パリのアメリカ人画家メアリー・カサット

先日、テレビで、マスターマインド(Mastermind)というクイズ番組のファイナル(決勝戦)をテレビで見ていました。このクイズ番組は、出場者がブラックチェアと称される、倒す前の歯医者の椅子の様な黒椅子に座り、専門クイズ、一般常識クイズと、2回にわたり、いくつかの質問に答え、2部門の合計点が一番上の人物が生き残るという勝ち抜き戦。前半の専門クイズは、出場者がテーマを自分で選ぶことができます。この専門テーマが、名前も聞いたことが無いような、マイナーな小説家の、ある作品であったり、テレビのドラマシリーズであったり、またこれもマイナーなロック・バンドであったりと、クイズにされても、全くわからないようなものが多いのです。よって、普段は、前半は飛ばして、後半の一般常識クイズの部分だけ、時に見たりしているのですが、この日は、たまたま決勝だったのもあり、最初の専門クイズ部分も見ました。そして、出場者の一人が選んだ専門テーマが、画家メアリー・カサット(Mary Cassatt)。

このメアリー・カサットに関するクイズの中で、出場者は、2,3間違った答えを出した他に、ひとつ、答えられずに、諦めて、パスをした質問がありました。それは、

「1890年、カサットは、エコール・デ・ボザールにおいて開催された、ある国の美術展覧会を見学し、影響を受け、翌年、10枚の版画を発表した。この展覧会は、どの国のものだったか。」

私は、メアリー・カサットの人生は詳しく知りませんでしたが、彼女の絵と、生きた時代は、大体頭にあったし、なんと言っても日本人ですから、答えが「日本」だとすぐわかりました。19世紀後半のフランスの美術界に一番大きな影響を与えた国と言えば、どう考えても、鎖国後、今まで知られていなかった独自の文化が西洋に流れ出し、ジャポニズムの波を巻き起こした日本でしょう。私は、それ以外の質問は、一切答えられませんでしたが、その一方で、逆に、この出場者が、あてずっぽうでも答えられそうな、この質問だけにパスを出したのも不思議でした。(ついでながら、トップが同点であったりすると、パスの数が少ない方が勝者となるので、まるっきり検討がつかなくても、何か言った方がいいのです。)

・・・と、前書きが長くなりましたが、これをきっかけに、パリで活躍し、当時のフランス画家と同様、日本の浮世絵にも影響を受けたアメリカ人画家、メアリー・カサットについて、もう少し調べて、書いてみる事にしました。

メアリー・スティーヴンソン・カサット(Mary Stevenson Cassatt、1844-1926年)は、アメリカのペンシルバニア州の裕福な家庭に生まれます。子供の時に、約5年の間、家族で、ヨーロッパの都市を旅して回り、多くの文化に接触。両親とも、絵画に興味を持った彼女が、画家となるのを好まず、やはり同じような良家の息子とでも結婚して、落ち着いてくれることを望んでいたようですが、とりあえずは、15歳で、ペンシルバニア美術大学で絵画を学ぶことは許されます。が、学校の教え方に不満を持ち、卒業せずに終わります。

フィガロ紙を読む母親を描いた絵
その後、教養人だったという母親と共に、パリへ。パリの国立高等美術学校であるエコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts)は、1887年まで、女性を受け入れなかったため、個人的に師につき、またルーブル美術館の写生などで腕を磨きます。やがて、エドゥアール・マネ(Edouard Manet)も学んだという、トマ・クチュール(Thomas Couture)のクラスで学び始めます。初期の作品は、カミーユ・コローなどの影響を受けているという事。パリは、既存の絵画の教え方に反旗を翻す、マネやグスタフ・クールベなどの画家たち、また印象派などが誕生していった時代。ところが、1870年に勃発した普仏戦争のために、カサットは、一時的にアメリカへ帰国。翌年秋には再びヨーロッパへ渡り、イタリア、スペインなどに滞在した後、1874年、パリへ戻り居を構え、ここに、姉のリディアも移り住み、数年後には、父母もパリへ。よく行動を共にしたリディアが、45歳で病死してしまった際は、しばらく傷心のため、筆を取れなかったと言います。

パリのサロンから、度重なる出品の拒絶を受け、カサットは、女性に対する偏見を持つ古い体制とみなしたサロンに見切りをつけ、エドガー・ドガ(Edgar Degas)に誘われて、印象派の展覧会に出品するようになり、印象派画家たちとの交流とその影響が深くなります。特にドガとは、お互いの作品を認め合い、影響を与え合う親しい仲となり、後に、ドガの少々身勝手な行動に辟易とし、共作などはやめたものの、生涯、ドガが死ぬまで、その友情だけは続いたようです。1894年に、パリの文化人たちの意見を真っ二つに割った「ドレフュス事件」では、頑なに、反ユダヤ、反ドレフィスの姿勢を取ったドガは、ドレフュスに同情する側のクロード・モネなどとは、一時的に絶交状態に陥ったと言われます。お互いの陣営、相容れぬことがまったくできずに、カフェのテーブルなどでも、別の席をとるようになったという、ドレフュス事件は、現在で言えば、イギリスのブレグジットのようなものでしょうか。賛成派、反対派はお互いに、口を利くのも嫌になる状態も出てきていますから。ドレフュス支持のカサットは、この事でもドガとの意見の対立があったようですが、それでも友情は持ちこたえています。

この女性、顔も日本風?
さて、冒頭に書いた、クイズの質問の通り、1890年の日本の展覧会で浮世絵に影響を受けたというカサットは、翌年、一連の、ジャポネズムの版画を作成。当展覧会を見たすぐ後に、印象派内の友人で、マネのモデルなどもつとめた、女流画家ベルト・モリゾ(Berthe Morisot)に、「本当に、この展覧会を逃してはだめよ。色版画の作成をしたかったら、あれ以上美しいものなんて、想像できないから。」と手紙を送っています。

画家としての活動の他に、アメリカの個人や公(博物館等)のコレクターへ、どういったものを購入すべきかという、絵のコレクションのアドバイスなども行っています。


彼女は、絵画に関する賞は、ずっと受賞を拒否し続けたものの、1904年に、フランスからレジオンドヌール勲章を授与され、これは受け取っています。

若いころは、新進気鋭、新しい風潮の最先端を走りながら、年を取っていくと、今度は、更に新しい風潮に批判的な眼を向ける、というのは、よかれあしかれ、よくある事ですが、彼女も、20世紀に入ってからの新しいフォービズム、キュビズムなどのムーブメントは、好きにはなれなかったようです。誰も、自分が駆け抜けた時代への思い入れは強いもので、新しい風潮というのは、その自分の輝かしい時代への否定と感じるのでしょうか。彼女が実際そう感じたのかは、わかりませんが。白内障にかかり、視力がほとんどなくなった、1914年に、カサットは、ついに筆を折ります。生涯独身で、当時はまだ女性がほとんどおらぬ画界で見事生きていった彼女は、女性の地位の向上、婦人参政権運動にも影響を与えたようです。

19世紀後半に、パリの北東部に、かつては狩猟に使用されたという古い館(Château de Beaufresne)を購入して、お気に入りの田舎の住まいとなったようですが、1926年、そこで亡くなります。残した絵の一部は、長年の彼女の家政婦であった女性によって相続されたそうで、これも、マスターマインドのクイズのひとつになっていました。

メアリー・カサットという画家に興味を持った方は、下のサイトで、彼女の絵を沢山見ることができます。
https://www.wikiart.org/en/mary-cassatt

マスターマインドの回答者が座るブラックチェア
さて、マスターマインドに出場するとしたら、どんな専門テーマを選びますか?

例えば、チャールズ・ディケンズの様な、多作な著名作家などを選んでしまうと、彼の人生の詳細はもちろん、その作品を全部読まねばならず、更には、登場人物の名、その人物たちが何をしたかなども事細かに記憶する必要が出てきて、勉強するのが大変です。だから、大体、皆、比較的マイナーで、幅が狭いテーマを選ぶのでしょう。しかも、勝ち残ったら、また次の段階で、別の専門テーマを選んで勉強しなおさないといけませんので、覚える量が莫大なものは避けたい。どうしてもディケンズがいいとすれば、ディケンズの「二都物語」と更に的を絞るとか。ただ、番組側が、どれだけ、的を絞らせてくれるかはわかりませんが。だんなに、専門テーマ何にすると聞くと、「第2次世界大戦関係だな・・・あとは、テニスの歴史とか。」だそうです。私は・・・うーん。すでに、多少の知識がある事項で、更に、それを弁当の隅をつつくように調べても、あきないテーマ。それでいて、一般視聴者も、多少は答えられ、楽しく見れるというものがいいですね。

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