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エリザベス女王のプラチナ・ジュビリー

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日本訪問中のエリザベス女王とエディンバラ公(1975年5月) コロナのロックダウンの間、お出かけがほとんどできない憂さ晴らしに、スクリーン上で日本旅行をしようと、私は、「男はつらいよ」シリーズの全作を、家で見て楽しみました。「それが、エリザベス女王と何の関係があるんじゃ?」と言わずに、まあ、読んでください。 その中の、シリーズ第15作、1975年8月公開で、浅丘ルリ子のリリーさんが2回目に登場する、「寅次郎相合い傘」の冒頭のシーンを見ている時、日本訪問中のエリザベス女王と夫君エディンバラ公フィリップ王子が、上の写真のごとく、オープンカーで手を振るテレビ画面が映し出されました。それを見ていた、おばちゃんが、(女王は)自分と同じくらいの年なのに、若く見えるという感想をのべ、さらに、ずっと立ちっぱなしで、疲れるだろうに、大変だ。それを聞いていたタコ社長が、でも、ああやって笑っているだけで、おまんま食えるなら、いい、それなら、自分だって、立ちっぱなし位我慢する、と返事。さらには、おいちゃんが、ご主人は養子だってな、とくると、おばちゃんが、おとなしそうで、うちの博さんに似ている、するとタコ社長が、それじゃ、さくらさんは、女王様だ・・・ここで、一同大笑いになる。 エリザベス女王とフィリップ王子が日本を訪問したのは、1975年5月7日から12日にかけてですので、この映画公開直前の事です。フィリップ王子は、「おとなしそう」というおばちゃんの感想とは違い、公の場で、失言や、ひんしゅくを買うようなジョークを飛ばしてしまう事で有名で、一般庶民は、色々笑わせてもらえましたが、周辺の人たちは、「何か変なことを言いやしないか」と、ひやひやものであったかもしれません。(エリザベス女王の日本訪問中の写真は、 こちら で見れます。上の写真も、当サイトより拝借しました。)この2年後の1977年は、女王在位25年を記念する、シルバー・ジュビリーと呼ばれる式典が行われていますので、日本訪問の時には、もうすでにベテラン女王だったのです。笑顔で、立ち続け、手を振り続けるのも、慣れたもので。 「エリザベス女王のダイヤモンド・ジュビリー」と題して、女王在位60周年記念の式典について、ブログポストを書いたのも、もうすでに10年前の2012年! ロンドン・オリンピック の年でしたね。なんだか、つい最近の事の様ですが。

ジェーン・オースティンの家

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ジェーン・オースティンの家の玄関を庭から望む  ハンプシャー州チョートン(Chawton)という村は、前回の記事で書いたギルバート・ホワイトの セルボーン村 から、北西に4マイルほど行ったところにあります。イギリスの女流作家ジェーン・オースティン(Jane Austen 1775-1817)が、人生の最後の8年間を過ごした場所で、彼女が住んだ家は、博物館として保存されています。 ここでジェーン・オースティンの生涯をざくっと書いておくと、 ジェーン・オースティンはハンプシャー州スティーブントンという村で牧師をしていた父の第7子として生まれます。彼女の後にもう一人男児が生まれており、きょうだいの中で、女児は、姉のカッサンドラ(母と同じ名)と彼女だけ。一家は、牧師業の他に、学校経営と農業で生計をおぎなっていたそうです。なにせ、子だくさんですから。 1783年から1786年にかけて、姉のカッサンドラと共に、オックスフォード(後にサウサンプトンへ移動)、その後は、 レディング の寄宿学校で、教育を受けます。 彼女は、スティーブントンでの生活を大変気に入っていたようで、1801年に父が引退し、職を長男に譲ると、バースへ引っ越すこととなるのですが、この時、ジェーンは、愛する地を去らねばならぬショックで卒倒したとか、しなかったとか。 1805年に、父が亡くなると、一時的にバースからサウサンプトンへ引っ越し。 彼女の兄で第3男のエドワードは、子供のいなかった裕福なナイト家という家族の養子となっており、チョートンの館(チョートン・ハウス)と土地を相続していたため、彼は、自分の敷地内にあったコテージに、母と、カッサンドラ、ジェーンを住ませる手はずを整え、1809年から、オースティン家の女性親子3人と、親しい友人マーサ・ロイド(彼女はずっと後、かなり年を取ってから、ジェーンの兄、フランシス・オースティンの後家となります)は、チョートンで、のんびりと田舎暮らしを開始。ここで、ジェーンは、「Sense and Sensibility」(知性と感性、1811年出版)と「Pride and Prejudice」(高慢と偏見、1813年出版)の原稿の手直しをし、「Mansfield Park」(マンスフィールド・パーク)、「Persuasion」( 説得 )、「Emma」(エマ)を執筆します。 ウィ

ギルバート・ホワイトのセルボーン

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 イギリスには、parson - naturalist(聖職者であり自然科学者)と称される類の人が多く存在しました。当ブログで以前紹介した、 ジョン・レイ なども、著名なparson - naturalistの一人です。神が創造したこの世界の物をよりよく理解する事に必需性を感じた・・・というのが大きな理由のようで、田舎の牧師をしながら周囲の自然を観察、研究し、博物学に従事するというパターンが多かったようです。 ハンプシャー州にある小さい村、セルボーン(Selbourne)と言うと、すぐに、そうしたparson - naturalistの代表格である、ギルバート・ホワイト(Gilbert White、 1720-1793)の名が思い浮かびます。ギルバート・ホワイトという人物が、これほどしっかりと、彼が生涯を過ごしたセルボーンと深く結びついているのは、彼の有名な著作「セルボーンの博物誌」(The Natural History of Selbourne)のおかげ。 「セルボーンの博物誌」は、ギルバート・ホワイトが、他の2人の博物学者、トマス・ペナントとデインズ・バリントン宛に書いた手紙をまとめたもので、セルボーン周辺の自然や風土の観察が細かく記載されています。手紙と言っても、挿入されているものの中には、実際は投函されなかったものも含まれているとのことですが。 この本は、1789年に出版されて以来、一度も、出版が停止したことがないそうで、小さな村の自然の記録が、ここまで名著として後まで読み継がれるというのも、不思議な現象です。現在のイギリス自然科学者、博物者などでも、ギルバート・ホワイトを読んで、周辺の自然観察にめざめたなどと言う人は多いようですし。本内では、自分の観察や、経験の他にも、幾度か、ジョン・レイや、 カール・フォン・リンネ などにも言及、引用しています。 「セルボーン博物誌」に記述されている鳥やら小動物、植物の生態の描写などを読みながら、あ、そうそう、と納得するところもあり、本を手に取った時は、途中でつまらなくなるかな、と半信半疑で読み始めたものの、最後まで飽きずに読み切りました。 チャールズ・ダーウィン も、 みみずの研究 などを行っていましたが、ギルバート・ホワイトは、ダーウィンよりずっと以前に、みみずの自然生態に占める大切さに着目しています。または、動植

ウェストベリーのホワイトホース

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 前回のポストで、オックスフォードシャー州の アフィントンのホワイトホース のヒルフィギュア(丘絵)の話をしましたが、今回は、ウィルトシャー州のホワイトホースの丘絵に話題を移します。人呼んでウェストベリーのホワイトホース(Westbury white horse)。 ウィルトシャー州内には、かなり多くの白馬の丘絵が存在しますが、その中では、このウェストベリーのものが一番古く、また、最も景勝の場にあるという事。古いと言っても、アフィントンのものに比べれば、ぐっと新しく、最初に彫られたのは、1600年代後半ではないかと言われています。18世紀以前に、この丘絵に言及した記録は残ってないそうで。 おそらくは、 アルフレッド大王 が878年に、グスルムに率いられたデーン人の軍を破ったエサンドゥーンの戦い(Battle of Ethandun)、を記念するため彫られたのではないかと。この戦いは、または、エディントンの戦い(Battle of Edington)とも呼ばれていますが、戦いがあったとされるのは、この白馬の丘から2,3キロの場所ではなかったかと言われています。なんでも、17世紀には、アルフレッド大王人気が高まり、サクソン人がバイキングに勝利を収めた戦いを、白馬で記念するというのが流行った(?)という説明が、丘絵のそばの情報板に書かれてありました。これは、当時は、アフィントンのホワイトホースが、こうしたデーン人を負かした戦いを記念して、サクソン時代に作られたものだと信じられていたためのようです。アフィントンのホワイトホースは、今では、もっとずっと古い青銅器時代のものだと判明していますが。 ウェストベリーのホワイトホースは、1778年に、再び彫りなおされ、馬より、ラマと言った感じであったオリジナルのものより、この時、もっと馬らしく、現在の姿に近いものに、なったと言います。さらに、それから約100年後に、形が崩れ始めたのを、再び修復して、ほぼ現在の形に。今のホワイトホースは、白いペンキを塗ったコンクリート板をはめ込んで、固められていますが、これは1950年代に、メンテナンスの経費を落とし、手入れをラクにするために行われたそうです。 車内から取ったストーン・ヘンジなので、ちょっとぶれてます。 このホワイトホースの丘は、だだっ広いソールズベリー・プレイン(ソールズベリー高原)の

アフィントンのホワイトホース 

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上空から見たアフィントンのホワイトホース(NTのサイトより)  いわゆるヒルフィギュア(丘絵、Hill Figure)と呼ばれるものは、主に、白亜( チョーク )や石灰岩の丘の斜面に絵を刻み込み、周囲の緑の草を背景に、白い地層をむき出しにしたものを呼びます。でも、時には、チョークや石灰岩層でない場所でも、茶色の土をむき出しにしたりしたものも見られます。また、地層がさほど白く見えない時は、ご丁寧に白い石をばらまいたり、ペンキを塗って白く見せたりと、色々努力をしている所もあるようです。 さて、そんなヒルフィギュアの中でも人気の題材は、白馬、ホワイトホース。そして、数ある、ヒルフィギュアのホワイトホースの中でも、一番古く、一番有名なものが、オックスフォードシャー州にあるアフィントンのホワイトホース(Uffington white horse)でしょう。 ホワイトホースのヒルフィギュアは、馬が左を向いているものがほとんどで、アフィントンのものを含め、右向きのものは4つのみだそうです。まあ、こんなのは、「右向き?だからどうした?」って、感じの情報ではありますが。確かに私も、馬やらの動物を描こうと思うと、自然と顔を左に描いてしまいます。右利きだと、そうした方が描きやすいのかもしれません。となると、「この馬の原画を描いた人物は、左利きか?」とつまらない憶測をしてしまいました。 イギリスの青銅器時代の紀元前1200~800年に彫られたという事で、その形は、他のホワイトホースの丘絵と比べて、抽象的、デザイン的で、「これは、本当に馬なのか、他の動物ではないのか」という論争もあるようです。が、11世紀にはすでに、これを「白馬」としてある記述が残っているという事。 さて、そして、これを何のために作ったかというのも、やはりもめるところ。地元の部族が自分たちの紋章として使い、「ここいらはおいらの土地」だというスタンプのようなものだったとか、宗教的意味を持つとか。なんでもケルト神話・ローマ神話には、エポナ(Epona)という馬の女神がいるのだそうで、彼女を祀ったものであるという話もあり。また、やはりケルト神話の光、火、治癒の神、ひいては太陽神として崇められたベレヌス(Belenus)を祀ったものであるとかも言われています。このべレヌスなる神様は、馬に乗っているところが描写されているとやらで、また

非国教徒たちの眠るバンヒル・フィールズ墓地

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 シティー・オブ・ロンドンから少しだけ北上した場所にあるロンドン、イズリントン地区に、バンヒル・フィールズ(Bunhill Fields)はあります。 今では、オフィスビルなどに囲まれた、こじんまりとしたこの緑地は、国が強いるイングランド国教会のあり方に反対した、プロテスタントの非国教徒達が眠る墓地として知られています。いうなれば、体制への、反抗者たちの墓。もっとも、非国教徒と一括りに言っても、その中でも、宗派も、意見も違う人たちなどもいたでしょうが、それはさておき。過去の著名な人物たちも何人か埋葬されている場所です。 バンヒルという名は、ボーン・ヒル(Bone Hill)が崩れた名前だと言われており、1549年に セント・ポール大聖堂 の納骨堂が撤去された際に、内部の人骨を一挙にここに埋めたため、こんもり丘のようになったという事に由来するようですが、それ以前の古い時代にも、埋葬に使われていたのでは、という説もあるようです。 骨捨て場というより、本当の意味での墓地として使用され始めるのは、 黒死病 がロンドンを襲った1665年の事だそうですが、実際、黒死病で死亡した人々がここに埋葬されたという記録はないようです。また、イングランド国教会が、正式に、この地を聖別(consecrate)しなかったため、非国教徒たちが埋葬されるようになってゆき、イングランドのピューリタンたちの墓地、として知られるようになります。 バンヒル・フィールドは1853年に、これで満員御礼と、以後の埋葬が止められる事となります。実際、後数年、数えるほどの例外はあったようですが。合計12万人以上が、この比較的狭い場所に埋葬されているのだそうですから、それは、確かに、満員御礼。 さて、ここに埋葬されている著名人たちを数名上げると、 ジョン・バニヤン:「天路歴程」作者 ダニエル・デフォー : 「 ロビンソン・クルーソー 」作者 ウィリアム・ブレイク: 画家・詩人 スザンナ・ウェスレー: メソジストと呼ばれるプロテスタントの一派を形成したジョン・ウェスレーの母、今は博物館としても公開されているジョン・ウェスリーの家とチャペルは、墓地から道路を挟んだ向かいにあります。 などなど。 一番目につくのは、やはり、オべリスクのある、ダニエル・デフォーの墓。一文無しで亡くなった彼にしては、立派ではござらんか、という印

ダニエル・デフォーのグレートブリテン島全土旅行記

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 ダニエル・デフォー(Daniel Defoe 1660?-1731)は、一般に ロビンソン・クルーソー の著者として有名ですが、彼の筆によるものは多岐にわたり、数々の政治的パンフレット、経済・実業関係のもの、当時起こった事件のルポルタージュ、そして、クルーソーに代表される小説などなどを精力的に書いています。 デフォーの同時代人であり、「ガリバー旅行記」の著者の、ジョナサン・スウィフトが、創作活動とは別に司祭としての職を持っていたため、食べる事に必死になる必要がなかったのに比べ、デフォーは、とにかく、食べるためにも書かねばならず、さらには、執筆業以外にも様々な事業にかかわりを持ち、破産もしています。残した作品群からもわかるように、色々な物事に鼻を突っ込み、指を突っ込み、生活上の必要性にかてて加えて、あり余る好奇心、活動力も、彼を動かしていたのでしょう。 さて、そんなデフォーによるイギリス全土の旅行記である、 A Tour thro' the Whole Island of Great Britain, divided into circuits or journies 直訳は、「巡回・小旅行に分かれたグレートブリテン島全土の旅」 という3冊に及ぶ著作は、1724年から1727年にかけて出版された、現代で言う、紀行文学の先駆けです。以前のブログポストでも、何回か言及したことのある著作です。ウィキペディア英語版の、 この書に関する記述 によると、18世紀には、この書は、ロビンソン・クルーソーを除けば、デフォーの作品群の中で、最も人気で、経済的にも成功した著作であったということです。が、今では、クルーソー、モル・フランダーズ、 ペスト などの小説に比べ、著名度は下がっています。日本で、翻訳が出版されているかどうかすら、私は知りません。 この書の皮切りである、イースト・アングリア地方をめぐる時、彼は、1722年4月(ちょうど、今から300年前!)に、出発したという事を書いていますが、内容は、彼自身も書いているように、1回の旅行だけで得た情報ではなく、過去の色々な旅行中の見聞内容、または、人から聞いた話なども盛り込まれているようです。ですから、「巡回・小旅行に分かれた」と、副題につけて、ぜーんぶ一気に回ったわけじゃないんだよ、と付け足しています。デフォーは、スパイとし