投稿

ラベル(歴史)が付いた投稿を表示しています

ヴァンダリズム

イメージ
 午前中、電車で10分ほどの隣町のマークス&スペンサーに下着や靴下などの買い物に出た。 我が町は、町の中心部のショッピングセンターに並ぶ店が限られている。マークス&スペンサーのようなデパート系の店は、人口が最低でも6万はいなと店を設置しないと聞いたことがある。人口3万を切るうちの町では小さすぎるのだ。ちなみに、イギリス人の大半はマークス&スペンサーの下着を身につけているという話だ。うちの旦那も物心ついて以来、パンツはマークス以外のものを買ったことが無いのではないかと思う。最近では、ウェストから下に身に着ける物は全部マークスで調達しているし。上に着ている洋服を透かして見ることができる眼鏡などあったら、それをかけて町行く人を眺めたところ、みなマークスの下着を着て歩いていると思うと時々可笑しくなる。話が脱線した・・・ 隣町に行くときは、大体いつも、駅からすぐの公衆トイレで用を足してから、すがすがしい気持ちで買い物をスタートするのだが、本日は、入ろうとした女子トイレが警察の立ち入り禁止テープのようなもので閉鎖されており、 「Extreme Vandalismのために、女子トイレは使えません」 の札が出ていた。Extreme Vandalism=過激な破壊行為。「過激」とわざわざ付け加えてあるところを見ると、何者かが、便器自体を使用不可能なまでに叩き壊したりしたのかもしれない。隣町は、特別に柄の悪い場所でもなく、比較的裕福な町でもある。 ヴァンダリズムは、遠い昔、初めてイギリスにやって来てすぐに覚えた言葉の一つだ。ダメージを与えること自体を目的とした破壊行為、要は破壊のための破壊。もっとも大学受験の時などにも習ったのだろうが、こちらの日常会話の中に、わりとよく出てくることにすぐ気が付いた。それだけ、イギリスではこうした「破壊行為」が日本より多い。公共物や他人が大切にしている物を壊すことに快感を感じる、という理解しがたい頭をした人物たちが沢山いる。刺激を受けるというのは、英語でget a kickなどともいうので、まさに、何かをキックして壊すことでキック(興奮・刺激)を得ているわけだ。 それこそ人口3万を切るうちの町でも、先月ショッピングセンターのゴミ箱というゴミ箱が、夜間に、ことごとく引き倒されてゴミが花吹雪のごとく散乱していた。このゴミ箱、しっかりとした鉄製なので、...

ウェストベリーのホワイトホース

イメージ
 前回のポストで、オックスフォードシャー州の アフィントンのホワイトホース のヒルフィギュア(丘絵)の話をしましたが、今回は、ウィルトシャー州のホワイトホースの丘絵に話題を移します。人呼んでウェストベリーのホワイトホース(Westbury white horse)。 ウィルトシャー州内には、かなり多くの白馬の丘絵が存在しますが、その中では、このウェストベリーのものが一番古く、また、最も景勝の場にあるという事。古いと言っても、アフィントンのものに比べれば、ぐっと新しく、最初に彫られたのは、1600年代後半ではないかと言われています。18世紀以前に、この丘絵に言及した記録は残ってないそうで。 おそらくは、 アルフレッド大王 が878年に、グスルムに率いられたデーン人の軍を破ったエサンドゥーンの戦い(Battle of Ethandun)、を記念するため彫られたのではないかと。この戦いは、または、エディントンの戦い(Battle of Edington)とも呼ばれていますが、戦いがあったとされるのは、この白馬の丘から2,3キロの場所ではなかったかと言われています。なんでも、17世紀には、アルフレッド大王人気が高まり、サクソン人がバイキングに勝利を収めた戦いを、白馬で記念するというのが流行った(?)という説明が、丘絵のそばの情報板に書かれてありました。これは、当時は、アフィントンのホワイトホースが、こうしたデーン人を負かした戦いを記念して、サクソン時代に作られたものだと信じられていたためのようです。アフィントンのホワイトホースは、今では、もっとずっと古い青銅器時代のものだと判明していますが。 ウェストベリーのホワイトホースは、1778年に、再び彫りなおされ、馬より、ラマと言った感じであったオリジナルのものより、この時、もっと馬らしく、現在の姿に近いものに、なったと言います。さらに、それから約100年後に、形が崩れ始めたのを、再び修復して、ほぼ現在の形に。今のホワイトホースは、白いペンキを塗ったコンクリート板をはめ込んで、固められていますが、これは1950年代に、メンテナンスの経費を落とし、手入れをラクにするために行われたそうです。 車内から取ったストーン・ヘンジなので、ちょっとぶれてます。 このホワイトホースの丘は、だだっ広いソールズベリー・プレイン(ソールズベリー...

ロンドン市場への七面鳥とがちょうのマーチ

イメージ
...this county of Suffolk is particularly famous for furnishing the City of London and all the counties round with turkeys, and that it is thought there are more turkeys bred in this county and the part of Norfolk that adjoins to it than in all the rest of England. ..I shall observe how London is supplied with all its provisions from the whole body of the nation, and how every part of the island is engaged in some degree or other of that supply. For the further supplies of the markets of London with poultry, of which these countries particularly abound, they have within these few years found it practicable to make the geese travel on foot too, as well as the turkeys, and a prodigious number are brought up to London in droves from the farthest parts of Norfolk They begin to drive them generally in August, by which time the harvest is almost over, and the geese may feed in the stubbles as they go. thus they hold on to the end of October, when the roads begin to be too stiff and deep...

イギリスの赤い郵便ポスト

イメージ
イギリスの街並みを歩いて目に入る赤いもの・・・過去「 イギリスの赤い電話ボックスの歴史 」という投稿をしましたが、残念ながら電話ボックスはもはや、以前の目的で使われているものはほとんどない。赤いもので、現在も同じ目的で立ち続けるのは、赤い郵便ポスト。今回はこちらの歴史をざっと書いてみます。 以前にも、当ブログで紹介した、 ローランド・ヒル という人物により行われた、全国一律、1ペニーの切手で配達を行う事を含む、当時はGPO(Genral Post Office)と呼ばれた郵便局の改革により、手紙というものが、日常的に使用され、広がっていく中、さて、それを回収する場所となると、以前の通り、自ら、いくつか点在する回収場所へよっこら歩いて持っていく必要がありました。住んでいる地域によっては、かなりの距離を歩く事もあり、不便極まりない。 そこで、大陸ヨーロッパで行われていたという、鍵のついた、鉄製の収集箱をある程度の間隔を置いて、道路わきに設置するというアイデアを導入。これを考え付いたのは、当時GPOの職員として働いていた、英作家のアントニー・トロロープ(Anthony Trollope)。彼は、チャンネル諸島や、南西イングランドで、郵便配達ルートの調査や確立などの仕事をしている時期があったそうで、そのため、英国初の郵便ポストは、チャンネル諸島のジャージー島に設置される事となります。1852年11月の事。翌年には、イギリス本土にも設置され始めます。ジャージー島の、郵便ポスト第1号は、赤色であったようですが、その後、1859年くらいまでに形も色も一定化し、色は、殆どが、当時ファッショナブルであったとかいう濃い緑色であったのだそうです。 ただし、ロンドンなどの大都市ならともかく、田舎で緑となると、風景に溶け込んでしまい、遠くから見ると、それとはっきりわからないため、見つけにくいという問題が浮上。そこで、カモフラージュでもあるまいし、「やっぱり目立つ赤がいいんじゃないの?」となったようで、1884年くらいまでには、新しいものは赤、古い物も塗りなおしが行われ、現在に至っています。 イギリスの郵便ポストの形は、最初は6角形などもあったようですが、主に鉄製の円柱型で、てっぺんは、投函口に雨が振り込まぬよう、丸型の浅い帽子のようなものでおおわれています。柱の様であるため、post box...

チューダー王朝

イメージ
過去のイギリスの王朝の中で、知っている王朝の名を挙げてください、と言われた時、海外でも、圧倒的に知っている人が多いのが、チューダー王朝(The Tudors)ではないでしょうか。日本語ではテューダーとカタカナ表記する事もあるようですが、ここではチューダーとしておきます。 6人の妻を持ったヘンリー8世や、ヴァージン・クウィーンのエリザベス1世を主人公にした、ドラマや映画がそれは沢山作られていますから。また、 ロンドン塔 や タワーヒル で、幾人かの著名人が処刑された、そしてチューダー朝後期には、文豪シェイクスピアが現れたのも手伝い、尚更インパクトが強いのかもしれません。という事で、チューダー(テューダー)王朝について、簡単にまとめておくことにします。 チューダー王朝は、ボズワースの平原で、ヘンリー・チューダーが リチャード3世 をやぶり、ヘンリー7世として君臨する1485年から、子供を残さなかったエリザベス1世が死去する1603年までと約120年間続きます。その間の君主は、計5人( ジェーン・グレイ を数えると6人)。 ヘンリ―7世(1485-1509) ヘンリー8世(1509-1547) エドワード6世(1547-1553) ジェーン1世、ジェーン・グレイ(1553) メアリー1世(1553-1558) エリザベス1世(1558-1603) 上の絵は、ホワイトホール壁画(Whitehall Mural)と呼ばれる、ヘンリー8世が、宮廷画家ハンス・ホルバインに1537年に描かせたホワイトホール宮殿の実物大の壁画の、18世紀の水彩画コピーです。本物は、ホワイトホール宮殿が17世紀後半に火事になった時に焼失しています。 上方に立つのは、ヘンリー7世と妻のエリザベス・オブ・ヨーク。親戚同士のランカスター家とヨーク家が、王座をかけて戦い続けたばら戦争の終結が、ボスワースの戦いですが、ランカスター家(赤薔薇)のヘンリー・チューダーは、ヨーク家(白薔薇)のリチャード3世から、武力で王冠を取ったものの、血筋的には、王座を継ぐには、いささか血統書付きとはいかぬものがあった。このため、ヨーク家のエドワード4世(リチャード3世の兄)の娘である、エリザベスと結婚し、これで少々正当性を持たせ、赤薔薇と白薔薇を合体させてのチューダー王朝を開始。よって、チューダ...

チューダー朝イングランドを脅かした疫病、粟粒熱

イメージ
ヒラリー・マンテル著「Wolf Hall、ウルフ・ホール」を読み始めました。ヘンリー8世の右腕として 修道院解散 などを実行したトマス・クロムウェルが主人公の長編3部作。評判と期待を裏切らぬ面白さです。ヘンリー8世の時代を描いた本というのは、とても多いですが、良く研究されているそうで、史実もかなり信頼置けるとのこと。 チューダー朝 の歴史をおさらいしながら、絶妙にかもし出される当時の雰囲気を楽しみながら、時間をかけて、ゆっくり読んでいくつもりです。物語は、かつては常に悪役的イメージのあったクロムウェルの視点から描かれています。 トマス・クロムウェルが住んだオースティン・フライヤーズ周辺 トマス・クロムウェルは、ロンドンのシティー内、オースティン・フライヤーズ(Austin Friars)という地域に住んでおり、彼のかつての邸宅は、彼の失脚と処刑の後、シティーの商業組合( リヴァリカンパニー )のひとつである、ドレーパーズ・カンパニーによって購入され、現在その場所には、 ドレーパーズのカンパニー・ホール が建っています。 トマス・クロムウェルは、妻のリズと娘2人、妹夫婦を、Sweating Sickness(粟粒熱 ぞくりゅうねつ、直訳すると発汗病)という疫病で亡くしており、その描写も、この本の中に書かれています。とにかく、かかると、瞬く間にに死んでしまう人が多い病気であったそうです。 1527年の7月、クロムウェルは、朝、床の中で、リズが汗ばみながら寝ているのを見、そのまま気にもせず、一人起き、オースティン・フライヤーズの自宅を去り、外出。夜、家に帰ったら、リズはすでに亡き人だった・・・という事になっています。そして、2年後の1529の夏には、娘2人も死んでしまい、更に、同じ年に、妹夫婦も、前日は元気でいたのが、翌日には死んでいたと書かれています。 症状は、悪寒、めまい、頭痛、倦怠感、体のふしぶしの痛みなどであったようです。 死亡者が出た場合は、即効で埋葬をする義務があったようで、リズが亡くなった際、クロムウェルは、息子や親類を呼ぶ時間の余裕もなく埋葬。更に、感染者が出た家は、家のドアに藁の束を下げる必要があり、その後の40日間、その家への出入りは禁止され、そこに住む家族たちも外出は自粛。現在のコロナ感染下の生活状況と似ていますね。小説...

走れロケット号~蒸気機関車時代の到来

イメージ
ヨーク鉄道博物館にあるロケット号のレプリカ 汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 僕らを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポ 早いな 早いな 窓の外 畑も飛ぶ飛ぶ 家も飛ぶ 走れ 走れ 走れ 鉄橋だ 鉄橋だ 楽しいな 前回の、線路というものに焦点を当てた、「 鉄道の始まり 」の記事の続きとして、今回は、イギリスにおける蒸気機関車の創成期の歴史を書いてみます。「鉄道の始まり」で記したよう、鉄道も機関車も、人を移動させるというより、重い貨物を移動させることを最大目的として開発されていったため、最初は、炭鉱、鉱山,、産業がらみで発達していきます。 日本で蒸気機関車は、時に、「Steam Locomotive」の略である「SL」という名でもおなじみ。スティームは、蒸気の事ですが、ロコモティブは、ラテン語の、ロコ(loco 場所から)という言葉と、モティバス(motivus 動く事)という言葉が合体した言葉。そして、ロコモティブは、場所の間を移動する、という意味の形容詞から、蒸気機関車の誕生に伴い、「自らの力で鉄道の上を動くエンジン」=「機関車」の意で名詞としても使用されるようになります。 蒸気のパワーを、一カ所に固定された機械に使うのみでなく、乗り物に応用しようという試みは、18世紀後半から、幾人かの人物により、行われてはいたようですが、実際に、定期的使用に耐え得るような信頼性のあるものができあがるまでは、かなりの時間がかかっています。 リチャード・トレビシックと蒸気機関車の誕生 イギリス南西部コーンウォールの鉱山のエンジニアであったリチャード・トレビシック(Richard Trevithick)が、最初の、蒸気を用いた乗り物を作るのに成功した人物、ひいては、蒸気機関車の生みの親と見られています。まず、彼は、蒸気自動車を製造し、何度か道路を走ることに成功。その後、鉄道路線の上を走らせるための、蒸気機関車を作ってはどうかと考え付くに至ります。当時の鉄道は、上を馬が荷車を引いて歩くという馬車鉄道でしたので、馬に代わる、よりパワフルなものが、蒸気機関車であったのです。 トレビシックは、1804年、ウェールズのマーサー・ティドフィル(Merthyr Tydfil)という場所にあったペナダレン(Pen-y-dar...

鉄道の始まり

イメージ
線路はつづくーよー、どこまでも 野をこえやまこーえー、谷こえて はーるかな町まーでー、僕たちの たーのしい旅のゆめ、つないでる らららららーら、らららららーら、らららららら、らんららーん 鉄道が、地平線に続くような景色を見ていると、旅情緒にうたれます。どこまでも、これを辿って行ってみたくなるような。もっとも、鉄道というものは、もともと、人の移動よりも、物資の移動のために作られたものなのですが。本日は、ちょっと、その線路・鉄道の歴史を見てみる事にします。 重い貨物を積んだ荷車の車輪が通るための軌道として、溝を掘った道路というのは、古代からあったそうで、ギリシャや中東などにそうした溝の軌道跡がまだ残っているそうです。また、火山爆発により失われたローマ帝国の都市ポンペイにも、この軌道用の溝を刻んだ道が、火山灰の下にそのままの姿で保存されていたと言います。車輪というものは、人類の発明の中で、最も大切なもののひとつに数えられていますが、その車輪を有効に活用するためには、それを効率よく走らせるための軌道も必要。これらの古の軌道の幅は、一様に大体1メートル半弱だそうで、現在の鉄道の軌間(ゲイジ、gauge)で、標準とされる1435ミリと、ほとんど変わらないというのが面白いです。いずれにせよ、機関車というものが誕生する以前の、ずっーと昔から、こうした鉄道のご先祖様たちは活躍していたのです。 特に、鉱山や炭鉱などで、一定の区間を、重いものを大量に移動させる必要がある場合、荷車が、地面に食い込むことなく、スムースに移動するよう、何らかの工夫は必要です。やがて、そうした場所で、木材を使用した線路が作られるようになり、馬や人力に引かれた荷車がその上を行き交いするようになります。この場合、車輪が滑って軌道からはずれるのを避けるため、L字方の線路を作ったり、または車輪の縁にフランジ(flange)と呼ばれるでっぱりをくっつけたりとの工夫がなされます。 こうした簡易線路は、イギリスでは、トラムウェイ(tramway)などと呼ばれましたが、18世紀イギリスでは、炭鉱などでの、そうしたトラムウェイ建設にあたり、木製線路が、泥の中に沈んでいかぬよう、また動かぬよう、下に枕木(railway sleeper)を寝かし、木製線路をその上に固定するようになります。枕木と枕木の間に...

バーリントン・アーケイド

イメージ
屋根のあるショッピングアーケイドは、にわか雨に降られた時などのウィンドーショッピングには便利です。特に、ロンドンの ピカデリーサーカス 近郊、ピカデリー街とバーリントン・ガーデンズ街をつなぐ、バーリントン・アーケイド(Burlington Arcade)内は、宝石や、ファンションなどの高級店が並び、私のような一般庶民は、それこそ、できるのはウィンドーショッピングくらい。内部に軒を連ねる小さい店内に足を踏み込むのも、何となく気おくれします。 1819年にオープンした、バーリントン・アーケイドは、長さ179メートル。ジョージ・キャベンディッシュ、第一代バーリントン伯爵(George Cavendish 1st Earl of Burlington)の命によって建設。彼は、アーケイドのすぐ東に隣接するバーリントン・ハウスに住み、ここで死去しています。バーリントン・ハウスは、現在は、その中庭に面した北翼に位置するロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ(王立芸術院 Royal Academy of Arts、 通称RA)の本拠地として有名です。その他にも、王立天文学会、ロンドン地質学会などのそうそうたる協会が、バーリントン・ハウスを本拠地としています。 このジョージ・キャベンディッシュという人ですが、「 ある公爵夫人の生涯 (The Duchess)」という映画でもおなじみの、故ダイアナ妃のご先祖、ジョージアナ・スペンサーの夫君であった、ウィリアム・キャベンディッシュ(第5代デヴォンシャー公爵)の弟です。ジョージ・キャベンディッシュは、バーリントン・アーケイドを作らせる数年前の、1815年に、ジョージアーナとウィリアムの一人息子で、甥にあたる第6代デヴォンシャー公爵から、バーリントン・ハウスを買い取っています。 バーリントン・アーケイド誕生の由来の一説によると、ロンドン庶民が、バーリントン・ハウスの脇を通りながら、食べ終わった 牡蠣 の貝がらや、その他のゴミを、塀のむこうの、バーリントン・ハウスの庭に放り投げていたため、これを避けるため、アーケイドを作らせた、というもの。ふとどきな奴らから、邸宅を守るためのバリアのようなものです。 また、別の説によると、ジョージ・キャベンディッシュが、夫人と彼女の友達が、良からぬ人間が徘徊するロンドンの雑踏に紛れて買い物をする...

ロンドンへ水を運ぶニューリバー

イメージ
玉川上水のきょうだい?イギリスのニューリバーの始まり部 「大江戸えねるぎー事情」(石川英輔著)という本を読んでいて、「水事情」を書いた章に下のような記述がありました。 「神田上水や玉川上水ができた当時、本格的な水道があったのは、世界中でロンドンだけだった。1618年、つまり神田上水の11年前、玉川上水の30年前に、ロンドンでは約30キロメートル離れた高地の湧水をニューリバーという人工水路で引いて配水する民間の事業が始まっていた。玉川上水のイギリス版といえるだろう。だが、この水路の建設は難工事で、4年もかかったという。 ロンドン市内での配水は、丸太の中をくりぬいた排水管を地下に埋めずに地上に置くなどの違いこそあったが、こちらも太陽エネルギーと重力を利用したエネルギー消費ゼロの自然流下式であって、時代としても技術にしても、江戸の水道のきょうだいと言っていいほどよく似ているから面白い。 ついでに書いておくと、パリの水道はニューリバーや神田・玉川上水に比べてはるかにおくれていた。・・・」 ロイヤル・エクスチェンジにあるヒュー・ミドルトンの彫像 ニュー・リバー(New River)と聞いてすぐに頭に浮かんだのは、シティーの ロイヤル・エクスチェンジ を取り囲む彫像のひとつ、ヒュー・ミドルトン(Hugh Myddelton)の彫像。彼が、ニューリバー建設の立役者で、その業績のために、こうしてシティーのど真ん中にも、彼の彫像が残っているのです。 ニュー・リバーは、ニュー(新しい)でもなければ、リバー(川)でもありません。まあ、できた当時はニューだったわけですが。「大江戸えねるぎー事情」の記述の通り、人口水路です。ハートフォードシャーの州のウェアー(Ware)近郊で、リー川(River Lea)から水を取り、土地の高低の差を利用して、その水をロンドンへ運ぶ役割を果たしてきました。 1600年以前は、ロンドンの飲料水は、テムズ川や、周辺の支流からひいてきた水、井戸、泉に頼るもので、人口増加に伴い、汚水なども混ざり、水質も怪しげ。17世紀に入ってから、エドマンド・コルサースト(Edmund Colthurst)なる人物が、ハートフォードシャー州の泉から、きれいな水を引いてくるという考えに行き当たり、ジェームズ1世から、そのための水路建設の許可を取...

平成がゆく

イメージ
何やかやと、ばたばたしているうちに、また、前の投稿から、かなりの時がたってしまいました。時が経つ・・・と言えば、平成という時代も、そろそろ幕切れ。平成おじさん、こと当時の小渕官房長官が、「平成」という文字が書かれた色紙を、テレビスクリーンに掲げた姿を見てから、もう30年ほど経っているわけです。 この1989年1月7日、当時、英会話学校で教師をしていた私は、アメリカ人の同僚のアパートに、他の先生たちと集まって、テレビを見ていました。みなで、こたつに輪になって座り、テレビに映った平成の文字を、デジカメの無い当時の事、昔のばかちょんカメラで撮り、ついでにみんなで記念写真。実際に、平成おじさんを写さなかったのが残念でしたが。その時に、何をしゃべったか、何を食べたか、そんなことは一切頭から消えているのに、テレビに映った平成の文字だけは、よく覚えています。 昭和の終わりに、1回イギリスに留学し、また、このすぐ後に、イギリスへ行き、更に数年後には、3回目の正直で、半永久的に渡英し、以来、あまり日本に帰ることもなかったので、平成の時代のほとんどは、イギリスで過ごした事となります。ですから、この時代の日本の社会情勢の変化というのは、全く見ずに過ごしました。 最初のころは、今のように、インターネットで簡単に情報を得たり、スカイプ、Eメールなんぞもなかったので、日本の人たちとの連絡も、いや、こちらで知り合い、後に故郷に帰って行ったヨーロッパの友達とのやりとりも、手紙でした。古風なものです。大体、ブログなるものを、「お、こんな事ができるのか」と始めたのでさえ、まだ10年くらい前の話です。(ひと昔と言われる10年という単位を、「まだ」と表現するあたりが、私も、年取ったな、と感じますが。) この期間、世界的にテクノロジーの進歩もめまぐるしいものなら、当然、こちらについてからのロンドン、イギリスの様子も変わっています。初めて住んだ、ロンドンのスイス・コテージという、今でも日本人の多い地域で、狭い室内に、ベッド、冷蔵庫、流し、料理用クッカーのついた、当時「ベッドシット Bedsit」と呼ばれる部屋を借り、値段は、今からは考えられないような、週30ポンドくらいだったと記憶します。風呂は共同で、ガスや電気は、自分でコインを入れて作動させるものでした。洗濯物なども、コインランドリ...

バーカムステッド城

イメージ
去年の今頃は、 大雪騒ぎ を経験したイギリスですが、先週は、記録的に暖かい日が続き、陽気に誘われ、ハートフォードシャー州バーカムステッドにある城跡訪問と周辺のハイキングへ出かけました。 バーカムステッド(Berkhamsted)という地名は、英語のウィキペディアによると、「berk」の部分が、丘か、カバノキを意味し、 「hamsted」とは「homestead、ホームステッド」の事で、土地つきの家・館を意味するので、「丘またはカバノキに囲まれた荘園」の様な意味になるそうです。 1066年10月14日に戦われた ヘイスティングスの戦い で、イングランド王ハロルドの軍を破り、勝利したノルマンディー公ウィリアム。1週間ほど、ヘイスティングスに留まり、ウィリアムをイングランド王と認める、イングランド側の正式な服従を待ったものの、それは来ず、ウィリアムは、兵を上げロンドンへと向かいます。その過程で、まず、港町 ドーバー を焼き尽くし、キリスト教会の大切な根拠地 カンタベリー を落とし、11月には、テムズ川南岸にあるサザックへ到着。サザックから、 ロンドン橋 を渡った対岸のロンドン(シティー・オブ・ロンドン)に侵入するのに失敗したウィリアムは、その後、行く先々を焼き尽くしながら、テムズ川南岸を西(上流)に移動し、12月初旬、オックスフォードシャー州のウォーリングフォード(Wallingford)でテムズ川を対岸へ渡ります。ここから軍の一部を、要地であるウィンチェスターへ送り、ウィンチェスターを抑え、ウィリアムは、そのままチルターン丘陵を沿って、ロンドンの北西約42キロの場所に位置するバーカムステッドにやって来るのです。要は、ロンドンの南部のサザックから、ロンドンを軸とした感覚で、ぐるりと時計回りに半周してバーカムステッドにたどり着いたわけです。 そして、このバーカムステッドの地で、ウィリアムは、ハロルド王亡き後、イングランドの王位継承者と見られていた14歳のエドガー・アシリングとアングロ・サクソンの重鎮たちを迎い入れ、彼らの降伏を受諾し、イングランド王と認められます。さんざん、あちこちの村や町を焼き落されて多くの犠牲者を出した後の服従とあって、早めに状況判断をして、とっとと降参していれば、被害も少なく済んだのに、という批判もあるようですが。そして、クリスマスの日...