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6月, 2010の投稿を表示しています

ドイツめ、憎きドイツめ!

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本日は気温も今年最高を記録し、ロンドンも30度を越えることが予想されています。かんかん照りの午後のイギリスのメインイベントは、ワールドカップのイングランド対ドイツ。朝からラジオなどでもさかんに盛り上がっています。 タブロイド紙(週刊誌的な話題の多い大衆紙)では、連日この対戦の話題。数日前は、サファリパークで車に乗って3匹のライオンを眺めているドイツの選手達の写真を各紙掲載し、「ドイツ陣営は、3匹のライオン(イングランドのシンボル)を怖がっている」という似たり寄ったりのトップ記事。ドイツが、今のイングランドとの対戦を怖がってるとは、私にはとても思えないんですが! 本日も、タブロイド各紙、この試合を第2次世界大戦に関連つけて盛んに書きたてているそうです。初めてこの国に来た時に思ったのですが、とにかく戦後何10年というのに、この国、第2次大戦のドキュメンタリーや、その関連の記事がやたら多い。討論などでも、今でも大戦中の話はやたら言及されるのです。勝利国のメンタリティーと言ってしまえばそれまでですが。今朝のラジオで、ドイツのコメディアンが一人ゲストで招かれ、ワールドカップの話題となり、イギリスは未だ昔に勝った戦争にしがみついて、ドイツはその間、経済大国として成功している、イギリスもそろそろ、前向きになったら、のような事を言ってました。そして、前回イングランドがドイツに破れた際、暴れ者のイギリス人が町へ繰り出し通りに止めてあるドイツ車を破壊しまくったというエピソードを話し、その後に、「今回、また負けたら、どんどんドイツ車を壊して欲しい。所有者が、新しいドイツ車を注文するだろうから、ドイツの経済にいいよ。」 また、ドイツは、ワールドカップのペナルティーで負けた事が無い国だとも。1990年イタリアのワールドカップも、イングランドは西ドイツとのセミファイナル、ペナルティーで負けたのでした。この大会は、西ドイツの優勝に終わり。 日本でも昔プレーしたことのあり、今ではBBCのフットボール番組の司会ゲイリー・リネカーが以前言った有名な言葉があります。 Soccer is a game for 22 people that run around, play the ball, and one referee who makes a slew of mistakes, and in the

スカウトとロック・コンサート

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先月、ハイランズ・ハウス(Hylands House)という18世紀に前半に建てられた貴族の邸宅を訪れました。現在は、地方自治体の手に渡り、建物内は有料で一般公開されています。最寄駅は、ロンドンからは、40分ほどのエセックス州チェルムスフォード。 この建物のある、広々とした緑の敷地(ハイランズ・パーク)は、無料で、ピクニックには持ってこい。ハイランズ・パークでは、1996年から毎年夏に、Vフェスティバルと称される有名な一大ロック・コンサートが催される事でも知られています。今年のチケットは何でも売り出し開始の1時間半後に売り切れたという話ですので、不況もどこ吹く風といったところ。 ハイランズ・パークでは、その他にも、2007年の夏、エドワード朝イギリスで始まったボーイ・スカウト運動100周年記念の世界スカウトジャンボリー(World Scout Jamboree)が催され、世界約160の国々から3万8千人のボーイ・スカウト、ガール・スカウト達が集まった場所としても記憶に新しいところ。敷地内に、この行事の記念に作られたOne World Gardenには、トーテムポールが立っていました。 確か、この年のVフェスティバルが終わった後、新聞に、ロック・コンサートを訪れた輩が、ハイランズ・パークに残したごみの山が写真入で記事になっていました。世界各国のスカウト達は、ちりひとつ残さず、綺麗に片付けて帰って行ったたのに、Vフェスティバルへ行ったイギリス人が去った後のこのていたらくは、何たることか・・・と嘆く記事内容だったと思います。これには、敷地内のカモ達も、あきれたカモ。 さて、建物と敷地自体の話に戻ります。 1730年に建てられた赤レンガの邸宅は、時代と共に新しいオーナーによって拡大改築が加えられていきます。 ネオクラシカル(新古典主義)と称される白い建物に姿を変えたのは、1780年代、敷地のデザインを依頼された、売れっ子のガーデン・デザイナー、ハンフリー・レプトン(Humphry Repton :1752-1818)が、赤レンガが嫌いだったからだとか。彼は敷地内に、ロンドンのハイドパークよろしく、蛇形の池(サーペンタイン)を築きます。レプトンは、当時、一世を風靡した「自然に見えて自然でない」「自然を改良した」ランドスケープ・ガーデンを得意とし、ラン

殉教者の丘にて

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白いお菓子の宮殿といった感じのサクレクール寺院が聳え立つ丘、モンマルトルの丘。モンマルトル(Montmartre)は、ラテン語のMons Martyrum(「殉教者の丘」の意)から由来した名。 遡ることローマ時代の258年、パリ初のキリスト教司教で、御年90歳であったドニは、ローマ皇帝の神聖性を否定したとして、逮捕され、2人の支持者と共に、マーキュリーの神殿があったというこの丘で、斬首刑となります。言い伝えによると、処刑のあと、ドニは、ひょいと打ち落とされた自分の首を髭をつかんで持ち上げると、近くの流れで洗い、それを抱えたまま、しばらくトコトコ歩き続け、現在のサン・ドニ(聖ドニ)に到着したところで倒れた、という事。彼の遺体は、サン・ドニに埋葬され、後にその場に建てられるのは、代々のフランス王の埋葬の地となるサン・ドニ大聖堂。そして処刑のあった場所は、「殉教者の丘」と呼ばれ。 前回モンマルトルに来たときも、大変な人出だったのですが、今回はまた、日曜日とあって、こみこみでした。階段をひーこら登って、寺院の前に辿り着き、振り返るパリのパノラマ。ああ、来たかいがあった。 寺院内は日曜日のミサが行われており、観光客のほか、ミサに参加する人々でも満員御礼でした。 1870年に勃発した普仏戦争により、ナポレオン3世は瞬く間に失脚し、第3共和制が設立。戦時中パリは、プロシア軍に包囲され、猫やねずみ、動物園の動物まで食べて飢餓を忍ぶ事となります。この間、外とのコミュニュケーションを取る手段とし、週に、2,3回の頻度で、北駅周辺や、モンマルトルの丘から気球を飛ばします。ただ、この気球は一方通行で、出て行くと戻って来れないという落ち度があり、外からパリへの伝達事項は、伝書鳩が使われたと言います。放たれた伝書鳩の数は302羽。うち、無事パリに到着し任務を遂行したのは59羽。残りは鷹などに取られたり、寒さで死んだり、また、お腹をすかせたパリ市民のパイの中身になってしまったと! プロシアの包囲に続くは、多大な死者を出す事となった、パリ・コミューンと一時ヴェルサイユにおかれた政府との流血騒ぎ。そんなこんなの大騒動の後、1875年に着工開始されたサクレクール寺院は、ようやく訪れた平和と希望の象徴のようなものだったのでしょうか。1914年に完成したものの、今度は、第一次世界大

モンパルナス墓地の朝

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今回のパリでのホテルは、モンパルナスにあったので、ホテルでの朝食を取る前に、近くのモンパルナス墓地を散歩して来ました。 この墓地、シャルル・ボードレール、サルトルとボーヴォワール女史、ジーン・セバーグ、サンサーンス、サミュエル・ベケット、セルジュ・ゲインスブール、 ドレフュス事件 のアルフレッド・ドレフュスなどのお墓があると言います。どこに誰のお墓があるのやら、墓地の図の入ったガイドブックを部屋に置いてきてしまったし、あまり時間もなし、特に捜し求める努力もせずに、ただ、雰囲気だけどんなものかと、かっちりと区画された墓の間を通る並木道の木陰をそぞろ歩きました。 墓地というよりは公園の趣で、近道をするためすり抜けた通勤風の人や、お散歩風の人が数人歩いているほど。観光客風はほとんど見かけませんでした。墓地の整備のお兄さん達に通りすがりに挨拶され。 墓地のほぼ中心に立つ像は、「永遠の眠りの天使」。 上の写真の、空ににょきっと突き出しているのは、巨大な墓石・・・ではなく、モンパルナス=ビヤンヴェヌーのメトロ駅の上に建つ、モンパルナス・タワー(Tour Montparnasse:トゥール・モンパルナス)。210メートル、59階建てのこのタワーは、現段階ではフランス国内で1番高いビルということ。レストランと見晴台があるらしいですが、今回は登りませんでした。絶景でしょうね。パリに合わない、醜い、と出来上がった後、不満の声が多かったようで、これが建てられすぐ、パリ中心部での高層ビルの建設は禁止になったとか。当のビルはそ知らぬ顔で、小人の国のガリバーとして周囲を見下ろしています。 こんなタイル張りの猫のお墓がありました。有名人のものではないようですが、冷たい感じの墓石より、死んだ人の楽しい性格を感じるようで、良いものです。それに、このお墓から出てくる幽霊なら、普通の墓石の陰からドロドロと出てくる幽霊より、怖くない気がします。私だったら、どんな墓を作ろうか、きのこの形なんてどうだろう、としばし考えていました。 ささっと歩いて、お腹もぐるぐるしてきたところで、朝ごはんへ戻りました。

リュクサンブール公園の午後

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15年以上も前の事、初めてロンドンからパリを訪れる直前に、何度もパリへ行った事がある知り合いに、お勧めスポットを聞いた事がありました。彼の答えは、「リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)がいい。」とにかく綺麗で、ずっと座っていたくなるから・・・と。その後、パリを訪れるたび、行こう行こうと思いつつ、それは見所の多い首都の常で、この人のお勧めスポットは行き逃していたのを、今回、やっと訪れてきました。 セーヌ左岸にあるリュクサンブール宮殿と公園は、17世紀に、良王アンリ4世の後妻でルイ13世の母、マリー・ド・メディチ(フランス読みはメディシス)が、故郷フィレンツェを思い起こせるよう作られたもの。(参考までに、アンリ4世の前妻は、 マルグリッド・ド・ヴァロア 。)この公園を勧めてくれた人はイタリア人なので、イタリア風というのも気に入った理由でしょうか。 アンリ4世が、1610年に、カソリック狂信者に殺された後、若きルイ13世の摂政となったマリー、1612年に、この土地を購入し1615年、建設開始。 宮殿装飾用には、当時の巨匠画家ピーター・ポール・ルーベンスに、自分と夫、家族の栄光を讃えた、マリー・ド・メディチ・サイクルと称される20枚以上の巨大画を依頼しています。決して美人とは言えぬ、ぽっちゃり顔の彼女を出来るだけ神々しく描く・・・画家も大変です。その分、見返りは非常に大きいですが。絵は現在はルーブル美術館に。下の絵は、メディチ・サイクルの中から、アンリ4世の死と、マリーの摂政時代の始まりを描いたもの。 宮殿完成の1631年には、彼女は、ルイ13世の枢機卿リシュリーによりフランスより追われ、亡命。 午後5時ごろ、宮殿前の噴水の周りには、暖かな初夏の日を楽しむ人々が、のんびりと椅子に座り、喋り、読書し、または、眠りこけ。私も、一日歩き回って疲れた足を休ませるのに、ひとつの椅子に陣取り、しばし、うとうと。シュロの木の様なものがあるところが、南欧風です。 憩いの場所としては、どちらかと言うと、私は、緑がもっと深く、自然に近い風景のロンドンの公園たちの方が、パリの公園よりも好きですが、パリの公園の良いところは、とにかく、その椅子の数。どんなに人がいっぱいいても、絶対どこか気に入った場所で、椅子を確保できる事。まあ、ロンドン

バラの花咲くロダンの館

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パリ滞在中の、お天気の良い午前中、ロダン美術館へ足を伸ばしました。 彫刻家オーギュスト・ロダンが、1908年から亡くなる1917年まで住み、製作を行ったビロン館。彼の死後、国に寄贈された作品の数々が、この館内と美しい庭のそこかしこに展示されています。ゴッホ、ルノワールの絵数点も、館内にあり。手持ちの小型ガイドブックには、ピースフルな美術館、などと書かれていたので、比較的人が少なく静かな美術館かと思いきや、2000本はあるというバラの香りに誘われてか、観光客でにぎわっていました。 上の写真の背景に垣間見られる丸屋根は、通りを隔てた向かいに位置するアンヴァリッド(旧軍病院)のドーム教会の屋根。ナポレオンの柩があるところです。 前庭にある「考える人」も、暖かな陽射しを受け、バラの中、「うたたねする人」にも見えなくもない・・・。 とにかく、試作なども含め、がんがん製作に余念がなかった感じです。 館内には、ロダンの愛人であり、モデルであり、本人も彫刻家であったカミーユ・クローデルの作品を展示した部屋もありました。2人の年の差、約20歳・・・。ロダン氏、製作のみならず、私生活でも大忙しだったわけで。 長年の内縁の妻ローズを離れられないロダンとの関係をめぐり、後に狂気にいたる情熱の美女カミーユというと、イザベル・アジャニー主演の映画、その名も「カミーユ・クローデル」を思い出します。この映画のDVDが館内のショップで売られているのを目にしました。彼女、どうしてもロダンの愛人のイメージが先行しますが、作品見ると、特に彫刻に精通しているわけでもない私には、十分すばらしく見えたのですが。 また、ヨーロッパで活躍した日本人女優で、ロダンの唯一の日本人モデルとなった花子さん(大田ひさ)の実物大よりずっと大きな頭像もあり。 上の写真の奥に見えるのが、ダンテの「神曲」に書かれている地獄を表現した「地獄の門」。「考える人」もこの門の上部に組み込まれた要素のひとつ。 「地獄の門」の一番上に立つ、頭を下げ、片手を下に差し伸べる3人の像のポーズは、映画「カミーユ・クローデル」の中では、カミーユがとっさに取ったポーズからインスピレーションを得たものとされていたと記憶します。(かなり前に見た映画で、100%断言できませんが。) 「キス」も当初は、「地獄の