コンスタンティヌス大帝とキリスト教

ロンドン、キングスクロス駅から北へ向かった電車に乗り、約2時間のところに、「ヨークの歴史は英国の歴史」などと言われるヨークの町はあります。ローマ、アングロサクソン、バイキング、ノルマン人の侵略の波、そしてバラ戦争、英国内戦、産業革命においては鉄道とチョコレートの町としての軌跡に、町のどこかで出くわす事ができます。

観光の目玉のひとつは、York Minster(ヨーク大聖堂、ヨーク・ミンスター)。

このヨーク大聖堂の前に座っているこの方は、ローマ皇帝のコンスタンティヌス大帝です。父の皇帝と共に、ヨークに滞在中、306年に父帝が死去したため、この地にて皇帝となっています。

彼は、クリスチャンであった母ヘレナ(後、聖人となり、セント・ヘレナ)の影響もあり、キリスト教を公認した事でも有名。

セント・ヘレナはジェルサレムへ巡礼し、キリストが張り付けになった十字架の残骸を発見し、ローマへ持って行ったという話があります。このセント・ヘレナの発見物は、以前は、彼女の宮殿のあった場所に建てられたローマのサンタ・クローチェ教会(Basilica di Santa Croce in Gerusalemme)で見る事ができるそうです。ちなみに、ナポレオンが最後に島流しに会ったセント・ヘレナは、彼女にちなんで命名されています。
以前、キリスト教徒とローマ帝国(キリスト教と政治)に関わるドキュメンタリーを見ているときに、キリスト教歴史の専門家がこんな事を言っていました。

「コンスタンティヌス帝が、キリスト教を公認したのは、キリスト教にとって、不運な事であった。」と。

以前、ローマ帝国内でのキリスト教信者は、コロセアムで、ライオンの餌食になるなどの見世物になったりもし、糾弾されていたわけですから、喜ばしい事では、と思うのですが、彼曰く、政治に使われるようになったこの時から、キリスト教は、「汝の敵を愛せ」という広い心の宗教から、「汝の敵は戦場で殺せ」、という非信者を糾弾する宗教に変わったと。

糾弾されていた者達が、国家のお墨付をもらい、糾弾する側へ。敵と見たものは、宗教を利用してやっつける。そして、その「やっつける相手」は他宗教の者だけに限ったものではありません。同じキリスト教内でも、カソリックとプロテスタントの血で血を洗う争いは、ヨーロッパの歴史の中、何度も繰り返されるパターンです。

そういえば、17世紀、英国国教会の姿勢に満足できず、また、糾弾も受けていた清教徒のピルグリム・ファーザー達が、宗教の自由を求めて、アメリカ東海岸へ移住していますが、米作家、ゴー・ヴィデル(Gore Vidal ) 氏は、この事を、ピルグリム・ファーザー達は、宗教の自由を求めてというより、自分達が、自分達と意見の違う他者を糾弾できる自由を求めて新しい土地へ移住した、と鋭い指摘をしているそうです。

(イギリスとアメリカの違い、色々あるでしょうが、アメリカの生活、政治での宗教色の強さは、イギリスの比で無い気がします。米大統領も、何かにつけてゴッドを口にする。これも、ピルグリム・ファーザー達のなごりでしょうか。イギリス首相があまりキリストとゴッドを公のスピーチで振り回すと、国民の反感を買い、選挙も勝てない気がします。)

以前は糾弾されたという事実が、痛みを知った者として、相手を大きく受け入れる思想とならずに、やられる前にやってやれ、の様な心の狭い思想に変わるとというのでは、何とも情けないものです。

これでは、いつまでたっても、世の中で戦争が終わらないのも仕方ないなどという、悲観的な結論に達してしまいます。何を信じようがかってでしょうが、宗教と政治の隔離は大切。宗教を、ただの目的達成の為の、手段に使って欲しくはないものです。

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