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11月, 2015の投稿を表示しています

最初の4年間 The First Four Years

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ローラ・インガルス・ワイルダー著の「インガルス家の物語」または「小さな家」シリーズとしても知られる、19世紀アメリカのフロンティアでの著者の生活をつづった、一連の物語を読み続け、ついに最後の一冊に到着しました。ゴールイン! 両親と姉妹が住む家から、夫君アルマンゾ・ワイルダーの建てた家に移った後の、新婚生活の奮闘振りを描いた「最初の4年間」( The First Four Years)は、出版が、1971年と、比較的遅く、ローラ・インガルス・ワイルダーも、彼女の娘のローズ・ワイルダー・レーンも亡くなってからのこと。ノートに綴られていたローラの原稿を、そのまま編集なしで出版したものだという事で、少々荒削りで、「物語」というより、「記録」といった感があり、この前の8冊とは、かなり違った感触。ですから、前作の「 この楽しき日々 」が、純粋な意味では、当シリーズの最終巻という趣があります。ただし、イラストは、初作の「 大きな森の小さな家 」からずっと続けて、これもガース・ウィリアムズの手によるもので、彼の暖かい絵が、シリーズの連続性を感じさせてくれます。 アルマンゾは、ホームステッド(米のホームステッド制に関しては、 こちら まで)の他に、木を沢山植え育てる事により、その土地を獲得できる、というツリー・クレイムと称する土地も申請してあり、二人の新居は、このツリー・クレイムの土地内にアルマンゾが建てたもの。当時のアメリカ政府、西部に小規模農家を増やすと共に、森林地を広げる方針もあったようで、このツリー・クレイム(Tree Claim)という制度が設けられたようです。2人はツリー・クレイムの家に住みながら、アルマンゾは自分のホームステッドで農業を試みるのです。 農場経営には、あまり気が進まなかったローラであるものの、ニューヨーク州の 農家の子供 に生まれ、自分の力に頼って生きれる農家が一番と信じるアルマンゾから、「農場経営を3年だけ試してみて、それで成功したら続け、だめだたら、他の事をする」という約束をとりつけ、妥協。淡々と書かれているものの、次々と災難が降りかかるのです。 ざっと、この4年に起こった大きな出来事を載せると、 1年目  良く実った小麦が、わずか20分間の雹の嵐で全滅。更に、ローラは、この後、アルマンゾが、家の建設に500ドルの借金をしてお

この楽しき日々 These Happy Golden Years

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The dusk was deepening. The land flattened to blackness and in the clear air above it the large stars hung low, while the fiddle sang a wandering song of its own. Then Pa said, "Here is one for you girls." And softly he sang with the fiddle. Golden years are passing by Happy, happy, golden years Passing on the wings of time, These happy golden years. Call them back as they go by, Sweet their memories are, Oh, improve them as they fly, These happy golden years. Laura's heart ached as the music floated away and was gone in the spring night under the stars. "These Happy Golden Years" by Laura Ingals Wilder 夕闇は深まっていきました。辺りの景色は暗闇に押され平たくなり、澄み渡ったその上の空には大きな星たちが低く釣り下がっています。其の中を、お父さんのバイオリンの気ままな音色が漂っていました。 「この歌は、お前たち、娘たちのためにだよ。」とお父さんは言い、バイオリンを奏でながら優しく歌い始めます。 黄金の年月が過ぎていく 幸せなる、楽しき、黄金の年月が 時の翼に乗って過ぎていく この楽しき日々が 呼び起こしてごらん、日々が過ぎ行く中 その甘き思い出を 心に美しく呼び起こし、時が飛び去る中 この楽しき黄金の日々を 音楽が流れ去り、星空の下の春の夜空の中に消えていくのを聞きながら、ローラの胸は切なさに痛みました。 ローラ・インガルス・ワイルダー著「この楽しき日々」

ベルシャザルの酒宴ー壁の言葉

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ロンドンのナショナル・ギャラリーにかかるこの絵は、レンブラントによるは、「 ベルシャザルの酒宴 ー壁の言葉」(Belshazzar's Feast)。旧約聖書内の「ダニエル書」(Book of Daniel)の第5章に登場する話です。前回の記事で、ボンド映画「 007 スペクター 」の主題歌の題名である「Writing's on the Wall」(壁に書かれた言葉)は、旧約聖書に由来すると書きましたが、これが、そのシーンです。 新バビロニア王国の王ベルシャザルが、酒宴を開き、やれ食え、それ飲めの大盤振る舞い。そして、父王ネブカドネザルがエルサレムの神殿から持ってきた金銀の器をテーブルへ持ってこさせ、客人たちと共に、それを神の様に崇め、その器で酒を飲み交わしていると、空中に手が現れる。ベルシャザルと客人が驚いて見つめる中、手は、壁の上に何かを書く・・・ 以下、最も良く引用される英語版の聖書である「キング・ジェームズの聖書」の「ダニエル書」第5章より。 5-5 In the same hour came forth fingers of a man's hand, and wrote over against the candlestick upon the plaister of the wall of the king's palace: and the king saw the part of the hand that wrote. その時、人間の手の指が現れ、蝋燭の明かりの中、王の宮廷の壁のしっくいに文字を書いた。王はその文字を綴る手の一部を見た。 恐れおののいたベルシャザルは、壁の言葉を解読するように、宮廷内の賢人たちを呼び寄せたものの、1人として、解釈できる者がいないのです。そこで、英知を持つと知られるダニエルが呼び出され、壁の文字を読んでくれと王から頼まれます。ダニエルは、まず、ベルシャザルが、虚栄と誇りに満ち、神よりも自分を上に置き、金銀の器を崇めながら、生を与える神を称えるのを怠った事を告げるのです。そのため、神は、手をベルシャザルの前に送ったのだと。ダニエルは、ここで、壁の文字を読み上げます。 5-25 And this is the writing that was written, M

007 スペクター

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007の新作公開は、いつも一大イベントの感があります。今回の「007 スペクター」(Spectre)も、前作の「 スカイフォール 」同様、イギリスでの公開は、学校の秋の中休み(ハーフ・ターム)の開始に会わせ、10月の終わりでしたが、その1ヶ月くらい前から、少しずつ、「新作が出るぞ」と話題になり、それでいながら、出し惜しみするように、映画の内容やストーリー、映画からのビデオはほとんど見せずに、露出度を低めた上手な宣伝。日本やドイツなどとは違い、製造業がぱっとしないイギリスにとって、映画や音楽のメディア系は、非常に大切なマネースピナーなのです。特に007はね。外貨も沢山稼いでくれる事でしょう。 サム・スミスのテーマ曲「Writing's on the wall」も映画に先立ち発表され、イギリスでは、チャートの1位を達成していました。ついでながら、「Writing's on the wall」(壁に書かれた文字)というフレーズは、 旧約聖書が出典 で、「予言が壁に書かれる=変えられない運命、予告された通り絶対に起こる事」の意味でよく使用される慣用句です。 3年ぶりの新作、やっぱり、映画館で見なきゃ、と、私たちも、ちょいとほとぼりが冷めかけた11月中旬に入ってから見に行きました。ガッカリする事無く、途中、飽きる事無く、大迫力で、満足でした。 あらすじ(まだ見ておらず、知りたくない人は飛ばして下さい) 映画のオープニング・シーンは、メキシコ・シティーの「死者の日」(Day of the Dead)の祭り。「死者の日」は、かなり大昔から祝われていたようですが、現在はカソリックのキリスト教の祭りとして定着しているという事で、 万聖節(諸聖人の日)の前夜 (10月31日)から、11月1日,2日に祝われています。ハロウィーンと時期を同じくし、この映画の、イギリス公開時期にはぴったり。多くのどくろのマスクをつけた人々が行きかう通りと広場。ここに何故か、ボンドが潜入しており、マルコ・スキアーラなる人物を暗殺しようとし失敗、賑わう通りを追跡し、ついには、混みあった広場上空に舞うヘリコプター内での一大バトル。無事にスキアーラをヘリから叩き落とし、そのままヘリを操縦して脱出。ボンドが手にするのは、スキアーラが身につけていた、タコのようなデザインが刻まれている

セント・トマス病院のオールド・オペレーション・シアター(旧手術室)

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Old Operation Theatre 今回、 扁桃腺摘出手術 をして、つくづく思ったのは、麻酔や痛み止めのある時代に生まれてよかった・・・という事。麻酔と言うものが存在しない以前の手術たるや、考えただけで絶叫しそうです。実際、すでに体が弱っているところへ持って来て、手術の痛みのショックで死亡した人なども多いみたいですしね。 ロンドン・ブリッジでテムズ川を渡った南岸のサザック(Southwark)地区に、そんな、麻酔が無い時代の手術室が残っています。オールド・オペレーション・シアター(旧手術室)博物館(The Old Operation Theatre Museum)。 旧セント・トマス病院(St Thomas Hospital)の一部であった、セント・トマス教会内の階上という、隠れ家の様な、変わった場所にあるこの博物館ですが、かつては、このセント・トマス教会の片側にセント・トマス病院の女性の病棟があり、以前は病棟内で行われていた手術を、隔離した場所でできるよう、ここに手術室を作ったのだそうです。旧手術室が設置されたのは、1822年のこと。医学生等が、手術を見学できるよう、手術台は、ぐるりと座席に囲まれています。手術台、手術室は、英語でオペレーション・シアター(operation theatre)ですが、まさに、劇場(theatre)ののり。 当時は、裕福な人物は、手術は自宅で受けていたそうですので、こういった場所で手術を受けたのは、比較的貧しい層。1846年あたりに、エーテルなどが実験的に麻酔として使用されるようになるまで、アルコールを飲むこと意外、麻酔と呼べるものは使用されておらず、しかも、手術に麻酔を使用することが一般化するのは更に後の話。痛みは治癒の一環であると信じていた医者も一部いたとやらで、それが、麻酔の普及に時間がかかる一因ともなったようです。また、患者は、痛みの恐怖の他に、押すな押すなと、多くの人間が自分の手術を見学しているという、半見世物体験もするとあって、踏んだり蹴ったりです。 麻酔はもとより、ばい菌感染に対する知識も、予防も行われておらず、汚い環境の中、医師も手を洗う事も、マスクをする事もなく、しかも、医学生で大入り満員の部屋の中、術後の感染で死亡するケースもあったようです。あまりにも危険すぎるため、内臓、脳の手術な

扁桃腺摘出手術の体験記

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子供の時に扁桃腺を取ってしまう、というのは、1950年代60年代あたりでは、わりとよくある現象でした。扁桃腺は、子供の免疫系が発達した後は、必要がなくなるものであるという事で、頻繁に炎症を起こしたり、高熱を引き起こす原因となるなど、ちょっと問題が出た場合は、早めに切ってしまうというのが、当時の傾向であったようです。親知らずを抜くのと似たような感じで。この頃幼少期を過ごした人には、扁桃腺はとっくの昔に切ってしまったという人は、わりと多い事でしょう。私の65歳の日本人の友人も、なんでも6歳の時に、麻酔無しで、立ったまま手術を受けた、という恐ろしくスパルタ風の話をしていました。 上の絵は、1968年に出版された、アメリカの人気絵本作家リチャード・スカーリー(Richard Scarry)によるものですが、子うさぎのアビーが病院に行き、ドクター・ライオンに、扁桃腺を取る手術をしてもらう、という内容。ドクター・ライオンは、アビーの喉を除きこみ、「とても悪いtonsils(扁桃腺)だ。切らないと。明日病院へおいで。」と事も無げに。 翌日病院へ行ったアビーは全身麻酔で手術。アビーが寝ている間に、ドクター・ライオンは、アビーを丸呑みにして食べてしまいました・・・・なんて、はずは無く、手術が成功したアビーはちゃんと目覚め、 喉が痛くなっていたけれど、アイスクリームを食べてちょっと元気になりました・・・と。隣のベッドの犬のロジャーもすでに手術を終えて、アイスクリームを食べた後。子供の扁桃腺摘出は、アメリカでも当時、多く行われた手術であったのでしょう。子うさぎですら、こうして手術をして、すぐ、ニコニコしているのだから、大丈夫だよ、と子供に安心させるのが目的で書かれたのだと思います。この本、「扁桃腺を取るのは日常茶飯事」のような感覚で、なかなか面白い時代物です。 昨今、トレンドの変化で、切ってもあまり意味が無いケースが多いのか、ちょっとやそっとでは、切らない事が多くなっているようです。そのためか、大人になってから、異常を起こした扁桃腺を切る、という人も増えているという話です。私もその1人で先月、扁桃腺を切りました。もっとも、私は、子供の時は、扁桃腺に問題を起こすことなどは一切無かったのですが。 という事で、大人になってから扁桃腺手術をむかえようとする人に、何

「ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験」と「わたしに会うまでの1600キロ」

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アメリカの東海岸よりを、南北に走るトレイル(ハイキング路)、アパラチア・トレイル(Appalachian Trail)。そして、アメリカ西海岸よりを南北に走るトレイル、パシフィック・クラスト・トレイル(Pacific Crest Trail)。其々、その全距離は、3500キロと4286キロという半端ではない長さです。参考までに、イングランド国内の長距離トレイルで最長のものは、現段階では、イングランド南西の海岸線をぐるっとめぐる、サウス・ウェスト・コースト・パス(South West Coast Path)の1014キロですので、規模が違います。いつの日か、イギリスの海岸線を全てつなぐトレイルができたら、話はまた別ですが。 大きなリックをしょって、キャンプをしながら、このアパラチア・トレイルとパシフィック・クレスト・トレイルを歩く事をテーマにした映画を2つ、立て続けに見ました。 まずは、米作家ビル・ブライソンの体験談「A Walk in the Wods」(日本語訳題名:ビル・ブライソンの究極のアウトドア体験、北米アパラチア自然道を行く)をもとにした、同名の映画。こちらは、映画館で見ました。いつも、低く雲が空を覆うイギリスに住むのは、「タッパーの中に住んでいるようなものだ」の名言で知られる彼。イギリス人の奥さんを持ち、長くイギリス在住、現在はノーフォーク州に住むビル・ブライソンは、イギリスでも大人気のユーモア作家で、一家に最低一冊は、この人の本があるのではないでしょうか。 これは、彼が一時アメリカに戻り、ニューハンプシャー州に住んでいた時の話で、いきなり思い立って、酒飲みで怠惰な友人のカッツと共に、アパラチア・トレイルの制覇を目指すというもの。映画の中では、住んでいた家のすぐ近くに、このトレイルの一部が通っているのに気がつき、調査を始める・・・という設定になっていました。 当時、ブライソンは、40代であったそうですが、演ずるは、79才(!)のロバート・レッドフォード。よって、「あんた、ほんとに、3000キロ以上の道のりを歩くつもりかね?」という無謀ぶりは良く出ています。1人で旅に出るのを心配する奥さん(エマ・トンプソン)は、アパラチア・トレイルで、熊に襲われ死んだ、変な人間に襲われた、崖から落ちた・・・云々・・・という記事を集めて、見せ、不安にな

トーマス・ハーディーの生家

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ドーセット州ハイヤー・ボッカンプトン(Higher Bockhampton)にある、藁葺きのコテージ。1840年、作家トーマス・ハーディー(Thomas Hardy)は、ここで生まれます。 当コテージは、1800年に、ハーディーの曾おじいさんが建てたと言うもので、コテージの前には花や野菜が植えられたガーデンが広がり、周辺は森林に囲まれ、駐車場からは、この森林を通り抜け、徒歩10分。ハーディーは、人生の最初の22年間をここで過ごします。 トーマス・ハーディーは、最初は、建築家となる教育を受け、1862年には、ロンドンに一時職を見つけ、この地を離れるものの、1867年に、再び舞い戻り、この家で、小説を書き始めるのです。1871年、最初に出版された「Desperate Remedies」(窮余の策)は、作品としてはいまいちで、三文小説風なのだそうですが、それなりに売れ、その後、作家業に専念。このコテージで書き上げた作品は、他に、1872年の「Under the Greenwood Tree 」(緑樹の陰で)、そして、1874年には、「Far from the Madding Crowd」(遥か群集を離れて)。 1874年に、結婚したハーディーは、このコテージを去りますが、ドーチェスター(Dorchester)郊外の新居「Max Gate」に移ってからも、1928年に亡くなるまで、徒歩や自転車で、何度も、愛するこの家を訪れていたのだということ。ドーチェスターから、ハイヤー・ボッカンプトンまで約3マイル(4.8キロ)。ハーディーの若い頃は、学校そして仕事へも、ドーチェスターへ、毎日、往復歩いて行っていたわけですが、当時の人は、本当に良く歩きましたよね。 コテージの中へ入ると、一階の本棚に、ハーディーの本が沢山並んでいましたが、棚の一段は、日本語訳の本が沢山。 ハーディーが誕生した直後、死産ではないかと思われたようですが、すぐに赤ん坊が息をしているのがわかり、皆ほっと一息。 内部は、ハーディーの生家でなくとも、昔ながらのイングランドのコテージとして十分見る価値あります。この窓際のアームチェアに座って読書でもしたら、日が沈むまで、時間が経つのも忘れそう。 ハーディーが著作を行ったのは、2階のこの部屋。窓際に置かれた机に座って。

アラビアのロレンスの墓を訪ねて

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イギリスの緑の田舎道をオートバイで走る男性。いきなり、その前方に現れた2人のサイクリスト。オートバイの男性はそれを避けようと、道をはずれ、転倒。彼が身につけていたゴーグルは、衝撃で飛ばされ、近くの藪の木の枝にひっかかり、空を背景に揺れる・・・映画「アラビアのロレンス」(Lawrence of Arabia)のオープニング・シーンです。 トーマス・エドワード・ロレンス(T E Lawrence、1888-1935年)・・・第一次世界大戦中、中東戦略の一環として、オスマン帝国を相手取っての、アラブ反乱に一役買った、アラビアのロレンスの異名で知られる彼が、オートバイ事故で命を落としたのは、まだ、46歳の時。イギリス空軍を去って2週間、ドーセット州の小さなコテージ、クラウズ・ヒル(Clounds Hill)に落ち着いて、引退生活を始めたばかり。この日も、愛するオートバイにまたがり、クラウズ・ヒル近郊の道を滑走中、この事故に合うのです。オートバイのハンドルを越えて転倒し、頭部を打撃。6日後、1935年5月19日、帰らぬ人となるのです。彼の死は、イギリス国内のみでなく、海外でも報道され。 この際に、ロレンスを診た医師の1人、死後の解剖を行った脳外科医、ヒュー・ケアレン医師は、脳へのダメージの大きさから、仮に、ロレンスが一命を取りとめていても、視覚と喋る能力を失って一生過ごす事になっただろうという結果を出したそうです。ロレンスの事故死がきっかけとなったか、この後、ケアレン医師は、ヘルメットを被る事により、オートバイ事故での頭部への障害、死亡率を下げることができるのでは、と統計を集め、その結果を発表し、ヘルメット着用を推進するキャンペーンを行います。実際に、ヘルメット着用が法で義務づけられるのは、1973年と、医師が亡くなってから20年近く経っていますが、それまでの間に徐々に、自発的にヘルメット着用をするモータリストも増えて行き、現在、オートバイ事故での死亡率は、ロレンスの時代に比べて、車の数が急増しているにもかかわらず、ずっと低くなっています。 T E ロレンスの記念碑は、ロンドンのセント・ポール寺院内にもありますが、彼の墓があるのは、ドーセット州の小さな村モートン(Moreton)。ここにたどり着いた時、ツアー風のバスが、道端に2台止まっているのが目に入りま

ラルワース・コーヴとダードル・ドア

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Durdle Door 今回の サマセットとドーセットを巡る旅行 で、「見れるうちに見ておいたほうがいいから、絶対はずさずに行こう」とだんなと言っていたのが、ダードル・ドア(Durdle Door)。もっとも、彼は子供の時に、何度かすでに見ているのですが。ダードル・ドアは、ドーセットのジュラシック・コーストにあり、ドアのように穴が開いた巨岩です。こういったものは、いつ大嵐で崩れないとも限らないですから、近場に行ったら、まだあるうちに見ておかないと。もっとも、100年たってもまだしっかり立っている可能性も十分あるわけですが。そして、ダードル・ドアを訪れるなら、一緒に近くのラルワース・コーヴ(Lulworth Cove)も見て行かないと。 コーフ城 の観光を済ませた後、ドーセットの海岸線を西へ少々移動。ラルワース・コーヴの駐車場に到着した時には、その人出にびっくりしました。10月の週日だったのに、駐車場はかなりいっぱい。お日様キラキラのすばらしい秋日和とあって、磁石に惹かれるように、皆、ドーセットの名だたる海岸線に吸い寄せられてしまったようです。そういえば、ダードル・ドアの形、巨大U型磁石に見えなくもない。夏休みの真っ只中だったりしたら、その人出たるや、ものすごいものがあるのでしょう。駐車もできないかもしれません・・・。 まずは、駐車場からちょっと東へ歩いた場所に在るラルワース・コーヴへと向かいました。コーヴ(cove)とは小湾の意味ですが、岸壁に囲まれたほぼ円形のラルワース・コーヴは、まさに、小湾とは、こうあるべき、というお手本の様な形。切り立つような 白いチョークの崖 。それは美しい水の色。イギリス内で、こんな、ココナッツが流れてきそうな、南の島風の湾を見るのは、大昔、コーンウォールの ミナック・シアター へ行って以来でしょうか。私たちの住んでいるそばの海は、北海に面していて色は灰色に近いものがあり、特に冬はメタルのように、目に冷たいですから。もっとも、ルルワース・コーヴには、泉の湧き水も流れでいるため、水温はわりと低いのだそうです。 海への入り口に当たる湾の両脇を抱える形の石は石灰岩。しばし崖の上に座って景色を堪能した後、再び駐車場に向かって西へ歩き始めます。 途中、ステアー・ホール(stair hole)と呼ばれる石群に遭遇