自転車泥棒


 ここしばらく、ヨーロッパ映画を見ていないな、とふと思い、見たのが、これ、1948年公開、ヴィットリオ・デ・シーカの「自転車泥棒」。現代の若い人たちも、まだこういう映画を見ているのかは、知りませんが、未だに、傑作映画の呼び声高い、戦後間もないローマを舞台にした、切ない話です。このくらいの時代の映画は、イギリス映画もそうですが、まだ戦争の傷跡残る都会の風景が印象的。

あらすじは、いたって簡単。職を探す人々の波が職安にたむろしている場面から始まります。ここで、ついに、待ち望んだ仕事を得たアントニオ。ただし、移動しながら、街中にポスターを張る仕事であるため、自転車を持っていることが条件。そこで、妻は、ベッドに敷いてあったシーツなどを引っぺがし、それを質に入れて、その分で、以前、質に入れてあった自転車を取り戻す。シーツは無くなったけど、妻と小さな息子ブルーノも大喜び。翌朝は、張り切って仕事に出たはいいが、仕事半ばで、壁に立てかけてあった自転車が盗まれてしまう。映画の残り部分は、この自転車を見つけ出すため、アントニオとブルーノが、あちこちを奔走することになります。そして、最後に、絶望したアントニオが、自分自身、自転車を盗もうとしてしまう。

自転車が盗まれた直後、アントニオは、警察に届け出るのですが、記録を取った後は、見つかったらまた届けろ、と言うだけで、何をしてくれる様子もない。「探してくれないのか」の問いには、たくさんある自転車から、お前のを探せるわけがない、自分のなんだから、どんなのかは自分で知ってるだろう、もう、リポートすんだから、帰れ、のようなことを言われる。こんなやり取り、笑いながら見てました、今でも、基本的に同じだから。

財布やら貴重品をイギリスやらヨーロッパで盗まれても、警察に届けるだけ時間の無駄。今年の夏、お隣さんはオックスフォードまで車で出かけ、どこかの公共の駐車場に止めた際、彼のホンダ車の下から、三元触媒コンバーターがもぎとられ、盗まれてしまったという事件に会っています。なんでも、日本車のコンバーターは性能が良く、被害にあいやすいとか。こんなのも、埒もあかないと、警察に届けたりしなかったようです。警察も資金不足、人手不足の昨今ですから。数年前に、空き巣に入られた友人は、おじいさんの第一次世界大戦のメダルを盗まれたそうで、これはさすがに警察に届け出。なんでも、その周辺を荒らしているちょっとしたグループがいるようで、「犯人はおおよその検討はつくが、証拠がないので何もできない」とその場で言われ、それっきり、音沙汰なしだったといいます。

また、本当に自転車泥棒にあったのが、12年前に旦那が入院していたころ、良く面倒を見てくれていたフィリピン出身の男性看護師さん。自宅から病院までのバス代を浮かすために、新しく買った自転車が、なんと病院の駐車場から盗まれた、という話をしていました。もう戻らないと、あきらめていて、本当に気の毒でした。

話を映画に戻し・・・アントニオは最初は、ごみ収集業の友人の手助けを借りて、翌朝の自転車市場へ出かけて探し回るのですが、それこそ、盗まれた品と分からないよう解体して、いろいろな部品ごとに売られたり、ペンキを塗ってしまったりと、悪党もあの手この手で、探すのも大変。こちらも、今でも、いわゆる蚤の市で、盗品が売られていたりすることもあるようですから、現イギリスでもありえる話です。看護師さんの自転車も、お隣さんのコンバーターなんかもね。コンバーターにはプラチナとかが含まれているから、盗品に目をつむる貴金属業者に売られた可能性もありますが。第一次世界大戦のメダルも、今頃、溶けてなくなってるでしょうね。

この映画で、一番「へえ」と思ったのが、使い古しのシーツが、中古自転車と同じくらいの価値があったという事。今や、こうしたものや衣料などは、人件費の安い国で生産したものを買っているわけだから、質に入れられるような価値を持たないわけですが、こうしてみると、色々な身の回りのものは、本来なら、後生大事に使うべきで、それほど安くあるべきものではないのかもしれません。

貧しい者が、生活のためと、貧しい者から盗んだり、だましたりという姿が、なんともやりきれない。途方に暮れたアントニオは、占いを行うおばさんのところへ出かけ、自転車は見つかるかと尋ねるのですが、このインチキ占い師の答えは、「すぐ見つかるか、または全く見つからないかのどっちかだ。」というもの。この答えを得るために金取られるんですから。それでいて、この人に占ってもらうために長蛇の列ができている。ポスター張りなどするより、こういう商売打ち上げた方が美味しい。また、実際、アントニオが、犯人らしき人間の住処を突き止めた時も、その家族や近所の人間たちから「証拠がない」と糾弾されておしまい。

映画の救いは、子供のブルーノのたくましさ。この子が、口元きゅっとひき結んで、お父さんと一緒に自転車を探す姿がなかったら、この映画の魅力は半分以上消えている。最後に自転車を盗もうとして捕まってしまい、群衆から罵りを受ける父親に、「パパ、パパ」と泣きじゃくりながら近寄っていくブルーノを見て、自転車を盗まれた男性は、かわいそうになったか、「面倒だから、警察には訴えない」とそのまま去っていく。そういう意味ではアントニオの守護神みたいにもなっている。最後は、涙ぐむ父親の手を握るブルーノの姿で終わっています。映画内で、少しでも心ある人間は、この最後のアントニオを見逃す男性と、捜査協力してくれた友人くらい。あとは、まるで敵意を持っているような社会の荒波を、家族で乗り切るしかないような状況。

この映画での親子関係と対比して、数日前に、貧しい国で、自分の子供に、インターネットのポルノサイトでエッチ行為をさせて金を稼いでいる親がいる、というリポートを聞いていたのが思い出されました。「極貧は罪ですよ」というセリフが出てくるのは、どの小説でしたか、ドストエフスキーの「罪と罰」だったか?でも、いくら極貧でも、そこまでしようと思うのか?そういえば、古典落語などでも、飲んだくれの父親の負債を払うために吉原に身を沈める娘、なんてのが結構出てきます。

イギリスなども、こういう状態を回避できるように戦後の福祉国家が誕生したのでしょうが、今や、あまりにも一般市民の「福祉」というものに対する期待が上がりすぎたのか、ある意味、客商売のようになってしまった民主主義政府が、税金はそのまま、あなたのポケットからは今以上何も取らずに、生活は向上する一方という、ありえない夢物語を、長い間、大安売りし続けたためか、すべての公的サービスが金欠でアップアップになっています。さすがに、この映画のような状況にまでは、逆戻りしないだろう・・・とは思いたいですが。

それにしても、ブルーノのような子供は、のちにどういう人間になるのだろう、などと見終わった後、考えていました。

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