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4月, 2009の投稿を表示しています

レーディー・ジェーン・グレーの処刑

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ロンドン、 ナショナル・ギャラリー 。中世の宗教画から印象派まで、幅広く揃っていますが、現代では、一般にあまり知られていない19世紀フランス画家、ポール・デラロッシュによるこの絵、「レーディー・ジェーン・グレーの処刑」は、その巨大サイズと、ドラマチックな題材で、やけに目を引く一枚です。 ヘンリー8世の妹、メアリーの孫娘で、「9日間の女王」とも呼ばれるジェーン・グレーは、1554年2月12日、17歳の若さで、ロンドン塔で、打ち首。彼女の処刑の描写した手記も残っています。 「すばやく殺して下さいますよう。」とつぶやきながら、彼女(ジェーン)は目隠しをしめた。世界は目の前から消え、彼女はひとり。暗闇の中で、手探りをしながら、叫んだ。「どうすればよいのですか?ブロック(首切り台)はどこですか?」何者かが前に歩み寄り、彼女を導くと、ジェーンはブロックに屈み込み、身をのばした。「神よ、御手に私の魂をお預けします。」斧は打ち落とされ、死刑場に血が飛び散る。血はおどろおどろしくわらを濡らし、立会人にも降りかかった。 これも、斧一振りで済めば良いですが、首切り人が下手くそだと、2、3回にわけて斧を振られてしまう事もあったそうで。壮絶。ヘンリー8世の第2婦人で、やはり処刑されたアン・ブリンは、自分の処刑には、そんな事が無いようにと、剣に優れた者をわざわざフランスから呼び寄せたと言います。処刑される側としては、ギロチンの方がまし? ・・・それにしても、ジェーン・グレイ、何故こんな憂き目に会ったのか。 事の起こりは、6人の妻を次々と娶ったヘンリー8世の唯一の男児で世継ぎであった、エドワード6世が、少年期に夭折してしまった事。 エドワード6世亡き後、王位継続候補は その1、カソリックのメアリー(ヘンリー8世の1番目の妻、スペイン人キャサリンの娘) その2、プロテスタントのエリザベス(ヘンリー8世の2番目の妻、アン・ブリンの娘)。 エドワード6世は3番目の妻、ジェーン・シーモアの子供ですので、この二人はエドワードにとっては腹違いの姉さん達。 こういう継承を巡ってのお家騒動で必ず暗躍するのは、野心家の悪役。そこで登場!王の信頼を受けていたノーサンバーランド公ジョン・ダドリー。王族の血が入っていないイギリス人としては初めて公爵(デューク)の位のついた人

イングリッシュ・オーク

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イギリスの各所で見られるオークの木。その、夏の豊かな緑や、冬のねじれた枝が、にょきっと広い空に突き出している姿を見るのが好きです。 寿命の長さと、家具や木材にしたときの堅さ質の良さで、「森の王者」とも称されます。イギリスの国土と気候に適した木であるため、多少の病気にも強く、平均250年の生涯の中、200種以上の生物(カビやきのこ、微生物を含む)の住処となります。葉は多くの虫の幼虫の食べ物となり。ですからオークは、間接的に、それら虫を食べる小鳥、そして、小鳥を食べる鷹類の生命も支え。リスは枝の上に巣をつくり。朽ちかけたオークの木の穴にふくろうが住むというおとぎ話めいた光景もわりとあるのかもしれません。 オークの葉と、その実であるどんぐり(エイコーン)のマークはナショナル・トラストのロゴとしても使われています。 とある、名もない教会にふらりと立ち寄った際、内部に、何気なくこの写真の様な木製の箱が置かれていました。400年以上前に、1本のオークの幹をくり貫いて作ったダッグ・アウト・チェストです。教会の大切な書類や、貴重品を入れて、錠をかけ使用したと言う事。以前、別の教会でも似たものを見た事があります。私もこんな立派なチェストを持っていたら、家宝を中にしまって大切にする事でしょう。 船が、木製であった時代は、当然、造船にはオーク材が多量に使われていましたし、教会内のチェストや内装に限らす、昔のイングランドでは、ゆりかごから棺おけまで、人生の中、常に身近に触れる木であったのです。 最近では、オーク製の家具なども、かなり手ごろな価格で買えますが、これは、中国などから、大量にオーク材が輸入されているためで、イングリッシュ・オークで作った家具は、輸入オークで作ったものに比べ、ぐっと値段があがります。 ***** 国内あちこちに、歴史的いわれのあるオークは沢山あります。一番有名なのが、ロイヤル・オークでしょうか。 父親チャールズ1世が処刑され、フランス、後にオランダに亡命していたチャールズ2世が、クロムウェルから政権を取り返そうと英国へ戻る。1651年のウスターの戦いに敗れた後、チャールズは王党派のギルフォード家所有、 ボスコベル・ハウス にかくまわれ、館のそばに立つオークの木によじ登りやって来た追っ手から隠れたといういわれの木です。現在この

自然が呼んでいる

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昔の新聞や雑誌の切抜きを整理している際に、「自然と動物と触れ合う事は、健康に良い」といった内容の数年前の記事に行き当たりました。 うつ病気味の人が、イルカと一緒に泳いだり、馬に乗ったりする事で、幸福感や生きる意義を回復したり、心臓病や、卒中を経験した人達が、犬の頭をなでたりすることで、血圧が下がったり、ストレスが減ったり。ペットを飼ったりするのも、可愛いの他にも、健康や精神衛生上の、効果があるらしいです。 歯医者の待合室などでも、水槽が置かれており、泳ぐ魚を20分ほど眺めてから診察を受けた患者は、普通の場合に比べ血圧が下がっているという調査結果もあるそうで。 また、以前読んだ別のニュースでは、交通事故で右半身不随となって喋る能力も無くしてしまった米の男性ウィルソン氏が、ペットのオーム2羽、デイジーとローズバッドに話しかけようと、言葉にならない声を掛けているうちに、話す能力を取り戻したとありました。自分の声を聞くと、喜んで話し返し、自分の愛情に敏感に反応するオーム達に励まされたようです。そして今は、喋る事はもとより、歩く事もできるようになったと。 すばらしいオーム達への恩返しのため、氏は、ウィルソン・パロット・ファウンデーションを設立し、ひどい扱いを受けたり、捨てられたり、飼い主が面倒を見切れなくなったオーム達を引き取り世話をする活動を行っています。 氏いわく、 親戚や友達などの人間の愛情も、それは、いいものであるし、助けになる。ただ、動物が身近におり、自分に話しかけてくれ、愛情をそそがれるのを待っているのを見ると、「もっと、よくならねば」という励みになる。  健康に良い4つの自然との交流として、 動物とふれあう 植物とふれあう 自然な場所とふれあう 景色を眺める があがっていました。 上記の新聞記事は、日本で行われた調査にも触れていました。この調査は、コンクリートの壁を眺めていた人と、植物の垣根を眺めていた人との反応を比べるというもので、前者はストレス度があがり、後者はリラックス度があがったという結果。似たような調査で、空っぽの花瓶を眺めた人と、花が飾ってある花瓶を眺めた人ではやはり同じような結果だったと言います。 この様な、自然が健康に与える良い影響の原因は、いまひとつ良くわかっていないようですが、

たのしい川べ

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子供時代、近くの図書館で借りてきた、ケネス・グレアム作のWind in the Willows(直訳は、「柳そよぐ風」)というイギリス児童文学を読んで、すっかり気に入ってしまい、おこずかいを貯めて買い、大切にしていました。日本題は、「たのしい川べ(ヒキガエルの冒険)」。名目上は子供の本と言う事で、こういう題名になったのでしょうが、夏の日の川辺の雰囲気をかもしだす原題の方が素敵ですね。 地下の自宅で春のおおそうじをしていたモグラが、春の気配に誘われて、ペンキのはけを投げ出し、外へ飛び出すのが物語のはじまり。野原を駆け抜け、行き当たったのが、光り輝く小川。生まれて始めて遭遇した川に見とれているモグラは、そこで、川ねずみと出会い、ポート遊びとピクニックに誘われます。すっかり川に魅了され、モグラは、そのまま自分の家には帰らず、ねずみと川べりの共同生活を始める。 「モグラは目が無いから、そんな景色など見えやしないわい」、と夢の無い事は言いっこなしです。時折、後に残してきた、自分の昔の暖かく居心地の良い家への強い郷愁に駆られながらも、新しい世界での生活を楽しむモグラに、今の自分を重ねてみたりもします。 この本の中での、イギリスの川辺の風景描写には、子供心に憧れたものです。今でも、川でボート漕ぎをする時は、初めてモグラがねずみのボートに乗って経験したのと同じような、幸せ気分にひたります。 ピクニックという心躍る言葉を聞いて、必ず頭に浮かぶのも、この2匹が、川辺に陣取り、ピクニック籠の中から、次から次へと、ご馳走を取り出し、並べる様子。ピクニックはもともとは、客が飲食物を持ち寄る室内での軽食を指した言葉だったそうですが、自然の美しさを賞賛する風潮と共に、戸外での食事へと移行したといいます。 書かれたのは、1908年ですので、すでに100年経過。いまだに良く話の種に取り上げられる作品で、この物語のキャラクターを例にとって書かれた政治コラムなども見かけた事があります。児童文学であっても、古典としての座を確保しているのでしょう。 物語の主な登場人物・・・もとへ、登場動物は、上記の川ねずみとモグラの他、大豪邸に住む金持ちでお人よし、けれど自制心の無いヒキガエル、森の奥に住み、他の動物から恐れられながらも、心優しく問題解決能力に満ちたアナグマ。この4匹の愉快な友

無人島に持っていく音楽、デザート・アイランド・ディスクス

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もし無人島に島流しになるとして、音楽を8曲、本を1冊、贅沢品を1品だけ選んで持っていく事が許されたら、何を選びますか? Desert Island Dics(デザート・アイランド・ディスクス)という名のBBCのラジオ番組があります。1942年(戦時中!)に放送を開始した当番組は、音楽ラジオ番組では世界最長寿だそうです。  毎回、各界の著名人をゲストに呼んで、彼らに今までの人生を語ってもらいながら、無人島に持っていく8曲を選んでもらい、その曲にまつわる思いで話を交え、曲を流す。最後には、大波が打ち寄せ、それら8枚のレコードが流されそうになった時、何があっても救いたい1曲を選出。それから、必ずもらえる聖書とシェークスピア全集の他に、持って行きたい本を1冊と、贅沢品を1品選ばせる趣向です。 思いもかけない人物が、意外な選曲をしたりすると、翌日の、時事番組などで、「XX氏はデザート・アイランド・ディスクでこんな変な曲選んでましたね~」など話題に上がったりもします。音楽もさる事ながら、聞く方としては、ゲストのそれまでの人生の話を聞くのが面白いですし。 人気番組ですので、出演したがる人も多いようです。ゲストはやはり、イギリス人が主ですが、時に外国人も登場。日本人では、オノ・ヨーコ女史やカズオ・イシグロ氏などが出演してます。 好きな曲、聴きたい曲は毎日、気分によって変わったりするものですが、無人島となると、毎日ひとりでも元気がでるようなもの・・・ルイ・アームストロングのWhat a Wonderful Worldあたりでしょうか。(ちなみに、昔々、ルイ・アームストロングご本人がデザート・アイランド・ディスクに登場した際には、自分で、しっかり、この曲も選んでいまず。) 番組に誘われて出演となると、教養があるように見せるために、クラッシック音楽なども、2,3選んだりして。考え出すと、8曲だけという限られた数での選曲も難しいものです。基本的には、私は、自分以外の人の声が懐かしくなる気がするので、ボーカルの入ったものを多くしたいです。 持っていく本は、その島の動植物図鑑。贅沢品は、時間が沢山あるだろうから、ひとつくらい楽器でもマスターしたいので、お手入れも簡単そうだし、自然の風景にマッチしそうなオカリナか木琴。無人島の鳥たちと、合奏でも楽

惑星たち

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水(Mercury) 金(Venus) 地(Earth) 火(Mars) 木(Jupiter) 土(Saturn) 天(Uranus) 海(Neptune) 冥(Pluto) 子供の頃、太陽から近い順に惑星を並べて、こう覚えさせられました。 この順番を覚える英語のフレーズは、それぞれの惑星の頭文字のアルファベットを使って、 My Very Elegant Mother Just Sat Upon Nine Porcupines. 私のとても上品な母は、たった今、9匹のヤマアラシの上に座った。 これがアメリカでは、 My Very Educated Mother Just Served Us Nine Pizzas. 私のとても教養の深い母は、たった今、私達に9つのピザを出してくれた。 となるそうです。ちなみに、ヤマアラシというのは、イギリスにはいないのですが・・・。 数年前、太陽から一番遠いプルート(冥王星)が、実は惑星の部類に入らず、準惑星と分類され、太陽系の惑星は、9つではなく、8つであるとされたとの事。ごく最近まで、惑星というものの定義がはっきりしていなかったのを、3つの条件をつけて定義をするようになった為だそうで、その惑星と呼ばれる為の定義とは、 1)球形であること(十分な重力がある証明になるそうです) 2)太陽の周りを回る軌道上の、主要物体であること 3)軌道が浮遊物などであふれておらず、クリアであること プルートはこの3番目でひっかかり、惑星仲間から追放。 先日、ラジオで、米の天文物理学者、ニール・デグラス・タイソン氏が、プルートについて語っていました。 氏はニューヨークにある、アメリカ自然史博物館付属のプラネタリウムの長でもあります。元々、プルートの惑星としての位置付けに疑問を持っていた氏は、博物館内にある惑星の展示物からプルートを除去。この事が、ニューヨーク・タイムズ紙の一面に「プルートは、ニューヨークでは惑星ではない」との見出しで記事になってしまったとの事。 この時から、氏は、米の子供たちや学校の教師から講義の手紙を山と受け取る羽目に。プルートがもう惑星ではないと言う事に、憤慨する米国内の反応は何故か

ブッシュ家祖先の村

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以前ラジオで、アメリカ元大統領のジョージ・ブッシュ・シニアとジュニアの祖先が住んでいたという村、エセックス州メッシング(Messing)の話を聞いたことがありました。 たまたま、このメッシングのそばを通りかかった際、立ち寄る事にしました。人口200人前後の小さなごく普通の村でした。鉄道もバスも通らず、あるのは教会とパブ。店らしきものも見かけず、のんびりとした感はありますが、住むのは不便かもしれません。 村の教会に入ると内部の壁には、ジョージ・ブッシュ・シニアのサイン入り写真が飾ってあり、ブッシュ家の先祖の歴史を簡単に説明したパンフレットがあったので、もらって来ました。 ブッシュ家は14世紀からメッシング周辺に住んでいたそうですが、1631年に、小農民であったレイノルド・ブッシュ(Reynold Bush)が、大西洋を渡って、米東海岸、マサチューセッツ・ベイ植民地のケンブリッジヘ移住。 当時の英国からの移民者の多くは、英国国教会との宗教観の違いが理由で国を出ていったようです。マサチューセッツを含むアメリカ北東地区ニューイングランドは、プロテスタントでも更に厳格なピューリタン(清教徒)が多く移住した場所です。彼らにとって、英国国教会は少々派手すぎたのでしょうか。 マサチューセッツ・ベイ植民地への移住者たちは当初は、原住のインディアンに食物を分けてもらい、飢餓を逃れて生き延びる事ができたといいますが、今から思えば、インディアンは、人助けをしたばかりに、自分の首を絞める結果に終わってしまったわけです。 地図を広げて、マサチューセッツ・ベイ周辺を見てみると、ありました、ケンブリッジ。その周辺には、有名なメイフラワー号の清教徒ピルグリムファーザー達が居住したプリマスも名も見え、その他にも、ハル、ウェイマス、グロスター、チェルムスフォード、ベバリー等、英国の町と同じ地名を沢山見つけました。新しい地へ辿り着いても、なつかしい母国の名を付けてしまうものでしょうか。私だったら新規一転で、全く違った名前を付けたいですが。その地に咲いているお花の名前なんかがいいですね。 移住後、ブッシュ家は繁栄。ご先祖様たちは、18世紀初頭はインディアンと戦い、イギリスがフランスを相手に、カナダ及びインドの覇権を巡って争った7年戦争(1756-1763年)では、英

コーヒー・ハウスへ行こう

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紅茶の国イギリスなどと言われますが、時代さかのぼり17世紀、コーヒー、紅茶が海の向こうから初めて入ってきた頃は、この国もコーヒーが主流だったようです。巷では、コーヒー・ハウスなどと言うものが立ち始め、1700年までには、ロンドンに2000件以上のコーヒー・ハウスがあるほどの盛況ぶりに。 コーヒー・ハウスは男性のたまり場で、コーヒー1杯の値段で、当時高価だった新聞や本を読み、居合わせた人物とだべり、パイプをくゆらせ、火にあたりゆっくりできる。こういうところが人気になるのはいつの世もどこの国も同じでしょうか。本屋からは、本が売れなくなると、コーヒー・ハウスに対する苦情もあったようです。 初めは、誰でも(あまりにひどい格好をしていない限り)気軽に入ってのんびりできる場所だったようですが、そのうちに、コーヒー・ハウスによってそれぞれの色が出始める。ここは、文化人が通う店、これはサイエンティストが常連、こちらはウィッグ党の政治家たちのたまり場・・・と言う風に。これが後に、クラブと呼ばれる、同目的や趣味を持ったグループの集いへと発展しますが。好ましからぬ人物お断りと戸口に番人を置く店も出ます。 コーヒー・ハウスは、商売人が臨時オフィス代わりに使う商いの場所としても活躍。パブやタバーンなどで、酒を飲みながら商談すると眠くなるという難点がありますから、きりりと頭をシャープにするコーヒーを飲みながらの方が、仕事になったのでしょう。コーヒー・ハウスを郵便住所として使う個人や、商人もおり。株の売買、あらゆる物品のオークションなどもコーヒー・ハウスで盛んに行われたと言います。 今は保険で有名なロイズも、もとはエドワード・ロイドが経営し船貿易商のたまり場であったロイズ・コーヒー・ハウスが起源。船荷や船のオークションも行われたコーヒー・ハウスです。また、現在も貿易用船や飛行機のチャーターを司るバルティック・エクスチェンジも、かつてバルト海の船貿易に携わった商人で賑わったバルティック・コーヒー・ハウスから来ており、ロンドン・ストック・エクスチェンジも、もとは、株の売買が盛んに行われた、ジョナサンズ・コーヒーハウスが起源とされています。商売のみに限らず、ニュートンの万有引力の法則も、他のサイエンティストとのコーヒー・ハウスでの討論に端を発するという話もラジオで聞いた事があります

オーツで健康気分

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小腹がすいて何となく甘いものが食べたくなった時、よくポリッとやるビスケットがこちら、オート・ビスケット。オーツ麦(エンバク)とドライフルーツやスパイスが主原料で、普通のビスケットより、健康的で甘さも自然な感じです。いつも買うのは、 nairn’s という会社のもの。創業1888年、スコットランド産オーツ麦を使って作った商品を販売しています。この会社のオート・ビスケットはお味3種類。どれも美味しくて、買いだめして、棚にいっぱい蓄えてあります。 純粋にオーツだけで焼いた、味のついていないものは、オートケーキと呼ばれています。こちらは、クラッカーがわりに、チーズやスモークサモンなどをのせて、軽食に食べたりします。オートケーキはスコットランドのナショナル・ブレッドなどといわれ、時代さかのぼり、ローマ時代から焼いて食べられていたとか。 スコットランドでは(特に北部では)、気候的に小麦が育たないため、寒く、日照時間が短く、比較的土質が悪い場所でも育つオーツ麦が主要穀物として重宝されたそうです。イングランドでは、車社会が始まる前までは、オーツは馬に与える飼料として使われていました。そう言えば、イングランドでは、小麦、大麦(バーリー)の畑にはよく遭遇しますが、オーツ麦の畑に出くわした記憶はありません。サミュエル・ジョンソンは、著作「英語辞典」の中で、オーツの事を、a grain which in England is generally given to horses, but in Scotland supports the people" (イングランドでは、主に馬に与えるが、スコットランドでは、人民の糧となる穀物)などと定義しています。これには、スコットランド人、むっとしたでしょうか。 オーツの食品は、最近では、コレステロール低下に良いとか、心臓病の防止にも効く、ミネラルと良質タンパクも含むなどと言われ、すっかり健康食の座を勝ち得た感じです。ともかく、体に悪くはないだろうと、食べています、ばくばくと。 朝ごはんもオーツにお世話になる事多く、オーツ麦を粗く砕いたもの(オートミール)を、ミルクか水で煮たポリッジをよく食べます。ポリッジも、スコットランド伝統の朝食。塩で軽く味付けたりジャムを入れたりする人もいるようですが、私は、ドライフ

150歳のビッグベンと若者ロンドン・アイ

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ビッグ・ベン。この名は、国会議事堂の時計塔の中の鐘に与えられた愛称で、今年はこのベン君、御年150歳。 愛称の由来は、鐘の設置の総督であったベンジャミン・ホール(Benjamin Hall)氏から取ったものとする説が有力のようで、彼の名は、鐘にも刻まれているそうです。 時を鳴らすビッグ・ベン。重さ13.7トン。高さ2.2メートル。直径2.7メートル。 この巨鐘は、クオーター・ベルと呼ばれ、15分毎に鳴る、それぞれ音程が違う4つの小型の鐘に囲まれて時計塔の中にあります。ちなみに、クオーター・ベルの音程は、それぞれ、Gシャープ、Fシャープ、E、そしてB。ビッグ・ベンの音程はE。 クオーター・ベル達が、 キンコン、カン、コーン カンコン、キン、コーン キンコン、カン、コーン カンコン、キン、コーン と「ウェストミンスター・チャイムズ」と呼ばれるメロディーを歌ったあとに、 ビッグ・ベンが、 ボーーーーン、ボーーーーーン、ボーーーーーンと時を告げます。 鐘は、固定されており、外側からハンマーで打つ仕組み。 ビッグ・ベンのアップと、鐘の音が聞いてみよう。 「ウェストミンスター・チャイムズ」のメロディーは、もともとは、時代さかのぼり、18世紀後半に、ケンブリッジの教会の鐘に使われたメロディーだそうで、その為、「ケンブリッジ・チャイムズ」とも呼ばれます。ロンドンの議事堂の鐘の音に使われてから、あちこちで時を告げる音として模倣され、色々な地で聞かれるようになったと言います。地球を半周した日本でも。 時計の文字盤の下に書かれたラテン語の意味は、 「神よ、我等が女王ヴィクトリア1世を守りたまえ」 ビッグ・ベンがはじめて鳴り渡ったのが、1859年の7月11日。ところが、同年9月には、すでに鐘に亀裂が入り、修理改善されるまでの以後4年間、クオーター・ベルのひとつが代役で時を鳴らしていたそうです。1863年に復帰してからは、ずっとロンドンを代表する音として無くてはならない存在。 ネオ・ゴシックと呼ばれるスタイルの国会議事堂の建物自体は、1834年に火災でほぼ全焼したウェストミンスター宮殿の代わりに建てられたもの。この建築にあたって、デザインのコンペティションが行われ、提出された97の設計デザインの中から選ばれた建築家は、チャールズ

キッパーで朝食を

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「朝ごはん、キッパーにしようよ。」と、うちのだんな。キッパーは、にしんの燻製ですが、月に1回くらい、朝ごはんに食べたくなるようで、その日は、早朝からキッチンが干物のにおいで充満。だんなが、キッパーをグリルの上に並べ、トーストを焼き、紅茶を入れながら、必ずフンフンと歌いだす歌は・・・「ブレックファスト・イン・アメリカ」。単純な人です。 「Could we have kippers for breakfast?(朝食にキッパーを食べてもいい?)」という歌詞の入る「ブレックファスト・イン・アメリカ」は、70年代後半のイギリスのバンド、スーパートランプによるもの。日本では、カセット・テープ、マクセルのコマーシャルに使われたと記憶しています。哀愁に満ちたメロディーとおかしな歌詞の組み合わせが絶妙です。 Could we have kippers for breakfast? Mummy dear, mummy dear They got to have 'em in Texas cos everyone's a millionaire 朝食にキッパーを食べてもいい? ねえ、母さん、ねえ テキサスでは食べてるはずだよ あそこは皆が100万長者だから つられて歌いだす私も単純な人です。 アガサ・クリスティーの同時代人に、やはり女流推理小説作家にドロシー・L・セイヤーズ(Dorothy Leigh Sayers)がいます。 貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿が登場する彼女の作品のひとつ、「Murder must advertise」(殺人は広告する)の一節に、スコットランド・ヤードの刑事が2人、ロンドン北部のフィンチリーの小さな料理店で、キッパーとポットいっぱいの紅茶で、朝食をするシーンがあります。 このシーンで、2人の刑事が、テーブルに届いたキッパーをまじまじ眺めながら、「・・・ちゃんと料理してあるといいが。火が良く通っていないキッパーを食べようもんなら、残り一日、息がキッパー臭くてたまらんから。」と言ったり、また、小骨をとらずに、ばくっと一口したあと、「なんで、神様は、こんなにも沢山の骨をこの魚に押し込んだのか、全くわからんよ。」と指で骨をほじくりだしながら小言を言ったりする様子も、愉快でした。 1933年の出版。

ウガンダから来た人々

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 The Last King of Scotland(ラストキング・オブ・スコットランド)というこの映画。 医大を卒業したてのスコットランドの青年が、世界を見たいと、ウガンダへ行き、ひょんな事から、台頭し始めた後の独裁者イディ・アミンの主治医となる事に。 映画の題名は、イディ・アミンがスコットランドの文化を愛していたという逸話からきています。 権力をつけるにつれ、徐々に残虐性をあらわにしていくアミン。思わず、顔を覆いたくなるシーンも登場します。 また、安全な国から、冒険を求めてのりこみ、当初はアミンに示された友情にのぼせてしまい、周囲の人間を心ならずも、危険や死に追い込んでしまう青年のナイーブさに、多少いらいらさせられ。国が一人の半狂乱の人間が台頭することで、滅んでいく現実にため息が出。 映画最後の方で、アミンが青年に言います。 Did you think this was all a game? "I will go to Africa and I will play the white man with the natives!" Is that what you thought? We are not a game, Nicholas. We are real. This room here, it is real. これは、全部お遊びだと思っていたのか? 「アフリカへ行くぞ、そして、現地人相手に白人の役をするんだ!」 そう思ったんだろう? われわれはお遊びじゃないぞ、ニコラス。われわれは現実だ。 ここにあるこの部屋、これは現実のものだぞ。 イディ・アミンは、1971年1月に権力を握り、1972年夏には、ウガンダ人で無いものは、この国から3ヶ月以内に出て行けと宣告。 当時、ウガンダにいた外国人は、白人のイギリス人の他に、大英帝国健全なる頃、インドなどから移住してきた、ウガンダン・エージャンと呼ばれるアジア人(主にインド人)が約7万4千人いたといいます。うち、2分の3は英国市民権保持者。医者、歯医者、雑貨屋、仕立て屋、教師、実業などに従事していた彼らはウガンダの経済の貴重な貢献者となり続けたでしょうに、アミンは彼らにも「とっとと出て行

コンスタンティヌス大帝とキリスト教

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ロンドン、キングスクロス駅から北へ向かった電車に乗り、約2時間のところに、「ヨークの歴史は英国の歴史」などと言われるヨークの町はあります。ローマ、アングロサクソン、バイキング、ノルマン人の侵略の波、そしてバラ戦争、英国内戦、産業革命においては鉄道とチョコレートの町としての軌跡に、町のどこかで出くわす事ができます。 観光の目玉のひとつは、 York Minster (ヨーク大聖堂、ヨーク・ミンスター)。 このヨーク大聖堂の前に座っているこの方は、ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝です。父の皇帝と共に、ヨークに滞在中、306年に父帝が死去したため、この地にて皇帝となっています。 彼は、クリスチャンであった母ヘレナ(後、聖人となり、セント・ヘレナ)の影響もあり、キリスト教を公認した事でも有名。 セント・ヘレナはジェルサレムへ巡礼し、キリストが張り付けになった十字架の残骸を発見し、ローマへ持って行ったという話があります。このセント・ヘレナの発見物は、以前は、彼女の宮殿のあった場所に建てられたローマのサンタ・クローチェ教会(Basilica di Santa Croce in Gerusalemme)で見る事ができるそうです。ちなみに、ナポレオンが最後に島流しに会ったセント・ヘレナは、彼女にちなんで命名されています。 以前、キリスト教徒とローマ帝国(キリスト教と政治)に関わるドキュメンタリーを見ているときに、キリスト教歴史の専門家がこんな事を言っていました。 「コンスタンティヌス帝が、キリスト教を公認したのは、キリスト教にとって、不運な事であった。」と。 以前、ローマ帝国内でのキリスト教信者は、コロセアムで、ライオンの餌食になるなどの見世物になったりもし、糾弾されていたわけですから、喜ばしい事では、と思うのですが、彼曰く、政治に使われるようになったこの時から、キリスト教は、「汝の敵を愛せ」という広い心の宗教から、「汝の敵は戦場で殺せ」、という非信者を糾弾する宗教に変わったと。 糾弾されていた者達が、国家のお墨付をもらい、糾弾する側へ。敵と見たものは、宗教を利用してやっつける。そして、その「やっつける相手」は他宗教の者だけに限ったものではありません。同じキリスト教内でも、カソリックとプロテスタントの血で血を洗う争いは、ヨーロッ

カラヴァッジョの絵で見るイースター

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上の絵:The Taking of Christ (National Gallery, Dublin) 今年のイースター・ホリデーは、4月10日(金)から4月13日(月)でした。イースターは十字架の上で息を引き取ったキリストが3日後に蘇った事と、春の到来を祝う祭典。イースターの日付は毎年異なり、3月22日~4月25日の間の日曜日。 グッド・フライデーは、キリストの処刑を記念。キリストを埋めた墓は、遺体が盗まれぬように巨石でふさがれ。続く日曜日がイースター(イースター・サンデー)。キリストの墓を訪れた数人の女性が、巨石が動かされ、墓が空なのに気づく。蘇ったキリストは、この日から数日、何人かの者達に目撃されます。次の日のイースター・マンデーは、この国では、祝日。よって、金曜日から月曜日までの4連休となります。 アイルランドのナショナル・ギャラリーにあるこの絵は、闇と明かりを巧みに使い、人物が画面から飛び出してくるような迫力の絵で知られるイタリア・バロック絵画の巨匠、カラヴァッジョ筆。キリストが兵士達に逮捕され連れて行かれる場面を描いています。 手の甲を上に向け、指をかみ合わせているキリストのポーズは、悲しみと心の苦しみを表すのだそうです。金銭的報酬の為に、キリストを裏切るのはイスカリオテのユダ。キリストにキスすることで、彼の正体を兵士たちに知らせます。絵の右後方ででランタンを掲げる人物は、カラヴァッジョの自画像と言われています。 「イースター名画の歴史」と題したドキュメンタリーで、この絵がスポットライトを浴びていました。 この絵は、当時の複製などから存在は知られていたものの、19世紀初頭あたりから行方がわからなくなっており、1990年初めに、アイルランドはダブリンのイエズス会の建物のダイニングに飾られているのが発見。 ローマのマッテイ家からの注文で、当時売れっ子のカラヴァッジョが、これを描いたのは1602年。マッテイ家が、これを売却するのが19世紀初頭。絵のトレンドの変化で、カラヴァッジョ人気も売却時には落ちており、絵は、当時人気だったオランダ人画家による絵として売られています。この後、カラヴァッジョ作だと知られぬまま、絵は数人の手を渡り、最後に所有したアイルランドの女性が、イエズス会へ寄付。イエズス会から絵の修復を頼まれ、この建物を訪れたイ

ラジオ・ガ・ガ

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All we hear is radio ga ga Radio goo goo Radio ga ga 聞こえてくるのは ラジオのガーガー音だけ ラジオのグーグー ラジオのガーガー 英ロック・バンド、クイーンのラジオに捧ぐ歌「ラジオ・ガ・ガ」の一節です。 ラジオが大好きです。 初めて来たイギリスで英語の勉強をしていた頃、学校の先生いわく、「ヒアリングが上手くなりたければ、ラジオ沢山聞いて。BBCのラジオ4がいいよ。」 さっそく、近所の電気屋へ出かけ、一番小さく軽量で、一番安かったソニーのラジオを購入。この超頑丈ラジオは、今も、我が家のキッチンの棚にちょんと座って、朝食中、夕食の支度中、活躍しています。ベッドの枕元にも、目覚めの30分と寝る前の30分用に、かなり古ぼけた主人の両親の家で使っていたラジオを置いています。ラジオは他の事をしながら聞ける事が何といっても利点でしょう。もちろん、車の中でも聞けますし。 良く聞くラジオ局は、やはり今でもBBCラジオ4か、BBCワールド・サービス。イギリス国内関連や時事、政治風刺コメディーやクイズ、文化などをカバーするのがBBCラジオ4。海外いたるところからのニュースやトピックならBBCワールド・サービス。大体この2つの局を行ったり来たりして聞いています。 最近は便利になったもので、聞き逃した番組はそれほど時間がたっていなければ、インターネットでも聞けるようになりました。  BBCワールド・サービスとは、1932年に、BBCエンパイアー・サービスとして始まり、当初は名前の通り、崩壊前の大英帝国の各地に点在するイギリス人のための英語報道が目的で、海外への報道の為に作られた局。英国内では、受信できないエリアもあります。 今では、世界33ヶ国語での放送も行なわれ、貧しい国、政情不安な国、自国のメディアの信憑性があてにならない国などにとっては、貴重な情報源として重宝されています。 世界のあらゆるところに特派員がおり、考えた事もないような国や場所から報道が入ってきます。私のキッチンや寝室が、ジャングルになり、戦場になり、青い海になり、化学者のラボになり・・・。リスナー参加の討論番組では、世界のあちこちからの色々な人達が、其々のお国のアクセントのある英語で参加してきて、ひとつのト

ロンドン大火

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1666年、9月2日午前1時。ロンドン、シティのプディング・レインにあったトマス・ファリナー氏経営のパン屋のかまどから出た火は、みるみるうちに周囲の建物を飲み込み、広がっていく。The Great Fire of London(ロンドン大火)の始まりです。ちなみに、パン屋のあった、この通りの名前のプディングとは、デザートのプディングではなく、牛や豚等、家畜の内臓を指した中世の言葉です。 ロンドンは、前年の1665年には、 黒死病 (ペスト)の流行で、その人口の3分の1を失うという悲惨な目にあったばかり。そして666は、映画「オーメン」の悪魔の子ダミアンの頭にあった、あざでお馴染みの、いわゆる獣の数。この年、何か変なことが起こるのではないか、世界が終わるのではないか、という噂はあったようです。 が、当時のロンドンの狭い道に並ぶ建物は、ほとんど木造で、小さな火災は、わりとしょっちゅう起こっていたため、時の ロード・メイヤー であったトマス・ブラッドワース(Thomas Bludworth)は、夜中に「火事です。」と叩き落され、ちらっと様子をうかがった後、「a woman might piss it out!  (あんなのは、女の小便でも消せるわい。)」と、そのまま床に戻ってしまったのです。 不幸なことに、この火災は、女の小便で消せる類の物とは、スケールが違った・・・・火は5日間、エリアを広げ燃え続け、約1万3千の家屋と、87の教会(うちひとつはセント・ポール寺院)、シティの5分の4のエリアを焼き尽くし、6日の明け方にようやくおさまります。家財を一切失い、ホームレスとなった人々は何千人と出たものの、火災規模の割に死者が少なかったとされています。火事が広がっていくのを防ぐために、まだ発火していない家々を、崩す作業なども行われたようですが、これには、時の王チャールズ2世も、市民と共に煤にまみれながら参加。 この火事でもうけたのは、荷車業者だったそうで、引越屋と荷物搬送屋としてひっぱりだこ。また、テムズ川を行く渡し舟漕ぎなども、火事が進行するにつれ、料金を吊り上げていったという記載も残っています。本屋などの経営者は、在庫の損失が大変なものだったらしいですが。 この出火元になったパン屋さんは、お咎めなしで、後、懲りずに再びパン屋業にもどったと言われていま

ダーウィンが迎える博物館

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ロンドンの地下鉄、サウス・ケンジントン駅を降りてすぐ、ロンドン自然史博物館(Natural History Museum)の美しい建物は、ぱっと目を引き、私も大好きな建物のひとつ。 大英博物館内の増えていく、動物学、植物学、地質学関係の標本とコレクションを収集、展示するために建てられたもので、1881年に公式オープン。アルフレッド・ウォーターハウス設計により、フランスやドイツの影響を受けたロマネスク・スタイルとの事。 建物の所々に、恐竜や動物の浮き彫りなどもほどこされ、そのひとつひとつを見ていても楽しいです。上を向きすぎで、首が痛くなったりしますが。 入り口で、爆弾なんぞ持っていないか、手荷物検査を簡単に受けて、広々したホールへ足を踏み込みます。 ロンドン内、無料の美術館、博物館は多いですが、寄付箱の様なものは置いてありますので、ポンドのコイン、または円なども、ちょっと太っ腹の気分になったら落としていってあげて下さい。 ホール中心に構えるのは恐竜の模型。ダイナソー(恐竜)という言葉は、生物学者リチャード・オーウェン氏によって名づけられたそうです。彼は、大英博物館自然史部の長として、当自然史博物館の設立に尽力した人物でもあります。 恐竜模型のむこうにある階段の踊り場に、ホールを見渡すように座っているのは、チャールズ・ダーウィンの像。今年は、ダーウィン生誕200年。そして、当時まだ、キリスト教のもと、生物は神の創造物と一般に信じられていた社会に、思想の一大紛争を巻き起こした「種の起源」出版150年記念。この記念の年に、ダーウィン像は、埃を払われて、センター・ステージへ動かされたようです。 最初は親しかった、ダーウィンとオーウェンは、後、進化論を巡り意見が対立。犬猿の仲になったと言います。オーウェン氏の彫像も、階段を登り切った2階の奥にひっそり立っていました。150年の時が経った今、理論の戦い、知名度の戦い、共に、ダーウィンに軍配があがってしまい。それでも、オーウェン氏には、このすばらしい博物館を後世に残してくれた事に感謝。 内部の、建物のディテールも、凝っており、柱には何匹もの猿がしがみついた様子で掘られていました。うち一匹の、この猿、ダーウィン像を、まじまじと眺めています。「僕の父ちゃんに似てるな。」などと思っていたり

サンキューでつづる会話

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電車内で・・・ 電車にゆられながら、外を流れる緑をほおーっと眺めていると、車掌さんが車両に入ってきて「チケット・プリーズ!」 がさごそとポケットから切符を取り出すと、車掌さんが私の座席のところにやって来て、手を伸ばし 「サンキュ!(はい、そのチケット渡して)」 私は手渡し 「サンクス。(これね、はいはい)」 車掌さん、それをちらっと確認し、私に返して、 「サンキュ!(よし、問題なし)」 私は受け取り 「サンキュー。(そりゃそうでしょう、罰金取られるの嫌ですから)」 ***** 店内で・・・ ランチを買いに、軽食を売る店に入ります。 サンドイッチとジュースをかかえ、レジにおきながら、 私は、 「サンキュー。(これお願いします)」 レジの人は、 「サンキュー。(はいよ)3パウンズ98ペンス、プリーズ。」 私、お金を渡して 「サンクス。(お金ね、はい)」 レジの人、金受け取り 「サンキュー。(え、20ポンド札~?)」そして、つりを私に差し出し、 「サンキュー。(ほら、つりだ)」 私は受け取り、 「サンキュー。(間違ってないかしらね)バーイ。」 「バーイ。」 ***** こんなサンキューでつづる会話が、今日もイギリス全土で繰り広げられてます。無言で、手渡するよりも、何か言った方がいい。そのための言葉がサンキュー、サンクスでしょうか。 何かをすすめられ、いらないと断る時も、「ノー」だけ言うのはぶっきらぼうだから、必ず「ノー、サンキュー」。もらう時、ものを注文する時も、「イエス、プリーズ」「ティー、プリーズ」とプリーズを付けるのが一般で、言わないと、何かが足りない気分。ひとつの言葉を足すだけで、人間関係が少しやわらかくなるのなら、はく息を惜しまず言った方がいいのかもしれません。 若い頃、短期で滞在したイギリス人の家庭で、ご主人が、奥さんから食事の皿を渡されたとき、紅茶を手渡されたとき、何かにつけ、「サンキュー、ディア」(ありがとう、お前)を繰り返していたのも印象的でした。こういうのが、長続きする夫婦の秘訣でしょうか・・・と格好よく結末しようとしましたが、おそらく、一日のうちで一番使うフレーズで、自動的に出てきてしまうというのが正解でしょう。 *余談* 上の写真は、ハムステッドのクレープ