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12月, 2018の投稿を表示しています

霧の中の動物たち~その辺旅行のすすめ

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日本の幼馴染から、メールで、イギリスの冬は青空が見えるのか、と聞かれました。なんでも、友達が南ドイツの山岳部を旅行して、青い空を背景に3000メートル級のオーストリアの山並みが見え、とてもきれいだったと聞かされ、そういう所に行ってみたいと思ったのだそうです。イギリスには、3000メートル級の山並みもなければ、冬季の青空も稀。まだ、東京あたりの方が、青空が見える回数は多いはずです。 今年の元日に、家の近くの田舎の散歩に出た時の様子を ブログ記事 にしました。丁度一年ほど経った本日も、灰色の空の下、しかも昼にもなろうというのに、霧の立ち込めた田舎道に散歩に出ました。じとっとしめって、雲が垂れこめた、毎度おなじみ、典型的イギリスの冬の日。比較的暖かかったですが。 歩き始めて、まず、お目にかかったのは、2頭の牛。つぶらな瞳のまつげは白でした。 こちら、威風堂々、横向きポーズ。 木製のゲートを超えて、次に現れたのは、馬たち。普通の馬一頭と、かわいいポニーが2頭。皆、冬用ジャケットを着用。 馬は、必ずと言っていいほど、近づいてくるので、柵から、かなり離れたフィールドの端にいたのに、瞬く間にそばにやって来て、私のすぐそばで、草をバリバリ食べ始めました。 最後に遭遇したのは羊たち。羊は、私が歩いているのに気づくと、起き上がって、こっちを見たりするのですが、馬と違い、臆病なのか、寄っては来ない。でも、ずーっと、視線を感じます。遠巻きに、見えなくなるまで、こちらの様子をうかがっていました。 散歩の後は、近くの町のティールームで、ランチ。これで、結構、幸せな一日。 私も、海外旅行は時々、行きたくなりますが、空港の混雑ぶり、ホテルにチェックインするまでの行程、また、慣れない枕で寝ることなどを考えると、段々、億劫になって来て、若い時ほど、「さー、色々海外行ってみないと!」という強い気持ちは薄れて来た、というのはあります。日本で生まれながら、海外に住んでいるわけですが、人生の半分以上生活している場所は、もう海外とは、呼べないですしね。 以前、 スノーマン 作家のレイモンド・ブリッグズが、「混み混み空港が嫌だから、海外旅行なんてほとんど行かない」というような事をインタヴューで言っていたのを思い出して、「わかる。」という気持ちも強くなって

昔のロンドンのトイレ事情とグレート・スティンク

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朝、トイレに座って、事を済ませた後は、立ち上がり、何も考えずに、トイレをザーッと流す。トイレの中から流され消えていくシロモノが、どこへ行くかも考えず、毎日、自動的に行う行為です。思い起こしてみれば、東京の下町にあった祖母の家は、まだ、私が幼いころは、汲み取り式便所で、時に、汲み取り専門のホースが付いたトラックに来てもらって、溜まったうんこを吸い取って行ってもらう必要があったのです。夜中、トイレに起きて、ぽっかりあいたしゃがみ式便器の黒い穴の中に、落ちたらどうしよう、なんて事も時に頭を過っていました。やがては、これも、水洗便所に取って代わられたのですが。 ”Wonders of a London Water Drop ” こんな事を思い出していたのは、19世紀後半に、総括的な下水システムが建築される以前の、くさーいロンドンのトイレ事情の記述を本で読んだのがきっかけです。トイレというものが無い時代、人は、チェンバーポットと呼ばれる容器などの中に用を足して、内容物を、家の地下にある肥溜め(cesspit)にあける、という事をしていたわけです。貧しい地域では、いくつもの家庭で共有する屋外の便所(privy)もあったようですが、これも直接掘った穴の中にぼとんぼとんと落とすか、穴の中に納まっているバケツのようなものの中にするか、肥溜めにせよ、屋外便所にせよ、定期的に内容物をなんとかしないとあふれ出すこととなります。 そこで登場するのが、ナイトソイルマン(night soil man)または、ナイトマン(nightman)。スーパーヒーローの様な名称ですが、要は、夜間にやってきて、肥溜めや便所の内容物を集め、持って行く、という仕事。このナイトソイルマンは、こうして集めたブツを、ロンドン外の農場の肥料として売っており、くさいのと汚いのを我慢すれば、回収と販売で2度お金を儲けられる商売であったようです。ロンドンのサイズがまだ小さい頃は、ロンドンの市壁のすぐ向こうには畑が広がり、田舎からロンドンに近づいてくると、畑にまかれた、ロンドン市民のうんこの匂いがした、などという話も聞いたことがあります。 肥溜めも定期的に管理していればいいものの、ナイトソイルマンに来てもらうには金がかかるとあって、ためたまま、何もしないという人も多々いたようです。挙句の果てには、それがあふれ

9つの聖書日課とクリスマスキャロル

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クリスマスイブの午後3時からは、毎年、BBCのラジオで、ケンブリッジ大学の キングス・カレッジ・チャペル から、9 Lessons and Carols(9レッスンズ・アンド・キャロルズ、9つの聖書日課とクリスマスキャロル)が生放送されます。そして、少々遅れた時間に前もって録音されていたヴァージョンがテレビで放送。(上記写真は、キングス・カレッジの 公式サイト より。) これは、9つの聖書からの抜粋の朗読と、聖歌隊によるクリスマスキャロル演奏が交互に行われるという式典。キングス・カレッジ・チャペルでのサービスは、いつも、聖歌隊メンバーのソロによる"Once in Royal David's City"でおごそかに始まります。9つの聖書の抜粋の朗読は、まず聖歌隊のメンバーから始まり、徐々に、教会内での階級が高い人物が順番に読む形となります。イギリスのみならず、他国でも放送される、超人気のキャロル・サービスとあって、中に入って見ようなどと思うと、もう数日前から、寒い中、寝袋抱えて並ぶ覚悟で、クリスマスイブの朝に配布されるチケットをゲットする必要があるそうです。 クリスマスイブに、この「9つの聖書日課とクリスマスキャロルの礼拝」を行うのは、キングス・カレッジ・チャペルが行うようになってから、クリスマスイブの定番となり、イギリス内、更には、世界各国に広がったのですが、一番最初に行われたのは、1880年、イングランド南西部のコーンウォール州の州都トゥルーロ(Truro)での事。トゥルーロの大聖堂は、同年に建設が始まり、トゥルーロ大聖堂の初代司教となり、後にはカンタベリー大司教にもなる、E.W.ベンソン氏が、参列者に親しみやすい礼拝として考案。大聖堂建設中の仮の木造建築物内で、9つの聖書からの朗読が、9つのクリスマスキャロルに挟まれた形の礼拝が、最初に執り行われたのだそうです。 キングス・カレッジでのサービスが最初に行われたのは、第一次世界大戦終戦の年である1918年。ですから、今年は、100周年記念の年です。第一次世界大戦中、西部戦線そしてイタリアへ送られていた、エリック・ミルナー・ホワイト(Eric Milner White)氏は、帰国後、ケンブリッジへ戻り、キングス・カレッジで首席司祭(Dean)に任命されます。悲惨な 第一次世

英国総督 最後の家

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「Viceroy's House」(英国総督 最後の家)という映画をDVDで見ました。舞台は1947年のインド。インドが、大英帝国から独立するにあたり、受け渡しのために、最後のインドの総督となったルイス・マウントバッテン(Louis Mountbatten)と、妻エドウィーナ、娘パメラは、デリーにあった豪華な英国総督館に滞在。マウントバッテンは、着任から18か月で、イギリスのインドからの撤退、インドの独立をスムースに執り行う役目を果たすために派遣されたわけですが、インド内に存在する宗教間の違いの打開策を見つける事ができず、最終的に、インドとパキスタンと、2つに分離しての独立にこぎつける過程を描いています。マウントバッテン夫妻は、非常にインドの独立に対しては同情的で、過去の総督が敵とみなしていたマハトマ・ガンジーとも、着任早々、会談。 マウントバッテン演じるは、ダウントン・アビーでお馴染みのヒュー・ボネヴィル、エドウィーナ夫人は、ジュリアン・アンダーソン。このマウントバッテンという人物は、現エリザベス女王の夫君プリンス・フィリップの叔父にあたり、女王とも遠縁。映画内でも、そうした王室との関係を思わせ、娘のパメラが、エリザベス王女(まだ父王健在の時ですので)が結婚するにあたり、ブライド・メイドの一人になる、という話も挿入されていました。マウントバッテンは、インドの独立からかなり時が経った、1979年、アイルランドでの休暇中にヨットに乗っている際、IRA(アイルランド共和軍)により、ヨットにしかけられた爆弾で暗殺死しています。 さて、当時のインドは、人口約4億人で、様々な宗教を信じる人民から構成されていた国。うち、2つの大きな宗教が、ヒンズー教とイスラム教で、ヒンズーが、大多数を占めます。それまで、イギリスという蓋の下で、異なる宗教に属する人間たちが、隣同士で、平穏に生きて来たわけです。が、イギリスの支配が消え、民主義国家として独立すると、どうしても大多数の宗教であるヒンズー教信者たちに政治が牛耳られ、自分たちは巨大国家の少数派として、差別を受けることを懸念した、インド・ムスリム連盟指導者で、後のパキスタン総督となるムハンマドー・アリー・ジンナー(Muhammad Ali Jinnah)は、イギリスが去った後は、インドとは別に、イスラム教信者の多い地

教会でコーヒータイム

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昔は、日曜日ともなると、お説教を聞きに大勢の住民が訪れた教会も、いまや、クリスマスやイースターなどの特別な催しのある日以外は、参列者の数もがたおち。大体、現在は住む場所というより働く場所と化した、シティーなどのロンドン中心部は、住民の数自体が過去に比べて、激減しているので、教会が人口に比べて多すぎる、という事実もあります。また、時折ニュース沙汰となる、聖職者による、わいせつ事件、暴行事件なども、人々が教会という組織に背を向ける理由となっている感もあります。身の回りでは、本当に、この人はいい人だ、と思う人は、無宗教の人が多いですし。頻繁に教会に通っている知り合いから、以前、同教会を通して仲良くなった知り合いから、金をだまし取られたなどという話も聞いて、びっくりしたことがあります。当然、教会関係者でも、いい人は沢山いますよ。貧しい人に、無料で食べ物を提供している教会などもある。でも、「キリスト教信者=モラルのある良い人間」という方程式はあてはまらないです。大体、昔のキリスト教の歴史を振り返っても、宗派による殺し合いや、自分と違う意見を持つものへの 糾弾 の話が多いですし。 と、前置きが長くなりましたが、そうした参列者がいなくなった古い教会の中には、取り壊されてしまったものもあり、民家や高級マンションとして生まれ変わるものもあれば、市民の集いの場と化すものもあり。さらに、カフェやティールームとして機能している教会も増えています。 ロンドンのシティー内で、私が気に入っているカフェのひとつが、 セント・ポール寺院 などにも近い、セント・ニコラス・コール・アベイ教会(St Nicolas Cole Abbey)にある、レン・カフェ( Wren Cafe)です。当教会、 ロンドン大火 後に、クリストファー・レンにより再建されているので、彼の名を取った「レン」と、小鳥のレン(みそさざい)をかけた名の様です。 広々とした歴史あるスペースの中、片側に注文を取るカウンターがあり、ゆっくりとコーヒーをすすりながら、時を過ごせます。 こちらは、セント・メアリー・オールダー・メアリー教会(St Mary Alder Mary)のコーヒーコーナー。この教会もクリストファー・レンによるもので、 綺麗な天井をながめながらのコーヒータイム。ついでながら、この教会が、

マダム・タッソーの人生

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マダム・タッソー(Madame Tussaud)というと、ロンドンの地下鉄ベイカー・ストリート駅のそばにあるマダム・タッソー蝋人形館(Madame Tussauds)で有名です。「高額の入場料を払って、有名人そっくり蝋人形を見たいかあ?見たかないよー。」と、実は、まだ一度も入ったことがないのです。大昔、ロンドンに来たばかりの時に、「ロンドン・ダンジョン」なる恐怖の蝋人形館のようなものに入り、ちょっと子供だまし的という印象を受けたのも、足が遠のいた理由のひとつ。以前、母親が遊びに来た時、見たいというので、彼女の分だけお金を払い、1時間ほど、一人で見て回ってもらって、自分は、ちょっとその間、用事をすませていた、という事もありました。彼女は、それなりに楽しかったようですが。 同じお金を払うなら、ロンドン塔やら、 ウェストミンスター・アベイ やら、歴史あるところに行った方がいい、という感覚もあったのですが、最近、マダム・タッソーという人物の略歴をちらりと読み、更には、彼女の人生に関するテレビ・ドキュメンタリーも見て、マダム・タッソーという女性も、彼女の蝋人形館も、それは面白い歴史を持っている事に、今更ながら気が付いた次第。 という事で、今回は、そんなマダム・タッソーの人生をまとめてみることにしました。 84歳のマダム・タッソー マダム・タッソー(マリー・タッソー、 Marie Tussaud)は、ストラスブールで生まれたフランス人。本人が、年を取ってから出版した自伝によると、父は軍人・・・と書いているのだそうですが、実は、彼女の父親は代々、死刑執行人の職業をひきついできた家系。なんでも、死刑執行人の父を持つと、息子は職業を引き継がねばならず、娘は、本来なら、やはり死刑執行人の家系の男性と結婚せねばならないというしきたりがあったのだそうです。そんなこんなで、それを恥と感じ、本当の父の職業を隠し、伝記でも、軍人の家系とうそをついたようです。 マリーの父は、彼女の生まれる直前に死亡。母は、マリーを連れ、スイスのベルンで医者をしていた義理の兄、フィリップ・カーティス(Philippe Curtius)の元へ、家政婦として身を寄せます。カーティスは、解剖学にも役立つ、人体の蝋人形制作などにも余念なく、やがて、ルイ16世や、マリー・アントワネットなど、時代の著名

ドルリー・レーン劇場

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ロンドンはコヴェントガーデンにほど近い、ドルリー・レーン劇場(Theatre Royal Druly Lane)は、現在も興行を続けている世界で一番古い劇場のひとつだと言われています。この劇場内のツアーがあると聞いて、先月、参加してきました。現在の建物は、1812年に遡るものです。内部は当然、修繕改造されているわけですが、外見は、この時から、ほぼ同じということ。この現在の建物に至るまでの、ドルリー・レーン劇場の歴史を、ざっと書くと・・・ この場所に、最初の劇場が建てられ興行が開始したのは、1660年の王政復古( レストレーション )も間もない、1663年の事。オリバー・クロムウェルの共和制時代には、劇場やお祭りなどの余興、ひいてはクリスマスなんぞも、無駄な物、神の意に反する不真面目なものと見られ、禁止となります。メリー・モナーク(陽気な王様)の異名を取ったチャールズ2世が、クロムウェルの死後に、亡命先から呼び戻され、王座に着くと、王は、2つのグループに、特許状を出し、芝居をかける権利を与えます。そのうちの一つが、トマス・キリグル(Thomas Killigrew)の率いる劇団で、当劇団はキングス・カンパニー(King's Company)と呼ばれるようになります。彼が、この場に最初の劇場を建設。 チャールズ2世もこの劇場に足しげく通います。もともとは、当劇場で、オレンジの売り子として働き、やがて、キングス・カンパニーのメンバーとして、舞台に立つようになった女優の ネル・グウィン は、チャールズ2世お気に入りのお妾さんとなるのです。当劇団おかかえ劇作家として、王政復古喜劇(リストレーション・コメディー)を代表する劇作家の一人として知られるジョン・ドライデンなどがいます。 ようやく、楽しい余興がイギリスに戻って来た数年後の1665年夏に、ロンドンを襲うのが、 黒死病 (ペスト)。猛威を振るったこの病魔が必要以上に広がるのを抑えるため、約18か月、劇場などの大人数が集まる場所は閉鎖となります。ロンドンのシティー西圏外にある当劇場は、その翌年の9月にロンドンのシティーを焼きつくした、 ロンドン大火 からは、免れますが、1672年に、別の火災で焼失。 2番目の劇場は、1674年に再建。18世紀のもっとも有名なイギリス俳優、デイヴィッド・ゲイリック(

フレッシュ・ミントティー

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ミントは消化にいいという事なので、ティーバッグのミントティーは、時折買って、食後に飲んだりしていました。最近は、カフェやレストランでも、ティーバッグで出した、ミントティーを含むハーブティーを出す店も増えています。健康志向ブームですから。 先日、地元の町で、夕食に、大好きなトルコ料理店へ出向き、美味しい小皿の料理をいくつも頼んで、たらふく平らげました。 こんなに食べた挙句の果てに、更にデザートメニューを頼み、デザートには、トルコの、パイ生地に入った甘いお菓子と、フレッシュ・ミントティーなるものを注文。親切なウェイトレスのお姉さんは、まず、お菓子は自分で焼いたと自慢して、お菓子のお皿と、ほくほく湯気の上がる、長い透明の耐熱ガラスのカップに入ったミントティーを目の前に並べてくれました。フレッシュというのは、ティーバッグではなく、3,4茎のミントが、そのまま入っているから。グラスのふちにレモン。そこに熱湯をがーっと注いだだけなのですが、これが、結構いけました。特に食後は、口に残った料理の味をきれいに流して爽やかな気分にもなれます。砂糖を入れずに飲んだので、甘いお菓子にもぴったり。お菓子と一緒でなければ、はちみつ入れても美味しいでしょうね。 うちの庭にも、夏季、ミントは雑草のように繁殖し、料理などに、使用したりはしているのですが、このトルコ料理店で出たフレッシュ・ミントは、うちの庭のものより、葉の形が丸く、お茶にした時の味も、ずっとまろやか。ウェイトレスのお姉さんに、どんなミントを使用してるのか聞くと、「普通のミントよ。トルコ総菜を売る店から仕入れてるの。うちのお母さんの庭にも、同じのが雑草みたいに沢山生えてるわ。」という事は、トルコの一般家庭の庭で雑草化するミントと、うちの庭で雑草化しているミントは、違う種類なのでしょう。お姉さん、続けていわく「ミントは脂肪を溶かすのよ。だから、私も必ず一日一回は、これ飲んでるの。」ミントが脂肪を溶かすというのは、ちょっと眉唾物ですが、爽快な飲み物であることには間違いありません。 さっそく、翌日、最寄りのスーパーで、レストランで出されたのと同じコーン形のガラスのカップを見つけ購入。最近、カフェなどでカフェ・ラテを頼むと、この形のカップで出される事が多く、ラテ・カップなどとラベルに書かれてありました。同じスーパー内で、ミン