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4月, 2017の投稿を表示しています

イースト・アングリアン鉄道博物館

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チャペル駅舎とイースト・アングリアン鉄道博物館入り口 前回の記事で書いた ゲインズバラ鉄道 の駅、チャペル・アンド・ウェイクス・コーン駅(Chappel and Wakes Colne、以後省略してチャペル駅と書きます)は、イースト・アングリアン鉄道博物館(East Anglian Railway Museum)の所在地でもあります。現在は、ひっそりとした今の駅の様子とは反対に、かつては、ここからもケンブリッジシャー州方面行きの別の支線が走り、乗り換えのための乗客が右往左往していた他にも、貨物車が、各地の産物を移動させるためにここに到着し、積み荷を降ろしたり乗せたりと、活気がある場所であったようです。 マークス・テイ駅ーサドベリー駅間を走る支線である、現ゲインズバラ鉄道も、他の多くの支線と同じく1960年代に閉鎖の勧告がなされたのですが、鉄道マニアのボランティアによって結成されたStour Valley Railway Preservation Sociaty(スタワー谷鉄道保護協会)が、反対運動を行い、1967年、当チャペル駅に拠点を構えます。周辺のすでに閉鎖された支線から、列車、信号扱所、その他の器具などの収集を開始。この区間の閉鎖は、何とか免れ、当協会の尽力で、1986年に、イースト・アングリアン鉄道博物館は一般公開を始めるに至ります。 私は、鉄道マニアではないのですが、このこじんまりした博物館が大好きで、過去、3,4回訪れていますし、チャペル駅はハイキングなどにも使うため、良く乗り降りします。以前、一度、博物館内で、ロンドンの駐在員一家風の、子供二人の家族連れ日本人に遭遇したことがあります。比較的マイナーなアトラクションなのですが、日本人は、電車好きなのか、探し当ててやって来たのでしょう。入場料は、現段階で大人6ポンド。特別なイベントのある日は、これより高くなります。 駅舎内の窓口に、人が立っていると思いきや、これはお人形で、内部は、昔ながらのチケット・オフィス。 今でも新聞、雑誌、本、お菓子などを売っている店、W.H.スミスのレトロなキオスクも再現してあります。1792年に、ヘンリー・ウォルトン・スミスが、妻のアナと共にロンドンで始めた新聞販売店。彼らの死後、商売は末っ子のウィリアム・ヘンリー・スミスによって受け継がれ、

ゲインズバラ鉄道とチャペル・バイアダクト

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チャペル駅から望むゲインズバラ鉄道 ロンドン、リバプール・ストリート駅から、イースト・アングリア地方の ノリッチ などに向かう本線の途中の駅であるエセックス州マークス・テイから、サフォーク州のサドベリーを結ぶ支線はゲインズバラ・ライン(Gainsborough Line、ゲインズバラ鉄道)と呼ばれます。終点 サドベリー が画家、 トマス・ゲインズバラ の故郷であるところから、わりと近年つけられた名前です。マークス・テイで、1時間に1本の、通常2両編成の電車に乗り換え。 マークス・テイ(Marks Tey) チャペル・アンド・ウェイクス・コーン(Chappel and Wakes Colne) ビュアーズ(Bures) サドベリー(Sudbury) と4駅のみ。風景が良く、田舎のぽこぽこ電車の雰囲気も抜群の、大好きな支線です。 以前、このブログで紹介した、 ロングメルフォード 、 ラべナム 、 クレア などは、すべて、この支線を使ってサドベリーまで行き、そこからバスで出かけました。以前は、上記3つの場所も、すべて、サドベリーから電車でつながれていたのですが、赤字削減のために、1960年代に行われた、イギリス各地の鉄道の支線閉鎖で切られ、今は電車は走っておらず、この辺りでは、サドベリーを終点とするゲンズバラ鉄道だけが、何とか生き残ったのです。 途中駅のビュアーズからのハイキング道もとても良く、スタワー川沿いの ドラゴン・ウォーク のハイキングをした時は、ビュアーズ駅から出発しました。またチャペル・ウェイクス・コーン駅には、 イースト・アングリアン鉄道博物館 (East Anglian Railway Museum)があり、古い駅舎や列車を覗きながら、のんびりしたひと時を過ごせます。 チャペル駅の前で、鉄道は、レンガ造りのチャペル・バイアダクト(高架橋、Chappel Viaduct)の上を走り、コーン川(River Colne)を渡ります。チャペル・バイアダクトは、一説によれば、ロンドンにあるバタシー・パワー・ステーションの次に、イングランドで2番目に規模が大きいレンガ造りの建設物であると言うのです。何をもって規模が大きいとするのかには、議論の余地がありますが。約320メートルと、イースト・アングリア地方では一番長い高架橋で、アーチ

かもさんおとおり

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道路を渡り終わったカモ一家 だんなの運転で隣村を通りかかった時、対向車が、停車して何かを待っているのが目に入りました。何かしらんと、その車の前を見ると、たくさんのひなを連れたお母さんカモが、よたよたと道を横断していたのです。私たちも、このため停車すると、カモ一家は、うちの車の前も通過し、一直線に道路を渡り、無事向かい側に到着。向かいにあった大きな家の前庭へと消えていきました。ここからどこへ行くんでしょうね。この大邸宅の裏に大きな池でもあるのかもしれません。 写真を撮ろうと、バッグをごそごそしているうちに、一家は道を渡り切ってしまいました。 以前、ヨークに住んでいたことがありますが、ヨーク大学キャンパスは、カモを含めた水鳥の数が非常に多いことで有名ですし、町の中心を大きな川が流れていることも手伝い、道路を渡るカモには、かなりお目にかかった覚えがあります。それでも、子連れの道路横断は、それほど頻繁に出くわさないので、これを目撃した後は、ちょっと楽しい気分となりました。 もっとも、こんな大家族でも、これから、一匹一匹、キツネやら、肉食の大型の鳥のお食事として、消えていき、泳ぐのが早い、走るのが早い、隠れるのがうまい、そして運が良いコガモだけが生き残り、最後、2,3羽でも残ればよい方なのでしょう。とりあえずは、ここで、車に引き殺されずにはすんだ・・・と。 今では慣れましたが、イギリスに来たてのころには、時折見かける妙な道路標識に、にやっとさせられたものです。上の写真は、「お年寄りと、カモが歩いている事が多い通りなので、ひかないように気をつけましょう」という道路標識。年寄りとカモというコンピネーションが、また微笑ましい。 先日通りかかった村のヴィレッジ・グリーン(村の小さな広場)でも、こんな大型標識を見ました。 Slow Ducks Crossing ゆっくり運転、カモが道路を渡る ヴィレッジ・グリーンには、小さな池があり、その周辺には、たしかに何羽かのカモがくつろいでいましたから、時折、道路を渡りたくなってしまうカモもいるのでしょう。 子連れカモを描いた、こんな手の込んだ標識も。 Caution Ducks Crossing 注意 カモが道路を渡る 「かもさんおとおり」で道路を渡るカモの親子を助けるおま

ビラリキーのブルーベル

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再び ブルーベル が森の地面を青く染める時期が巡ってきました。ブルーベルは、イギリス各地で、4月中頃から5月中頃にかけて見られ、最盛期は大体、4月末週から5月1週目あたりである事が多いのですが、今年は、ちょっと早い気がしますので、盛りが過ぎてしまう前にと、今週中にブルーベルの花見をすることにしました。いつもは、近郊の森に行くのですが、今回は余興を変えて、どこか別なところに・・・と、昨日、ビラリキー(Billericay)のノージー・ウッド(Norsey Wood)へ繰り出しました。以前から、この森は、世界で一番、ブルーベルの咲く密度が高い場所、などという話を聞いたことがあったので。「世界一」などと言ってもブルーベルの生殖範囲は比較的限られているようなので、さほど競争相手はいないはずです。 エセックス州ビラリキーは、ロンドン、リバプールストリート駅から30分と便がいいため、ロンドンへの通勤者も多い町。ビラリキーの町のフットボールクラブのロゴは、 ピルグリム・ファーザーズ を乗せてアメリカへ渡ったメイフラワー号であるし、メイフラワーという名の学校もあるし、町のところどころで、メイフラワーのシンボルを目にするので、ビラリキーは、メイフラワー号とふかーい関わりがあるのかと思いきや、これは、なんでも、メイフラワーに乗り込んだピルグリム・ファーザーズたちが、旅立つ前にビラリキーで会合した、と、それだけの事のようです。他に特に有名なこともないし、無理やり、町に箔をつけようとの、こじつけのような気もします。英語のウィキペディアによると、ビラリキー出身でメイフラワー号に乗って、新世界での移住を試みたのは4人で、4人とも、すぐに亡くなってしまったそうです。もっとも、その後、ビラリキーから、アメリカで移住を試みた人間たちが、1655年、現マサチューセッツ州ビレリカ(Billerica)に落ち着いて開拓したのだそうです。ちゃんと故郷の名前を、新しい土地に導入して。 さて、ビラリキー駅の周りは取り立てて何もなく、駅から北東に向けて徒歩10分ほどで、ノージー・ウッドに到着。 この森はなんでも、青銅器時代(2500-700BC)の古墳跡があり、19世紀中ごろの発掘で、火葬の灰を入れた壺が発見されているのだそうです。ブルーベルに覆われて、パッと見では、どこがその古墳跡なのやらわ

イースター・エッグ・ハント

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今週末はキリストの復活を祝うイースター・ウィークエンド。 イースター というと、なにかと卵が登場します。卵は、キリスト教以前の時代から、豊穣、生命が芽生えるシンボルでもあり、キリスト教が確立してからは、殻を破るようにして、墓の中からよみがえったキリストの象徴でもあり。卵をきれいに装飾し祝うという習慣も、キリスト教とは別に、世界の色々な地域で、色々な折に行われていたようです。キリスト教に関しては、イースター前の四旬節(レントlent)の約4週間は、卵を含めた肉魚を食べないしきたりもあり、再び、卵を食べられるようになると、ここぞとばかりに、卵をきれいに飾ったり、塗ったりしたというのも、イースターと卵のつながりの由来のひとつ。 一方、やはり豊穣のシンボルであるウサギも、イースターに使用されるようになり、籠を抱えたイースター・バニーがきれいに塗られたイースター・エッグを届けにくる、などという話に発展。 学校も休みですので、子供たちを毎日楽しませるのに頭悩ませ、イースター・ホリデーの間に、各地で催されるイースター・エッグ・ハントに子供を連れて出かける家庭も多いことでしょう。敷地内にイースター・エッグを隠してあるのを、子供たちが探し歩くのですが、大体、昨今のこうした催しのイースター・エッグは、ゆで卵などではなく、チョコレート。 すでに17世紀あたりから、イースターには、卵の形をしたおもちゃに、お菓子などの贈り物をつめて子供にあげる、などという風習が始まっていたようです。最初に卵の形をしたチョコレートが作られるようになったのは、19世紀初頭のヨーロッパ(ドイツ、フランス)だと言われています。イギリスでは、1873年あたりに、とある製菓業者が作りはじめ、次々と他社がまねをし、現在のように、イースターというと卵やウサギを模したチョコレートがスーパーの棚にぎっしり勢ぞろいするまでに至ります。結果、イースター期間には、子供がチョコレートを、がばがば食べすぎると、問題になるほどに。最近のイースター・エッグのチョコレートは、真ん中は空洞で、外の殻の部分だけがチョコレートである事が多いですが、まだ製造技術が発達していない時代は、ごりっと、全部チョコレートであったようで、殻の部分だけをチョコレートにするには、ひとつひとつ、かなり手をかけて作る必要があったようです。どんな些細な

クレア

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漆喰装飾が見事なクレアのエインシェント・ハウス サフォーク州にある可愛らしい町、クレア(Clare)は、サフォーク内で、 ベリー・セント・エドモンズ (Burry St. Edmunds)、 ラべナム (Lavenham)に次ぎ、3番目にリステッド・ビルディング(Listed building、歴史的価値があるとし保護されている建物)の数が多い場所であるとされます。が、その観光地としての知名度は、他の2つの場所に比べずっと低く、外国からの観光客などは、ほとんどいないのではないかと思います。私は、約9年前にここを訪れて、大変気に入り、先週、友人と、久しぶりに再訪してきました。 数ある歴史的な中世の建物の中でも、クレアの目玉は、15世紀に建設されたエンシェント・ハウス(Ancient House)。建物周囲の壁に施された 漆喰装飾 (pargetting)が見事。漆喰装飾自体は、家の建設の2世紀ほど後にほどこされたのではないかとされますが。内部は、ささやかなな地元の歴史に関する展示物のある博物館になっており、1ポンドの入場料で中に入りました。本当に小さく、展示の説明書きを全部くまなく読んでも、30分もあれば、全部見れます。受付のおじさんに、「車で来たの?」と聞かれ、「電車とバス。」と言うと、「それは、オールドファッションな方法で来たね!」と驚かれました。車社会ですから、こういう発言になるんでしょうね。私も、前回はだんなと車で来ましたし。確かに、 サドベリー 駅から、クレア方面のバスに乗ったとき、2階建てバスであったにもかかわらず、内部はからんとし、乗っていたのは、私たちも入れて、10人もいませんでした。ある意味、貸し切りバスのようで、いいのですが、みんな、もっとバスを使用してくれないと、そのうち、あまり使われないバス路線は打ち止めになってしまうのではないかと、心配にもなります。 エンシェント・ハウスから墓地を隔てた向かいが、町の教会、セント・ピーター・アンド・セント・ポール教会。 町のスワン・パブの、オークの木でできた看板は、イングランドのパブの看板で最も古いものといういわくつき。以前は、クレア城の中にあったものではないかとされます。 クレア城があった一帯は、今は公園となっています。こんもりとした小山の上にあるのが、ノルマン朝13世