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聖バーソロミュー病院

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ロンドンの聖バーソロミュー病院(セント・バーソロミューズ・ホスピタル、St Bartholomew's Hospital)というと、最近では、ベネディクト・カンバーバッチ主演のテレビ・ドラマ「シャーロック」の撮影にも使用されたことから、海外でも知っている人が沢山いるようです。シャーロックが、自分の死を偽造するため、建物の屋上から飛び降りた場所としてより、愛称「バーツ、 Barts」で知られるこの病院は、約900年もの間、同じ場所で病院として機能してきた事で、もっと有名であるべきなのですが。現在、バーツは、イギリスの医療機関NHSの一部として、主に、心臓病と癌の治療を専門としています。 以前、聖バーソロミュー・ザ・グレート教会(St Bartholomew the Great)の事を説明した記事で、映画「フォー・ウェディング」の撮影に使用された当教会は、ヘンリー8世の 修道院解散 で閉鎖されるまで存在し、ヘンリー1世の時代の宮廷人であったと言われるラヒア(Rahere)という人物によって設立された、アウグスティヌス派の修道院の一部であったことを書きました。聖バーソロミュー病院は、やはり、ラヒアによって、1123年、修道院と同時に、修道院の隣、当時のロンドンの市壁の西側すぐ外の ウェスト・スミスフィールド の地に設立されます。ラヒアが、なぜ、聖人セント・バーソロミュー(聖バルトロメオ)に捧げる修道院と病院を設立するに至ったかは、この 聖バーソロミュー・ザ・グレート教会の記事 を参照ください。 聖バーソロミュー病院敷地内へ入るゲートハウス 修道院は、上記の通りヘンリー8世の修道院解散により潰されてしまったものの、病院の方は、シティー・オブ・ロンドンからの嘆願、そして、リチャード・グレシャム( トーマス・グレシャム の父)などの時の有力者からの依頼もあり、ヘンリーは、病院として存在しづつけることを認め、自らの死の2週間前に、当病院と、 べドラム病院 の経営権利をシティーへ与えています。こうして、セント・バーソロミュー病院の再創立者として、1702年に建てられた病院敷地へと入るゲートハウス(門楼)には、ヘンリー8世の像が据えられることとなります。 ちなみに、この像は、ヘンリー8世を模したロンドンで唯一の戸外の像です。 中世の建物は

ロード・メイヤーとロード・メイヤー・ショー

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ロンドン博物館内のロード・メイヤーズ・コーチ さて、来週の土曜日(11月11日)は、ロンドンで、ロード・メイヤー・ショー(Lord Mayor Show)が執り行われます。新しく選出された、ロード・メイヤーが、金ぴかの馬車に乗って、ロンドンのシティー内をパレードする日。 以前の ディック・ウィッティントン の記事でも書いたように、ロード・メイヤーとは、ロンドン市長と訳されますが、現在の、ロンドン全域(Greater London)の代表であり、ロンドン市民の選挙により選ばれ、任期4年のメイヤー・オブ・ロンドンとは異なり、ロード・メイヤーは、シティー・オブ・ロンドンのみの代表者で、任期は1年のみ。かつては、ロンドンと言えばシティー・オブ・ロンドンを指したので、ロード・メイヤーがまさにロンドン市長であったわけですが。 一番最初のロンドンのメイヤー(当時はまだロード・メイヤーとは呼ばれていなかった)は、12世紀に遡り、ヘンリー・フィッツアルウィン(Henry FitzAilwin)という人物。在位中はほとんどイギリス国内にいなかったリチャード1世が、十字軍の遠征に、えっちらおっちら出かける前の、1189年には、フィッツアルウィンは、すでに、シティー内で、王様とシティー有力者たちを代表する人物として、メイヤーに任命されていたのではないかとされます。彼は、今の任期の1年どころか、約20年メイヤーの座を維持し、後は、親族に引き継がれたという事。この時のメイヤーは、まだ王によって任命されていたのが、1215年、だめ王、ジョンは、マグナ・カルタにサインをする6週間前に、シティーに、毎年、自分たちでメイヤーを選出する権利を与えます。また、マグナ・カルタ内の条項、13条には、特定して、ロンドン(シティー)の自由と過去からのしきたりを重んじるという内容も加えられる事となります。 過去一番有名なロード・メイヤーは、おそらく上述のリチャード(ディック)・ウィッティントン。 シティーは、小さな区(Word、現在25区)に分かれており、それぞれの区はオールダーマン(Alderman)という代表者を持ち、ロード・メイヤーに選出されるためには、まず、現役のオールダーマンである必要があります。またシティーには、現在は、特に意味のある役割を果たさないものの、かつては税金の収集を行