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1月, 2014の投稿を表示しています

イングランド、そしてセント・ジョージ!

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God for Harry! England and Saint George! 神はハリー(ヘンリー)の側にあり!イングランド、そしてセント・ジョージ! 「ヘンリー5世」第3幕、第1場 (ウィリアム・シェイクスピア) 時は1415年、いわゆる百年戦争中の、イングランドとフランス。イングランド王座のみならず、フランス王座も頂戴したいところの、ヘンリー5世とその軍隊は、フランスに上陸。北フランスのアルフルールにて要塞に囲まれた町を包囲襲撃する事、約6週間。9月22日に、ついにアルフルールを陥落させます。シェークスピアの戯曲「ヘンリー5世」内での、アルフルール包囲戦の場面で、ヘンリー5世が、戦い前に叫ぶ、有名なバトル・クライ(戦の雄叫び)が、上の「イングランド、そして、セント・ジョージ!」です。ここで、ヘンリーは、えいやーと剣を空に掲げ、意気高揚した兵士達が、「おー!」と答えて、襲撃・・・という事になるわけです。 ここで出てくるセント・ジョージ(日本では聖ゲオルギウスなどと称されるようですが)は、イングランドの守護聖人。白地に赤の十字のセント・ジョージの旗は、イングランドの旗でもあります。サッカーなどで、イングランドがプレーする時に、ファンがさかんに振る旗なので、馴染みの事でしょう。 ところが、セント・ジョージは、もともと、イングランド人ではなく、3世紀のローマ帝国の兵士で、しかも、現トルコのカッパドキア出身、後に現パレスチナへ移ったとされる人です。人種的には、どうなんでしょう、ギリシャ系か何かでしょうか?お肌の色なども、いわゆるイングランド人に比べ、こんがりして健康的だったかもしれません。時に、イングランドのセント・ジョージ旗は、イングランド内の白人を優越とする、人種差別グループなどにシンボルとして使用される事もあるのですが、ジョージ自身が、そういう人たちに、差別されてしまうようなバックグラウンドなのです。もっとも、ヘンリー5世などの王様たちも、生粋のイングランド人とはほど遠く、大陸ヨーロッパの血が濃い人たちで、結婚相手も、大体の場合、大陸ヨーロッパの貴族王族の娘から選んでいたわけですから、イングランド、イングランド人というものが、人種的には、いかに漠然とした概念であるかがわかります。(イングランドの王様達の人種について、詳しくは過去の記事「 英

風見鶏

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風見鶏は、英語で「weathercock」。風の方角を見るために屋根の上に立てる風向計「weather vane」の事ですが、なぜ、鶏「cock」なのか・・・と思った事はあるでしょうか。 なんでも、これは、教会の塔の上に風向計を立てる際に、ペトロ(または、ピエトロ、ペテロ。英語では、ピーター。)のシンボルのひとつである、鶏を形取ったものを備え付ける事が多かった事によるそうです。この事は、実は、最近、ぱらぱらめくって眺めていた、イギリスの子供の本に書いてあったのを見つけて知ったのです。教会の屋根に風見鶏を立て、教会に集まってくる人々が、イエスを否認した時のペトロの事を思い出すように。 福音書によると、ペトロは、拘束、連行されてしまったイエスの事を、鶏が2回鳴く前に、「あの人物は、知らない、自分と関係ない。」と3回否認。前もって、イエスから「お前は、鶏が2回鳴く前に、3回私のことを否認するだろう。」と告げられており、3回目に、イエスを否認した際に、イエスの言葉が頭に蘇り、羞恥のために泣き出すのです。 下は聖マルコによる福音書より。 The Gospel According to St. Mark (Chapter 14) 30. And Jesus saith unto him, Verily I say unto thee, That this day, even in this night, before the cock crow twice, thou shalt deny me thrice. そして、イエスは、ペトロに曰く、「汝に告げておこう。本日、いや、この夜、鶏が二度鳴く前に、汝は私の事を、三度否認するであろう。」 その時、ペトロは、イエスに、「とんでもない、あなたを否認するなど、死んでもしない。」と言いながら、実際、イエスが連行されてしまった後、糾弾されるイエスの周りに集まった人間から、「あんたは、イエスの一味じゃないのか?」と三度聞かれ、三度とも、「俺は、こんな人間の事は知らない!」答えるのです。危機に直面した時、いかに人間の誓いや意志など、もろく崩れてしまうか。聖書は、人間ドラマとしても面白いのです。 72. And the second time the cock crew. And Peter called

スコット隊長の南極探検

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1912年の1月17日は、キャプテン、ロバート・ファルコン・スコット率いる、計5人のイギリスからの探検隊が、サウス・ポール(南極点)に到着した日です。この快挙にもかかわらず、記念写真の皆の表情がいまひとつパッとしないように見えるのは、寒さと疲れもあるかもしれませんが、ロアール・アムンゼン率いるノルウェーからの探検隊に先を越されてしまい、南極点一番乗りの夢が破れ、意気消沈していたからでしょうか。写真内、立っている人物は左から、ローレンス・オーツ、スコット隊長、エドガー・エヴァンズ、座っている人物は左からヘンリー・バワーズ、エドワード・ウィルソン。ちなみに、アムンゼンの南極点到達は、1911年12月14日。スコット隊が到着した際には、ノルウェーの旗がすでに翻っていたのです。スコットが日記に綴った印象は、「最悪のケースが現実となった。白昼夢は捨てねばならぬ。」そして「なんて、ひどい場所だ。」 イギリスの旗を揚げ、写真を撮り、アムンゼンの残した「無事な帰途を祈ります」のメッセージを読み・・・。5人は、南極点で休息を取り、観測を行いながら、2日間過ごした後、再び、重い足を引きずり、長い帰途に着きます。そして、そのまま、途中で息絶え、帰らぬ人となる5人の苦行は、キャプテン・スコットの残した日記や、他のメンバーの手記などで、後に明らかとなるのです。 北極は、英語でArctic。語源は古いギリシャ語で、「北方の」の意味。南極は英語でAntarcticで、ギリシャ語の語源の意味は、「Arcticの反対」。確かに!地球の自転軸が通る北極点、南極点の英語は、それぞれ、North Poleと South Poleです。 北極点は、1909年にすでに到達されており、それよりも到達が難しいとされた南極点は、アイルランドの探検家アーネスト・シャクルトンが、やはり1909年に、到達を志すものの、南極点まで180キロの所で、引き返す事を余儀なくされています。誰が、南極点に最初にたどり着けるか・・・この時期の冒険家にとっては、「よし、俺が」となるのでしょう。スコットは、1901年から1904年にかけて行われた、ディスカバリー号での南極探索に、シャクルトンと共に参加した経験を持っていました。 キャプテン・スコットの一隊が、スコットランドの古い捕鯨船「テラ・ノヴァ」で南極大陸に到着

ユニオンジャックの歴史

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イギリスの国旗、ユニオンジャック。その歴史の第一歩は、400年以上前の事となります。 1603年、世継ぎを残さなかったエリザベス1世が死去。エリザベス女王の命で斬首刑となった、メアリー・スチュアートの息子で、スコットランド王のジェームズ6世が、ジェームズ1世として、イングランドの王座も継承する事となります。当時はまだ別々の王国であったイングランドとスコットランドの2つの王座を手にしたジェームズは、2つの国を統合させ、グレートブリテンを打ち立てる夢を見たものの、長年いがみ続けてきた2つの国の合体を実現させる事はできずに終わり、自らを「キング・オブ・グレートブリテン」と呼び、2つの王国を合体させた旗を作るくらいで我慢となります。 こうして出来上がったのが、イングランドの セント・ジョージ の旗(白地に赤の十字)を、スコットランドのセント・アンドリューの旗(青地に白のバッテン)の上に重ねたデザインのユニオン・フラッグ(またはユニオン・ジャック)。イングランドの旗は、サッカーなどで、日本でもお馴染みのことでしょう。ばつ型の十字は、英語で、saltire(ソルタイアー)と言うため、スコットランドのセント・アンドリュー旗は、時に単にソルタイアーと呼ばれる事もあります。 ユニオンジャックを作るにあたり、他にも、色々なデザインが考案されたようです。上の図は、スコットランドの国立図書館貯蔵のもの。1604年あたりに描かれたものだそうで、2つの国旗を、どう組み合わせるか、試行錯誤で、苦労している様子がわかります。使用されなかった、こうしたデザインを眺めると、最終的に選ばれたユニオンジャックが、いかに視覚的に気持ちよいか、改めて見直す事ができるのです。 こうして、この段階では、まだ、イングランドとスコットランドの政治的連合が成し遂げられなかったため、ユニオンジャックは、あくまで王家の旗であって、国旗ではなく、その使用も、船に掲げる旗として、海上のみであったようです。ユニオンジャック発表と同時に、スコットランドからは、「なぜに俺達の国の旗がイングランドの旗の下になるのか」と、さっそく文句が入り、スコットランドの船乗り達は、イングランドの赤十字を下にして、その上にスコットランドの旗を載せたデザインのものを作り、一時的に使用していたといいます。 ジャックというのは、

スコットランド独立?

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今年2014年のイギリスの話題としては、 第一次世界大戦開始 (1914年)の100周年記念の数々の式典が予定されている事、そして秋には、スコットランドにて、スコットランドのイギリスからの独立を国民に問うレファレンダム(国民投票)が行われる事が、まず頭に浮かびます。 折りしも、今年は、スコットランドのロバート・ブルース(ロバート1世)がエドワード2世のイングランド軍を大敗させた、バッノクバーンの戦い(Battle of  Bannockburn、1314年)の700年記念の年。スコットランドのファースト・ミニスター(スコットランド議会の長)、アレックス・サモンド(上の写真右)は、自分の在職中に、スコットランド独立を達成させ、新しいスコットランド建国の父などとして、歴史に名を残したいところなのでしょう、必死で、スコットランド国民にイングランドからの独立に投票するように呼びかけています。若者の方が、「独立」のロマンに誘われて、イギリスからの独立にイエスと投票しやすい傾向があるらしく、この投票に関しては、16歳から投票していいことにしようなどと、ちょっとずる賢い方針などもとっています。ついでながら、スコットランドの英雄として称えられるロバート・ブルースは、民族的には、スコットランド人とは言いがたい人のようですが。 もし、スコットランドが、本当にイギリスから独立することになったら、資産や負債をどう分けるか、比較的はっきりしている国境線はともかく、大切な北海油田を有する海域をどう分けるか、軍事はどうするのか、色々、解決が必要な問題は数限りなくあります。今のところ、アレックス・サモンドは、もちろん油田はスコットランドのもの、世界でも大人気のイギリス王室はキープしたい、通貨は、今のところ調子の悪いユーロでなくて、ポンドを使い続けたい、BBCの放送も維持したい・・・などと、勝手に、良いとこ取りのような事ばかり言ってますが。実際に、詳細をきめる段階で、喧々囂々の大騒ぎとなる事は必至でしょう。無理やり例えると、仮に、北海道の人口の大半がアイヌ人であったとして、北海道を日本から独立させようという事になったら、どういう問題が出てくるか・・・という風に想像してもらえればよいかと思います。 去年、ウィンブルドンを優勝、一昨年のオリンピックではイギリスへテニスの金メダルをもたらし