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2月, 2017の投稿を表示しています

ノルマン・コンクエストとバイユー・タペストリー

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ヘイスティングスの戦い 1066年10月14日、アングロサクソン最後の王、ハロルド2世(Harold Godwinson ハロルド・ゴドウィンソン)とノルマンディー公ウィリアム(William, Duke of Normandy)が、イングランドの王座をかけて戦った、ヘイスティングスの戦い。イギリスの学校の歴史の時間では、みんな覚えさせられる大切な年号です。 これに勝利したウィリアムは、軍を従え、行く先々を焼きながら、ロンドンへたどり着き、クリスマスの日にウェストミンスター寺院にてウィリアム1世として戴冠。Norman Conquest(ノルマン人の征服)のはじまり、はじまり。これにより、俗に言うアングロ・サクソン時代は終わり、イングランドの民は、ノルマン系 フランス語を喋る王様 と、数少ないノルマン人エリートにより統治される事となります。 海の向こうのノルマンディーから、ウィリアムがイングランドの王座を要求してやってきたいきさつは、ハロルド2世の前の王、エドワード懺悔王(Edward the Confessor)に子供がおらず、正当な世継ぎがいなかったことに起因します。エドワードの治世中、勢力を誇ったウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)に牛耳られ、エドワードは、ゴドウィンの娘のエディスを妻に取っています。妻との間に子供がいなかったのは、エドワードが、キリスト教に熱心で身の純潔を保ちたかったからなどとも言われますが、ゴドウィンへの復讐として、わざと、エディスとは名目上の結婚だけで子孫を作らなかったという説もあります。 エドワード懺悔王 背景が分かりやすいように、エドワード懺悔王が王座に就くまでの過程も少々説明を入れておきます。エドワードは アルフレッド大王 を出したウェセックス王家のエゼルレッド2世の息子。母はエゼルレッドの2番目の妻で、時のノルマンディー公の妹であったエマ。エドワード幼少時、イングランドは度重なるヴァイキング(デーン人)の侵略を受け、デンマーク王であったスヴェン1世から逃れるべく、母の故郷ノルマンディーで長く過ごしていたため、ノルマン系フランス語がぺらぺらで、ノルマンディーとの絆はもともと強い人物であったのです。 父王エゼルレッド2世亡きあと、イングランドの王座についたのは、エドワードの異母兄エドモンド2世ですが

レディング修道院跡

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去年末に、バークシャー州 レディング (Reading)の知り合い宅に出かけ、町の観光は一切せずに帰ったのですが、先日、再び出向き、今回は、レディングの町の中心部を見て回りました。レディングは、テムズ川とケネット川が合流する場所に位置します。昔は、大きな川、特にテムズは、今の重要幹線道路のような役割を果たしたわけですから、便の良い場所であったのでしょう。 1121年に、ノルマン朝第3番目の王様で、征服王ウィリアムの末っ子であった、ヘンリー1世(在位1100~1135年)は、自分の埋葬場所としてレディングを選び、修道院を建築させます。建築に使用された石は、 ノリッチ大聖堂 同様、はるばるフランスのノルマンディー地方にあるカーン(Caen)で切り出され、イギリス海峡を渡り、川を上って、運ばれてきます。創成期は、ベネディクト修道院を改革したクルニュー派(Cluny)修道院であったようですが、後には、ベネディクト修道院として知られるようになります。ヘンリー1世は、1135年にフランスで息を引き取るのですが、遺体はわざわざイングランドに返され、やはり、ノリッチ大聖堂と同じくらいの大きさであったという、レディング修道院の教会の聖壇前に埋葬された・・・という事になっています。修道院の解散などのその後の歴史を経て、実際、彼の遺体が、今、どこにあるのかは、わかっていません。そのうちに、 リチャード3世の骸骨 の様に、ある日突然、発掘されることもあるでしょうか・・・。 王様お墨付きの修道院でありましたから、中世のレディング修道院の重要性と富はなかなかのものであったようです。上の写真は、レディング博物館にあった、14世紀の修道院周辺の風景を再現したモデル。手前を流れるのはケネット川。 レディング修道院にあったヤコブの手 レディング修道院は数多くの聖遺物を有したそうですが、その中でも有名なものに、キリスト12使徒の一人であった、ゼベダイの子ヤコブ(英語では、セント・ジェームス、St James)のミイラ化した手があります。ヤコブの遺体は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラにて、9世紀に発見されたという事になっているため、スペインの聖人として知られていますが、1133年に、レディング修道院が、この聖人の手をゲットしてからは、レディングでは、ヤコブ人気となり

ハートマークの由来♥

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理性も感情も、すべて脳がから発するものでありながら、なぜに、理性は脳が、感情は心臓が支配するという意識がいまだに強いのでしょうか。「彼は、私にはむいていないと、頭ではわかっていても、心がひかれる」などと頭と心は、いつも人間の体の中で、お互いの主権争いをしている感じです。確かに、解剖学もあまり発達していない時代は、体の中心部にあり、何かがあると、どきどき、ぎくり、わくわく、ひやひやと反応する心臓が、人間の感情の中心であると思われていたのは不思議ではありません。脳からの指令で、そうなるんだなどと、明らかになっていないわけですから。もっとも、人体がどう機能するかの理解が進んだ現在でも、人は、感情、特に愛情は、心臓に宿るのだという、現実とは違う、昔からの観念を捨てきれないのは、不思議です。 昨日の バレンタインデー で、ハートのマークをあちらこちらで見かけました。愛は心。だから愛の日には、ハートのマーク。確かに、これが、愛情も脳から発するからと、脳みそのマークでは、かなりアピールに欠けるものがあります。とは言え、ハートのマーク♥は、バグパイプの様な本物の人間の心臓とは、あまり似ていない・・・。なのに、世界全国で、それと認知されるシンボルとして長い間使用されてきているわけなのですが、これは一体どこから来たのか。誰が最初に、心のシンボルはこれじゃ!と考案するに至ったのか。 ♥の模様は、すでに紀元前3000前あたりから土器のデコレーションなどにも使われているのが発見されているそうです。ギリシャの壺などにも、♥マークのモチーフがついたものが多くあり。ただし、こうした昔の土器や壺類のマークは、ツタや、イチジク、ブドウの葉を模したものだそうで、心臓、愛情とは関係がないのです。特にギリシャの場合は、酒の神バッカスと共にハート形のブドウの葉が飾りに使われているわけです。バッカスは、酒と共に、豊穣と恍惚の神でもあるから、ギリシャの壺に、現在のハートマークの原型を見ようとする人もいるようですが、これは、おそらく、深読みとされています。 他の面白い説に、現在のリビア内にあった、古代ギリシャ都市のキュレネ(Cyrene)で育てられていたシルフィウム(silphium)という、今は絶滅してしまった植物の果実が♥型であったことに由来するというのがあります。なんでもシルフィウムは、薬草と

聖ヴァレンタインとバレンタインデーの歴史

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明日は、言わずと知れたバレンタインデー(St Valentine's Day)です。好きな人にカードや、花束や、贈り物をする日とあって、スーパーにも、数日前から、この日のために、大きなバラの花束、ハート形のチョコレートの箱、ピンクのシャンペンなどが並べられています。そんな巷の商戦は別として、そもそも、このバレンタインデーの名の元となる、聖ヴァレンタイン(St. Valentine日本語でウァレンティヌスとも)とは、どんなお方だったのか・・・。 聖ヴァレンタインの真の姿は、他の多くの聖人たちと同じように、定かではないようです。一番信じられている説としては、 3世紀後半のローマの司祭であった人物。時のローマ皇帝クラウディアス2世は、結婚している男性は良い兵士にならない、という理由から、結婚を違法としたというのです。ヴァレンタインは、そんな事をしては、恋人たちに気の毒である、と陰で、結婚式を挙げる手助けをしていた。やがて、それが皇帝にばれてしまい、ヴァレンタインは投獄、そして処刑されてしまう。その処刑の日(2月14日)、ヴァレンタインは、愛する人(牢獄の監守の娘だったという説があります)に、「From your Valentine あなたのヴァレンタインより」とサインした恋文を送る。 信憑性皆無の話ではありますが、伝説としては確かに面白いです。 この聖ヴァレンタインの聖人の日(2月14日)とは別に、2月15日には、古代ローマでは、異教の祭り「Lupercalia ルペルカリア祭」が祝られていました。ルぺルカリア祭は、春の到来を祝い、また豊穣を祈る祭り。祭りの趣向のひとつに、男性が、箱の中に収められた女性の名前をくじ引きの様に引き、当たった女性とその日はペアとして過ごしたというものがあり、そうして出来上がったカップルが、やがては結婚するまでの仲に発展することもあったとか。異教の祭りながらも、キリスト教確立後もしばらく続きますが、やがて、5世紀も終わりに近づいたころ、ローマ教皇ゲラシウス1世(Gelasius)によって禁止となります。その代わりに、聖人の日であるSt Valentine's Dayを一押しすることになったのでしょう。 また、バレンタインデーが、現在のような恋人たちの日として形作られる、最初の一歩に貢献したのは、14世紀の

レドンホール・マーケット

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シティー・オブ・ロンドンのオフィス街の間に建つ、過去へのトンネルの様な瀟洒な姿のアーケイドは、レドンホール・マーケット(Leadenhall Market)。 レドンホール・マーケットは、シティー・オブ・ロンドンの中心部に位置し、ローマ時代は、ローマのフォーラムがあった場所に当たるとされます。映画「ハリーポッターと賢者の石」で、ハリーが学校へ行く前に、魔法使い用品のお買い物をするディアゴン・アレー、リーキー・コールドロンの撮影場として登場したため、今では、ハリポタのロケ先イメージが強い場所ですが、マーケットとしての歴史は古く、その名に触れた最古の記述は、1321年。 最初は、La Ledene Halle(鉛の館)という名の、屋根を鉛で覆ってあった館に面した広場で市が開かれていたことから、Leadenhall Marketという名が派生。ロンドン市民以外の人間(よそ者)が、鳥類の肉を売る事が許された市場であったと言います。シティー・オブ・ロンドン内には、Poultry(鳥類の肉)という名の比較的大きい通りがありますが、ここは、ロンドン市民が鳥類の肉を売っていた場所。14世紀後半からは、ロンドンっ子以外のよそ者たちは、レドンホール・マーケットで、鳥肉のみでなく、バターとチーズを売る許可も得ます。 15世紀初めに、この場所は、ロンドン行政機関、コーポレーション・オブ・ロンドンの手に渡り、1455年に、ロンドン市長は、新しく、非常時のための穀物を貯蔵できる倉庫を建て、建物の中庭部を様々なる食物を売る一般市場とします。後に羊毛や皮の販売も開始。1666年の ロンドン大火 の際に、焼け落ちたものの、マーケットは再建され、数多くの屋台が並ぶ市場として機能し続けます。 スミスフィールド家畜市場 で売られ、近くの シャンブルズ で屠畜された肉類、 ビリングスゲイト魚市場 で仕入れられた魚、テムズ川沿いの荷揚げ場所から搬送されてくる穀物、そして田舎から百姓のおかみさんたちなどが持ってきて販売していた鶏や兎。田舎から来た鳥類は、ロンドン近郊で太らせてから、レドンホール・マーケットなどの市場で販売される事も多く。 「ハリー・ポッターと賢者の石」に映るレドンホール・マーケット 現存の、ハリポタロケに使われたレドンホール・マーケットの構造は、タワーブリッジ

シャンブルズ

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「Shambles」とは、現在は一般に、「混沌」、「ぐちゃぐちゃの状態」を意味する名詞ですが、かつては、屠畜場、肉屋、肉市場を指す言葉としても使われていました。もともとは、物を売るのに商品を並べる小さなベンチやテーブルを意味する言葉から派生したそうです。要するに、「肉を展示するベンチ」から「肉を売る場、屠畜場」を指すようになり、そこから、内臓、血などが飛び交う「残虐な事が行われる場所」の意味が生まれ、やがて「混沌」を意味するようになった次第。通常、複数形で使用されますが、扱いは単数。 This house is a shambles. この家はぐちゃぐちゃだ。 これから派生した形容詞は、「shambolic」で、 The government's Brexit policy is shambolic! 政府のブレグジットに対する対策は混とん状態だ! というように使用します。 ヨークのThe Shambles その名も、The Shambles ザ・シャンブルズと呼ばれる小さな通りが、イングランド北部の歴史のひしめく町、ヨークにあります。ヨーロッパで中世の面影を最も良く残している通りであると言われています。狭い道に、上階がの飛び出た形のハーフティンバーの建物が並び、ほんの短い通りですが、ヨークの観光目玉のひとつですので、いつも人は沢山。 この通りは、12世紀の ドゥームズデイ・ブック にも記載されている古い通りである上、建物の多くは、14世紀半ばからから15世紀にかけて、建設されたもの。かつては、もちろん肉屋通りで、軒を並べて肉屋の店と居住場、店の裏には、屠畜をする場所もあり、そこで殺した家畜の肉は、窓の下の小さなテーブルに並べられたリ、店の外に吊るされたり。肉を吊るすのに使ったフックなども、一部の建物にはまだ残っています。19世紀後半には、まだ25~30件ほどの肉屋が残っていたようですが、現在あるは、お土産物屋、ティーショップなどなどで、肉屋は一軒もありません。 今の観光客の目から見れば、見た目にロマンチックではありますが、こんな小さな通りに、屠畜場、兼、肉屋がひしめいていたのでは、たいそう、臭かった事でしょう。ハエなどもぶんぶんいて。道の両脇には、歩道があり、その真ん中が浅い溝の様になっていますが、時折、ここに家畜の

ウェスト・スミスフィールドの歴史と食肉市場

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スミスフィールド食肉市場 先日、当ブログで紹介した、 バーソロミュー・フェア が開かれていた場所に現在あるのは、大規模卸売食肉市場のスミスフィールド市場(Smithfield Market)。市場で売買が始まるのは、早朝2時とあって、盛んに取引が行われている内部を見学したい人は、朝の7時までに繰り出す必要があるようです。 市場を含む、この周辺の名称であるスミスフィールドの「smith」 は、もとは、アングロサクソンの言葉で、「滑らかな、平らな(smooth)」を意味したという「smeth」から来たもの。よって、「滑らかな原っぱ Smooth Field 」を意味することとなります。厳密には、この場は、ウェスト・スミスフィールドと呼ばれ、ロンドン塔の東側には、イースト・スミスフィールドと称された、やはり平らな広場が存在したようです。 昔は、ロンドン(現シティー・オブ・ロンドン)を囲む壁の西側すぐ外に位置し、便もよく、平らで広々したウェスト・スミスフィールドは、催しや、お祭りを行うのにもってこいだったのでしょう。中世には、数々のトーナメントなどが行われる場所であり、現代ならば、ロック・コンサートが催されるような場所であったのかもしれません。上記の通り、年に一回のバーソロミュー・フェアが開催されたのもここですし。 時にこうした催し物が開催される他にも、週に2回、イングランドで最も有名な家畜のマーケット(市場)が開かれる場所として知られるようになります。輸送手段が他になかった時代には、田舎から、drover(牛追い)たちが、羊や牛の家畜の群れを従えて、この市場へやって来ていたのです。その影響で、周辺には屠畜場や肉屋などもでき。この牛追いたちは、途中の草原で家畜たちを太らせながら、はるばるウェールズなどからも、何日もかけてスミスフィールドへ。 フェアや、お祭り騒ぎ、マーケット以外の、スミスフィールドの、ちょいとおどろおどろしい側面は、多くの処刑が行われてきたこと。もっとも、昔の処刑は、見世物の面もあり、物見高い庶民が繰り出して行くものでもあったので、基本的に、一種のお祭りと同じ・・・などという見方もありますが。 スミスフィールドで処刑された人間の中で、おそらく一番有名な人物は、イングランドのエドワード1世の厳格なスコットランド統治に対して果敢に

ボビー

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ジャクリーン・ケネディーを描いた映画「 ジャッキー 」を見に行った後、JFKの弟でやはり暗殺されてしまったロバート(愛称ボビー)・ケネディーに興味が出、2006年に、エミリオ・エステべスが脚本を書き、更に監督している「Bobby ボビー」という映画を見つけ、鑑賞しました。 俳優マーティン・シーンの息子、エミリオ・エステべスは、ボビー・ケネディー暗殺があった時は6歳だったそうで、その1年前には、ボビーと会って握手をしたのだそうです。子供心に、死亡のニュースが流れた朝の記憶も強く、長らく、この映画を作る事を胸に抱いていたという話。親子ともども、民主党支持で、ロバート・ケネディーには思い入れが強い様子。あまり知名度も高くない映画なので、さほど期待もせずに見たのですが、予想より、ずっと良く、またアメリカの現状との比較も興味深い内容でした。 時は1968年6月4日、大統領選にむけてのカリフォルニア予備選挙の日。大統領選に立候補することを決めたボビー・ケネディーは、このカリフォルニアの予備選挙で、同日遅く勝利を収め、真夜中を回った6月5日、ロサンジェルス、アンバサダーホテル内のホールにて勝利のスピーチを行う。その後、大歓声を受けながら、群衆で混みあったホールを去るため、ホテルの厨房を通過した際に、パレスチニア出身の若者、サーハン・べシャラ・サーハンによって撃たれる。病院に担ぎ込まれ、翌朝、奥さんにみとられ、死亡。この際、厨房にも、ボビーを一目見ようと、77人の人間がひしめいていたという事ですが、そのうち、5人も、流れ弾にあたって負傷しています。が、ボビー以外は、皆、命はとりとめています。 映画は、暗殺で終わるこの選挙の日、アンバサダーホテル内での人間模様を、幾人かの人物の生活を追い、その会話から、当時の社会状況を見せる、という面白いアングルを取っています。 長年アンバサダーホテルで働いてきて引退した老人二人が、ロビーでチェスをし語らう姿。ホテルの従業員には一応は平等な権利を与えたいと、午後は、選挙に投票に出かける時間を与えようとするホテル支配人。そんな支配人の態度に懐疑的な厨房マネージャー。厨房でこきつかわれ、ぶつぶつ文句を言いながらも、仕事があるだけいいと、必死で働くメキシコ人と黒人たち。良く知らない青年が、ベトナム戦争へ行かずに済むように、ホテル内で、偽