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ウィンザー城

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ロング・ウォークから望むウィンザー城 ウィンザー城(Windsor Castle)は、オリバー・クロムウェルの共和制時代を除けば、王家の所有として使われ続けてきた城の中で、イギリス最古最大のものだと言われます。 ウィンザー家と呼ばれる、現在のイギリス王室は、18世紀初頭、世継ぎのいなかったスチュアート家アン女王の亡きあと、プロテスタントの王様を探していたイギリスが、わざわざドイツから連れて来た、ジョージ1世のハノーヴァー家から始まっています。エドワード7世の時代からは、エドワード7世の父、アルバート公の名を取って、サクス・コバーグ家と称されていました。が、第1次世界大戦中、時の王ジョージ5世が、「イギリス王家が、敵国ドイツ風の家名だとまずい、もっとイギリス的響きのある名前に変えよう」と、この城の名を取って、イギリス王家は、ハウス・オブ・ウィンザーと改名し、今日に至っています。ハノーヴァー朝設立より、ずっと以前に遡った、イングランドの王室の歴史を彷彿とさせるこの改名は、ドイツ人の血をひく王様としては、なかなか巧妙な動きでした。 バイユータペストリーに描かれるノルマン人の城作り 最初にこのロンドン西部のテムズ川岸のこの地に城を建てたのは、ノルマン王朝の創始者、征服王ウィリアム。1070年ころの事です。周辺では一番小高い場所にあるため、見晴らしがきき、防御の意味ではうってつけの場所。ウィリアムが、各地にぽこぽこ建てていった城は、効率のため、形式がほぼみな同じで、ヘイスティングスの戦いの様子が刺繍でつづられている バイユー・タペストリー にも、ノルマン軍が、こうした城を築く様子が縫い込まれていますています。ウィンザー城周辺の土地も、狩猟や城の食料燃料獲得のために王家のものとなります。 城と言うのは、歴代の王様が徐々に手を入れ改善し、教会や大聖堂などと同じに、時代ごとに変化していくものです。また、国家君主たるもの、あちこちの土地に、いくつも城、館を持っていたわけですから、王様によって、お好みの城も、それにつぎ込む意欲も違い。城内で購入したガイドブックによると、ウィンザー城を形作るのに、特に影響が強かった王様は4人で、まずは創設者のウィリアム1世、そして、エドワード3世、チャールズ2世、ジョージ4世。 セント・ジョージズ・チャペル フラン

本当に長いウィンザー城ロング・ウォーク

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先月中頃、一人でふらりと、ウィンザー(Windsor)へ一泊旅行に出かけました。本当に久しぶりで、過去ここを訪れたのはおそらく25年ほど前でしょうか。ウィンザー城内も入ったはずなのですが、定かな記憶も、写真も残っていません。 前回、確実に やらなかったこと は、ウィンザー城から一直線に伸びるロング・ウォーク(Long Walk)と称されるながーい並木道を歩かなかったこと。ですから今回の訪問では、城を訪れるのはもちろん、このロング・ウォークを最後まで歩いて、スノウ・ヒル(Snow HIll)と呼ばれる丘の上のジョージ3世が馬にまたがる銅像までは必ずたどり着こう、と心に決めていました。 エルトン・ジョンのアルバムのジャケットに登場するロング・ウォーク ウィンザー城を背景にしたロング・ウォークの風景は、日本にいた時に持っていた、エルトン・ジョンのアルバムのジャケットの写真にも使用されており、あれが、おそらく、私が初めて見たロング・ウォークのイメージでした。 ウィンザー城の南に広がる5000エーカーの広大なウィンザー・グレート・パーク(Windsor Great Park)の歴史は、城同様、征服王ウィリアムの時代に遡り、ウィリアムは、周辺の森を、鹿の狩猟、また、いのしし、家畜、魚など、城の食料補給、薪などの燃料、材木補給を目的に王家のものとします。ジョージ3世の時代に、これが王家の手から、議会(国家)のものへ移行したそうです。 城とウィンザー・グレート・パークを結ぶ、このロング・ウォーク設置は、ヴェルサイユなどのフランスの庭園、建造物がお好みだったチャールズ2世によるもの。まっすぐな約4キロの道は、2重の並木に挟まれ続いていますが、チャールズ2世の時代は、これはエルム(ニレ)の木であったそうですが、第2次世界大戦後に、内側は マロニエ 、外側は ロンドン・プレイン・ツリー に植えなおされています。 非常に暑い日であったので、歩き始める前に、街中で、ボトルの水と、帽子を買って、おニューの帽子を目深にかぶってからスタート。マロニエと、プレインツリーの木陰以外は、お日様から守ってくれるものは何もないですので。出だしからすぐのところを振り向いた風景は、まさに、エルトン・ジョンのジャケットと同じ。 私の前を、ピンクのTシャツを着、2匹の小型犬

テリーザ・メイの博打

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イギリス人、賭け好きが多いです。町の目抜き通りには、必ずと言っていいほど一軒はブックメーカー(bookmaker)略してブッキー(Bookie)と称される賭けができる店があります。サッカーの試合でどちらが勝つかなどはもちろん、クリスマスに雪が降るか、キャサリン妃が妊娠中だった時は、赤ちゃんは男か女か、といった事まで賭けの対象になりますが、先日通りかかったブッキーのショーウィンドーには、保守党首相テリーザ・メイと野党党首ジェレミー・コービンの写真がでかでかと貼ってあり、先週木曜日に行われた2017年総選挙も賭けの対象となっていました・・・。 就任した時は、総選挙は当分行わない、と言っていたテリーザ・メイ。なのに、なぜ、2年間で済ませねばならぬ、ブレグジット(EU離脱)の過程開始をした後になってから、貴重な時間、(そして金)を費やしてまで、いきなり総選挙に打って出たのか。 現労働党党首のコービンは、マルクス主義者などと呼ばれるほどの左寄りで、労働党は、彼が党首の間は勝つ見込みがないなどと噂されていました。保守党政権下、ブレグジットの結果がひどいことになってしまったら、テリーザ・メイのリーダーシップに不信を表す人物も増えてくるかもしれない。総選挙を、ブレグジット終了まで待つより、「今なら、私は人気もあるし、このうちに、お話にならないコービンの労働党を叩き潰して、保守党の数をぐーんと伸ばせるに決まってる。そうすれば、少なくとも5年は首相でいられるわ。」と見込んで、テリーザ・メイは博打に出たのでしょう。なにせ、若いころから首相になる事が夢だったとかいう人。国がどうなろうと、ブレグジットのネゴがどうなろうと、そんなのは、自分がどれだけ長く首相でいられるかという野心の2の次というタイプである気がします。いずれにせよ、賭けは逆噴射。あはは~。 コービンの労働党は、鉄道の再国営化、つりあがった大学学費廃止、最低賃金の大幅引き上げ、警察、医療機関、その他もろもろの公共機関に金を注ぎ込み、その他、あれもこれもと、そんな金どこにあるんじゃ、と思うほど大盤振る舞いを約束。総選挙が宣言された直後は、テリーザ・メイの保守党が大勝利をおさめ、議会での過半数をずっと超える結果が予想され。 たかをくくったのか、メイおばさん、何かにつけて「ストロング・アンド・ステーブル」(強力で安定

タワーブリッジが開く時

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タワーブリッジの下を通過するテムズ・バージのハイドロジェン 6月3日の土曜日に夜に、 ロンドン橋 と、橋の南部に位置するバラ・マーケットであったテロ。翌日4日の日曜日には、私は、約1か月くらい前から、テムズ・バージに乗り込んでのテムズ川クルーズを予約していたので、クルーズの出発するロンドン塔わきのタワー・ピアまで出かける事となりました。 テロのおかげで、周辺の警備が厳重になっている可能性があるので、実際にクルーズが予定通り出発するのかどうか、気にはなったのですが、主催会社からは何の連絡もないので、家を出て、静かな週末のシティーを横切ってタワー・ピアへ向かいました。がらんとしたシティー内部の様子とは打って変わり、さすがにロンドン塔のまわりは、外国人の観光客で、何事もなかったようににぎわっていました。せっかく観光にロンドンへ来ていたら、怖がってホテルにこもっていてもしかたないでしょうしね。私のクルーズも予定通りに出発。 テムズ・バージ(Thames Barge)というのは、かつて、テムズ川および、イギリスの海岸線を行ったり来たりして貨物を運んだ小型帆船の総称で、海岸沿いの浅瀬や川を運航できるよう、底が平らなのが特徴です。2,3人の少人数の人員での運行が可能で、19世紀後半から盛んに、田舎から、干し草や農作物をロンドンへ運び、帰りにロンドンからロンドン・ミクスチャーと称された馬糞を肥料として持って帰ったりしていた事で知られていますが、そのほかにも、石炭、レンガ、砂、木材など積み荷の種類は多々。高速道路もトラックもない時代ですから重宝されたのでしょう。テムズ・バージは、19世紀後半から20世紀初頭に大活躍し、当時のテムズ川を描いた絵画などには、よくテムズ・バージが碇泊している様子が描かれています。今回のクルーズで乗ったのは、ハイドロジャン(Hydrogen、水素)と称されるテムズ・バージ。普段は、塩とオイスターで有名なエセックス州、 マルドン のブラックウォーター河口に碇泊している船です。 ロンドン・ブリッジの前で方向を変え、タワー・ピアへ近づくハイドロジェン ハイドロジェンは、ロンドン、テムズ川沿いのシルバータウンにあった化学工業会社の注文により、ケント州の ロチェスター にて1906年に製造され、ロンドンから石油、タールなどをスコットランドへ