写真をあまり撮らなくなった理由

イギリスのコロナでのロックダウンは、色々、今までの生活を見直す機会ともなりました。前より写真を撮らなくなったというのも、そのひとつ。出かける機会が減ったからというのもありますが、デジカメ、スマホが始まってから、その手軽さのために撮りためた膨大な写真の数に、今更ながらびっくりしたというのもあります。いらない写真は、ざんざか削除していけばいいんですが、何となくそのまま。それで、後から見るかというと、あんまり見ないのですよね。私は、SNSはやっていないので、それこそ、ブログででも使わない限り、その、ほぼ全ては、永久にデータとして埋もれて終わりでしょう。

実際、自分で写真を見るとなると、デジカメ以前の大昔のアルバムを繰ってみたりすることの方が多いです。100も200もある、似たようなデジタルイメージを次から次へと見るより、限られた枚数のものを、時間の合間に、お茶飲みながら、ページめくって楽しく見れるのです。

あと、アナログ写真は、自分が写ってる時など、適当にぼけてくれていて、それなりに見えるという利点もありました。昔の富士フィルムのCMではないですが、「美しい方はさらに美しく、そうでない方は、それなりに写ります」ってやつです。ところがデジタルだとスクリーンの上で拡大された自分の顔に驚愕(!)してしまうこともある。シミ、そばかすまで、こんなはっきり写ってほしくないのに、なんて感じで。しかも、それが、人から、「この前の写真送ります」なんてメールに添付され、開いてみて、すごい顔で写っているものが、バカでかいサイズで撮られていたりすると、そのインパクトに、「うわー!」っとなる。自分で自分の顔に驚くなんて、笑うに笑えない。そして、それが、相手のスマホの中に保存されていると思うと、ますますゲンナリ。それで、送り手の顔はちゃんときれいに写ってたりするんですよね。(こういう事があるたびに、人間なんて、自分の見た目しか気にせず、他人がどう写ってようと、どうでもいいんだな、と思います。でも、あまり、他人がブザマに写ってる写真を、頼まれない限りは、その人に送ったりしない方がいいですよ。)だから、最近は、人からスマホ向けられるのも、なんか嫌です。「見えすぎちゃって、困るの」・・・なんて、これも、なんかのCMでしたか。映像がシャープになるにつけ、今の芸能人なども、ふきでものひとつにでも大わらわでしょうから、大変だなと思うこともあります。

コロナが収まりだして、久しぶりに、ロンドンのナショナルギャラリーへ足を運んだ時、改めて、いかに現代人が実際の絵を自分の目で見るより、スマホで絵をとることに時間を費やしているかも、感じました。美術館でのカメラ使用については、前のブログ記事でも書いたことがあるのですが、これは未だ賛否両論あるようです。賛成意見の新聞記事を以前読んで、そこに、写真を撮るというのは、「能動的な行為であるから」と理由を挙げていました。それでは、見るという行為自体は受動的でしかないのか?それは、違うでしょう。漫然とテレビを眺めているだけならともかく、意識的に見るというのも能動的ではないでしょうか。ともあれ、ゴッホのひまわりの前に立っている時、入れ代わり立ち代わり、スマホを取るために立ち止まり、それが済むと、さっさと去っていく人たちを眺め、やはり、せっかく同じ空間にいるのに、小さいスマホのスクリーンを通してだけ見るのは、もったいないよなあ、と感じました。まあ、時間の限られた観光客だと、そうなってしまうのかもしれませんが。

ある意味、美術館側が、絵の前での写真一切禁止をしてくれていた方が、迷いなく(?)、じっくり見れる気もします。私が、アムステルダムのゴッホ美術館を訪れたのは、それこそかなり昔の話で、デジカメ前です。ここは、当時から、写真撮影には厳しくて、怖い顔した館員のおばさんが、「あんたの鞄にはカメラが入っているだろう?私にはわかる。」と、つっかかってきて、はっきり覚えていないのですが、鞄をクロークルームにあづける羽目になったような気がします。禁止とあったから、取る気はなかったのに。当館は、ロンドンのナショナルギャラリーとは違い、現在も、絵の前での撮影は禁止。ですから、上のイラストのような状況は起こらないわけです。そのかわり、ここのウェッブサイトはかなり充実していています。最近は、ネットでも、多くの絵を見れるから、持っていた美術の本などもかなり手放しましたが、当館で買った小さなカタログは、まだ、なんとなく懐かしくて取ってあります。

スマホやデジカメは、便利であるとともに、呪縛でもありますね。心のどこかで絶えず、ここで写真撮ろうかと、なんとなく考えている。何枚だって取れますから。絶景を眺めていても、名画を眺めていても、そんなこと考えてたんじゃ、きっと、その空間に没入することはできないかもしれません。「じっくり目の前のものを自分の目で見て、心に焼き付けるのじゃ!」などと悟ったような事いいながら、後になって、「ちっ!とっときゃよかった!」なんて後悔したくないというのもあって、悩ましいところです。(未来に旅した、H.G.ウェルズの「タイム・マシン」に出てくるタイムトラベラーが、未来の世界を映すために「コダック・カメラを持ってくるべきだった!」と後悔したというくだりが、ありましたっけ。)また、絶対取っておきたい場所というのはありますしね。たとえば、今はなくなってしまった、昔の我が家の周辺の写真は、取り壊し前に写真で記録しておいて、本当に良かったと思っています。また、写真を撮ること自体が目的であれば、それも別。

とりあえずは、取る回数が減っている、というのはよい事だとは思っています。断捨離というのは、デジタル写真にもありのようです。というか、物質処理だけでなく、今を十分味わえるように、行動をも簡素化するのも、断捨離ですかね。

コメント

  1. スマホのカメラが登場してから、手軽に写すことに何の抵抗も無く、撮影はただの記録という感になってしまいましたね。そのうち人間の目が退化するのではないかと思う時があります。

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    1. 記録する時に厳選しないと、又見たいものが、どこにあるかわからなくなんて事もありますしね。

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