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7月, 2011の投稿を表示しています

瀕死のバラ・マーケット

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シティーから、 ロンドンブリッジ を渡って、サザーク地区に入り右手、サザーク大聖堂の南側に位置する歴史あるマーケットは、バラ・マーケット(Borough Market)。主に飲食物を売るマーケットで、一般客に対して開くのは、木、金、土曜日と週3回。開いている日は、ごちゃごちゃと狭いこの界隈、観光客でにぎわいます。 大昔は、ごく普通のマーケットだったのでしょうが、最近は、ジェイミー・オリバーなどが贔屓にするなどという話もあり、「お洒落」というイメージが漂っています。お洒落だなんて言うより、ごみごみとした雑踏がしんどく、汚いな、というのが私の偏見に満ちた感想です。 いわゆる食料品のマーケットは、地元素材の物を、比較的安く売る・・・というでないと、意味がないのではないかと、勝手に思っています。なのに、このマーケットの品物、なんだか皆、高いです。ロンドンの富裕層と観光客が買い物するのでしょうか。 数年前に、以前の職場のオフィスのパーティー用に、ポークパイやゲームパイをバラ・マーケットの屋台で買ったのですが、値段的には、地方の町や村の肉屋で売っている、近くの農場で素材を仕入れた自家製パイなどより、値段は高く、味も変わらない気がしました。まあ、マーケットとは言え、ロンドン値段なのでしょう。と言う事で、以来、ここには足を運んでもお財布を開けることは皆無です。 チーズやらオリーブやら、他の国の商品を売っている屋台もありますが、最近はスーパーでも色々な種のチーズもオリーブも手に入るし。ほぼ同じものに高額を払う理由は無いかな、と。 調理した軽食を売る屋台なども出ていますが、私は、食べた事がないので、こちらは何とも言えません。屋台で買ったものを雑踏の中で食べるという経験が、落ち着かず、個人的にあまり好きでないので、特に、積極的に、食べてみようという気にもなりません。 なんだか、つむじ曲がりの意地悪ばあさんのような投稿になっていますが・・・。ロンドンのマーケットがどんなものか、と雰囲気を楽しむには良いのでしょうね。 さて、最近、ロンドンの地方紙、イブニング・スタンダードで、このバラ・マーケットが、マウンテンゴリラの生息地である、コンゴのヴィルンガ国立公園などと並び、絶滅の危機にある、という記事を読みました。年間訪れる人の数は、なんと、450万人。観光客でごった返

マダムと泥棒

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アレック・ギネスと言えば、「アラビアのロレンス」?「スターウォーズ」?「戦場にかける橋」?私にはやっぱり、イーリング・コメディー!特に「マダムと泥棒」(The Ladykillers)の中のアレック・ギネスは、ねちっとした薄気味悪さが、逸品です。 戦後間もない1947年から約10年間、ロンドンのイーリング・スタジオで作製された数々のイギリスのコメディーはイーリング・コメディーとして知られています。イギリスへやってきて、まだ間もない頃、ロンドンのバービカン・センターの映画館で、イーリング・コメディー・シーズンがあり、この期間中、いくつかイーリング・コメディーを見ました。日本のテレビで放映されているのを見た記憶がないので、これが、私には、初めての遭遇で、すっかり気に入ったのです。 特にロンドンが舞台の映画では、当時まだ戦争の傷跡が残り、崩れかかった建物や瓦礫がが沢山ある風景も映り、その時代背景も、ドキュメンタリーとしての価値がある気がします。貧しいながら、ロンドンの通りで、市民が親しげに挨拶を交わす、古き良き時代の面影もあり。 さて、この「マダムと泥棒」のあらすじは・・・ キングスクロス駅のそばの、裏に鉄道が走る家に数羽のオウムと住む老未亡人のウィルバフォース婦人。部屋を貸そうと広告を出したところ、妙な薄笑いを浮かべたマーカス教授(アレック・ギネス)なる人物が現れて、彼女の間借り人となる。実は、彼は、キングスクロス駅での強盗を企む泥棒。古くて少々傾いた感じの家を見て回りながら、彼が言うに、 Such, um, pretty windows. I always think the windows are the eyes of a house, and didn't someone say the eyes are the windows of the soul? (なんて綺麗な窓だ。私は常々、窓は、家の目だと思っていたのですよ。そして、誰かが言いませんでしたかな、目は心の窓だと?) この、教授の台詞回しが、ねっとりとして、なんとも言えず愉快です。 こうして教授が間借りした部屋に、他の4人の泥棒仲間、コートニー少佐(メージャー)、ハリー、ワン・ラウンド、ルイが、部屋に集まって計画を練るのですが、老婦人には、アマチュアの音楽仲間

ガーデナーズ・デライト

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例年、初夏に、10センチくらいの大きさの苗を買って育てていたトマト。今年は、種から育てました。というのも、園芸雑誌2月号に、一口サイズのチェリートマト 「ガーデナーズ・デライト」 (Gardener's Delight、直訳は「庭師の喜び」)の種がおまけでついてきたからです。 種は、みごと、全て発芽し、20センチくらいの大きさになった時に、いくつか他人にあげましたが、それでも、我家では、温室内7本、戸外に2本あり、順調に育っています。温室内のもの(上の写真)はすでに高さは私の背よりも高く、温室の屋根に届いています。 下から順にトマトが大きくなっており、私一人で、毎日食べるのに、調度いい量で、熟していってくれています。毎朝、温室のドアを開け、赤くなったものを、もぎっと取るのが楽しみの日課でもあり。 ***** ガーデナーズ・デライト等の、トマトの種からの育て方をざっと書くと・・・ 種は、ポットに、約2センチ間隔で撒き、温室内、または窓際で発芽させる。発芽し真の葉が生えてきた段階で、大き目(9センチ)のポットに個別で植え替えます。(発芽して最初に出る丸みをおびた2枚の葉は、真の葉ではないので、要するに、植え替えは、葉が4枚になった段階で。) 丈夫に大きな苗になったら、更に大きいポットに移すか、長方形プラスチックの袋内に、野菜が育つのに必要な栄養と土がすでに入っているグローバッグ(growbag)を購入し、これに円形の穴を開け直接植えます。私は、温室内のものは、すべて、グローバッグを使用しました。ひとつのグローバッグに、2本か3本、植えてあります。戸外のものは、大型ポットを使用。いずれにしても、かなり背が高くなるので、竿等での支えは必要です。 メインの茎が一本のみ、太く真っ直ぐに成長するよう、葉と茎の間に、絶え間なく生えてくるサイドシューツ(わきから生えてくる小さな茎)を、小さいうちに、指で横に倒して摘み取るのがコツ。サイドシューツを放っておくと、果実に行くべきエネルギーがそちらに取られてしまうのだそうです。ガーデナーズ・デライトの苗をあげた人の一人のトマトを、先日見に行ったら、「サイドシューツを摘んでね」、とアドバイスしたのにもかかわらず、いくつか見逃したようで、脇から生えてきた茎も巨大に成長し、なんだか全体的に丸い茂みのようになって

白血病再発と人生洗濯

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子供の頃、両親の東京の家が戦争で焼けた経験を持つうちの母親は、必要でない物、余計な物は、後生大切にしまい込んで取っておかずに、ぱっぱと整理する主義。実用的でない飾り物や置物の類を、贈り物やお土産でもらうのも嫌いで、その手の物をもらってしまうと、「どうせくれるなら、石鹸とかタオルとか、実際に使えるものか、蕎麦とか缶詰とか保存が利く食べ物をくれればいいのに。こんな物もらっても何の役にもたたないわ。」と勝手な事を言っています。また、住まいが持ち家でなく借家の団地なのも、尚更その傾向に拍車をかける様子。 私が、イギリスに来たとき、ずっと取っておきたいと思っていた子供時代好きだった本も、気がつくと母の家から消えてなくなっていて、「埃がたまるだけだから、人にあげたわよ。」だそうです。さすがに、私の子供時代のアルバムなどは取ってあったので、万が一、彼女の気が変わって、捨てられてしまう前に、とイギリスへ持ってきました。 相反してうちのだんな。物がとにかく捨てられないタイプ、そして、物に対して非常におセンチになるタイプです。 彼の両親が亡くなった後、それは沢山の写真、手紙、本、置物、記念品、ひいては自分の子供時代のおもちゃや本、云々を、すべて実家からダンボール何10箱にもつめて持ち帰り、今は、そのまま、うちのロフトに眠るのみ。受け継いだ家具の数々は、有り難く、我家で使っていますが。また、この他にも、購読していて読みきれていない新聞や、以前の仕事関係の書類の山を「いつか読む日のため」とってあり、これもロフトで幅を利かせています。「そのうち、目を通し整理整頓する」と私に約束しながら、1年、2年と月日は流れ、数年経った今、私は、この「そのうち」はやってこないと思っていました。かてて加えて、車庫にも、一体、何に使うのか良くわからないガラクタが積み上がっており。 だんなが、 白血病 にかかったのは去年の夏の終わり。3回の化学療法(キモセラピー)を終え、完全寛解(レミッション)を達成し、最終的に退院したのは、去年の12月の事でした。 悪い経験に対する人間の記憶力などは非常に弱いもので、もう早、そんな事があったのも忘れかけていました。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」とは、言ったものです。月に一回の定期的血液検査も、重病のための検査と言うより、歯医者の定期健診の感覚。しばらくの間は、再び、健康優良児のよ

海を眺める老夫婦

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前回の投稿の ボディアム城 を訪れた日の夕方、イーストサセックスの海岸線で一番の砂のビーチと言われるカンバーサンズ(Camber Sands)へ足を伸ばしました。約11.3キロ続く砂の海岸線は、夏休みが始まると、それは大繁盛になってしまうでしょうから。 しばらく、小石がごろごろの海岸ばかりに行っており、砂浜というのは実に久しぶりで、だんなと2人で、靴を脱いで、手からぶらさげ、海水を蹴りながら歩きました。水はまだ、全身つかるには、ちょっと冷たいです。ほんのわずか、泳いでいる人はいましたが。 内陸は、ちょっとした砂丘のようになっていて、海を一面に見渡せるよう、登ってみました。砂丘登りは、短距離でも、体力が要って、「よっこらしょ」ですが、さらさらの砂がとても暖かく、気持ちいい。 砂丘をよちよち行進している時、最近アンドレ・アガシの自伝を読んだだんなは、「アガシは体力作りにこういうところを走ったようだ。」などと言っていました。私は歩くだけで十分です。 遊んでいるうちに、引き潮になってきました。足を海水に浸して立っていると、足の下からどんどん、砂が消えて海へ引き込まれていく。不思議な感覚です。今まで海水下だった部分も顔を出し。その、引いて行く潮の速さは、かなりのものです。 さらさら砂のビーチを北へずっと歩くと、石ころがごろごろと多くなり、人もまばらになってきます。そんなビーチの静かな一角に、デッキチェアを並べて海を眺めて座っている老夫婦2人が目に入り、何気なく、彼らの後ろに回って、パチリと写真をとりました。自分達も、老年、こうして、まだ仲良く時間を共にしていられるといいな、とその時思ったのです。 この小旅行の直後、七夕様の日に、うちのだんなの白血病の再発が、血液検査でわかりました。再び入院です。再発後の闘病生活は、1回目よりも長くなりそうなので、2人で呑気に、こうして小旅行できるのは、再びあっても、随分先の話となりそうです。とりあえずは、近場でも、思い出になる旅行を少しでもできて良かったな・・・といった心境です。 白血病が再発してしまった今、また、この写真を眺めると、こういう老後を送るには、そこに辿り着くまで「ずっと仲良くいられる幸運」と、「ずっと健康でいられる幸運」のダブル・ラックが必要なのだと、しみじみ感じます。「有り難い」・・・という言葉は、

海岸で作る砂のお城はボディアム城

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イーストサセックス州のボディアム城(Bodiam Castle)。 こちらの観光ガイドには、(イギリスの)子供に、「お城を描いてごらん」と言うと、その結果は、ボディアム城の様な形の城の絵になる・・・と書かれていました。また、海岸の砂遊びでお城を作るときにも、ボディアム城風の形のものを作る人が多い。要は、ボディアム城は、イギリス人が頭に浮かべる「お城」というイメージそのもののようです。 上から見ると正方形で、それぞれの角に丸い塔が建ち、それぞれの辺の真ん中に四角い塔が建ってる。周りは掘りで囲まれ、そのたたずまいもなかなか。 建設は1385年頃。フランスとの100年戦争の真っ只中。この城を建てたのは、周辺の土地持ちの娘と結婚したエドワード・ダリングリッグ(Edward Dalyngrigge)。彼が、傭兵としてフランスで戦い、フランスの村で接収などを行いせしめた金や戦利金が、城建設の資金となったそうです。 城は、フランスの侵略に対する防御と共に、富を示す居心地の良い屋敷の目的を兼ねていたようですが、城壁内部は、17世紀半ばのイギリス内戦(清教徒革命)の際に、オリバー・クロムウェルの議会派軍により一部破壊され、今は、ほとんど屋敷部分の形跡は残っていません。現在はナショナル・トラストにより管理運営されています。 ナショナル・トラストのサイト内のボディアム城に関するページは こちら 。 階段をくるくる登って、塔の上に出、あたりの景色を見渡せます。 前述した通り、いかにもお城らしいお城ですので、子供には常時人気だという事で、私たちが訪れた日も、幾つかの学校の遠足にぶつかり、子供達が、走り回っていました。 掘りの中には、アヒルより大きい鯉が沢山泳いでいました。私だったら、背中にまたがって乗せてもらえそうな大きさ。 敷地内にはまた、第2次世界大戦なごりのピルボックスが。ピルボックスとは、こうして角ばった形をした防御陣地(トーチカ)。海岸線に近い土地には、いまだに、あちこち残っています。こんな中にたてこもって、万が一ドイツ軍が上陸した場合に備える・・・閉所恐怖症には冷や汗出る任務でしょう。 ***** さて、城から歩いてすぐの所に、また別の観光アトラクションがあります。 ケント・アンド・イーストサセックス鉄道(Kent & Ea

小公子

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「リトル・ロード・フォントルロイ」(Little Lord Fauntleroy)は、日本では「小公子」として知られている、 「秘密の花園」 の作家、フランシス・ホジソン・バーネット(バーネット夫人)による児童小説です。 あらすじをざっと書くと・・・ 主人公のセドリック・エロルは、ニューヨークで、美しくやさしいアメリカ人の母と、イギリスの古い家系であるドリンコート伯爵の3男の間に、生まれる。身勝手で癇癪持ちの伯爵は、アメリカへ渡ったこの美男で心やさしい3男坊が、自分が嫌悪するアメリカ人と結婚した事に腹を立て、息子を勘当。こうして、セドリックの父は、ニューヨークで仕事を初め、ささやかな借家で、家族3人、裕福ではないものの、幸せな生活。けれども、父は、セドリックが幼い頃に若死にしてしまう。父が死んで以来、悲しそうな母を、セドリックは父が呼んでいたように「ディアレスト」(Dearest、最愛の人、お前)と呼び、母の唯一の心の慰めとなる。物語が始まる時、セドリックは7歳。 セドリックの一番の仲良し友達は、借家のある通りで雑貨店を営むホッブス氏。毎日の様に、雑貨屋を訪れては、ホッブスと、アメリカの政治や世間話。周りの大人との交流が多かったため、色々な大人びた会話や言葉使いを覚えて、それを大真面目な顔で語るセドリックが、大人たちには、愛らしく面白くうつる。また、両親の美貌をしっかり受け継ぎ、金色の巻き毛の美少年で、物怖じせず、心やさしく、社交的。物語の主人公が、人間の良い部分を全て持ち合わせているのは良くある話ですが、セドリックも、そうした理想の少年。セドリックのもうひとりの友人は、靴磨きの青年ディック。 そうこうするうち、イギリスでは、広大な邸宅と財産を有するドリンコート伯爵のろくでなし長男と次男が相次いで死んでしまい、世継ぎが消えてしまったため、ドリンコート家の弁護士、ハビシャム氏は、後継ぎとなったセドリックをイギリスへ連れ戻すため、ニューヨークへやって来る。セドリックは、ロード・フォントルロイの称号を与えられる。ニューヨークを出る前に、セドリックは祖父から与えられた金を、知り合いの貧しい者たちに与え、更にディックが靴磨きとして自立できる援助をし、ホッブスには、記念に金の懐中時計を渡し、母と共に大西洋を渡る。 いまだにセドリックの母を、金目当ての下卑たアメリカ女だとの偏見を