ウガンダから来た人々

 The Last King of Scotland(ラストキング・オブ・スコットランド)というこの映画。

医大を卒業したてのスコットランドの青年が、世界を見たいと、ウガンダへ行き、ひょんな事から、台頭し始めた後の独裁者イディ・アミンの主治医となる事に。

映画の題名は、イディ・アミンがスコットランドの文化を愛していたという逸話からきています。

権力をつけるにつれ、徐々に残虐性をあらわにしていくアミン。思わず、顔を覆いたくなるシーンも登場します。

また、安全な国から、冒険を求めてのりこみ、当初はアミンに示された友情にのぼせてしまい、周囲の人間を心ならずも、危険や死に追い込んでしまう青年のナイーブさに、多少いらいらさせられ。国が一人の半狂乱の人間が台頭することで、滅んでいく現実にため息が出。

映画最後の方で、アミンが青年に言います。

Did you think this was all a game?
"I will go to Africa
and I will play the white man with the natives!"
Is that what you thought?
We are not a game, Nicholas. We are real.
This room here, it is real.

これは、全部お遊びだと思っていたのか?
「アフリカへ行くぞ、そして、現地人相手に白人の役をするんだ!」
そう思ったんだろう?
われわれはお遊びじゃないぞ、ニコラス。われわれは現実だ。
ここにあるこの部屋、これは現実のものだぞ。
イディ・アミンは、1971年1月に権力を握り、1972年夏には、ウガンダ人で無いものは、この国から3ヶ月以内に出て行けと宣告。

当時、ウガンダにいた外国人は、白人のイギリス人の他に、大英帝国健全なる頃、インドなどから移住してきた、ウガンダン・エージャンと呼ばれるアジア人(主にインド人)が約7万4千人いたといいます。うち、2分の3は英国市民権保持者。医者、歯医者、雑貨屋、仕立て屋、教師、実業などに従事していた彼らはウガンダの経済の貴重な貢献者となり続けたでしょうに、アミンは彼らにも「とっとと出て行け!」

イギリスは、これらウガンダン・エージャンの2万8千人を受け入れる事とし、カナダも5千人の受け入れを申し出たそうです。最終的に、イギリスへやって来た人数は約2万1千ほどだったと言われますが。

当然、こういう大掛かりな移民が発生すると、「そんな奴ら入れるな!」という反対も出てきますが、アミンの残忍さに虐げられた人間を放っておくわけには行かないし、ウガンダのアジア人は社会に益をもたらすという賛成意見に飲み込まれた様です。

予想通り、文無しで辿り着いたものの、手に職があり、勤勉な人間が大半だったため、彼らは瞬く間に、仕事を探し、家を探し、多少の人種偏見で嫌な経験などもあったでしょうが、それでも英社会に飲み込まれ、著名実業家なども輩出したと言います。
イギリスの北部の町、ヨークにあるヨーク大聖堂(ヨーク・ミンスター)。ここの大主教は、カンタベリー大主教に次いで、英国国教会第2の要職。2005年、このヨーク大主教の座についたのは、ウガンダ出身の黒人、ジョン・センタムー氏。就任式では、ヨーク大聖堂の中で、アフリカの踊りなども披露されていました。写真の左は、カンタベリー大主教、右はセンタムー氏。

ウガンダで育った子供時代、氏は、毎日学校までの12マイルを、聖職者から自転車をもらうまで、歩いて通っていたといいます。やがて、弁護士となりますが、イディ・アミンの台頭で、法の政治権力からの独立を嫌うアミンによって、一時拘束され、その間、殴る蹴るの暴行も受けたと言う話です。その後、イギリスへ移民。ケンブリッジ大で神学を学び、聖職者の道へ。

こうしたウガンダ時代での経験からか、氏は、ジンバブエの独裁者ムガベを強く批判する著名人の一人でもあります。
York Minster(ヨーク大聖堂)を訪ねてみよう

さて、アミンは、失脚後、サウジアラビアに亡命。2003年に同国で死んでいます。母国の一般人が若死にする中、えてして、寿命をまっとうするのですよね、こういう人達は。ジンバブエのムガベも、85歳。ジンバブエの一般人が、自分のせいで、貧困や病気にあえぐ中、本人はお肌もつるつるで健康そのもの!死ぬまで何とか権力にしがみつこうとしているようです。

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