団地っ子純情~昭和の公団団地へ捧ぐ

今回、イギリスの事でなく、日本の話となります。

去年の6月、日本に帰国した際に、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館を、幼馴染と訪れたことは、ブログ記事にしました。その展示物のひとつに、日本住宅公団により、1960年代に建てられた団地の玄関、風呂場、キッチンなどを実物大で再現しているものがあり、団地っ子の私たちは、それは感銘を受けたのです。(赤羽台団地を復元したものだそうです。)なにしろ、その様子が、私たちが育った団地とほぼ同じであったので。自分の子供時代が、歴史と化している事実、そして、団地という環境が、いかに当時の私たちにとって、すばらしい場所であったか、思い出が一気にわーっと沸き上がり、幼馴染は、一言、「涙が出る。」

*佐倉国立歴史民俗博物館の現代(1930-1970年)展示場に関するサイトは、こちらまで。見どころたっぷり、おすすめ博物館です。

最近、団地という言葉をネットで検索してみましたところ、貧乏、ガラが悪い、治安が悪い、などと言う、ネガティブなものが沢山目につき、中には、団地育ちは下流階級と断言しているものもあり、私の経験とあまりに違い、あっけにとられた次第。インターネットの悪いところですね。良く知らない人が、独断と偏見で、意見を下し、大声で宣言できるというのも。大体、下流階級という感覚自体が、私の子供時代には、ピンとこないものであったのです。私個人としては、団地育ちだと差別された覚えもなかったです。別の高校へ行った幼馴染は、「高校時代に、団地だからと、見下した物言いをする子は、いる事はいた。」とは言ってますが。

人は、両親の仕事により、裕福な家庭と、さほど裕福でない家庭があった、それは当然。ただし、当時の日本は、基本的に、モラルは同じ、教育も同じ。裕福でないから、教養がない、常識がないという方程式は、まったく当てはまらなかった。ある意味、多少、金の無い家の子の方が、頑張って勉強していた感もあります。ですから、イギリスに来て、貧しさと、親の子供のしつけと教育に対する興味の無さが、比例する、こちらの階級社会にびっくりしたものです。日本は、一億総中流の時代でしたから。日本で言う「中流」とは、衣食住を賄う生活ができるという事を前提として、あとは、金持ちである、という事より、人間としてきちんとした生活をする、知的文化的好奇心を持つ、向上心を持つ、という意識であると、私は解釈していました。

団地内で、特筆すべき犯罪、事件があったことなど、記憶に無いです。いつも綺麗でゴミが落ちている事、落書きなども、ほとんど見た事がありません。棟内では、掃除当番なるものもあり、それぞれの家庭が、順番で、1週間ずつ、公共の廊下や階段を、掃いて綺麗にする、という事もしていました。団地っ子が一流大学へ進み、良い仕事につくのも、とりたて騒ぐような事でもなく、多少の能力があり、勉強すれば、行けて当然。大体の親たちも、子供が大学へ進んだ時のためのお金は、きちんと取って貯めておいたのではないでしょうか。そうして、私たちも、また他の、子供時代を共に過ごした団地っ子たちも、皆、自分なりの道を見つけ、巣立っています。当然、その後の人生は、どこの社会でも同じで、運も手伝い、色々ありましょうが。いずれにせよ、かつて、にぎやかだった公団は、当時子育てをした親たちのみが残り、お年寄りの多い地域となっています。

私の住んでいた棟は、2010年頃に、老朽化のために壊されてしまい、今はありません。まだ昔の公団の一部で残っている場所はありますが、こちらもいつかは無くなるのでしょう。母は今、新しくできた、以前より背の高い棟に移動し、家賃はかなりあがったものの、満足げに住んでいます。みな、年を取ってきたものの、昔ながらのコミュニティーに囲まれて。帰国すると、風景は変わっても、のんびりとした基本の雰囲気は同じで、いつも、「ああ、帰って来た。」と、ほっとします。

こうした老朽化と建て替えにより、高度成長期日本の一大社会プロジェクトであった公団団地の数々が完全に地表から消えてしまう前に、公団のはじまりを知っていた人たちがいなくなってしまう前にと、色々と母親に引っ越してきた当時の話を聞いてみました。

俳優だったうちの父と、女優志望だったものの、結婚後は、銀幕の大スターになる夢をあきらめ、主婦となった母は、当時、東京の下宿暮らしをしていました。一軒家の2階の6畳間をかりて住んでおり、廊下を隔てた向かいの部屋には、やはり芸能関係で働いていた叔父夫婦が下宿。一階は、学生さんたちが住んでおり、共同トイレはただひとつ。当然、風呂は無く、銭湯で、まさにフォークソングの「神田川」の世界。「神田川」は、女性の立場から描いている歌ですが、銭湯に行くと、「いつも私が待たされた」との歌詞の通り、待たされたのは、やはり母の方であったそうです。「神田川」でのカップルは、3畳一間に住んでいたことになってるので、うちの両親より、更に大変。かつての漫画家なども、多くは、こんな一部屋だけの下宿生活をしながら、こつこつ描いていたんですよね。今では考えられないような話ですが。夢と希望があったから、やっていけた、というやつでしょうか。もっとも、画狂人と自らを呼んだ北斎なども、一生、ぼろ長屋住まい。ある物事に熱中している人間は、そんな事は、どうでもいいのかもしれません。それが、情熱ってやつでしょう。物ばかりが豊かになり、心が寒くなっている社会には、振り返る価値があることかと思います。

母親の妊娠により、さすがに、子連れで6畳間の下宿では、と新しく建ち始めた公団住宅に応募。とにかく、当時は、首都圏は住宅不足の上、持ち家が無い人が沢山おり、新築のトイレ風呂付の、当時としてはモダンな住まいに入れるとあって、抽選は、かなりの競争率であったそうですが、めでたく、希望の3DKに入居決定。ただし、家賃を払い続けられる証明として、年収の証明書のようなものを提出する必要があったそうです。入居は、兄が生まれて1週間後という非常に良いタイミング。団地のためだけにできた新しい町で、新しい住民たちと、新しい生活。

やはり、新しくできた駅は、団地と反対側には、何もない野原が広がり、近くに狸が出たなどと言います。とにかく、そうして、巨大公団のむこうには、風を遮る建物が、まだほとんどなかったそうで、風の日には埃がすごかったと、母親は言っていました。風の強い日にベランダを開けておき、スリッパなどを置いておくと、その場所の周りは埃だらけ、スリッパを持ち上げると、その下だけが綺麗だったと。実家が東京で、疎開時代に田舎に送られた以外は、ずっと東京で暮らしてきた母は、「これはすごい田舎に来た。」と思ったようです。

それでも、共同トイレと、神田川の世界に比べれば、トイレもお風呂もあるぴかぴか3DK。遊びに来た母親の友達は、「広いな、綺麗だな、いいな」と言って帰っていき。ただ、当時は、まだ電話が引かれておらず、父の仕事の知らせは、所属事務所からの電報で知らされ、それを受けて、近くの公衆電話から確認電話を入れていてたそうです。

家の一番近くにあった公園
商店街、幼稚園、小学校(最盛期には3つありました)、中学校、数ある公園、プール、図書館、その他、生活に必要なものは、団地内とその周辺だけでまかなえるよう、すべてそろっており、小学校を卒業するまでは、本当に、日常は、この小世界の中だけで充分であったのです。放課後は、登下校中、ランドセルを投げ出して、その辺の公園で遊び、広い芝生の中を走り回り、団地のはずれの雑木林や野原で昆虫採集をし。日が暮れるまで、遊んでも、親たちは、さほど心配する事もなかった。芝生のところどころに、大きな木も植えられており、うちの前には、アルプスの少女ハイジのようなもみの木が3本、家の裏のちょっとした丘にも松の木が何本か植えられていました。お金では買えない、恵まれた子供時代であったと思います。設計者は、どうすれば、住民が、毎日を満足して暮らせるか、というのを、良く考えたのでしょう。

ちょっと、文学少女気分になった時は、学校からの帰り道の途中に、大好きな、どんぐり文庫という児童図書館があって、好きな本を、その場で読んだり、借りて帰ったりしていました。どんぐり文庫は、子供の頃の私の視野を広げるのに、とても貢献してくれた場所です。公団の集会所では、習い事のクラスが開かれ、私はお絵かきと習字、幼馴染はそろばんをそこで習いました。ですから、いまだに彼女は、頭の中で計算をするときに、指を宙に浮かせ、見えないそろばんをはじくしぐさをします。ピアノの稽古も、公団内の先生の宅へ通っていました。

そういえば、ジブリ映画に「耳をすませば」というのがありましたが、あの主人公も、団地住まいでしたね。間取りとかはうちとは違い、団地の規模もかなり小さいもののようでしたが、とても上手に、忠実に、団地の内部や外部を描いて、他の何よりも、それに感動しました。お姉ちゃんと、2段ベッドを使っていたところなども、私が、しばらく兄貴と2段ベッドを使っていたのと同じ。原画を描いた人が、かつて住んでたんじゃないかと思うほど、雰囲気が出ていました。主人公が、本を借りる時、使っていた、昔風の図書カードなどもなつかしく。

幼馴染と将来を語った公園(取り壊し直前に取った写真)
中学、高校とおませになってくると、公団に飽き、いつかは、こんな小さいところから出ていくんだ、大きな世界を見るのだ、などと、幼馴染と、星空を見上げ、公園のブランコをこぎながら、将来を語ったものです。私の棟と幼馴染の棟の中間地点にあった公園。その公園も、今はありません。記憶と写真に残るだけのあの空間で夢見たように、それなりに、大きな世界を見て、地球の反対側に住む今、あの頃の公団での日々が、とても愛おしい・・・これぞ、まさしく、ノスタルジア。子供時代の「うち」を思うと、「耳をすませば」のテーマ曲、カントリーロードのように、「帰りたい、帰れない、さよなら、カントリーロード」。故郷は、懐に大切にしまって、一生持ち運んでいくものなのかもしれません。

立派に仕事を終え、消えていく昭和の公団団地に万歳三唱。幸せな日々をありがとう。

コメント

  1. ブランコ画像のすぐ近くに住んでいました。私のいた棟は現在、高級老人ホームになっています。取り壊し前に写真をいっぱい撮りました。今も時々訪れます。

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    1. ブランコ画像は、噴水公園の一角です。夏休みのラジオ体操もこの公園、初めて補助なしで父親に後ろを支えられながら、自転車に乗れたのもこの公園でした。一帯は、今は病院。住んでおられたのは、104棟、103棟あたりと推測します・・・。住みやすい団地でしたね。

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