メイフラワー号旅立ちの場所

17世紀、信仰の自由を求めた清教徒たち、ピルグリム・ファーザーズを乗せて、イギリスから、新大陸へ渡ったメイフラワー号が、最終的にイギリスを出発した場所は、デボン州プリマスですが、その前に、まず、ロンドンを後にした船出の地は、テムズ川南岸にあるロザーハイズ(Rotherhithe)です。

当時のロザーハイズは、船乗りとボート漕ぎの集落であり、メイフラワー号の船長、クリストファー・ジョーンズもロザーハイズに住んでおり、彼が選んだメイフラワー号の乗組員の多くも、ロザーハイズ出身だったという事です。(参考まに、クリストファー・ジョーンズ船長の出身地は、エセックス州の港町ハリッジです。ハリッジについては、過去の記事を参照下さい。こちらまで。)

新大陸へ旅立った際は、12歳であったというメイフラワー号は、過去は、ワイン貿易などに使用された船。メイフラワー号は、ここから、1620年の夏に、テムズ川を下り、海へ出て、イギリス海岸線を南下して、まずは、サウサンプトンへ。サウサンプトンで、別の船、スピードウェル号と合流。1620年の8月5日、サウサンプトンを共に出発したものの、スピードウェル号が、大西洋を渡る航海に耐えられるものではないと発覚し、スピードウェル号の乗客の幾人かは、メイフラワー号に移り、改めて、プリマスから出航するのは、9月6日。全員で102人を乗せて行ったというのですから、かなりぎちぎちだったでしょう。向かい風に悩まされ、メイフラワー号がアメリカ東海岸のプリマス湾にたどり着くのは、すでに寒い12月になってから。

ロザーハイズの船出の地のそばに、メイフラワー(The Mayflower)と呼ばれるパブがあります。オリジナルは16世紀半ばに建てられ、メイフラワー号が旅立った当時は、シップ(Shippe)と呼ばれたそうです。ジョーンズ船長も、ここで一杯ひっかけたんでしょうね。

18世紀に建て直され、その後2回ほど名を変えてから、1957年に、ピルグリム・ファーザーを記念して、現在のメイフラワーと名づけられ。真偽のほどはわかりませんが、メイフラワー号の材木が少々、バプの骨組みに使われているという話もあります。

新大陸との関係から、内部でアメリカの切手を買えるという珍しいパブ。「でも、そんなものイギリスで買ってどうするんだい?」とは思いますが、アメリカ人観光客などが、記念に買っていくのかもしれません。川に面したテラスの外には、アメリカの国旗もひるがえっていました。

パブの外壁には、道しるべとして、距離を知るためのマイル・ストーン(日本の一里塚のようなもの)が埋め込まれてあり、ここから、テムズの上流(西へ)向かうと、ロンドンブリッジまで2マイルとあります。

このパブでボリュームたっぷりのお昼ご飯を食べてから、パブのすぐそばのセント・メアリー教会へ足を運びました。教会の現在の建物は、船乗りや船造業者達が集めた資金で、18世紀初めに建築されたものですが、その前からずっと、ここに教会は存在しています。

内部は残念、閉まっていて見れませんでした。少々柄の悪い地域に近く、あまり人の気配のない教会などは、用が無い時は、こうして錠をかけてしまっている事が多いです。内部を荒らしたり、物を盗んだりする輩がいるので。船関係者の教会なので、天井は船底の様に丸くなっており、それを支える柱も船のマストに漆喰をぬったものなのだということ。内部には、また、トラファルガーの海戦で活躍し、ターナーの絵「解体されるべく曳かれて行く戦艦テメレール号」でも有名なテメレール号の木材を使って作られた椅子やテーブルなどもあるそうです。テメレール号が解体されたのはロザーハイズであったので。

新大陸で冬を越した後、メイフラワー号が、ピルグリム・ファーザーズ達を後に残し、再びイギリスへ向けて出発するのは、翌年1621年4月。帰りは、追い風である西風に乗って、行きの約半分の日数で、5月5日に、ロザーハイズにたどり着きます。メイフラワーの乗組員も、行きの航海の大変さと、新大陸で越した冬の厳しさで、かなりの人数生きてイギリスへ帰ることができなかったと言います。

クリストファー・ジョーンズ船長も、新大陸への航海で、身体を悪くしていたようで、戻ってから1年と経たない、1622年3月に亡くなり、このセント・メアリー教会の墓地に埋葬されます。船長以外の、メイフラワー号の、他の船主2人も、同墓地に埋葬されているという事。上記の通り、18世紀初めに、セント・メアリー教会は再建されており、実際に墓地の中の、どの場所にジョーンズ船長が埋葬されたかは、今は定かでないようですが、墓地には、現在、ジョーンズ船長の記念碑が立っています。

メイフラワー号とは直接関係はありませんが、教会の道を隔てた向かいには、また、2つほど面白い建物が。

まず上の写真右手の背の低いほうの建物は、1821年に建てられたウォッチ・ハウス(監視館)。何を監視するかと言うと、夜中に人目をしのんで墓場に現れる、死体泥棒を阻止するため。当時、法で許されていた、解剖のために使用できる死体は、罪人のものか、引き取り手の無い貧乏人のものだけ。医学が発展する中、医者と病院は常に、解剖のための死体不足に悩み。そのため、墓場から盗まれた死体を、密かに購入するという死体の闇市が確立されており、死体泥棒は、非常に金になる商売だったのです。ここで盗まれた新鮮な(!)死体は、近郊のロンドン・ブリッジにあるガイズ病院などへ、解剖のため、陰で供給されていたようです。

写真左手の、18世紀のコスチュームに身を包んだ少年少女の人形が立つ建物は、セント・メアリー・フリー・スクール。地元の船乗りの子女を教育するために1613年に創立された、ロンドンで一番古い小学校と呼ばれるもの。実際、この建物に場所を移したのは、1797年です。

約400年前にはジョーンズ船長とメイフラワーの乗組員が、約200年前には、こんな衣装を着た子供たちも歩いた同じ道を行く。

そして、ロザーハイズと言って、もうひとつ忘れてならないのが、著名エンジニアであったブルネル父子が作った世界初の水底トンネルである、テムズ・トンネル・・・これは、次回に書くことにします。こちら

コメント