロナウドは、「あんたは、コーチかい?」の感じで、びっこひきひき、ピッチわきから激励とアドバイスを叫び、会場のポルトガル・ファンに、更なる歓声で盛り上げるように呼びかけ。試合の最後を告げる笛が響き、感涙にむせる・・・。すでに、ロナウドは、将来はポルトガルのマネージャーになるのではないかなどと話も出ています。 試合後、BBCのコメンテーターのひとり(たしか、リオ・ファーディナンドだったと思います)は、ピッチわきから指令を飛ばすロナウドの姿を見ながら、「ロナウドっていう題名の映画を見ている気分だった。」なんて言ってましたが、まさにその通りでした。映画か、日本のスポ根アニメのような筋書き。決勝に臨むチームを率いるキャプテンが負傷。ショックを受けながら、チームは、新たなる決意で、キャプテンのため、自分たちより強い敵に立ち向かう。傷つきながらも、脇から声援を送るキャプテン。そして、終了近くの闘魂のゴール。残り時間、敵にゴールを許さぬ最後の努力。そして、勝利と喜びの涙。じゃん、じゃーん!めでたし、めでたし。 サッカー選手は、ベッカムなどもそうですが、体中に刺青いっぱい、などという人は沢山います。そんな中、クリスティアーノ・ロナウドは、刺青は一切なし。以前は、私、ロナウドは、エゴが強そうな自己中人間のイメージがあって、さほど好きではなかったのですが、彼が入れ墨をしていない理由というの...

イギリスでのパネトーネ人気

イメージ
20世紀初頭のイタリアはミラノで生まれたお菓子パネトーネ(panettone)。時間をかけて発酵させ、ふくれあがった、ドライフルーツ入りの巨大ブリオッシュの様なこのお菓子は、クリスマス時期に良く食べられるものです。 イギリスのクリスマス時期の伝統的スウィーツというと、 クリスマス・プディング もクリスマスケーキも、ドライフルーツがたっぷり入り、色が比較的濃く、重いものが多いのです。当然、レシピによって、小麦粉に比べ、ドライフルーツの含有量が多ければ多いほど、色はどす黒くなっていくわけですが。クリスマスケーキは、その重く黒っぽい物体の上に、更に、分厚い白のアイシングで覆われている事が多く、お腹にドーンとくる上、かなり甘いのです。日本人の感覚から、ふわふわのスポンジに生クリームが挟まって、イチゴでトッピング・・・の様なものを想像するとトンでもハップン。こういったものを食べるとき、私は、大体、2,3杯の紅茶で流し込むこととなるのです。そのどっしり感は、殺人の凶器に使えるのではないかと思うくらい。投打されて死亡した男性の死体、凶器は見つからない・・・凶器は、実は、1年前の固くなったイギリスのクリスマス・ケーキであった、そして犯人は殺人を犯した後、証拠を消すため、ケーキを食べてしまったのだ、なんていう筋の犯罪物でも書けそうな気がします。 最近のクリスマス時期、このイギリスの伝統のお菓子たちの他に、イタリアのパネトーネが段々と人気を博してきているという話です。特に、ちょっと洒落たギフトや、パーティーに呼ばれて持っていくものなどに、購入する人が増えているのだとか。新聞や雑誌などでも、各社のパネトーネの味比べリストなどという記事が組まれているのも目にし。高級デパートや食料品店の高めのものも出回っていますが、勢いに乗って、イギリス中に支店を増やしているドイツ系スーパーの、リドル(Lidl)やアルディー(Aldi)が、よく、大陸ヨーロッパの食料品も販売しており、お手ごろ価格のパネトーネもクリスマス期には必ず売っているのも、パネトーネ人気の一般化を手伝っているのかもしれません。(それにしても、ドイツ・・・製造業のみならず、イギリスが得意とするはずの販売業まで、イギリスのスーパーを負かす勢いです。) ということで、このトレンドを反映するように、うちのだんなも、先週、友人から...

ルイ・パスツールとパスチャライゼーション

イメージ
ここのところ、牛乳に関する話題を続けて書いていますが、今回は、パスチャライゼーションについて。 19世紀も後半になると、牛乳の生産が増え、生産場所から多少離れた場所への配送も増えて行き、都会の人間も牛乳を飲む機会が増えていく。牛乳は、育ち盛りの子供にも、豊かな栄養源として、それはそれで良い事ではあるものの、牛乳を、絶好の栄養源とするのは、残念ながら人間だけではなく、色々な微生物も。その中には、人間に害を及ぼす微生物もいるわけです。よって、牛乳が、幅広く飲まれるようになった結果、それに伴う牛乳内に潜む悪役細菌が引き起こす病気も蔓延していくのです。牛乳が原因で起きていた病気としては、腸チフス、猩紅熱、ジフテリアなども含まれています。ボトル入りのミルクの配送が始まる前は、配送者が容器に入れたミルクを、個人に、しゃくですくって配っていたため、農場を出た時は大丈夫でも、配送過程や家庭内で、変なものが入り込む可能性も高かったでしょう。 微生物学の父と称される19世紀フランスの科学者ルイ・パスツール(Louis Pasteur 1822-1895)が、クロード・ベルナール(Claude Bernard 1813-1878)と共に、ワインが酸っぱくなるのを止めるため、パスチャライゼーション(pasteurization)という処理を考案するのですが、これは、飲食物を、比較的低温で、一定の時間熱する処理の事。フランスにとって、大切な産業であったワインが、当時、すぐに酸っぱい味となってしまう事を懸念したナポレオン3世が、パスツールに、何とかならんか、と解決を依頼。パスツールは、ワインに含まれていた微生物の一部が原因であるとし、アルコールを飛ばさず、更に、味の低下を起こさずに、この細菌のみをやっつける低温度で処理をし、問題解決。 こうして、パスチャライゼーションは、低温の熱処理であるため、味にさほど影響を与えずに、害になり得る細菌を殺すことができるため、19世紀末には、これを、問題を起こしていた牛乳の細菌処理に使用してはどうかとなり、徐々に、牛乳の製造過程として一般化していく事となります。今では、スーパーで、パスチャライゼーションされていない生牛乳を探す方が大変です。悪い細菌が牛乳に入り込まない様に、清潔を心がける農場での経営の進歩と、蓋をした容器を用いての配送過程の進歩...

エンピツが一本

イメージ
ラジオを聞くでもなく、聞かぬでもなく、つけっぱなしにしたまま、何気なく、テーブルに置いてあった紙の切れ端にいたずら書きをしていました。そして、するする動く、鉛筆の描く線を眺め、ふと、「エンピツが一本、エンピツが一本、ぼくのポケットに~」と口ずさんでいる自分に気がついたのです。 「エンピツが一本」なんて、しばらく歌ったこともなかった古い歌、いきなり出てくるものです。坂本九が、この歌をうたったのは、1967年のこと。どひゃ!子供時代の記憶と言うのは、脳みその奥底に刻みつけられているのでしょう。とても良い歌詞なので、これを期に、全部載せてみます。作詞作曲は、浜口庫之助氏。「バラが咲いた」や、にしきのあきらが、指差して「きみーとぼくは、きみーとぼくは」と歌った「空に太陽がある限り」もこの人の作品なのだそうです。 エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくのポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくの心に 青い空を書くときも 真っ赤な夕やけ書くときも 黒いあたまの とんがったがエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 君のポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 君の心に あしたの夢を書くときも きのうの思い出書くときも 黒いあたまの まるまったエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくのポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 ぼくの心に 小川の水の行く末も 風と木の葉のささやきも 黒いあたまの ちびたエンピツが一本だけ エンピツが一本 エンピツが一本 君のポケットに エンピツが一本 エンピツが一本 君のこころに 夏の海辺の約束も もいちど会えないさびしさも 黒いあたまの かなしいエンピツが一本だけ 贅沢を言わせてもらえれば、真っ赤な夕やけ書くときは、赤鉛筆も加えて、「エンピツが2本」にしたい気もします。 道を行くときに、過ぎ行く景色をどれだけ組み入れられるかは、周囲に注意を払っているかどうかは元より、スピードも当然かかわってくるわけで、車よりは、ちゃり、ちゃりよりは、歩きの方が、一般的に気付くことも多いはず。また、デジカメを向けて、景色を取りまくるのは良いが、実際に、見るという事がおろそかになってやしないか、と時に思うこともあります。ボタンを押すだけよりも、え...

スキポール空港の男性トイレとナッジ・セオリー

イメージ
今朝、だんなと、アムステルダムのスキポール(Schiphol)空港の話をしていた時、彼いわく、「スキポールの男性トイレの小便器には、ハエの絵が描かれてるんだ、知っちょるか?」何でも、このハエの絵は、小便が消えて行く穴の、左斜めやや上に彫られていて、男性諸侯は、オシッコをする時に、無意識に、このハエめがけて発射するのだそうです。よって、このトイレを設置してから、小便器のあちらこちらに、オシッコが飛ばなくなり、黄色のしみが、便器のいたるところに付着する事も減り、床に飛び散る事も減り、掃除が大層ラクになったのだそうです。なんでも、床へのおしっこ飛び散り率は、ハエの絵導入後、80%減少。個人宅ならともかく、大勢が使用するトイレでは、かなり意義ある結果です。 このスキポール空港男子小便器のハエ作戦のように、強いることなく、良い方向に人間の行動を持っていくような工夫を、「ナッジ・セオリー」(Nudge theory)と言うのじゃ、と、だんなは偉そうに締めくくりました。 「nudge」とは、英語で、「(肘などで、ちょいちょいと)つつく、つつく事」を意味し、更には、「(肘でつつくようにして、相手を)うながす、うながす事」の意味にも使われます。最近、行動経済学で話題になっているという、「ナッジ・セオリー」とは、あれしろこれしろと強制的に物事をやらせたり、良くないと思われることを闇雲に禁止するのではなく、他人に選択の自由を残しておきながらも、個人のために、社会全般のために、有益であろうと思われる方向へ、人間の行動を「うながす」工夫。 たとえば、学校の食堂などで、生徒達に健康的な食事を取って欲しい場合は、野菜果物などを、目に付きやすい場所に置くなどもナッジ。人間、スーパーや、セルフサービスの食堂で、同じ品揃えであっても、配列の仕方によって購入するものが違ってくるという傾向があるのだそうです。よって、選択肢はまったく同じであるのに、配列の工夫で、生徒や消費者が、健康に良いものに手を伸ばす確立を上げる事ができるというわけ。 臓器提供者の数が少なく困っている場合は、政府が、死後の臓器提供は、自分からすすんで、やりたくないと申し出ない限りは、自動的に行われる様にするという方針を取る事もナッジ。人間、基本的になまけ癖はあるので、たとえ、自由に変更できても、すでに設置設定してある...

アムステルダムのバスツアーと運河クルーズ

イメージ
今回、母親を連れてアムステルダムを旅して思ったのが、外国の都市観光は、できる限り足腰がしっかりしているうちにやっておく・・・という事。お年寄りでも、足腰がぴんぴん、反射神経もばっちりの人は、活気溢れる都市のウォーキング・ツアーもいいでしょうが、うちの母親は、他は健康なのに、膝だけは、すぐ痛くなるそうで、歩くのが遅いし、長距離は無理。自転車、トラム、自動車、人ごみが、右往左往するアムステルダムの繁華街で、何かにひかれやしないか、石畳につっかかって転びやしないか、運河に「あれ~!」と落っこちやしないか(まあ、これは無いか・・・)と、常にひやひやものでした。トラムに乗ったり降りたりも、その度に、自分の切符の他にも、彼女の切符のスキャンもして、とそれなりに、大変。 1日目に、 ライクスミュージアム と キューケンホフ へ行ったので、2日目は、アムステルダム市内をちょっと足で観光してから帰ろうと思っていたのですが、この最初の考えは、母親の歩き方を見て、とっとと捨てました。10分おきくらいに「ベンチ無いの?」という事になるので。そこで、まず、バスでのシティー・ツアー、それから、運河を回るボートに乗ることに決め。 2時間のバスでのシティー・ツアー。私にとっては、気を使う必要がなく、ラクチンではあったのですが、有名観光地ひしめくアムステルダム中心地に、バスが入っていく事はできないためか、シティー・ツアーと言うより、シティーの周辺ツアーと言った方が良い感じの内容。 ツアー内で、まあ良かったなと思えたのは、郊外の、アムステル川のほとりにあった風車での写真撮影ブレーク(上の写真)。かつては、1万台以上あったというオランダの風車も、現在残るのは、1000のみ。アムステルダムに残る風車の数は、8台だそうで、これは、そのうちのひとつである、Riekermolen(なんて発音するんでしょうね。ライカモーランか?最後のmolenは、風車の事。フランス語の「Moulin ムーラン」と似てますね)。Riekermolenは、1636年に遡る風車で、以前は、別の場所にあったものを、現在のアムステル川のほとりに、1961年に移動させたという事。すぐそばには、アムステル川のほとりで、よくスケッチをしていたというレンブラントの像が立ち。レンブラントのかかえるスケッチブックの上には、誰が置いたか...

アムステルダム国立博物館(Rijksmuseum)

イメージ
アムステルダムの国立博物館(ライクスミュージアム Rijksmuseum)。17世紀のオランダ絵画がわりと好きなのに、 前回のアムステルダム旅行 では、訪ね損ねたので、今回のオランダ旅行の大目的は、チューリップと、この国立博物館でした。ですから、宿も、アムステルダム国立博物館から徒歩圏内に取ったのです。 国立博物館やゴッホ美術館のある、アムステルダム南側に宿を取ると、スキポール空港のすぐ外のバス停から、直行で国立博物館のそばを通るバスが出ているので、とてもラク。空港から、アムステルダム北側にある中央駅まで電車で行って、そこからトラムで南側に戻るより、便利な移動法です。バスの運賃は、現段階で5ユーロ。チケットも、バスの運ちゃんから、乗る時に直接買えました。「ライクスミュージアム行くよね?」と念を押して乗ったので、着いた時に、運ちゃんは「ライクスミュージアム!」と叫んで教えてくれましたし。もっとも、かなりの人数、ここで降りました。乗車時間は約30分。アムステルダムは、公共交通機関が安くて、頻度も多く、助かります。ガソリン税がヨーロッパで一番高い国、そして、駐車料もかなり高いらしく、移動は、多くの市民は自転車か、公共交通網に頼っているのでしょう。 上は泊まったホテルのある通り。静かでした。 さて、アムステルダム国立博物館は、一大改装のため10年も閉鎖しており、2013年の4月に再オープンしたばかり。当初は、10年もかかると思っていなかったようなのですが、長引いてしまった最大の理由が、 自転車! 国立博物館の建物の中心部分は、トンネルのようになって、アムステルダムの中心部と郊外を繋ぐ通りが走っていたそうですが、改造にあたり、それを塞ぐというのが、最初の設計だったそうです。これに反対して、自転車団体が大抗議を起こし、自転車が、博物館の周りを迂回せずに、中心を走って抜けられるトンネルを、新しいデザインに組み込むように設計をし直す事となり、そのため大変な時間がかかってしまったというのです。 オリジナルの建物自体は、19世紀後半のもので、建てられた当初は、プロテスタントの国、オランダの建物としては、あまりにもカソリック的であるとして、不人気だったという話です。設計をしたピエール・カイペルス(Pierre Cuypers)は、たしかに、カソリック教徒であったの...

キューケンホフ(Keukenhof)のチューリップ

イメージ
オランダは、アムステルダム近郊にある、キューケンホフ(Keukenhof)とは、オランダ語で「キッチン・ガーデン(お台所のガーデン)」の意味なのだそうです。15世紀の女伯爵、ヤコバ・ファン・ベイエレン(Jacoba van Beieren)が近くにあったお城のために、野菜やハーブ、フルーツなどを育てた場所であった事に起因する名だと言います。1857年に、この地は、アムステルダムのフォンデル公園を作った同じ造園家によって、イギリスの ランドスケープ庭園 風に作り直され、現キューケンホフのデザインは、基本的に、この時のもの。そして、第2次世界大戦後の1949年、20人の球根専門家が集まり、キューケンホフを、春の球根類のみを植える庭園とする計画を打ち立て、1950年に、一般公開。瞬く間に人気を博す事となります。 キューケンホフの開園は、3月半ばから5月半ばの、年に3ヶ月だけ。本当に、春の庭園なのです。植えられている球根の数は、700万。オランダにチューリップを見に行くなら、このキューケンホフとばかりに、先週、はじめて、繰り出してきました。 イギリスから、わずか1時間以下の飛行時間の後、スキポール空港に到着。旅券審査のお兄さんに、「こんにちは。」と日本語で挨拶され、その後、お兄さんに、にやっと笑って、英語で聞かれた質問は、「どこへ行くの?クーケンホフ?」「え?」「チューリップ見に、クーケンホフ行くの?」「あ、そうそう、そうです。」「楽しんできてね。」日本人観光客も、チューリップを見に、この時期大勢押し寄せるのでしょう。検査の兄さん、「また、来たな~、チューリップに誘われた日本人」と、もう慣れっこの感じでした。観光客は大切にせねば、と思っているのか、非常に愛想が良い人でした。ただ、オランダ人の発音、キューケンホフより、クーケンホフか、コーケンホフに近いものがあった気がしましたが。 スキポール空港からも直通でキューケンホフ行きのバスなども出ているのですが、なにせ、80のおばあさん(うちの母親)連れでしたので、アムステルダムからのバスツアーで行くのが一番と、アムステルダムに宿を取り、現地バスツアーに申し込んで、行ってきました。 とにかく、シーズン中、特に4月は、大変な人だという事なので、一番ゆっくり見れる時間は、開園直後か閉園直前の時間帯、という事...