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最後の停泊地に曳かれて行く戦艦テメレール号 (The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth)

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ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵の、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー(J.M.W.Turner)筆、「最後の停泊地へ曳かれて行く戦艦テメレール号」(The Fighting Temeraire tugged to her Last Berth、1838年)は、おそらく、ターナーの作品の中で、最も有名な絵。また、かつて、イギリスの国民の一番好きな絵にも選ばれた事があるものです。 テメレールは、フランス語で、「大胆不敵な」「恐れを知らぬ」の意味。オリジナルの「テメレール号」は、1759年にイギリス海軍がラゴスの海戦で獲得した、フランスの戦艦であったそうです。何でも、当時のイギリス海軍では、獲得した敵船の名を、新しく進水する自国の船に付ける、という習慣があったのだそうで、1798年に進水された、98の大砲を持つ戦艦が「テメレール号」と名づけられるのです。頂いた敵船の名をつける事で、「見ろ、お前らは、以前の戦いで、うちらに負けたんだぞ。お前らの持っていた昔の船と同じ名の、わしらの船のなんと立派な事!」と敵をイラつかせるのが目的だったとか。 イギリスのテメレール号の、戦艦としてのキャリアの中での、最も輝ける瞬間が、1805年10月21日のトラファルガーの海戦。ネルソン提督の船ヴィクトリー号が、フランス船からの猛攻撃を受けた際に、果敢にヴィクトリー号を助けたのみでなく、敵船2隻を獲得。確かに、フランスにとっては、この新しいテメレール号の活躍は、かなり自尊心を傷つけられるものであったでしょう。 ターナーの「曳かれて行く戦艦テメレール」の絵は、引退して木材用のオークションにかけられ販売された後のテメレール号が、解体されるべく、夕日を浴びて曳かれて行く姿を描いたものです。輝く様に白い船が、黒く醜い蒸気のタグボートに曳かれて死にむかう。新旧の交代、英雄的な帆船の時代の死と、新しい蒸気の時代が、美しく白い船と、黒く醜い船、画面右手の眩い残照と、左手のおぼろげな月によって、表現されています。 1839年に、この絵がロイヤル・アカデミーに展示された時に、共に詩の一説が掲げられており、それは、 The flag which braved the battle and the breeze No longer owns her 戦いの中、風の中を、勇敢に翻っ

バーモンジーの川岸にて

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「off the beaten track オフ・ザ・ビートン・トラック」という英語のフレーズがあります。 「beaten track」とは、(人が大勢行き交うため)「平たく踏みならされた道」の事ですが、そこから、外れて(off)、あまり人の行かない場所に足を踏み入れる時などに使用されます。 有名な観光地などを見て回るのも、初めて訪れた地では必須でしょうが、長く住み、比較的良く知っている場所であると、「off the beaten track」をする事で、思わぬ発見があるのです。また、ロンドンの様な歴史のある大きな町では、そこで発見したものが、町の過去現在の全体像を把握するのに役立ったりもするものです。くねくねと、人気の無い川の支流の、雑草生い茂る川岸を歩き続けるとやがては、本流に繋がる様に。 今まで、その存在を全く知らなかった「ソルター医師の白昼夢」(Doctor Salter's Daydream)という一群の像(上の写真)に行き当たったのも、「off the beaten track」の賜物です。 メイフラワー号の出航地 そして、ブルネル父子の テムズ・トンネル のあるロザーハイズから、テムズ川を沿ってタワー・ブリッジ方面へ歩くと出くわす光景です。 東はタワーブリッジ、西はロザーハイズに挟まれたこの周辺は、バーモンジー(Bermondsey)と称されるエリアで、かつて、ドックランズなどで日雇いの仕事に従事し、不安定な生活を送っていた人たちの住んだ貧民街。名の由来は、サクソン時代に遡り、Bermunds's eye(island)=バーモンの島、とこの土地を所有した有力者の名から取ったものではないかと言われているようです。島と言うのも、干満のあるロンドンのテムズ川沿いは、昔は、湿地帯である場所が多かったため、満ち潮のときなどは、陸の孤島と化していたのかもしれません。 「ソルター医師の白昼夢」(Doctor Salter's Daydream)の像のモデルである、アルフレッド・ソルター氏は、近郊のガイズ病院で医学を学び、1898年に、当時の社会の貧富の差の大きさと、貧民の苦境に良心をとがめられ、バーモンジーの貧民街に乗り込み、住民達の生活改善に貢献した人物。バーモンジーで、やはり貧民の生活援助のために働いていた、裕福

レスター観光はリチャード3世とインド・カレー

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リチャード3世の骸骨が、レスター(Leicester)の駐車場から彫り上げられ、子孫のDNAから「間違いなく、リチャード」と判断されて、2年ほど経ちました。レスター大学で、いろいろ、検査を受けていた骸骨が、ついに永住の場のレスター大聖堂に埋葬。ヨーク家出身であるリチャードの、ゆかりの地ヨークの大聖堂も、リチャードの骸骨を欲しがったという話が一時浮上していましたが、最終的に、レスター大聖堂が獲得。他に、特に観光スポットなどが思い浮かばない、今までは、ただ通り過ぎるだけの駅だったレスターにとっては、うれしいアトラクションかもしれません。(リチャード3世の骸骨発掘の話は、過去の記事、 こちら まで。) 先日、2015年3月22日の日曜日、子孫で、家具職人であるマイケル・イプセン氏が作った棺に納められたリチャードの骸骨は、レスター大学を出発し、途中、シェークスピアによると、「馬を、我が王国と引き換えに、馬を!」の叫びを最後に死んだ、ボズワースの戦場跡を経由し、レスター大聖堂へと向かい、内部で式が行われました。途中、沿道も、大聖堂の回りも人だかりで、ヨーク家のシンボルである白バラを棺に投げる人も。すでに、客引きとしての、リチャード・パワーが発揮されています。 棺は、イングランド王にふさわしく、イングリッシュ・オークを使用した、非常にシンプルな長方形で、王の名と、バラの紋章と、生存年が掘られているのみ。イブセン氏、職人の腕の見せどころと、豪華絢爛の凝ったものを作ろうという誘惑もあったけれど、シンプルなものにする事にした、などと言っていました。 ライブで、リチャードの棺がレスターの町を練り進み、大聖堂に収まる様子をテレビで少し見ていましたが、何度か、「リチャードの宗教はカソリック」という事が言及されていて、式典には、イギリスカソリック教会の大司教も招かれてお説教をしていました。当然、ヘンリー8世の離婚騒ぎ以前の話ですので、それは、キリスト教と言えば当時はカソリックしかなかったわけですから。また、もし、ボズワースで、リチャードがヘンリー・チューダーを破っていたら、イギリス国教会など、無かった可能性もある。 月曜日から昨日(26日)の埋葬まで、リチャードの棺は、聖堂内に置かれ、一般市民が入場して見れるようになっていたのですが、この棺を見るために、聖堂前は長蛇の列。

ブルネル親子による世界初の水底トンネル

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イギリス史上、おそらく、最も名の知られたエンジニア、イザムバード・キングダム・ブルネル(Isambard Kingdom Brunel)。やはり著名エンジニア、発明家であった父、マーク・ブルネル(Marc Isambard Brunel)は、もともとはノルマンディー地方出身のフランス人で、フランス革命後の恐怖政治を逃れて、まずはニューヨークへ亡命、その後、イギリスへやって来た人です。イギリス人女性ソフィア・キングダムと結婚。自らも、エンジニアとして活躍しながら、世に、自分の名声を更に上回る息子、イザムバード・キングダム・ブルネルを与えた、イギリスにとっては、非常に貴重な移民とあい成ったわけです。 ブルネル親子が共に従事した唯一のプロジェクトが、世界初の水底トンネルであった、テムズ・トンネル(Thames Tunnel)。ドックランズ地域の、テムズ川南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)と北岸のワッッピング(Wapping)を結ぶ、このテムズ・トンネルがオープンしたのは、1843年3月25日。ちなみに、着工は1825年です。 19世紀前半のロンドン、テムズ川は、何千もの商船や小船が行き交い、または立ち往生して、大混雑。ロザーハイズなどの、ロンドン東部ドックランズ周辺から、一番近い橋であったロンドン・ブリッジまでは、少し距離が遠い上、橋上も川と同じ混雑ぶり。渡し舟はあったものの、大荷物を対岸に運ぶには、かなりの大金が必要となり、なんでも、同じ量の貨物を、アメリカから運んでくるのと、テムズ片岸から対岸に運ぶのとは、ほぼ同じ値段だったなどという話です。そして、テムズ川の両岸を結ぶ解決策は、トンネルにあり、とマーク・ブルネルが、果敢にも、水底トンネル建設に乗り出すのです。 マーク・ブルネルは、船の木材に入り込み、穴を開けて食い進むフナクイムシ(shipwarm、 学名:Teredo navalis)からインスピレーションを受け、トンネルを掘るための長方形の鉄のトンネル・シールドを製造します。シールドのフレーム内部は36の小さな個室の様なものに区分され、それぞれの空間で、作業者が、前面を掘り進んで行き、少しずつ、シールドを前に進めるという事をします。そして、掘った後ろの部分をレンガ職人がレンガで固めていく。このトンネル・シールドは、多少の土砂崩れから、

メイフラワー号旅立ちの場所

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17世紀、信仰の自由を求めた清教徒たち、 ピルグリム・ファーザーズ を乗せて、イギリスから、新大陸へ渡ったメイフラワー号が、最終的にイギリスを出発した場所は、デボン州プリマスですが、その前に、まず、ロンドンを後にした船出の地は、テムズ川南岸にあるロザーハイズ(Rotherhithe)です。 当時のロザーハイズは、船乗りとボート漕ぎの集落であり、メイフラワー号の船長、クリストファー・ジョーンズもロザーハイズに住んでおり、彼が選んだメイフラワー号の乗組員の多くも、ロザーハイズ出身だったという事です。(参考まに、クリストファー・ジョーンズ船長の出身地は、エセックス州の港町ハリッジです。ハリッジについては、過去の記事を参照下さい。 こちら まで。) 新大陸へ旅立った際は、12歳であったというメイフラワー号は、過去は、ワイン貿易などに使用された船。メイフラワー号は、ここから、1620年の夏に、テムズ川を下り、海へ出て、イギリス海岸線を南下して、まずは、サウサンプトンへ。サウサンプトンで、別の船、スピードウェル号と合流。1620年の8月5日、サウサンプトンを共に出発したものの、スピードウェル号が、大西洋を渡る航海に耐えられるものではないと発覚し、スピードウェル号の乗客の幾人かは、メイフラワー号に移り、改めて、プリマスから出航するのは、9月6日。全員で102人を乗せて行ったというのですから、かなりぎちぎちだったでしょう。向かい風に悩まされ、メイフラワー号がアメリカ東海岸のプリマス湾にたどり着くのは、すでに寒い12月になってから。 ロザーハイズの船出の地のそばに、メイフラワー(The Mayflower)と呼ばれるパブがあります。オリジナルは16世紀半ばに建てられ、メイフラワー号が旅立った当時は、シップ(Shippe)と呼ばれたそうです。ジョーンズ船長も、ここで一杯ひっかけたんでしょうね。 18世紀に建て直され、その後2回ほど名を変えてから、1957年に、ピルグリム・ファーザーを記念して、現在のメイフラワーと名づけられ。真偽のほどはわかりませんが、メイフラワー号の材木が少々、バプの骨組みに使われているという話もあります。 新大陸との関係から、内部でアメリカの切手を買えるという珍しいパブ。「でも、そんなものイギリスで買ってどうするんだい?」とは

暴れん坊いたちと恐怖のサギ

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先日、いたち(ウィーゼル、weasel)が、きつつきの背中に乗って空を飛ぶ写真が、大変な話題となっていました。 ウィーゼルは、イギリスでは一番小型の肉食動物で、体のサイズのわりには、かなり気が強い暴れん坊なのです。写真は、当然、メルヘンのように、「キツツキさん、背中に乗せてくださいな」と、おつかいに出るいたちが、お願いして乗ったわけではなく、いたちに飛び掛られたキツツキが、それを振り落とそうと、必死で飛び立った姿。キツツキの顔が、何となく、真に迫っているのは、そのせいでしょうか。カメラマンが、シャッターチャンスと、写真を撮り、この後、キツツキは着地し、カメラマンがそばにいたせいか、いたちは、そのままずらかった、という話です。 この事件の後、写真が撮られたエセックス州ホーンチャーチ・カウンティー・パーク(Hornchurch County Park)内に、上の写真の看板が出現したのだそうです。看板に書かれているのは、「ホーンチャーチ・カウンティー・パーク、 キツツキに乗るいたちの故郷 」。これは、公園を管理する地方自治体が立てたのではなく、誰かが勝手に、いたずらで立てたというのですが、そのわりには、ずいぶん本格的で、立派にできていているのです。冗談もここまで徹底してやると、尊敬に値するものがあります。地方自治体は、この看板を除去せずに、そのままにしておいてくれるといいですが。 さて、キツツキに乗るいたち熱が冷めやらぬうち、再び、今度は、いたち対サギの葛藤を取った写真が話題になっています。 この写真が撮られたのは、ケント州のアイル・オブ・シェピー(Isle of Sheppey)。なんでも、両者の戦いはまず、草原ではじまり、いたちをくわえ上げたサギは、川へ連れて行き、抵抗するいたちを溺れさせようと水に突っ込んだというのです。上の写真は、必死のいたちが、サギのくちばしに噛み付いている様子。 最終的には、「ちょこざいな!」と言わんばかりに、サギが、こうやって・・・ いたちを飲み込んでしまったのです! 鳥のご先祖様は恐竜だなどと言いますが、このサギはまさにそんな感じです。目玉からして、爬虫類のギョロメに近いところがあり、なかなか恐ろしい。そういえば、数年前、 セント・ジェームズ・パーク でペリカンがハトを飲み込むという事件もビデ

さて、イギリスの国鳥は?

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イギリスでは、公式に、国鳥なるものが設定されていません。日本の国鳥は、JALのマークで御馴染みの鶴だと思っていたのですが、桃太郎さんのキジなのですって。アメリカ合衆国は、早くも18世紀に、ハクトウワシ(Bald Eagle)と公認されています。 動物好きの国とされていながら、なぜに、いまだ、国鳥もないのか、と、現在、「イギリスの国鳥を選ぼう」キャンペーンが行われています。すでに去年、60の鳥たちの中から、10の候補が選出され、現在、この10の鳥たちのうち、どれがイギリスの国鳥にふさわしいかの、オンライン投票が行われています。この投票受付は、今年(2015年)5月7日に予定されているイギリス国会の総選挙の日まで続きます。その後、見事に、1位となった鳥を、国鳥としたらどうかと、新政府とエリザベス女王に推薦する事となっているようです。こういう、お金があまりかからずに、人気が取れる政策は、政治家大好きですので、特に新政権は、いい印象でスタートしたいのもあるでしょうから、選ばれた鳥が、正式に国鳥となる可能性は高い気がします。 それでは、ここで、アルファベット順に、イギリスの国鳥候補者を見てみましょう。 Barn Owl (バーン・オウル、日本語:メンフクロウ) Blackbird (ブラックバード、日本語:クロウタドリ) Blue Tit (ブルー・ティット、日本語:アオガラ) Hen Harrier (ヘン・ハリヤー、日本語:ハイイロチュウヒ) Kingfisher (キングフィッシャー、日本語:カワセミ) Mute Swan (ミュート・スワン、日本語:コブハクチョウ) Puffin (パッフィン、日本語:ツメノドリ) Red Kite (レッド・カイト、日本語:アカトビ) Robin (ロビン、日本語:ヨーロッパコマドリ) Wren (レン、日本語:ミソサザイ) 候補にあがっている鳥たちのリストを見る前から、すでに、私は、 ロビン (ヨーロッパコマドリ)がいいな、と思っていました。土を掘り起こすと、虫などの美味しいものが、掘り起こされた土の中から出てこないかと、近くに寄って来る姿から、ガーデナーズ・フレンド(庭師の友)という異名を取り、小型の鳥の中では、一番フレンドリーで、ガーデニング大国であるイギリスと、その国土を代表するのに

老人と犬

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我が家のすぐそばには、丘の上に建つ古い教会を眺める緑地があります。緑地の端には小川が流れ、小川を沿って歩行者と自転車専用の道が走っており、格好のお散歩コースともなっています。思うに、この辺りが、それほど柄の良くないこの町の中で、一番風景の良い場所です。 町の繁華街への買い物へ出る時も、駅へ行く時も、私は、ここを通って行くのですが、どの時間に出ても、それはよく見かけるおばあさんがいます。いつも、名犬ラッシーを思わせる、2匹のコリー(ラフコリー)を連れて、歩いては立ち止まり、また歩き。時に、他の犬連れの人たちと立ち話をし。コリーたちは、コリーたちで、自由に緑地内を走り歩き。とても、しつけが良くされているコリーたちで、吠えているのを聞いたこともなければ、他の犬や、道行く人に、牙をむいて「うー」とやっているのも見た事ないです。いつも、おだやかに、満足そうに緑地を歩き回っています。良くシャンプーとブラッシングをしてもらっているような綺麗な長い毛を風にそよがせて。 飼い主のおばあさんは、どうやら、近くの道まで車でやって来て、車をとめて、1時間くらいここで時間を過ごして、また家へ戻っているようです。しかも、それを1日、3回ほどやっている様子。緑地を歩いている姿だけでなく、犬たちを車から降ろすところ、乗せるところも、幾度も目撃しているので。あまりにも長年、何度も見かける人なので、目が合うと、いつも、お互い「ハロー」だけは言って挨拶はしていました。 先週から、彼女の2匹いたコリーが1匹になっていました。 先日の夕方、緑地のそばにある郵便ポストに手紙を投函に出ると、また彼女に出くわしました。例のごとく「ハロー」と言った後、そのまま一時行き過ぎたのですが・・・ふと、気になり、後戻りして、聞いてみました。「犬、2匹いませんでしたっけ?」「1匹は2週間前に他界してしまったの。」「ああ、それは、残念。」そして、彼女は残されたコリーを指差し「この子は、寂しくなってしまって。」彼女の脇にいたコリーは、自分の事が話題に上がっていると知っているかのように、私の顔を見上げて、首をかしげたのでした。本当に寂しそうに。その後、彼女は、「私達、ふたりとも、寂しくて・・・。」こういう時って、何を言ったらいいか、わからないものです。「What a pity...」を、再び繰り返し、同情のため息

ミニ水仙テタテート

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tete-a-tete(テタテート)とは、フランス語で、「頭と頭」。額を寄せる様にして「2人だけでする内密な話」を意味し、英語にもそのまま導入されて、良く使われます。 I had a long tete-a-tete with her. 私は、長時間、彼女と内密な話しをした。 テタテートと称されるミニ水仙( ダフォディル )があります。学名は、Narcissus "Tete-a-Tete"。何故に、テタテートと呼ばれるのか・・・というと、花が2つペアで生えてくる事が多いめだそうですが。小さい2つの花が、頭を寄り合わせて、ひそひそ話をしている様に見えるから。可愛い名前です。 ペアで花を咲かせるって、上の写真のような事だと思うのですが、現在、室内に5ポットあるテタテートの中で、こうしてペアで咲いているのは、今のところ2茎だけなのです。まあ、ペア咲きでないものも、コンパクトに密集して咲くので、顔と顔を近づけている雰囲気はあります。 最近、このミニ水仙テタテートは、非常に人気で、私も先週、今週と引き続き、スーパーから、すでに鉢植えされており、咲くばかりのものを買ってきました。これ、1ポットで1ポンドですので、お得でしょ。室内用という事になっています。背丈は平均で15センチほど。暖かいところに置いておくと、結構首が長くなり、20~30センチくらいになる事もあります。 去年、やはり、スーパーで買った室内用テタテートは、今年は、庭で咲いています。去年、咲き終わったものを、庭の奥に置いておき、しばらく水遣りを続け、10月に葉が枯れた球根を、新しいポットに植え替えたのです。室内で咲いているものより、背は低めですね。ちゃんと、こうして面倒を見ると、同じ球根が、毎年、咲いてくれそうです。 いや、植え替えなどもせず、そのまま同じ場所、同じポットに植えっぱなしでも、何年もの間、欠かさず咲いてくれる、という話もあります。毎年のように、几帳面に掘り起こしては、球根の塊を分ける作業をする必要も無いという事。普通サイズの水仙より、開花期間がずっと長い感じです。また、普通サイズのものは、強風などでなぎ倒されてしまう事も多々ありますが、このおチビちゃんたちは、雨にも負けず、風にも負けず。 見た目に愛らしく、丈夫、育て方もいたって簡単なため、ミ