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9月, 2009の投稿を表示しています

パンティングでケンブリッジの橋めぐり

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先日、実に久しぶりにケンブリッジに出かけました。ケム川が流れる、緑揺れる大学の町。 大学の町は、道行く自転車の数が多い事が多々ありますが、この町も自転車たくさん。ドライバーも、この数の多さでは、サイクリストに気を使うでしょう。以前、アメリカ人が、「イギリスのドライバーは、サイクリストに寛容だ。アメリカであんな乗り方したら、ひき殺される、と思うことも良くある。」などと言っているのを聞いた事があります。 路上では自転車が幅を利かせ、ケム川上は、パンティングを楽しむ人たちが行き交っていました。パントは底の浅い、上から見ると長方形をしたボートで、さおを使用して川底を突きながら漕ぐもの。さおは、舵の役目も果たします。 プロの漕ぎ屋さんのパントに乗って、観光ガイドをしてもらいながら、川を下るのと、自分で漕ぐ用パントがありました。最初は、自分でやる用パントを借りようとしていた主人でしたが、「安くしておくし、漕ぎ方を教えてやる」と、しつこく説得してきたプロの漕ぎ屋のパントに乗り込み、しばし、のんびりと両岸を流れる景色を楽しみ。いくつかの橋の下をくぐり。 これは、クイーンズ・カレッジの木製の橋で、その名は、数学の橋(Mathematical Bridge)。オリジナルは1749年、ジェームズ・エセックスの設計で作られ、現在のは、1902年に作られた3代目だそうです。 オリジナルはニュートンによって、設計されたなどという根拠の無い噂が徘徊しているそうですが、ニュートンは、橋が作られた22年前に死んでいるので、幽霊としてでも無い限り、有り得ないわけです。 大きな石球が載っているクレア・カレッジのクレア・ブリッジ(Clare Bridge)。現在残る、ケンブリッジの橋の中では最古のもので、1640年築。 この橋の脇にある庭園フェローズ・ガーデンの、花盛りの庭もきれいでした。 現在残るケンブリッジの橋の中で2番目に古いのが、これ、セント・ジョンズ・カレッジのキッチン・ブリッジ(Kitchen Bridge)で、1711年築。ロンドンのセント・ポール寺院の建築家、クリストファー・レン(Christpher Wren)設計。 セント・ジョンズ・カレッジのため息の橋(Bridge of Sighs)。ヴェニスのため息の橋から名をもらっていますが、こ

ガーキン

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ロンドン内、街中を歩くなら、私は、買い物客や観光客で押すな押すなのオックスフォード・ストリートやリージェント・ストリートなどのウェスト・エンドよりも、テムズ川沿いや、ロンドン東部の金融の中心シティをぷらぷらする方が好きです。 シティ周辺は、もともとロンドンが始まった地域でもあります。1666年の ロンドン大火 により、多くの建物が焼失しているため、それ以前の建物などは、ほとんど残っていませんが。 あちらの細道、こちらの裏道を入りながら、新旧入り混じった建物を眺めるのも楽しいものです。 ***** 古びた教会の背後に、にょきっと建つこのシティの若者は、30セント・メリー・アクス(30 St Mary Axe)、一般には、そのニックネーム、ガーキン(Gherkin)の名で親しまれています。2004年に建設終了し、すでに、すっかりシティのシンボルの感。 建築家は、テムズ河畔タワー・ブリッジ近辺にあるロンドン市庁舎や、テムズ川を渡る歩行者専用橋、ミレニアム・ブリッジでも知られるノーマン・フォスター(Norman Foster)。 ここは、以前は、バルチック海運取引所(Baltic Exchenge)のあった場所ですが、取引所は1992年、北アイルランドの、イギリス支配下からの独立と、アイルランドとの統合を唱えるIRA(アイルランド共和国軍:Irlish Republican Army)によるテロの爆弾で、補修不可能なほどの被害を受け、建物は解体。取引所は近くの38 St Mary Axeへお引っ越し。爆弾被害を受けた周辺は再開発され、こうして今はガーキンがぴかぴか光りながらロンドンの町並みを見下ろしています。 爆弾と言えば、上の写真で、ガーキンの手前に映っている可愛らしい塔のある建物は、セント・エセルバーガ(St Ethelburga's)と呼ばれる元教会。こちらは、1993年4月のIRAの爆弾でやられています。 セント・エセルバーガ教会 は、ロンドン大火、及び、第2次大戦中のドイツ軍の爆撃を生き延びた、シティー内でもかなり古い教会だったので、非常に惜しい事ですが、IRAにより、教会のすぐ外に止められたトラックに仕掛けた爆弾が炸裂。天井も何も吹き飛ぶほどの被害を受けました。修復後、2002年に、教会と言うより、和解と平和

月長石

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インドの4本の手を持つヒンズー教の月の神。その聖なる彫像の額に飾られた黄色のダイヤモンドは、The Moonstone 月長石。 3人のヒンズーの神官に守られたこのダイヤモンドを、インドへ送られていたイギリス人貴族将校が盗み取り、イギリスへ持ち帰る。その際、彼は、この3人の神官達を殺害した疑惑が。インドでは、神聖で精神的なものである月長石が、イギリスでは、人間の欲を誘う高額な物品。イギリスにて、彼の死後、遺言で、ダイヤは、彼の姪のレイチェル・ヴェリンダーへ、彼女の18歳の誕生日に渡される。ところが、誕生日パーティーの翌朝、ダイヤは紛失していた・・・。内部の人間によるものか、それとも、ダイヤの後を追ってイギリスまで来ていた3人のインド人(殺された3人の神官の後継者)の仕業か。 ヴィクトリア朝の作家、ウィルキー・コリンズ Wilkie Collins の作品、「月長石」(The Moonstone )は、この消えたダイヤの謎解きミステリーです。チャールズ・ディケンズが編集を司った週刊雑誌 「All the Year Round」に1868年の1月から32週に渡り掲載。 以前の記事 「探偵の誕生」 に書いた様に、1860年に実際に起こったロード・ヒル・ハウス殺人事件に多少のインスピレーションを受けています。 登場する刑事カフは、ロード・ヒル・ハウスの調査にロンドン、スコットランド・ヤードから送られたジョナサン・ウィッチャー氏がモデル。両事件とも、夜間に、内から鍵のかかった田舎の邸宅内で発生。実際の事件では、血に染まった寝巻きが見つからない事が鍵となり、小説では、ダイヤモンドを盗んだとされる犯人は、ペンキの付いた寝巻きをどこかに隠したとされています。小説では、この寝巻き、後に、館から歩いて行ける海岸線の流砂の中に隠されているのが発見されますが、この寝巻きの意外な所有者がわかった時は、結構びっくりしました。 物語は、事件に関わった数人の人物によって、其々の私感を入れて語られていきます。 前半、ヨークシャーのヴェリンダー家の館を舞台に、ダイヤの紛失までのいきさつ、その直後の捜査を語るのは、飄々とした一家の老召使、ベタレッジ氏。 ダニエル・デフォーのロビンソン・クルーソーが大好きな彼は、事あるごとに、「ロビンソン・クルーソーのxx

ダニエル・デフォーとさらし台

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写真は、ピロリー pillory と呼ばれる昔のさらし台。 罪人は、こうやって首と手首を拘束され、公共の場に数日立たされ、それを眺める群集から、野次を飛ばされ、腐った野菜や物を投げつけられ。野菜くらいならまだ良いけれども、石などを投げらる場合もあったようで、酷い時には、重症を負うものや、死人も出たりしたそうです。群集の愚行は怖いのです。 著名人で、このさらし台の経験者は、「ロビンソン・クルーソー」作家のダニエル・デフォー(Daniel Defoe)。1703年に、3日間連続で、ロンドンのテンプル・バーにてさらし者に。 彼の罪は、保守的トーリー党と、イギリス国教会をおちょくった政治パンフレット、The Shortest-Way with the Dissenters 「非国教徒の手っ取り早い処分方法」を書いた事。 ここで言う、非国教徒(Dissenters)はイギリス国教会に組しない、他のプロテスタントを指します。当パンフレットは、「非国教徒は、色々な法を通じて縛るくらいなら、皆殺しにするのが一番」、の様な内容。デフォー自身も非国教徒であったという話なので、トーリーである事を装って書かれたこのパンフレットは皮肉をこめたもの。怒ったトーリー党に、治安を乱す扇動文書を書いたとして、逮捕され、投獄後、さらし台へ。 ただ、デフォーは、支持者達に守られて、無事この3日間を傷を負うこともなく終えます。一説によると、人々は、野菜や石ではなく、デフォーには花を投げ、彼の健康を祝して乾杯したなどと伝えられています。 ***** さらし台には、他にストック stocks と呼ばれる、地べたに座って、足首を拘束されるものがあります。 こちらは、時々、田舎の村のヴィレッジ・グリーンに、いまだに置いてあるのを見かけたりします。何度か、そこに足をつっこんで、写真を取ったりもしましたが。ピロリーよりは、座れるのと、手に自由が利くので、飛んできたものから顔や頭を守れる分、ましでしょうか。 このストックを復活させて、強盗などを行った人物は牢屋に送る前に、数日、さらしておけばいい、などと時に思ったりします。ただし、さすがに怪我を負わせてはまずいので、群集が投げていいものは、トマトなどのやわらかい野菜に限るとして。後は、皆で、指を刺して笑い

モリス・ダンス

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8月最後の週末に、とあるクラフト・フェアを覗きに行くと、モリス・ダンス Morris Danceを披露していたので、しばし、見学。鈴をつけ、花飾りの帽子を被った男性が跳んだり跳ねたりというのは、いつ見ても、ユーモラス。 モリス・ダンスは、イギリスのフォーク・ダンスですが、もとは、15世紀に遡り、ムーア人 (Moors、北アフリカのイスラム信者)の影響を受けた踊りだそうで、他のヨーロッパ諸国でも踊られていたという話です。踊りに棒を使用するなどというのは、エジプトあたりの伝統の踊りにもみられるそうで。ですから、定かではないものの、その名の語源は、Moorish ムーア風、から来ているようです。  イギリス、特にチューダー朝の下では、宮廷の催しでも踊られ、人気となり、エリザベス1世の時代には、すでに南部イングランド一帯に広がって、すっかりイギリスならではのダンスとして定着。春の到来を祝っての、メイ・デイ May Day のイメージが強いダンスですが、その他にも夏の祭り、クリスマス、十二夜など、要は、機会さえあれば、踊られていたようです。 それが、19世紀後半頃には、その伝統もすたれていき・・・。 ある物事が危機に瀕すると、必ず、それを何とかしようという人が出てくるものです。モリス・ダンスの救世主は、セシル・シャープ Cecil Sharp なる人物。 1899年に、オックスフォードシャーで絶滅寸前のモリス・ダンスを見た氏は、この踊りに関心を抱いて、イギリス全土を回り、モリス・ダンスを研究。1911年に、伝統のフォーク・ダンスを守るため、イギリス・フォーク・ダンス協会を設立。イギリス各地でワークショップを開き、伝統ダンスの促進を行ったそうです。今、モリス・ダンスが見れるのも、この人のおかげ? (当フォーク・ダンス協会は、1932年に、フォーク・ソング協会と合併し、現在は、イギリス・フォーク・ダンス・ソング協会 English Folk Dance and Song Society。当協会のロンドン本部の建物は、彼の名を取り、セシル・シャープ・ハウスと呼ばれてます。) ステップはわりと簡単そうで、誰でも気楽に習えそうな感じはします。 見学後は、ヤギのミルクのアイスクリーム売り場へ直行。コーヒーとジンジャー味のダブル・ア

キット・キャット・クラブ

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 「キット・キャット・クラブ The Kit-Cat Club」という本を読みました。 17世紀も終わりに近づいた頃、ロンドンの出版業者ジェイコブ・トンソンを軸に、クリストファー・キャット氏経営の居酒屋で会合が始まったこのクラブの経緯と、そのメンバー達を、当時の歴史を背景に解説してある本です。 キット・キャット・クラブの後世の英国文学・芸術への影響もさることながら、その政治活動は、後のイギリスの行く末を決める鍵になったなどいわれています。 キット・キャットという名の由来は、色々説がある中、クリストファー・キャット氏が焼いて出していたマトン・パイが、キット・キャットと呼ばれ、クラブメンバーの常食だった事から来ているというのが、一番一般的だそうです。また、キット・キャットの言葉のごろが、チット・チャットchit-chat(世間話、雑談)にも似ているところから、マトン・パイを含め、数々の料理やデザートを頬張りながら、酒を飲んで、にぎやかに議論するクラブのイメージに合っていたと。クラブの会合中に、必ず、時の社交界の美女の名を上げて、その健康を祝して乾杯した、という慣わしも有名です。 飲んで食べて議論しての他に、このクラブは、メンバー内の劇作家、詩人、随筆家等を、やはりメンバーの貴族、有権者が庇護、支援するという役割も果たしていたようで、上に書いた出版者トンソンを通じて、作家とそのパトロンの交流の場でもあったわけです。パトロンの貴族達も、作家や知識人を助けることによって、「趣味・教養のある人物」と見られる益があった。 才能はあっても、コネとカネが無いと、なかなか成功できなかったりするのは現代でも同じ。少なくとも、キット・キャット・クラブのメンバーの貴族達は、お馬鹿な血縁者より、才能のある他人のクラブメンバーを支援する傾向があったそうで、才能重視の団体であったそうです。ただ、政治傾向などでクラブに属さない作家は、キット・キャットのパトロンからの庇護はほとんど期待できない、という事実もあり、その点では、全思考、全才能を認めるという、包括的なものでは無かったのでしょう。 当時の、政治と文学の結びつきの強さには、この本を読んで改めて気がつきました。キット・キャット・クラブは、ウィッグ党(Whig)支持であったため、メンバーの作家達は、世論

チムニア

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チムニア(chimenea)を買いました。最近、ガーデン用品を置いてあるDIYショップなどに数多く置かれていて人気となっていたチムニア。もともとは、メキシコから来たものだそうで、メキシコのものは、テラコッタ製。スペイン語の辞書でchimeneaを見てみると、煙突、暖炉の意味でした。 私が、チムニアというものを知ったのは、ヨーク出身の知り合いが、庭に鉄製のものを置いているのを数年前に見た時。彼曰く、 "You can burn owt in it."「この中で、何でも燃やせるよ。」 owt は、北部イングランドの方言で、anything(何でも)の意味です。ちなみに、これと似たnowt は、やはり北部訛りで、nothing(何にも)の意。双方、それぞれ、古い英語のaught(何でも)とnaught(何にも)が起源だそうです。 ・・・と、話し少しそれましたが、この「burn owt(何でも燃やす)」事のできるチムニアを見てから、ずっと欲しかったのですが、アウトドア・シーズンも終わりに近い今頃になって、やっと購入。メキシコ風テラコッタものだと、すぐ割れてしまいそうな気がしたので、うちも鉄製を買いました。 25キロもするこんな重いものも、最近は中国製。はるばるコンテナ船で海を超えてやってきたわけです。そういえば、煙突部の模様が、ラーメンのどんぶりの模様みたいで、ちょっとオリエンタルです。 ここ数日、庭のパティオで、夕刻は焚き火に夢中です。要らなくなった材木をのこぎりで切ったもの、庭やその辺で拾ってきた小枝などを燃やしていると、しばらくは、煙突から火が勢い良く、べろべろとオレンジの舌を出し。この火が収まり、赤い残り火が、チムニアの底で、静かにゆっくり燃え出したら、煙突に蓋をします。 火遊びが出来る、という子供めいた楽しみの他に、しばらくは、そばに座っていると暖かいので、陽がかげり初め、やや空気が冷たくなってきても、パティオのテーブルに座って夕飯食べたり、お茶飲んだりできるのも、また良いです。 先日お客が遊びに来たときも、余興で燃やしましたが、皆、喋りながらも、目はじっと火を見ていたところをみると、セントラルヒーティングを使う現在の世の中でも、本物の火で暖をとる、というのは、人間の本質にしっくりいくものがあるのかも

ブラックベリーの小道

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この時期、田舎の小道を歩くと道沿いの茂みや生垣で、必ず目に入るのがブラックベリー( blackberry, 正式ラテン名:Rubus fruticosus )の実。 茎にはとげとげが生え、その曲がりくねった腕をあちこちに伸ばしています。イギリス内いたるところに見られ、実は鳥達にも大人気。 私も、道を歩きながら、時折、いくつか、つまんで食べたりします。あまりに酸っぱくて、後でおなかこわすんじゃないか、というようなものもあれば、甘くて美味しいのもあり。一般的に日当たりの良いところの実が甘い気がします。 赤い実はまだ半熟、熟したものは、その名のとおり黒。商業用に栽培されたものが売られているのをマーケットなどで見かけたりもしますが、一度買ってみたら、道端に生えてるものよりも酸っぱかった・・・。食べようと思えば、その辺で摘んでこられるものを、何もわざわざ買うこともないのです。 うちょのだんなは、子供時代、籠を持たされ、ブラックベリー摘みに駆り出されたという話をしていました。摘んで帰った実で、お父さんがブラックベリー・ワインを作り、お母さんが、リンゴとブラックベリーのパイを焼いたのだそうです。彼は、わりと大きな町の郊外に住んでいたのですが、それでも、ちょっと歩くと、自然や緑がいっぱいで、こういう牧歌的な事もできるわけです。 籠を持ってブラックベリーを摘みに行く、というと、どうしてもピーター・ラビットの話に登場する、フロプシー、モプシーとコットンテールの3匹の子うさぎがブラックベリーの茂みに手(前足?)を伸ばしている挿絵を思い出してしまいます。 3匹の足元には、ブラックバードが、実を食べている様子も描かれ。最近、うちの庭にブラックバードが餌をねだりに来なくなったのは、今の時期は、こうした食べ物が、茂みや藪の中に沢山あるからでしょう。 ピーター・ラビットが、「行ってはいけない」とお母さんに言い聞かされていたにも関わらず、マッグレガーさんの庭へ入り込んでいる間、いい子の3匹姉妹は、こうして、籠いっぱいのブラックベリーを摘む。 そして、ピーターは、マッグレガーさんに追い掛け回され、命からがら、家へ逃げ帰る。 ピーターが具合を悪くし、夜は寝込んでカモマイル・ティーしかもらえないのに、この3匹は、夕食にパンとミルクとブラックベ