マダム・タッソーの人生

マダム・タッソー(Madame Tussaud)というと、ロンドンの地下鉄ベイカー・ストリート駅のそばにあるマダム・タッソー蝋人形館(Madame Tussauds)で有名です。「高額の入場料を払って、有名人そっくり蝋人形を見たいかあ?見たかないよー。」と、実は、まだ一度も入ったことがないのです。大昔、ロンドンに来たばかりの時に、「ロンドン・ダンジョン」なる恐怖の蝋人形館のようなものに入り、ちょっと子供だまし的という印象を受けたのも、足が遠のいた理由のひとつ。以前、母親が遊びに来た時、見たいというので、彼女の分だけお金を払い、1時間ほど、一人で見て回ってもらって、自分は、ちょっとその間、用事をすませていた、という事もありました。彼女は、それなりに楽しかったようですが。

同じお金を払うなら、ロンドン塔やら、ウェストミンスター・アベイやら、歴史あるところに行った方がいい、という感覚もあったのですが、最近、マダム・タッソーという人物の略歴をちらりと読み、更には、彼女の人生に関するテレビ・ドキュメンタリーも見て、マダム・タッソーという女性も、彼女の蝋人形館も、それは面白い歴史を持っている事に、今更ながら気が付いた次第。

という事で、今回は、そんなマダム・タッソーの人生をまとめてみることにしました。

84歳のマダム・タッソー
マダム・タッソー(マリー・タッソー、 Marie Tussaud)は、ストラスブールで生まれたフランス人。本人が、年を取ってから出版した自伝によると、父は軍人・・・と書いているのだそうですが、実は、彼女の父親は代々、死刑執行人の職業をひきついできた家系。なんでも、死刑執行人の父を持つと、息子は職業を引き継がねばならず、娘は、本来なら、やはり死刑執行人の家系の男性と結婚せねばならないというしきたりがあったのだそうです。そんなこんなで、それを恥と感じ、本当の父の職業を隠し、伝記でも、軍人の家系とうそをついたようです。

マリーの父は、彼女の生まれる直前に死亡。母は、マリーを連れ、スイスのベルンで医者をしていた義理の兄、フィリップ・カーティス(Philippe Curtius)の元へ、家政婦として身を寄せます。カーティスは、解剖学にも役立つ、人体の蝋人形制作などにも余念なく、やがて、ルイ16世や、マリー・アントワネットなど、時代の著名人とそっくりの蝋人形を作りはじめ、入場料を取り、展示を初めるのです。幼いマリーは、おじと慕ったカーティスの下で蝋人形作成の技術を学び、それは見事に本物そっくりの人形を作るようになる。この頃の彼女の作品で残るのは、フィリップ・カーティスと思われる人形のひとつだけだそうです。

ところが、1789年に起こったフランス革命により、今までの著名人、王侯貴族やかつてのエリートが社会と民衆の敵とみなされるに至ると、身の危険を感じたカーティスとマリーは、王党派であったにもかかわらず、大急ぎで、今までの展示を一掃。今度は、新しい国民議会のメンバーや革命の英雄とみなされる人物たちの蝋人形を作るようになるのです。恐怖政治が始まると、昨日の英雄は、今日の謀反人、それは頻繁に展示を取り換える羽目に陥ったようです。また、ギロチンにあった者たちの蝋人形の作成も命じられたようで、マリーも切り落とされた頭をモデルに、国の謀反人と見られた者たちの頭のモデルを作った、というおどろおどろしい経験もしています。

やがてカーティスは通訳としてフランス軍に召集されたものの、体調を崩し、数か月で戻り、そのまま亡くなります。そして、全財産、および、蝋人形のワークショップと展示所もマリーに残すのです。マリーは結婚して、マダム・タッソーとなるわけですが、ムッシュー・タッソーは、マリーが稼いだ金を使うばかりの遊び人で。役立たずであったそうです。

観光客も富裕者もいない、革命後のパリでは、蝋人形事業も下り坂。1802年に、ついにマリーは、知人で、スライドショーを持って、旅芸人として各地を回るポール・フィリドールに、イギリスへ一緒に行って商売をしようと持ち掛けられ、英語もできないものの、話に乗って、5歳の長男ジョーゼフを連れイギリスへ。ダメだんなに、母親と幼い2歳の次男フランソワ、そしてパリでの蝋人形展示場を任せての、海外への出稼ぎ。この際、フィリドールとの契約は、彼が彼女の旅費を出す代わりに、彼女が蝋人形の展示で得た収入の半分をフィリドールがもらう・・・というもの。

折しも、ナポレオン戦争真っただ中のイギリスとあって、マリーの作るナポレオンの蝋人形は、興味津々のイギリス人に人気を博します。が、せっかく稼ぎあげた金をどんどん、フィリドールに取られてしまうの愛想付き、やがて、息子を連れて一人で、アイルランド、スコットランドを含めた英国内を業商して回ることになるのです。各地での催しやフェアを追って、馬車で移動。比較的裕福な中流階級を対象に、現地の町では、町内でも一番良い建物の部屋、劇場などを借り、作成した蝋人形を展示して、やや高めの入場料を徴収。その場所での客足が少なくなると、また、新しい場所へと移動。

この頃、蝋人形というものは、すでにイギリスでも、巷で見られるようになっていたようですが、奇形などを模した、見世物的なものが多く、ほんものそっくりの著名人を目の当たりに見れる、というアイデアは画期的であったようです。

マーケティングに非常に力を入れたそうで、中流向けに販売するための、立派なカタログも作成。カタログは、展示してある蝋人形の人物についての詳細をつづり、客の知的好奇心を満足させるに十分な、読み応えのあるものであったそうで、80ページほどにおよぶものもあり。普通の蝋人形の展示のほかに、フランス革命の犠牲者たちの首、凶悪殺人犯などを展示した「恐怖の部屋」(Chamber of Horrors)なるものも、別室に設け、普通の展示に6ペンス、「恐怖の部屋」を見たければ、更に6ペンス、ついでにカタログも欲しければ6ペンス、となかなか巧みな商売をしたようです。

ずっと、夫には金を送り続けたものの、1812年に、夫がパリの蝋人形展示場を売り払ったのを機に、二人は、いっさい縁を切ることとなります。1817年には、夫の元に残してきて、2歳で別れてから全く会っていなかった次男が、いきなりイギリスの彼女の前に姿を現します。この次男は大工の修行を受けていたので、マリーと長男が作った蝋人形の体を作る手伝いをし、3人は、マダム・タッソーと息子たち(Madame Tussaud and Sons)として、各地での業商を続ける。

ついに1835年、マダム・タッソーは、30年以上の旅芸人のような移動生活の後、ファッショナブルなブルジョアのエリアとして確立しつつあったロンドンのベイカー街に、べニューを借りるのです。1837年には、若いビクトリア女王の蝋人形も作成し、マリーは、蝋人形館を訪れた女王とも謁見。女王は、いたく人形を気に入り、他の王侯貴族にも勧め、自分の子供たちも連れて訪れるようになり、これが更なる宣伝になります。当初は、ベイカー・ストリートの建物は、一時的なべニューのつもりでいたようですが、こうして大成功をおさめたため、その場にとどまることに。

すでに80歳も近いマリー・タッソーが、「Memoir of Madame Tussaud」というタイトルの三人称で書かれた伝記を口述した1838年は、調度、蝋人形館が、このベーカー・ストリートのべニューに恒久的にとどまることが決まった頃で、これも宣伝のいい機会。先に書いた通り、自伝には、父親の職業など、色々、でまかせも含まれており、丸々は信じられない部分もあるようですが、英語も喋れず、巧みな蝋人形の技術とビジネスの才能、商魂だけでやってきた、したたかでたくましい彼女の人生は、彼女の蝋人形作品に、勝るとも劣らぬ面白いものがあります。外人としてやって来て、いまや、イギリス文化の一部と化していますから。1850年に、彼女はロンドンはチェルシーの自宅で息を引き取ります。89歳。埋葬は、チェルシーにあるカトリックのセント・メアリー教会。

一番上に載せたマリー・タッソーの水彩の肖像は、彼女が84歳の時のものだそうで、彼女が蝋人形展示館の入り口に座っているところだということ。背後に見えるのが、フランス王家の蝋人形。年を取ってからも、彼女が、よくこうしてボックスオフィスに座って入場料を集めていたという事が、チャールズ・ディケンズの手記にも残っているのだそうです。(この絵と、絵に関する情報は、マダム・タッソーズ蝋人形館の公式サイトより。)

マダム・タッソー館が、手狭になったベイカー・ストリートから、現在のメリルボン・ロードの住所に移ったのは、彼女の孫の時代の1884年の事。ビジネスは、その後、すぐ、タッソー家の手から離れています。今や、世界各地に支店を持ち、なんでも東京にもあるのだそうですね。

人形の製造法は、昔とさほど違わないという話。このエリザベス女王も、確かに、怖いほど、似てますわな。この写真も、公式サイトからのものです。

という事で、来年は、食わず嫌いせず、一度くらいマダム・タッソー館に足を延ばしてみようかな・・・と思い、値段を調べたら、なんと、その場で行って買うと、大人ひとり、35ポンド!ぎょぎょぎょ!したたか、ビジネス・モデルと言えど、やはり、かなり高い。せっかくロンドンに来たから、と入場した人たちは、もとを取るために、じっくり、しっかり見て行って下さい。どうやってこのビジネスが始まったかという歴史にも思いをはせながら。

コメント

  1. 人に歴史ありですね。言葉も通じぬ外国で、立派に事業展開をしたマダム・タッソー、アッパレです。しかし…次回ロンドンに行っても、やはり行かないでしょう…ね。

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    1. マダム・タッソーは、イギリスの移民パワーの好例ですね。一度くらいは、と思いながら、私も、蝋人形館へは行かない気がしますが。

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