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ロンディニウム

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ローマ時代ロンドンの模型 ロンディニウム(Londinium)とは、ローマ時代のロンドンの事です。 前回の記事 の通り、43年、皇帝クラウディウス(Claudius)の時代、ローマ軍がケント州の海岸線に上陸し、当時重要であった町コルチェスターに至るまでの中継地にあった、現在のシティー・オブ・ロンドンにあたるこの地にやって来ます。それ以前は、ロンドン内には、確固たる集落が築かれていた形跡もなく、ロンドンの基盤を作ったのは、ローマ人という事になります。 形式上イギリスのローマ時代が終わったとされる410年から、約1600年が経ち、その間の人間の営み、建設、火災などによる破壊、再びの建設・・・などを繰り返し、現在のロンドンは、そうした過去の瓦礫の上に建っている町です。そのため、ローマ時代の証拠品を発見するには、軽く3、4メートルは地面を掘り起こす必要があります。沢山の建物が立ち並ぶ都会で、こうした発掘を一気に行うのはまず無理。そのため、ロンドン内で、「これぞ、ローマ時代の遺跡じゃー!」と、はっきり目に見えるものは比較的少ないのが現状です。ある建物が老朽化し壊される度、新しいビルを建築する前に、考古学団体が、ここぞとばかりに、その地の発掘を行うという事になり、あちらこちらで、少しずつ、少しずつ、ジグゾーのかけらが見えてくる感じとなっています。 例えば、テムズ川沿いの、ローマ時代の港や船着き場の発掘などは、1970年代に盛んに行われたようですが、そのきっかけとなったのが、コンテナというものの発明とその使用の普及化。それまでは、船でロンドンへ運んで来られた輸入品は、テムズ川沿いのドックや船着き場で降ろし、そばの倉庫に一端収容する必要があったのが、このコンテナ化により、倉庫や、荷揚げのためのドックが必要となくなり、一夜にして、テムズ川沿いのドック・ランドや倉庫街が無用の長物と化したのです・・・よって、その取り壊しが盛んに行われるようになり、考古学者にとっては、思いもかけないラッキーな展開となった次第。 それでは、わかっている範囲内での、ローマ時代のロンドンのざっとした歴史を見てみましょう。年代はあくまで目安です。 43年  イギリスのローマ時代の始まり。 47年  ロンドンの本格的建設の始まり。ここでいうロンドン、当時の名でロンディニウムは、場

イギリスのローマ時代

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コルチェスター城内にあるローマ時代のモザイク イギリスでのローマ帝国の支配が始まるのは、皇帝クラウディウス(Claudius)の軍が現ケント州のリッチバラ近郊に上陸した43年。どもりで、びっこあったとして知られるクラウディウスは、軍人として知られてはおらず、自分の皇帝としての立場と評判の確立のため、遠征軍を送り、イギリス侵略を執り行なったとされます。イギリス海峡を渡る前のローマ兵の中には、海を渡ってまで、得体のしれない辺境の地へ行くのに不信を示した人間も多かったようですが。ちなみに、この時のイギリスへの遠征軍には、後の皇帝となる若き日のウェスパシアヌス(Vespasian)も参加しています。 この時から遡る事、約1世紀前の、紀元前55年と54年に、やはりケント州、ディール付近の海岸線に降り立ったのはジュリアス・シーザー。栄光を求め、また、金銀が取れるなどと言う噂もあって、辺境の地イギリス(この後はブリテンBritainと呼ぶことにします)にやって来たシーザーは、ブリテンを植民地とするでもなく、金銀を掘り上げることもなく、再び海峡を渡ってフランスに戻っています。ですから、クラウディウス帝としては、なおさら、ブリテン征服は、偉大なるシーザーですら成しえなかった快挙という頭もあったのでしょう。 ローマ以前のブリテンは、各地に多くの原住部族が、小国を打ち立てていた社会。言葉も、部族や場所によって、かなりのバリエーションがあったようです。常に部族間の領土争い、小競り合いがあり、ブリテンというひとつの国に属するという感覚は皆無。よって、外敵が上陸しても、一致団結して敵に立ち向かうという状況ではなかったのです。一説によれば、シーザーも、クラウディウスのローマ遠征軍も、敵部族をやっつけるため、ブリテン内の部族のひとつに招かれたという話もあります。 同時代に、ブリテンのローマ時代について書かれた記録は非常に少なく、実際どこで何が起こったか、どういう社会であったかなどは、その数少ない記録をよりどころにしながらも、あとは、各地の発掘による考古学に頼るのがほとんどです。 とりあえずは、ローマ軍は、ケント州リッチバラ付近に上陸したのではないかとされ、ケント州北部を流れる メドウェイ川 で、原住部族のひとつと戦い、勝利し、更にテムズ川へと進み、テムズ川で更なる戦い。その後