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7月, 2016の投稿を表示しています

The Field of the Cloth of Gold 金襴の陣

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The Field of the Cloth of Gold この絵は、1520年6月、約20日間に渡り、イングランド王ヘンリー8世と、フランス王フランソワ1世の間で執り行われた会合「金襴の陣」(The Field of the Cloth of Gold、ザ・フィールド・オブ・ザ・クロス・オブ・ゴールド)の様子を描いたものです。描かれたのは、ヘンリー8世が死去する2年前の、1545年。 ハンプトン・コート宮殿 内に飾られています。また、数年前に、ロンドンのリッチモンドにある、 ハム・ハウス を訪問した際にも、この絵のコピーがかかっているのを見ました。 金襴の陣が開かれた場所は、当時はイングランドの領土であったカレーのフランス国境近くの土地。ヘンリーは、フランスに強い印象を与えるため、あちらこちらに贅をこらし、一時的に、この場所に、なんと仮の宮殿を建てるという大盤振る舞いをし、周辺にはられた数あるテントも金色の布できらめき、その様子から「金襴の陣」と呼ばれるようになるのです。 当時のヨーロッパ大陸の大国は、ハプスブルク家のカール5世を長とする広大な神聖ローマ帝国と、フランソワ1世のフランス。この両国に比べ、まだ小国でありながら、頭角を伸ばして来ていたイングランドは、両勢力のバランスを取るためには、大切な国。また、東方にはオスマン帝国の脅威も迫り、ヨーロッパ内の団結の必要もとされていたわけです。 こうした背景から、金襴の陣は、イングランドとフランスの友好関係維持が名目上の目的であったわけですが、これが、若き日のヘンリー8世と、フランソワ1世が、初めて対面した場。2人とも、スポーツ万能で、背も高く、教養に富むルネサンス期の王様としての評判を持ち、お互いがお互いの存在を、常に意識しており、実際に顔を合わせるのには、興味津々であったようです。(ヘンリーもこのころは、まだ、たくましくも、スリムで明るく、後の時代の様に、でぶでぶの上、怒らすと頭をちょん切られかねない、怖い癇癪持ちになっていませんでしたから。)金襴の陣の実現に、根回しをして音頭を取ったのは、当時、ヨーロッパ内でも、カリスマ聖職者として名が知れ渡り、イングランドではヘンリーに次いで2番目に重要な人物であったトマス・ウルジー(Thomas Wolsey ウルジー枢機卿)。 イプスウィッチ の肉屋の

畑一面のエキウム・ブルガレ

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畑を紫に染めるエキウム・ブルガレ(バイパーズ・ビューグロス) 春にイギリスの畑の脇を歩いたり、田舎道を車で通ったりすると、一面に広がる 菜の花畑 に遭遇する事が多々あります。これが終わると、今度は、菜の花ほど一般的ではないですが、時折、紫色に染まった畑を目撃することもあり。大体において、畑一面が紫色の花でおおわれている場合、その正体は、亜麻(学名:Linum ustiatissimum、英語一般名:Linseedまたは Flax)でした。亜麻は、繊維はリネンの素材として使用ができ、アマ二油と呼ばれる種から取れる油は、油絵などに使用されます。 先日、こうした畑の脇の フットパス (ハイキング用の道)を歩いており、いくつもの小麦畑を通過した後、少し先に、「湖か」と思うような水色の広がりが見え、近づいて行くと、一面の紫の花畑にご対面。 どうやら、亜麻とは、葉も花も違う感じで、また、時期的にも少し遅いし・・・と、家に戻ってから、取った花の写真をクローズアップして、その正体を調べてみました。まず、インターネットで、農家によって栽培される、青紫色の花をつける植物として調べても、大体が亜麻や、チコリなどが言及されているくらい。ちょっと違うぞ、と思いながら、インターネットを離れ、イギリスの野生植物図鑑で青、紫系の花を咲かせる植物のページをぺらぺらめくっている時に、「あ、これだ。」と目についたのが、エキウム・ブルガレ(Echium vulgare)。イギリスでは、一般に、Viper's Bugloss(バイパーズ・ビューグロス)と称される植物で、日本では、シベナガムラサキとも呼ばれるようです。 エキウム・ブルガレは、かつてはハーブの一種と見られており、葉を使用してのハーブティーは、頭痛や熱、痛みを和らげるのに使用され、一般名であるバイパーズ・ビューグロスの、バイパーとは毒蛇の事ですから、へびにかまれた時の対処にも使われたのでしょう。花はサラダに入れて食べることも可能とか。ついでに、ビューグロスというのは、ギリシャ語が語源で、「牡牛の舌」を意味し、葉のざらざらした感触と形を形容したもののようです。 さて、何故に、この植物を、農家が大量に育てているのだろうかと、こちらも調べてみました。現段階で、この植物の種から抽出するエキウム・オイル(Echium

壁に耳あり障子に目あり

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ハンプトン・コート宮殿内グレート・ホールの天井 日本語では、「壁に耳あり障子に目あり」などと言いますが、他人の内緒話を盗み聞きする事を、英語では、eavesdrop(イーブスドロップ)と言います。そして、盗み聞きをする人の事は、 eavesdropper(イーブスドロッパー)。 「eaves」とは屋根のひさし、または建物の突き出た部分の事を指す言葉で、昔は、eavesdropというのは、屋根のひさしから落ちる雨水、またはそうした雨水が落ちる地面、の事であったと言います。そこから、家の外壁に近い、屋根のひさしから雨水したたるような場所(eavesdrop)に立ち、内部での会話を盗み聞きする人をeavesdropperと呼ぶようになり、そのうち、盗み聞きの行為自体を指してeavesdropと言うようになったそうです。まさに、壁に耳ありです。 天井に掘られている人間の頭 イギリスの ハンプトン・コート宮殿 内にあるグレート・ホールと呼ばれる、ヘンリー8世が建築させた大広間は、見事なハマービームと呼ばれる構造の木造天井を有します。この天井をよく見ると、ビームから突き出すように、いくつもの人間の頭が彫り込まれているのです。眼下で繰り広げられる会話や行為をスパイしているように。 これは、ヘンリーが、「我の治世に対して、良からぬ噂話をする者、謀反を企てる者、反対意見を言うもの、心せよ。我は、全て見聞きし、お前たちが何を考えているか、知っておるのだぞ。」と、宮廷人たちに知らしめるためのものだったという話です。 エリザベス1世、「虹の肖像」部分 以前、 ハットフィールド・ハウス を訪れた時、ヘンリー8世の娘、エリザベス1世の「虹の肖像」という絵を見ました。この肖像で、エリザベスが身に着けているガウンには、ちょっと不気味ですが、多くの目と耳が、刺繍されているのです。これも、同じような意図だと思います。「私の権威は、イングランド全土に及ぶ。私のスパイは至る所にいる。お前たちの考えている事をすべて見聞きし、知っている。私を欺けると思うなかれ。」と。 現在は、監視カメラはあちこちに設置されているし、プライベートのメールや携帯のテキストに至るまで監視される可能性があり、個人の言動を見張る、サーベイランス社会などと言われますが、これは今に始まったことで

ハンプトン・コート宮殿

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ロンドンのウォータールー駅から、電車で約30分、テムズ川沿いにあるハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)。一応はロンドンのゾーン6圏内に位置するのですが、地下鉄でなく、電車に乗るとなると、それだけで、気分的に、ちょっと遠出。 今年の5月の終わりに、このハンプトン・コート宮殿を訪れました。これは私には、2度目の訪問となります。最初にここを訪れたのは、30年近く前で、記憶に残っていたのは、チューダー朝に建てられた正面のゲイト・タワーの様子と、広大な庭に植えられている巨大キノコの様な木の形のみ。内部の様子は、ほとんど頭から吹き飛んでいました。 ここで、ハンプトン・コート宮殿の歴史をざっとまとめると・・・ まず、この地にあっ中世のマナーハウスを、1515年に、大々的に改築したのは、ヘンリー8世時代の、聖職者、政治家であったトマス・ウルジー枢機卿(Thomas Wolsey)。当時、高価でお洒落であったレンガが使用されています。彼の最盛期には国内で、王の次に重要な人物であったので、贅を極め、海外からの大切な客を接待し、数々の催しも開かれ、ヘンリー8世も大好きな邸宅となり、妻キャサリン・オブ・アラゴンと共に良く訪れたのです。が、アン・ブリンに惚れてしまい、キャサリン・オブ・アラゴンをやっかい払いしたくなったヘンリー8世。キャサリンとの結婚の無効をローマ教皇から取り付けることができなかったウルジーは、王の怒りを買うのを恐れ、ハンプトン・コートをヘンリーに献上。それでも、ウルジー、最終的に没落してしまうのですが。 こうして、ハンプトン・コートは50以上もあちこちに宮殿を有したヘンリーのお気に入りの場となります。ヘンリーは、ウルジーの建物に更なる増築を行い、新妻と、この宮殿で楽しいひと時をすごす・・・のもつかの間、世継ぎとなる男児を産む気配のないアン・ブリンはやがて処刑。ヘンリー8世の3番目の妻ジェーン・シーモアとの子供、エドワード6世は、この宮殿で生まれ、ジェーン・シーモアは、出産後すぐ、やはりここで死亡。4番目の妻、アン・オブ・クリーブからの離婚のサインをしたのも、5番目の妻キャサリン・ハワード、6番目で最後の妻キャサリン・パーと結婚したのもここ。アン・ブリン同様、斬首刑にあったキャサリン・ハワードは、浮気の罪で、しばらく、当宮

ピクルスと言えばブランストン

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Pickle(ピクル)という言葉は、名詞では「(塩や酢を利用した)漬物、ピクルス」の意味。また動詞で、「漬物にする」の意味があります。日本語でピクルスと言うと、大体の人が、 ガーキン (ghekin)のような、小型キュウリの酢漬けを思い浮かべる人が大半ではないかと思います。が、イギリスでpickleと言うと、パンの上に付けてのばすような、 チャツネ 風の物体を指すことが一般的です。こういったものを指す時、英語では、大体の場合、ピクルスと複数形を使用せず、「ピクル」です。ちなみに、 I',m in a pickle. (困ったじょうきょうにある。) というイディオムがあります。直訳は、「私はピクルのただ中にある」ですが、ぐじょっとしたピクルの中でもがいている様子が想像でき、面白い表現です。「xxの漬物」と言いたいときは、pickled cucumber(きゅうりの漬物) pickled onion(玉ねぎの漬物)。 イギリス全国で販売されているピクルの中でも、一番人気のブランドは、ブランストン・ピクル。このブログの題名は、日本風に、「ピクルスと言えばブランストン」としましたが、本当なら、「ピクル(pickle)と言えばブランストン」。 我が家でも、「チーズ・アンド・ピクル・サンドイッチでも作って食べようかね。」などという時は、冷蔵庫から、チーズの塊を取り出し、スライス。そして、食料棚を開けて、取り出す瓶は、ブランストン・ピクル(Branston Pickle)なのです。これをナイフですくいあげ、パンにのばし、その上にチーズのスライスを配列、別のパンを上に重ね、超簡単なチーズ・アンド・ピクル・サンドイッチの出来上がり。ブランストン・ピクルは、さいころ大に切った野菜を、酢や、トマトペイスト、アップルソース、レモンジュースなどなどで煮込んだもの。野菜もしっかり入っており、甘酸っぱくて美味しい~のです。私は、基本的に酢の物が好きなのもありますが。 最近、いかに上手に食費を削減させるか、というテレビ番組を見ていて、その秘訣のひとつに、有名ブランドの食品を買う代わりに、少し安めのスーパーの自社ブランドなどに切り替える、というのがありました。大体において、味にほとんど変わりなく、場合によっては材料が、スーパーのものの方が健康的だったなどということもあ

婦人参政権を求めてのSuffragetteの戦い

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「Suffragette サフラジェット」という映画を見ました。 Sufffagetteという言葉は日本語で、「女性参政権支持者」の事ですが、ここでは特に、第一次世界大戦が始まる前の、20世紀初頭に、エミリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst )をリーダーとした、婦人参政権運動に参加した女性たちを指します。上流、中流、労働階級と、階級を問わぬ団体で、エミリン・パンクハーストの方針は、「Deeds not words」(言葉ではなく行動)。それまでのように、法に従って行儀の良い抗議を行っても拉致が明かないと、男性同様に大っぴらなデモを行い、人目を引き、半犯罪、テロにも近い、窓ガラスを割る、ポストボックスを爆弾で破壊するなどの、直接行動を取る、過激な参政権運動を展開することとなります。メンバーの幾人もが、警察に捕まり牢獄入りをし、パンクハースト夫人自身も牢獄に何度か放りこまれています。 パンクハースト夫人は、マンチェスター出身で、マンチェスターの労働階級の女性の生活の苦境を熟知しており、そうした下層階級の女性の生活の改善、また、一般的な女性の社会的地位の向上も、参政権運動の目的であったようです。階級を問わず、当時の女性は、結婚をすると、自分の資産も夫のものとなってしまう、など、夫の付属的存在。それでいながら、男性と女性の役割は違う、女性は政治に向いていない、などの理由で、男性はともかく、女性の中にも参政権運動に反対を示す人も多かったのだと言います。特に、サフラジェット達の活動が、テロまがいに激化していくと、更に、批判の声も強くなり。 さて、映画「Suffragette サフラジェット」、主人公モードは、架空の人物で、演じるのは「 17歳の肖像 」にも出ていた、かわい子ちゃん、キャリー・ハンナ・マリガン。だんなと共に、東ロンドンの洗濯工場で働く、一児の母。7歳にしてパートタイムで働き始め、14歳でフルタイム勤務になり、そのまま行けば、おそらく、体がぼろぼろになるか、死ぬまで、同じ場所で低賃金で働くのだろう・・・という設定。幼いころから、工場監督に手も出されていた感じです。彼女の生活、想像するだに暗い。朝から晩まで重労働で、ボロ家に帰って、寝るだけ。唯一の慰めは、小さな息子と過ごすひとときのみ。彼女が、ひょんな事から、サフラジェットの活動

テリーザ・メイ

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御年90歳 のエリザベス2世。ウィンストン・チャーチルに始まり、過去、幾人もの政治家が、首相に任命されるべく、バッキンガム宮殿を訪れ、その数も13人目。歩く歴史の様な人です、 エリザベス女王 は。 今回の任命は、イギリス2番目の女性の首相、テリーザ・メイ(Theresa May)。7月13日に、女王の13番目の首相として任命って、運悪いかも、などという人もいましたが。デイヴィッド・キャメロンがEU国民投票で敗北をしたことからの辞任表明、新しい保守党リーダーひいては首相の座をめぐって、EU離脱派の候補者たちが次々と消えて行った中、気が付くとあっという間に、首相の座にのし上がった彼女。 首相辞任のために、やはりバッキンガム宮殿を訪れたデイヴィッド・キャメロン一家が去るや否や、一時的にイギリスに首相がいなくなった数分後、入れ替わるように宮殿にやってきた彼女は、新首相に就任。その後、調度、6時のBBCニュースで生放送されるタイミングで、宮殿からそのまま、ダウニングストリート入りし、10番のドアの前での就任演説。政治の混とんの中にありながら、 6年前に見たのと同じ 、お定まりのパターン従った権力の交代に、妙なミスマッチ感があります。 テリーザ・メイは、牧師の娘で公立高校からオックスフォード大学へ進み地理学を専攻。御年59歳。(ちなみに、デイヴィッド・キャメロンは、この秋に50歳になるとやらで、まだ50にも達していないのです。若かったな、と今更、びっくり。)かなり若いころから、イギリス初の女性首相になるのが夢だったと言う話で、マーガレット・サッチャーが首相になってしまった際には、これで、一番のりができなくなり、むっとしたとか。 金融機関で働くご主人のフィリップ・メイとは大学時代に知り合い、なんでも、暗殺されたパキスタンのベーナズィール・ブットーの紹介であったとか。ダウニング・ストリート10番の前で手を振る夫婦の写真、本人より嬉しそうに、にたーっと笑う、昔風丸眼鏡をかけたご主人は、ちょっと愛嬌です。丸眼鏡をはずしたら、鼻も一緒についてはずれそう。そういう、おもちゃの眼鏡、小さいころ持ってましたっけ。 テリーザ・メイが、政治家として脚光を浴び始めた初めのころは、色々、とっかえひっかえ変わった靴を履くことで有名で、イギリス版、イメルダ・マルコスみたいなイメ

クリスティアーノ・ロナウドが刺青をしない理由

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ポルトガル、ユ―ロ2016年優勝おめでとう 昨夜の、UEFA欧州サッカー選手権(ユーロ2016)フランス対ポルトガルの決勝は、試合内容そのものより、人間ドラマとして面白かったですね。最初から、優勝経験がない、小国のポルトガルを応援していたので、満足いく結果でしたし。 前半25分で、膝を負傷し交代を余儀なくされ、悔しさに涙するポルトガルのキャプテン、クリスティアーノ・ロナウド(Cristiano Ronald)。両チーム合わせても、一番のスターですから、残り時間、彼のいない決勝は、今ひとつ、つまらないし、また、ロナウドに頼るところの強いボルトガル・・・気の毒に、これは、最初から有利と言われていたフランスの勝ちか・・・ちぇ! と思いきや、ポルトガル軍一致団結で、0ー0とフランスに得点を許さず抑え込み、延長時間へ突入。残り10分ほどで、エデルにより、ポルトガル念願のゴール。興奮したロナウドは、「あんたは、コーチかい?」の感じで、びっこひきひき、ピッチわきから激励とアドバイスを叫び、会場のポルトガル・ファンに、更なる歓声で盛り上げるように呼びかけ。試合の最後を告げる笛が響き、感涙にむせる・・・。すでに、ロナウドは、将来はポルトガルのマネージャーになるのではないかなどと話も出ています。 試合後、BBCのコメンテーターのひとり(たしか、リオ・ファーディナンドだったと思います)は、ピッチわきから指令を飛ばすロナウドの姿を見ながら、「ロナウドっていう題名の映画を見ている気分だった。」なんて言ってましたが、まさにその通りでした。映画か、日本のスポ根アニメのような筋書き。決勝に臨むチームを率いるキャプテンが負傷。ショックを受けながら、チームは、新たなる決意で、キャプテンのため、自分たちより強い敵に立ち向かう。傷つきながらも、脇から声援を送るキャプテン。そして、終了近くの闘魂のゴール。残り時間、敵にゴールを許さぬ最後の努力。そして、勝利と喜びの涙。じゃん、じゃーん!めでたし、めでたし。 サッカー選手は、ベッカムなどもそうですが、体中に刺青いっぱい、などという人は沢山います。そんな中、クリスティアーノ・ロナウドは、刺青は一切なし。以前は、私、ロナウドは、エゴが強そうな自己中人間のイメージがあって、さほど好きではなかったのですが、彼が入れ墨をしていない理由というの

イギリス国会議事堂内見学

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ビッグ・ベン の時計塔でおなじみのイギリス国会議事堂、The Houses of Parliament。 この建物の正式名である、The Palace of Westminster(ウェストミンスター宮殿)からもわかるよう、イングランド王の宮殿として、その歴史を始めています。大昔は沼地であったこの周辺に最初に宮殿を構えたのは、カヌート王。その後、エドワード懺悔王が、旧ウェストミンスター宮殿(The Old Palace)の土台を築き、時と共に、改造、拡大されながら、王の主な宮殿、そして政治の場として使用されます。1532年に、ヘンリー8世が、メインの王の宮殿を、ここより少し北に上ったホワイトホール宮殿とセント・ジェームズ宮殿へ移動させ、王一家の居住地としての役割は、この段階で終了しているのですが、宮殿としての位置づけは、現在も続いています。 旧ウェストミンスター宮殿は、1834年10月の火災で、ウェストミンスター・ホール(Westminster Hall)のみを残し、ほぼ全焼。新しい建物の建設にあたってデザインのコンペが行われ、提出された97のデザインから選ばれたのは、チャールズ・バリー(Charles Barry )によるもの。バリーは、オーガスタス・ウェルビー・ノースモア・ピュージン(A.W.N. Pugin)の助けを借り、新ウェストミンスター宮殿の建設に携わります。一大事業のストレスたまってか、ピュージンは精神異常を起こし、一時は べドラム精神病院 入りまでする羽目になり、1852年に40歳にて死去。チャールズ・バリーも、1860年に死去し、息子のエドワード・ミドルトン・バリーにより、1870年代に、やっと完成となります。一部、内部の使用はその以前から行われていたようですが。 ビッグベンのある時計塔は、議事堂北側にありますが、南側にある塔は、ヴィクトリア塔(Victoria Tower)。国会が開かれている時には、ヴィクトリア塔の上に ユニオン・ジャック が掲げられます。 イギリス国会の上院(貴族院)は、House of Lords、ハウス・オブ・ローズと称され、下院(庶民院)はHouse of Commons、ハウス・オブ・コモンズ。この2つのHouse(議会)を収容することから、国会議事堂は、Houses of Westminste