ブルネル親子による世界初の水底トンネル
ブルネル親子が共に従事した唯一のプロジェクトが、世界初の水底トンネルであった、テムズ・トンネル(Thames Tunnel)。ドックランズ地域の、テムズ川南岸のロザーハイズ(Rotherhithe)と北岸のワッッピング(Wapping)を結ぶ、このテムズ・トンネルがオープンしたのは、1843年3月25日。ちなみに、着工は1825年です。
19世紀前半のロンドン、テムズ川は、何千もの商船や小船が行き交い、または立ち往生して、大混雑。ロザーハイズなどの、ロンドン東部ドックランズ周辺から、一番近い橋であったロンドン・ブリッジまでは、少し距離が遠い上、橋上も川と同じ混雑ぶり。渡し舟はあったものの、大荷物を対岸に運ぶには、かなりの大金が必要となり、なんでも、同じ量の貨物を、アメリカから運んでくるのと、テムズ片岸から対岸に運ぶのとは、ほぼ同じ値段だったなどという話です。そして、テムズ川の両岸を結ぶ解決策は、トンネルにあり、とマーク・ブルネルが、果敢にも、水底トンネル建設に乗り出すのです。
後のロンドンの地下鉄のトンネルを掘る作業にも、このマーク・ブルネルが考案したトンネル・シールドが改善されたものが使われたそうです。いや、そればかりか、現在、ロンドンを東西に横断する鉄道、クロスレールの建設に当たって、トンネル掘りに使われているマシンの根本のアイデアは、やはりマーク・ブルネルのトンネル・シールドなのだと。当然、クロスレールに使用されているマシンは、ブルネルの時代よりもずっとハイテクで・・・・残念ながら、メード・イン・イングランドではなく、ドイツ製・・・。
トンネル・シールドで多少の危険は回避できても、当時のテムズは、水が下水のごとく汚染されており、この水がひたひたとトンネル内に漏れ、水自体が病原菌などを含んでいた上、有害なメタンガスを充満させ、また、いつテムズの水が大量に流れ込んでくるかもわからず、他にも危険はいっぱい。トンネル製作の過程で、マーク・ブルネルも体の調子をこわしています。また、実際、1828年には、トンネルの天井を打ち破って水が一気に流れ込む大洪水にやられ、死者を出し、この時、現場にいたイザムバード・ブルネルも、あやうく、命を失いかけたのです。この大洪水後は、資金も枯れ、約7年もの間、工事は一時中断となります。工事再開の資金集めのために、トンネル内にイギリスの有力者50名を招いての晩餐会などが行われています。
馬の蹄鉄型のアーチをしたトンネルが横にふたつ。最初は、馬車に引かれた乗り物が通れるようにし、テムズ両岸からの貨物の移動を可能にする予定であったのが、資金切れで地面から地下に降りるスロープを作る事ができず、歩行者専用のトンネルとして1843年、オープン。オープン後、最初の15週間で、実に100万人の観光客(当時のロンドンの人口の約半分)が、1ペニーの入場料を払って、トンネルに降り立ったと言います。観光地として、ヨーロッパ諸国のガイドブックにも登場。内部では、アクロバットなどの芸人、みやげ物やその他もろもろを売る屋台なども立ち。徐々に、売春婦やら、すり等の、良からぬ輩も徘徊するようになり。
1865年に、トンネルは、イースト・ロンドン・レールウェイ・カンパニーに売られ、やがて、乗客を乗せた汽車が走るようになり、歩行者トンネルの過去を捨て、鉄道に使用される事となり、現代に至っています。
ロザーハイズ駅から、電車でブルネルのトンネルを通って帰途に着きました。思いもかけずに、歩行者トンネル、そして一大観光地となった後、完成から何年も経った今でも、こうして、自分達のトンネル内を電車が走るのを見たら、ブルネル親子、満更でもないことでしょう。
※本州と九州間をつなぐ関門海峡の人道トンネルについてのエッセイは、noteで公開していますので、興味のある方は下のリンクまで。










コメント
コメントを投稿