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1月, 2010の投稿を表示しています

ボタン革命

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古いお菓子の缶に、じゃらじゃら溜め込んだボタン、ボタン、ボタン。どこの家庭にもありそうです。最近は、気にも留めることが無い様な平凡な物も、それが発案され、使われ始めた頃は、生活を一気に躍進させる一大改革を引き起こした物だったりもします。平凡なボタンもしかり。 ボタンがヨーロッパに広がって、頻繁に使われるようになったのは、1330年あたりからだ、という事を、最近読んだ中世(14世紀)の暮らしに関する本で目にしました。 ボタン以前、中世の服は、ざっくりとしていて、ずとんとしたシルエット。要するに、上からざぽっと被れるような形の物、または布を巻いただけの様な物。貴族などは、きちっと閉まっているのが好ましい部分、特に腕の周りなどは、服を体にまとった後、一々、ぴっちりと縫い合わせさせたそうで、ご苦労だった事です。 ボタンが広まった後は、ボタンで閉める前開きの上着なども出来、洋服の形も、体にぴったりフィットの物が作れるようになった。それに、何と言っても、わざわざ、着るたびに縫いあわせ、脱ぐたびに、ぶちぶちっと糸を切る必要も無い。 動物界では、孔雀のように、男性がお洒落で派手な事が非常に多いですが、中世のボタン革命の後、よりファッションに力を入れたのは男性のほうだったそうです。広い胸とすっきりしたウェストの逆三角形体形を誇張するためのボディコン、ぴったりフィットの上着が多く見られるようになり・・・そしてその丈は、自分の引き締まった太ももとおしりをさりげなく見せびらかすため、段々と短くなり。ミニスカートの先駆者は男性だったわけです。 そして、ボタンとは関係ないのですが、この頃の男性ファッションでおかしいのは、靴。これは、先が長ければ長いほど、おしゃれだという観念があったようで、とんがり靴の先が段々長くなり、終いには、階段が上れないような長さの物まで登場。当時、満員電車などあったら、つま先の踏み合いで、大変な騒ぎだった事でしょう。先の部分は、ウールなどをつめて形がくずれないようなっていたそうです。 この靴のくだりを読んで、頭にふと浮かんだのは、以前、日本で流行った肩パット。一時は、肩パットついていないブラウスを探すのが大変だったような気がします。着ていて、いつもパットがずれて、着心地悪く、取り払ってしまった事しょっちゅうでした。今から思えば、どうしょうもないファッショ

アイヴァンホー

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ウォルター・スコット(Walter Scott :1771-1832)は、エジンバラ生まれのスコットランドの小説家。いわゆる歴史物を多く書き、世界的人気を博しました。(上記写真は、エジンバラ城内からの眺め。) ヴィクトリア女王のお気に入りの作家でもあったということで、特に「ラマムーアの花嫁」(The Bride of Lammermoor)が好きだったという逸話は、映画、 「ヴィクトリア女王 世紀の愛」 の会話の中にも組込まれていました。 また、今や、スコットランドといえば、キルトですが、キルトに身を包んだハイランド・クランのイメージを広めるのに一役買ったのも彼。ブランドとしてのスコットランドを有名にした人です。 私は、この人の作品はいままで読んだことがありませんでした。スコットランドのハイランドを舞台とした「ロブ・ロイ」(Rob Roy)の映画化されたものを見ただけ。この「ロブ・ロイ」などのスコットランド物小説の出版が、当時、スコットランドの観光に火をつけたという話で、小説に描かれている風景を見ようと、ファン達が、本を抱えてハイランドへ押し寄せたなどといいます。 スコットランド物ではないですが、最近、やっと代表作のひとつの「アイヴァンホー」(Ivanhoe)に手を出してみました。こちらの舞台は、現南ヨークシャー。時代背景は、12世紀、獅子心王リチャード1世の頃。 リチャードが、第3回十字軍で遠征し、オーストリア公のレオポルド5世に捕まり人質となっていた際、イギリスでは、彼の留守を良いことに、腹黒い弟のジョンが、好き放題。 また、ノルマン人制服で負かされたサクソン人達と統治階級のノルマン人達の間の、いがみ合いが続き。以前の投稿、 「英語とフランス語」 にも書いたように、支配者側と、支配された側の両言語が喋られていた状況も書かれています。(小説最後の方には、ノルマンとサクソンのいさかいもやがて時と共に消えゆき、お互いに結婚などで、その血も混ざり合い、などと書かれていましたが。) 筋は、簡単に言ってしまえば、リチャードについて十字軍に加わって活躍したサクソン系の騎士アイヴァンホーが、母国に戻った際、悪役で、リチャードの留守にジョンに尻尾を振る数人のノルマン貴族達や、集団として勢力を増していたテンプル騎士団(Knights Templar)の騎士を相手に戦うお話。 途中、

ブレッド・アンド・バター・プディング

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昨日、粉雪舞い散る中、買い物から戻ると、お隣さんが、「2つ作ったから、1つあげる。」と、オブンから取り出したばかりの湯気の上がるブレッド・アンド・バター・プディング(Bread and Butter Pudding)をくれました。 食パンを使って作る、こちらの伝統的プディングです。さっそく紅茶入れて、熱いうちに食べました。雪の日は、こういうおやつはいいものです。 レシピは各家庭多少の違いあるのでしょうが、とりあえず下まで。 *材料(4人用)* 食パン7枚 牛乳1.5パイント 卵3個 砂糖110グラム レーズン110グラム ヴァニラ1テーブルスプーン シナモン半テーブルスプーン 塩半テーブルスプーン バター *レシピ* オブン用の容器の中にバターをぬりつける。 食パンのスライスをそれぞれ、3角形に切り、片側にバターをぬる。 容器の底と側面に、パンのスライスをバター側を上にして並べる。(2,3枚残しておく。) 牛乳、砂糖、卵、レーズン、シナモン、ヴァニラと塩を混ぜ、混ぜたものをパンを並べた容器の中へそそぐ。 残りのパンのスライスをその上に載せる。少し押して、液がパンにしみるように。 170度に暖めておいたオブンに、蓋をした容器を入れ、30分焼く。後、取り出し、蓋を取り、また30分(上部がこんがりきつね色に焼けるまで。) お隣さんのは、パンは上にだけのせていました。 この他にも、パンとレーズンを交互にサンドイッチにして層をかさね、上から暖めたミルクと卵、他の材料を混ぜた液体を注ぎ込む方法もあり。また底と上だけにパンをのせる人もおり。他にナツメグを入れたり、オレンジピールを混ぜたり、などもありのようです。 小麦を使わないので、台所に白い粉が舞い散る事も無く、お手軽プディングです。

ビッグ・フリーズ

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イギリス全土、ビッグ・フリーズ(大凍結状態)が続いています。 各地で雪が降り、気温は下がり、道路は凍り、空港では飛行機のキャンセルが相次ぎ、電車はキャンセルと遅れでダイヤは乱れ、学校は閉鎖し、歩道で人は転んで骨を折り、病院の緊急課は大忙し。 普段は、スキーリゾートとしては、あまり積雪があてにならないスコットランドも、今回は、雪はたっぷり。気温もマイナス20度以下に落ち込むところも出ています。また、地面の凍結で、死者の埋葬なども、延期されているとか。 以前の記事 「ウィンター・ワンダーランド?」 で書いた様、毎回、雪が降る度、雪なれしていないこの国(特に南方)は、対応に大混乱となります。去年の2月にも、確か、雪が降り、騒いだ覚えがありますが、今回のは、ちょっと様子が違い、かなりの長期戦にもつれこんでいます。 イギリスは、大陸の西側に位置し、大体の場合、大西洋側から吹いてくる西風の影響で、大陸内部にあるヨーロッパ諸国に比べ、冬の寒さと雪の多さはさほどひどくないのですが、現在、スカンジナビア上空にどっかり腰を下ろし、去る気配の無い高気圧のおかげで、西風はブロックされ、高気圧周辺を時計方向に回る冷たい風が北東から押し寄せてきています。よって、久しぶりに、長期に渡るビッグ・フリーズとあいなりました。 記録によると、過去の冬、イギリス全土が、ひどい目にあったのは、The Big Freeze of 1963と呼ばれる、1962年クリスマスから1963年の3月にかけて。71日間、イギリスのどこかで、毎日のよう雪が降り続けたということ。また更に遡ると、終戦直後の1946・1947年の冬もそれは厳しかった上、戦後の貧しさで、燃料不足、人は、室内で厚着をしてベッドにうずくまって暖を取り。・・・さすがに今回は、そこまでの惨状には達していません。 この天気が続き、野生動物も、影響を受け始めている模様。昨日はインターネットのニュースで、デボン州の川が凍り、浮かんでいた白鳥が、氷に挟まれ動けなくなっているビデオなども見ました(白鳥は、後に無事救出されたそうです。) 餌を求めて、うちの庭へ舞い降りる ブラックバード (Blackbird)の数も急上昇。普段から、食べ終わったリンゴや梨の芯や、夕飯の残りの肉の脂身などは、鳥用に庭にぽんとほおっておくのですが、最近は、

ドゥームズデイ・ブック

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これはかなり古そうだなと、いう感じの教会の門などに、時折、こういう円形の看板が付いていることがあります。 書かれている文章は、 This community is recorded in the Domesday Book 1086. (教会を中心にした)当集落は、1086年のドゥームズデイ・ブックに記録されている。 ドゥームズデイ・ブック(Domesday Book)は、ノルマン王朝創始者、征服王ウィリアム(ウィリアム1世)が、1085年のクリスマスに、調査と記載を命じた、イングランドの土地台帳です。各地ごと、どの土地建物を誰が所有しているか、財産はどれほどか、家畜は何匹いるか、それらの価値はどのくらいか、どれだけの人間がその土地で働いているか、細かく記載されています。記述は主にラテン語。 何故、この調査を命じたかはいまだ議論のあるところのようですが、税金徴収が目的というのが良く言われています。また、ノルマン人征服の後、ウィリアムは、自分と共に戦った腹心達に、褒美としてイングランドのあちこちの土地を与えた結果、イングランドの土地の内情も定かでない上、実際、誰が何を持っているのか、混乱をきたしていたので、その整理の為、という話もあります。 ドゥームズデイ(現スペルDoomsday)は、人類最後の日に下される最後の審判。最後の審判よろしく、この書に記載されている事実が絶対で、全ての土地の所有権のいさかいなどは、この書の記録により判断。 2冊作られ、それぞれLittle Domesday と、Great Domesdayと呼ばれているそうですが、リトルの方が調査記載が大変細かくされており、分厚いのだそうです。前者は、ノーフォーク、サフォーク、エセックスをカバーし、後者は、イングランドの残りの地をカバー。ただ、まだ領土にはっきりと入っていなかった北部、更には、ロンドンやウィンチェスターなどの大都市は、あまりにも複雑であるため、含まれていないという事。 ウィリアムの最大の功績と言われているドゥームズデイ・ブックですが、彼はこの直後の1087年に亡くなっています。 当時のイングランドの土地は、およそ250人という少人数の個人によって支配されていたという事です。ノルマン人征服前の懺悔王エドワードの時代も、同じような人数の有力者の間で所有されてい

英語とフランス語

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イギリス人に、「1066年は何のあった年か」と聞いて、答えられない人がいたら、それはかなりお粗末で、顔洗って出直してきてもらいましょう、という感じです。子供でさえ知っているはずのこの年号は、ノルマン人の征服(The Norman Conquest)の年。 子供を残さなかった懺悔王エドワード(Edward the Confessor)の死後、エドワードの義理の兄であったハロルド・ゴドウィンソンが、一時王座に付くものの、やはりエドワードの血縁であった、ノルマンディー公ウィリアムが、名乗りを上げる。へースティングスの戦いで、ハロルドとウィリアムは、イングランドの王座をかけて戦い、ウィリアムが勝利。アングロ・サクソン人最後のイングランド王としてハロルドは戦死。ウィリアムは、ウェストミンスター寺院にて戴冠し、ウィリアム1世としてイギリスにノルマン王朝を成立。 ノルマン人(Norman)という名は、北方民族(North men)から由来したもので、ノルマン人は、もともとは、北方スカンジナビアから、現フランスのノルマンディー地方に移り住んでいたヴァイキング。よって、彼らの言語は、フランス語。 こうして、ノルマン人征服後のイギリスでは、かなり長い間、支配階級の王族及び貴族は、自分達の間ではフランス語を話し、原住の一般庶民は英語を喋る、という事情が続いていました。また、法や公式文書などの記述には、スペルがまちまちであったフランス語より、スペルが統一されていたラテン語が使用される事が多かった。現代から考えるとややこしい話です。 更なる混乱は、イングランド南西部コーンウォールなどでは、多くの原住民は、ケルト系の言語(コーニッシュ)を使用し、ウェールズでは、場所によってはウェールズ語しか話さない所もあり。そして、英語でも、各地域、強い訛りもあったため、南出身の者が、北へ行き、その訛りがわからず、フランス語を喋っているのと勘違いする、などという事もあったようです。  ロンドンの国会議事堂の前に、凛々しい姿で、馬にまたがるリチャード1世(在位:1189~1199)の像が立っています。 彼なども、ほとんど英語が喋れなかった。しかも、第3回十字軍の遠征などに参加し、10年の在位のうち、10ヶ月しかイギリスにいなかった人です。イギリスは、彼にとっては、十字軍への資金を

ブラッセルズ・スプラウツの季節

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久しぶりに、町の土曜日のマーケットが開いていたので、野菜の屋台からこの鬼の金棒の様な野菜を買ってきました。ブラッセルズ・スプラウツ(Brussels sprouts: メキャベツ)、ただ単に、スプラウツと呼ばれる事が多いです。 ブラッセルは、当然ベルギーの首都の名。(イギリス人は、最後のsを発音するので、ブラッセルズ。) この野菜の名の由来は、13世紀頃に、現ブラッセルの周辺でこれが栽培されたからだという話ですが、定かでは無いそう。元々は、ローマ人が栽培していたという話も、今ひとつ信憑性に欠けるとか。イギリスで栽培されるようになるのは、18世紀になってからという事で、比較的新顔です。アメリカへの導入は、フランス人によるそうで、初期の頃は、フランスの植民地だった ルイジアナ で栽培されたという話です。 スーパーなどでは、ばらしたものを売っているのがほとんどですが、こうして茎に付いたものを買って冷たいところに置いておくと、ばらものより、少々長持ちするのだとか。 収穫は、2月の終わりくらいまでと、冬の野菜なので、今ではクリスマスの食卓でもレギュラー。主人のお父さんが、庭の奥の家庭菜園で、冬季は必ず育てていたと言います。霜や雪にかじかむ指で、収穫した記憶があるようです。 寒い日が続いており、大晦日にも雪がちらりとですが降りました。散歩に出ると、野原のロバも、しっかりジャケットを着せてもらっていました。 井上陽水の「氷の世界」の歌詞に 僕のテレビは寒さで 画期的な色になり とても醜いあの子を ぐっと魅力的な子にして すぐ消えた とかいうのがありました。 寒さのせいではないと思うのですが、昨日の元日の夜、うちのテレビがついに壊れてしまいました。隣の家が2年前にフラットスクリーンを衝動買いした際に、古い物をもらってきて使っていたのですが、ここ2,3週間、じりじり変な音がするな、とは思っていたのです。新年と共に、ボン!と、膨らませた紙袋を叩き破る様な音を立て、画面が消え、寿命をまっとう。 テレビから流れてきた最後の言葉は、なんと、「グッドバイ」でした。おそらく、「去年にグッドバイして、今年にウェルカム」などと言おうとしている最中だったと思うのですが、テレビからお別れを言われる、それはシュールな経験でした。 という事で、新年早