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7月, 2012の投稿を表示しています

ツール・ド・フランスの優勝は、え?イギリス人?

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1903年より始まり、今年で99回目となるツール・ド・フランス。時に周辺諸国もちょろちょろ走りながらも、フランスをぐるりと巡る自転車レース。6月30日にベルギーのリエージュを出発し、先週日曜日の7月22日に、パリにて閉幕。全ルート3496.9キロ。聞くだけで疲れます。 ウィンブルドンで、再び、「アンディ・マリー優勝か否か」の大騒ぎの挙句、ぼしゃってしまった後、イギリスのチーム・スカイで出場し、オリンピックの金メダリストでもあるブラドリー・ウィギンスが、ツール・ド・フランスで、いい線行く可能性あり、の当初のニュースも、「また、ただの空騒ぎ」と思っていたのが・・・。日が経つにつれ、これは、本当にいい線行きそうだ、そして、イエロー・ジャージー(マイヨ・ジョーヌ)を着け始め、段々と、優勝の期待が大きくなると共に、ニュースでの報道も増えて行き。ついに、先週の日曜日、本当に優勝。ツール・ド・フランスでの、イギリス人優勝は、初めてだそうです。しかも、2位も、同じチーム・スカイのイギリス人、クリス・フルーム。 ブラドリー・ウィギンスは、ひょろりと背が高く、もみあげを生やしているので、ルパン3世風いでたちです。彼、去年のツールでは、途中で、衝突し鎖骨を折るというハプニングに合い、途中でやめざるを得なくなったのでした。屈辱の・・・という優勝ですわな。 とにかく行程が長いので、毎日、最初から最後まで見ませんでしたが、時々、ちらりと見た限り、今回、一番印象に残ったシーンは、上のロバたち。レースコースの道端で、それぞれ、マイヨ・ジョーヌ(イエロー・ジャージ)、マイヨ・ヴェール(グリーン・ジャージ)、マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュ(ポルカ・ドット・ジャージ)を身につけて、ぼーっと立っていたこの3匹の様子には、スマイルでした。ロバたちの写真は、Cycling UKというサイトより借用しました。 お馴染み黄色のジャージ、マイヨ・ジョーヌは、個人総合時間賞。全行程での総合時間が一番早かった人物が着用するもの。 緑のジャージ、マイヨ・ヴェールは、ポイント賞。私は、さほど詳しくはないのですが、色々な事項でポイントを獲得する事ができるのだそうですが、そのポイントが一番高かった人物が着用。 白地に赤の水玉模様の、マイヨ・ブラン・ア・ポワ・ルージュは、山岳賞

イギリスについに夏が来た

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体中にカビでも生えてきそうな雨続きの夏でしたので、今週、いきなり好天気が連続し、30度にも近づこうという気温ともなると、ここぞとばかりに人々は外へ飛び出すのです。太陽が出ると、わーっと外に出るのは、虫も人間も同じ。「オリンピックを前に、ついに夏が来た」とメディアも騒ぎたてるのです。 各地の海岸線は日光浴の人で埋まり、ロンドンの巷でも、特にお昼時は、観光客もさることながら、オフィスワーカーがお昼ごはんとドリンクを抱えて、戸外でランチタイム。五輪が飾られたタワーブリッジ付近のテムズ川の脇も、いつもにもました人ごみ。 ロンドン塔を背景に、吹き上がる噴水の中、きゃっきゃと歓声をあげて、子供達が、はしゃいでいる姿に、私も、ああ、本当に夏が来た、と実感した次第。 この、目玉親父をやや形を変えて、色をぬった様なのが、今回のオリンピックのマスコット、ウェンロック(Wenlock)なのですが、可愛くないマスコット・コンテストをやったらいい線行きそう。ウェンロックのぬいぐるみやおもちゃなども売ってるんですが、買う人いるんでしょうか。何でも、ウェンロックの頭に3つぼこぼこがあるのは、其々の競技で金銀銅と3つのメダルが与えられるからで、更に、真ん中の突起は、ロンドン・タクシーの屋根に乗っているライトからの発想だそうです。腕にはめているのは、五輪の色のフレンドシップバンド、目玉は、オリンピック中の行事を全て記録しよう、と、カメラレンズがインスピレーション・・・むむむ、ちょっと、ひねりすぎでは。 ウェンロックも、またパラオリンピックのマスコットであるマンデヴィル(Mandeville)も、私には、何を言われても、どう説明されても、目玉親父か、ウルトラセブンあたりに出てくる、弱そうな宇宙人のイメージ。 それでも、子供達は、盛んに、変形目玉親父と一緒に写真をとってましたので、魅力が無いわけではないのか。 さて、ロンドンも気温30度にもなると、エアコンのない地下鉄は息苦しく、狭く混んだ車内で、近くに少々体臭のきつい人などがいた日には、ちょと惨めな体験となります。電車が信号などの関係で、トンネル内で止まったりすると、「この暑苦しい中、しばらく動かなかったらどうしよう」という、いやーな設定が頭に浮かんだりもし。こういう天気の時は、急ぎでなければ、地下でなく、地

ヨーク城とホロコースト

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前回の記事 で書いた、ヨークのキャスル博物館のすぐそばに、ぽこんとそびえる小さなお山。その上に建つのは、ヨーク城。愛称のクリフォーズ・タワーで呼ばれることが多いです。(何故にクリフォーズ・タワーと呼ばれるかは、諸説があり、定かではないとの事。) 城と言っても、これは砦だけですし、ウィリアム1世がこの周辺に建てた、オリジナルのノルマン朝の城は、残っていません。クリフォーズ・タワー自体も、以前ここにあった11世紀の木製の砦が、1190年に焼失しているため、13世紀半ばに建て直されたものです。 緑の小山の斜面の階段を登り、内部に入場できますが、内部は、からっぽ・・・の印象。ただし、塀の上を歩けるので、周辺のヨークの景色が楽しめます。 さて、ここにあったオリジナルの砦は1190年に焼失した・・・と書きましたが、この火災の背景には、ユダヤ人に対する虐待があります。ヨークのくらーい汚点のひとつ。 ヘンリー2世の時代、ユダヤ人は、イングランドの各都市に定住し、金貸し業を営むよう奨励されていましたが、キリスト教の一般市民にとっては、ユダヤ人は、あまり面白くない存在。 1189年9月、ヘンリー2世の息子、獅子心王、リチャード1世が戴冠します。ウェストミンスター寺院でのリチャードの戴冠式は、あくまでキリスト教の式典であるとして、ユダヤ人の参列が禁じられましたが、ユダヤ人コミュニティーのリーダー格の人物が2人、新王に忠誠を誓うため、贈り物を持って、これに参列しようとします。ああ、これが大失敗。この2人は、すぐに寺院から追い出されます。そして、この事件をきっかけに、ロンドン内では、十字軍の遠征にも赴く、キリスト教界のスーパースター、リチャード獅子心王が、ユダヤ人の虐殺、虐待を奨励した・・・との噂が流れるのです。 この噂に扇動された暴徒達は、ここぞとばかり、ロンドン中の通りで、ユダヤ人を狩り、暴力を振るい、殺し、彼らの家を焼き・・・の乱痴気騒ぎに出ます。ユダヤ人に対する暴力は、そのうち、地方都市にも飛び火。最悪のケースが、ヨーク城で展開されることとなるのです。 1190年の3月、不穏な空気を心配し、ヨークのユダヤ人社会の安否を気遣った、ユダヤ・コミュニティーの長は、ヨーク城の看守から、砦内に、ユダヤ人たちを避難させる許可を取ります。こうして、砦内にしばらく

ヨークのキャッスル・ミュージアム

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ヨークのキャスル・ミュージアムは、歴史あるイングランド北部の町ヨークに旅行に出た際の、お奨め博物館のひとつです。知り合いが、ここで監視員の仕事をしていたのもあって、私も、何回か足を運びました。 この博物館の名は、11世紀に征服王ウィリアムがこの辺りに城を建てたことに由来します。18世紀には、同地に刑務所が建てられ、現在、この建物は、過去の幅広い時代からの、様々な古物、アンティークを展示する博物館となっています。 キャスル・ミュージアムの創始者は、ヨークシャー州出身で、医師であったジョン・カーク氏。彼の趣味のひとつは、古物の収集。物の大量生産により、失われていく古い物を、救出し、集めようと、用途は問わず、古いものは、何から何まで収集。時に、患者から、治療費代わりに、こうした古物を受け取る、という事もしていたようです。やがて山と溜まったコレクションを展示するために、1930年代前半に、この、昔の刑務所の建物を利用して、博物館が開かれる事となります。 その後、キャスル博物館のコレクションは、こうしたカーク氏の収集物を元に、一般からの物の寄付も受け、増えていきます。昔の室内や、店などを再現した展示も多く、時間旅行も楽しめるのです。  上は、イギリスで初めて再現されたという、キャスル・ミュージアム館内の、ヴィクトリア朝の通り。通りの名は、カーク氏の名を取って、カークゲイト(Kirkgate)。道を行く馬車は、ハンサム・キャブ(Hansom Cab)この馬車を考案した建築家ジョーゼフ・ハンサム氏(Joseph Aloysius Hansom)は、ヨーク出身だったということです。ハンサム・キャブは、霧の都ロンドンにて、シャーロック・ホームズも頻繁に使用していたので、日本でもお馴染みでしょうか。 こちらは、消防署ですね。バケツがさがってる・・・。こんなんじゃ、あまり効き目なかったでしょうね。 車屋もあれば、 金物屋もあり。 ヴィクトリア時代のヨークは、鉄道、そして、チョコレートの町としても栄えましたが、上は、ジョーゼフ・テリーによって創設されたお菓子とチョコレートの老舗、テリーズの店先の再現。 テリーズは、米のクラフト・フーズに買われて、製造も、海外へ移り、長い間、チョコレートを作り続けていたヨー

私はピアノ

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ロンドン内のあちらこちらに、ボディーにお洒落なペイントがしてあるピアノが、しばらくの間、何台か置かれていました。其々のピアノの正面には、「Play Me, I'm yours.」(ひいてね、私はあなたのものよ。)と書かれてあり、通りがかった人たちが、ポロポロとひいて遊べる趣向です。「私はピアノ」という昔の歌謡曲の題名が、ふと頭を過ぎりました。「ため息がでちゃうよな恋」が破れた後の、失恋の歌でしたっけ。 何でも、この「プレー・ミー・アイム・ユアーズ」ストリートピアノのインストレーションは、ルーク・ジェラムなるアーティストの考案によるものだそうで、過去、ロンドン以外にもバーミンガム、ニュー・ヨークやシドニー、バルセロナ、その他もろもろの都市に設置された事があるのだそうです。今回は、6月から7月にかけての3週間、ロンドンのあちらこちらに50台置かれてあったものです。日本の大都市にも、いつの日かお目見えするでしょうか。 雨が降った時のために、一応、ビニールのカバーが付いていたのですが、まるで梅雨のようだった今年のイギリスの6,7月の天気の中、ピアノちゃんも、かなり傷んでしまったかもしれません。 それにしても、こういう時に、ピアノひけるとよかったな、と思うのです。何気ない顔して、さっと腰掛けて、びっくりするような難しい曲をかっこよく奏で、道行く人を振り向かせる事ができる!コインも投げてもらえるかもしれない! ピアノは、小学校2年生くらいから数年習ったのに、いやはや、全くモノになりませんでした。未だに、母親が内緒で注文したピアノが、我家に配達された日の事も、よく覚えているというのに。調度、学校から戻ってきたら、団地の我家の棟に、ピアノが運ばれていくところだったのです。どこの家のかな・・・とのんびり後をつけて階段を登っていくと、なんと我家に入っていったのでした。その後、近くのピアノの先生の家に送り込まれ、バイエルの練習曲などは、人並みにやったものの、楽しいと思えず、練習もあまりせず、今や、「猫踏んじゃった」でさえ、そらでひけない始末。一緒に、習っていた兄も、やはり音楽の才はあまりなかったものの、彼は、「エリーゼのために」だけは、何故か今でもひけるのです。 楽譜も、ほとんど、まともに読めなかったので、半分くらいは、先生の指の動きを見ながら曲を覚えたも

チャーチルが愛したチャートウェル

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ケント州にあるチャートウェル(Chartwell)は、ウィンストン・チャーチルが家族と共に、1922年から、亡くなる1965年まで住み、こよなく愛した邸宅です。現在はナショナル・トラストの管理で一般公開されています。 先月、このチャートウェルを訪れたのですが、記憶に残る限り、かつて訪ねてナショナル・トラストの館の中で、一番、混んでいた気がします。入り口で、ナショナル・トラストのメンバーカードを見せた際に、入館するのは、館内の人数制限のため、時間制になっているとの事で、指定された時間に館の入り口に行くように言われました。それまで、きれいな庭をゆっくり歩いて回り。戦後もかなり経とうというのに、未だに根強いチャーチル人気です。ロンドンから比較的近いというのも混んでいる理由かもしれません。館内ではフランス語も耳にしました。 田舎に家を買いたいと、初めて、この館を見に来たチャーチルは、家もさることながら、館からの風景に一目ぼれ。奥さんのクレメンティーン・チャーチルは、改造が必要な館を購入するのは、経済的にちょっと大変、と難色を示していたのを、チャーチルは、奥さんに内緒で、館と一帯の土地を、1922年に5000ポンドにて購入。事後になってから、「買っちゃったー!」と奥さんに白状したそうです。一大夫婦喧嘩となったかもしれません。購入後、古い館も、庭園も、大幅に改造が行われ、実際にチャーチル一家が引っ越すのは、1924年になってから。 奥さんの心配通り、大戦後の1946年には、チャーチル一家は、チャートウェルを維持管理し続けるのは、経済的に無理な状況に陥ります。この際、国家のヒーロー、チャーチルが、愛するカントリー・ハウスにずっと住み続ける事ができるよう、富裕な友達が何人か集まり資金を出し合って、この家をチャーチルから買い取る、という事をしています。それによって、チャーチル一家が、いくらかの家賃を払う事で、この家に住み続ける事ができるようにし、チャーチル夫婦亡き後には、ナショナル・トラストに寄付し、国民のために保存しようという取り計らい。奥さんは、ウィンストン亡き後すぐに、自分の死を待たずに、チャートウェルをナショナル・トラストに寄与。その翌年から一般公開されることとなったわけです。 チャーチルは、マールバラ家の血筋の貴族の出で、生まれたのは、

ロンドン五輪聖火リレー

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ロンドン・オリンピックの聖火リレーが近郊の村を走りぬけるというので、先日、雨の中、のこのこ出かけて行きました。 私達が到着した頃には、すでに道の両側にに人が集まっており、空いている場所を探して、陣取り、待つ事は約30分。その間に、英国のユニオン・ジャックやら、膨らませるビニール製の聖火トーチのおもちゃなどを売り歩くおじさんが通りかかり、思わず、買ってしまいました・・・この聖火トーチ。2ポンド。これが、5ポンドだったら、「こんな、くだらんものに5ポンドも取るとはけしからん!」と、きっと買わなかったでしょうが、「まあ、そのくらいなら。」と思わせる2ポンドという微妙な値段が決め手です。ロンドン五輪開催中は、窓にでも飾っておきましょう。 大急ぎでビニール・トーチを膨らませ、手に持って振りながら、沿道で待っていると、ロンドン・オリンピックのスポンサーのワゴン車やらバスやらが幾台か行き過ぎ、オートバイに乗った警察官が行き過ぎ。ようやく、わーっと歓声が聞こえてきて、雨の中、走者が現れました。 そして、あーっという間に消えていったのです。 この聖火リレー、5月19日に、コーンウォール州のランズエンドを出発し、英国内、8000マイルを、8000人のランナーを使って、70日間で回る・・・ということなのですが、ルートを全て隈なく、走者が聖火を掲げて走るのかと思っていたら、そうではないのです。かなりの部分を、おそらく車で移動させて、所々をこうして走るだけ。これを、リレーと呼ぶには、ちょっと偽っぽいな・・・と思うのですが、ルートをすべて、足で走るとなると、距離を大幅に短くしないと、時間なくなるので、仕方ないのでしょう。 聖火リレー最終日の70日目は、7月27日のオリンピックの開会日。トーチは朝、ハンプトン・コート宮殿で、同宮殿の有名なメーズ(迷路園)などを巡り、その後テムズ川を下って、午後には、タワー・ブリッジに到着。そして、夜には、東ロンドンのストラトフォードにあるオリンピック・スタジアムにお目見えする事となります。 オリンピックの開会式の芸術監督は、「スラムドッグ・ミリオネア」の映画監督ダニー・ボイルですが、なんでもオリンピック・スタジアムをイギリスの田舎風景に変えて、賛美歌「エルサレム」に歌われるイギリスの「green and pleasant la

イングリッシュとブリティッシュ

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イギリスの正式国名は、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)。Great Britain(グレート・ブリテン) の定義は、私の辞書によると、England, Scotland and Wales(イングランド、スコットランド及びウェールズ)とあります。要は、イギリスとは、イングランド、スコットランド、ウェールズそして北アイルランドという4つの地域を含んだ王国。 前回の記事 で、イングリッシュ(English)という言葉を形容詞、または人を指して使用する場合、正確には、「イギリスの・イギリス人の」というより「イングランドの・イングランド人の」の意がある・・・と書きました。 私が、イギリスに来て、まだももない頃、とあるパーティーで、隣に立っていた男性と話を初めました。会話の成り行きで、私が、「あなたたちイングリッシュ・ピープルは・・・」という言い回しを使ったところ、彼は、私をまじまじ見て、「僕はイングリッシュじゃないよ。」そして、胸をはって、「僕はウェルッシュ(Welsh ウェールズ人)だ。」とのたまったのです。この時の、会話の内容はほとんど覚えていないものの、このやり取りは今でもはっきり記憶しています。 外人は、時に、「イングランド」という言葉で、イギリス全土を指したり、「イングリッシュ」という言葉を、イギリス全般を形容する言葉として使ってしまったりする傾向がありますが、スコットランド人やウェールズ人は、自分達は、イングリッシュではなく、スコティッシュ、または、ウェルッシュと、其々のアイデンティティーを持っているわけで、イギリス・英国=イングランドではないのです。よって、彼らは、イングリッシュと呼ばれると、「それは違うぞ」となるのです。 総括的に「イギリスの、イギリス人の」と言うには、ブリティッシュ(British)を使うのが妥当でしょう。ブリティッシュと言えば、上記4地域の人間も、また白人以外のイギリス国籍を持った移民も一括して呼ぶことができますので。また、国としてのイギリスを指すときには、ブリテン(Britain)が、そして、時にUKが、この国では最も一般的に使われている感じがします。ちなみに私のブログ名「Mini Post fro

イングリッシュ・ローズ

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あちらこちらで、バラが咲いています。 うちの前庭にも、赤、黄、オレンジのものが計6本。私は特別な薔薇マニアではなく、うちにあるバラは、全て、以前のこの家の主が植えたもので、其々の種の名前も知りません。ただ、咲き始めると、やはり、バラもいいな、と思うのです。咲き終わった花は、こまめに枝を切っていくと、かなりの長期間咲いてくれ、温暖な冬などは、12月辺りまで咲いていたことがあるのを覚えています。 裏庭のグリーンハウスの後ろの、誰の目にも留まらぬところにも、ピンクのバラが毎年咲きます。このバラは、うっすらと良い香りがするタイプ。香水の専門家が、どんなにがんばったところで、本物の花の香りを忠実に人工的に再現する事は不可能だという話を聞いた事があります。そのデリケートな香りも好きだし、そのままにしておいても、誰も見れないからと、こちらは、しょっちゅう切花にして室内に飾ります。 記録的な雨量となった6月に続いて、雨模様の不安定な天気は続いています。 「Raindrops on roses」(薔薇の上の雨のしずく)は、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」で、マリアが歌った「My Favourite Things」(私のお気に入り)の中で、彼女の好きな物のひとつにあげられていました。庭に出て、そんな雨のしずくに頭を重くもたげているバラを切りに行ったところ、花びらの間に座っていた、小さな、バラの住民に遭遇しました。 この白い蜘蛛は、俗名Crab Spider (直訳:カニ蜘蛛、ラテン名:Misumena vatia、日本語ではヒメハナグモ)。蜘蛛は、全てが全て、蜘蛛の巣を作って獲物を引っ掛けるわけではありません。このヒメハナグモは、こうして花の間にひそんで、昆虫が近寄ってくるのを待ち、襲い掛かるようです。そのために、色は、比較的花の色に近い白色で、黄色い花に潜むときは、カメレオンのごとく、色が黄色くかわるのだそうですが、私は、こういった白のものしか目撃した事はありません。そんな凶暴な肉食でありながら、見かけは、もちもちとした和菓子の様な昆虫です。 さて、話を蜘蛛から薔薇へ戻しましょう。 薔薇は、イングランドにはゆかりの深い花です。赤薔薇をかかげるランカスター家と白薔薇が紋章のヨーク家が闘ったばら戦争。ばら戦争は、シェークスピアにドラマの