凱旋門は敗戦門(パリ紀行5)
コンコルド広場からシャンゼリゼをのんびり歩いて辿り着くのは、シャルル・ド・ゴール広場。別名はエトワール広場。ここから放射状に発する12の通りが、星(エトワール)の様だと。星の真ん中にどんと立つのは、凱旋門。
ナポレオンは、チュルリー宮殿前に、カルーゼル凱旋門を建てたものの、その出来がいささかお粗末と感じ、満足できず。もっと自分の栄光にふさわしい立派な凱旋門を建てようと、この地を選びます。
・・・が、別のプロジェクトに気を取られ、ナポレオンの興味が薄れていったのもあり、建設はなかなか進まず、完成をみるのは、フランス最後の王、ルイ・フィリップの時代の1836年。
凱旋門の上に登るのは、9ユーロでした。階段をひーひー言いながら上がって、景色を見るためだけに、9ユーロは高いですが、おそらく一生に一度の事でしょうから、涙を飲んで財布を開きました。なにせ、価値が下がっているポンドですので、全てが高く感じます。
パリを、世界にかつて存在した中でも、一番美しい町にしたかったというナポレオン。彼には、その時間もなく、歴史の舞台から消え。この町を、整理、改造し、美しく開花させるのは、ナポレオンの甥っ子であるナポレオン3世と、彼がパリの都市改革に任命した、オースマン氏(Haussmann:ドイツ系の名だそうです)。
ナポレオン3世とオースマンは、異例のスピードで、パリの顔を変えていきます。馬車などの渋滞を引き起こし、また、犯罪の巣窟となっていた、くねくねとした不潔な裏通りや、おんぼろの建物を一掃。広々とした直線の道を敷き、趣味の良い、新しい建物を建設し。
この第2帝政期(1852-1870年)に、パリの中心部で、約2万件の家々が撤去され、約4万が新築され。また、ロンドンの数ある公園に感化されたナポレオン3世は、ハイドパークを念頭にブローニュの森をしつらえ。ロンドンに比べ、産業革命が立ち遅れていたパリの大通りを、初めてガス灯が照らすのもこの頃。
数々の、勝利や栄光のモチーフが凱旋門のまわりには掘り込まれていました。それを眺めながら、主人がぽつりと、
「ウォータールー(ワーテルロー)の戦いは、入ってないよな、やっぱり。ウォータールー入れたら、敗戦門になっちゃうから、は、は、はー!」
機会を与えられると、ナポレオンがイギリスにしてやられた事、第2次世界大戦で、フランスはドイツにあっという間にやられ、イギリスに助けられなければならなかった事に、うれしそうに言及せずにはいられないイギリス人、まだ沢山います。そんな昔のことを威張っても仕方がないのに。
「大体、本人が負かされた後で建てられたものを、凱旋門とは呼ばんだろう。」
まあ、これは一理ありますか。
エルバ島に島流しの後、島を脱出したナポレオンが、取るは100日天下。1815年、ブラッセルからほど遠からぬ、ワーテルロー(ウォータールー)でナポレオンを迎え撃ったのは、ウェリントン公(後の英国首相)率いる英蘭連合軍とプロシア軍。ここで、敗北したナポレオンは、今度は更に遠いセントヘレナに流され、そこで一生を終えます。
ワーテルローは一度行きました。小高い丘の上にライオンの像が立っています。辺りは見渡す限り平らだったと記憶します。戦場とは大体そんなものでしょうが。
スウェーデンの4人組バンド、アバが歌ったとおり、
My my, at Waterloo Napoleon did surrender
Oh yeah, and I have met my destiny in quite a similar way
The history book on the shelf
Is always repeating itself
ウォータールで、ナポレオンは降参
そして、私も、同じように、運命の分かれ道に立っている
本棚の上の歴史の本
歴史はいつも繰り返す
これは、一生を共にしたいほど好きな人に出会い、自分の自由を降参するというラブソングですから、ナポレオンの気持ちとはかなり違うでしょうが。
*余談、ユーロヴィジョン・コンテスト*
アバがヨーロッパの国対抗歌合戦のユーロヴィジョン・コンテストにウォータールーを引っさげて出場し、優勝したのは、1974年。
最近このコンテストは、東欧諸国も加わり、その投票ぶりも、政治的色合いが濃くなってきています。東欧の小国は近隣同士で良い点を与え合い、イラクに侵入した年のイギリスからの出場者はほとんど得点をもらえず。純粋な歌合戦の楽しさも消え、アバの様な世界的グループはもう、出てこないかもしれません。
ミュージカル、そして今は映画化もされた「ママ・ミア」で、根強い人気のアバです。歌詞が英語であること、キャッチーで歌いやすいメロディーが魅力でしょうか。
Waterloo - Finally facing my Waterloo
ウォータールー、ついに私も人生のウォータールーに対面する
アバのユーロヴィジョン優勝ビデオ
昔風の採点ボードもちょっと愉快です。
ナポレオンは、チュルリー宮殿前に、カルーゼル凱旋門を建てたものの、その出来がいささかお粗末と感じ、満足できず。もっと自分の栄光にふさわしい立派な凱旋門を建てようと、この地を選びます。
・・・が、別のプロジェクトに気を取られ、ナポレオンの興味が薄れていったのもあり、建設はなかなか進まず、完成をみるのは、フランス最後の王、ルイ・フィリップの時代の1836年。
凱旋門の上に登るのは、9ユーロでした。階段をひーひー言いながら上がって、景色を見るためだけに、9ユーロは高いですが、おそらく一生に一度の事でしょうから、涙を飲んで財布を開きました。なにせ、価値が下がっているポンドですので、全てが高く感じます。
パリを、世界にかつて存在した中でも、一番美しい町にしたかったというナポレオン。彼には、その時間もなく、歴史の舞台から消え。この町を、整理、改造し、美しく開花させるのは、ナポレオンの甥っ子であるナポレオン3世と、彼がパリの都市改革に任命した、オースマン氏(Haussmann:ドイツ系の名だそうです)。
ナポレオン3世とオースマンは、異例のスピードで、パリの顔を変えていきます。馬車などの渋滞を引き起こし、また、犯罪の巣窟となっていた、くねくねとした不潔な裏通りや、おんぼろの建物を一掃。広々とした直線の道を敷き、趣味の良い、新しい建物を建設し。
この第2帝政期(1852-1870年)に、パリの中心部で、約2万件の家々が撤去され、約4万が新築され。また、ロンドンの数ある公園に感化されたナポレオン3世は、ハイドパークを念頭にブローニュの森をしつらえ。ロンドンに比べ、産業革命が立ち遅れていたパリの大通りを、初めてガス灯が照らすのもこの頃。
数々の、勝利や栄光のモチーフが凱旋門のまわりには掘り込まれていました。それを眺めながら、主人がぽつりと、
「ウォータールー(ワーテルロー)の戦いは、入ってないよな、やっぱり。ウォータールー入れたら、敗戦門になっちゃうから、は、は、はー!」
機会を与えられると、ナポレオンがイギリスにしてやられた事、第2次世界大戦で、フランスはドイツにあっという間にやられ、イギリスに助けられなければならなかった事に、うれしそうに言及せずにはいられないイギリス人、まだ沢山います。そんな昔のことを威張っても仕方がないのに。
「大体、本人が負かされた後で建てられたものを、凱旋門とは呼ばんだろう。」
まあ、これは一理ありますか。
エルバ島に島流しの後、島を脱出したナポレオンが、取るは100日天下。1815年、ブラッセルからほど遠からぬ、ワーテルロー(ウォータールー)でナポレオンを迎え撃ったのは、ウェリントン公(後の英国首相)率いる英蘭連合軍とプロシア軍。ここで、敗北したナポレオンは、今度は更に遠いセントヘレナに流され、そこで一生を終えます。
ワーテルローは一度行きました。小高い丘の上にライオンの像が立っています。辺りは見渡す限り平らだったと記憶します。戦場とは大体そんなものでしょうが。
スウェーデンの4人組バンド、アバが歌ったとおり、
My my, at Waterloo Napoleon did surrender
Oh yeah, and I have met my destiny in quite a similar way
The history book on the shelf
Is always repeating itself
ウォータールで、ナポレオンは降参
そして、私も、同じように、運命の分かれ道に立っている
本棚の上の歴史の本
歴史はいつも繰り返す
これは、一生を共にしたいほど好きな人に出会い、自分の自由を降参するというラブソングですから、ナポレオンの気持ちとはかなり違うでしょうが。
*余談、ユーロヴィジョン・コンテスト*
アバがヨーロッパの国対抗歌合戦のユーロヴィジョン・コンテストにウォータールーを引っさげて出場し、優勝したのは、1974年。
最近このコンテストは、東欧諸国も加わり、その投票ぶりも、政治的色合いが濃くなってきています。東欧の小国は近隣同士で良い点を与え合い、イラクに侵入した年のイギリスからの出場者はほとんど得点をもらえず。純粋な歌合戦の楽しさも消え、アバの様な世界的グループはもう、出てこないかもしれません。
ミュージカル、そして今は映画化もされた「ママ・ミア」で、根強い人気のアバです。歌詞が英語であること、キャッチーで歌いやすいメロディーが魅力でしょうか。
Waterloo - Finally facing my Waterloo
ウォータールー、ついに私も人生のウォータールーに対面する
アバのユーロヴィジョン優勝ビデオ
昔風の採点ボードもちょっと愉快です。
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