バーモンジーの川岸にて

「off the beaten track オフ・ザ・ビートン・トラック」という英語のフレーズがあります。 「beaten track」とは、(人が大勢行き交うため)「平たく踏みならされた道」の事ですが、そこから、外れて(off)、あまり人の行かない場所に足を踏み入れる時などに使用されます。

有名な観光地などを見て回るのも、初めて訪れた地では必須でしょうが、長く住み、比較的良く知っている場所であると、「off the beaten track」をする事で、思わぬ発見があるのです。また、ロンドンの様な歴史のある大きな町では、そこで発見したものが、町の過去現在の全体像を把握するのに役立ったりもするものです。くねくねと、人気の無い川の支流の、雑草生い茂る川岸を歩き続けるとやがては、本流に繋がる様に。

今まで、その存在を全く知らなかった「ソルター医師の白昼夢」(Doctor Salter's Daydream)という一群の像(上の写真)に行き当たったのも、「off the beaten track」の賜物です。メイフラワー号の出航地そして、ブルネル父子のテムズ・トンネルのあるロザーハイズから、テムズ川を沿ってタワー・ブリッジ方面へ歩くと出くわす光景です。

東はタワーブリッジ、西はロザーハイズに挟まれたこの周辺は、バーモンジー(Bermondsey)と称されるエリアで、かつて、ドックランズなどで日雇いの仕事に従事し、不安定な生活を送っていた人たちの住んだ貧民街。名の由来は、サクソン時代に遡り、Bermunds's eye(island)=バーモンの島、とこの土地を所有した有力者の名から取ったものではないかと言われているようです。島と言うのも、干満のあるロンドンのテムズ川沿いは、昔は、湿地帯である場所が多かったため、満ち潮のときなどは、陸の孤島と化していたのかもしれません。

「ソルター医師の白昼夢」(Doctor Salter's Daydream)の像のモデルである、アルフレッド・ソルター氏は、近郊のガイズ病院で医学を学び、1898年に、当時の社会の貧富の差の大きさと、貧民の苦境に良心をとがめられ、バーモンジーの貧民街に乗り込み、住民達の生活改善に貢献した人物。バーモンジーで、やはり貧民の生活援助のために働いていた、裕福な家庭出身のエイダと知り合い、2人は1900年に結婚。2人ともクエーカー教徒となります。

自分達のみ、特権的に裕福な生活をする事を拒み、夫婦は、貧民達のただ中で生活。ソルター医師は、周辺住民が、低額で医療を受けられるような保険制度を確立し、医療センターを開き、NHS(現在のイギリス医療システム)が始まる前の時代に、全ての人間がアクセスできるという、NHS的精神で医療を行うのです。また、身の回りの衛生を指導する映像なども作成し、市民の教育にも勤め。

エイダとアルフレッド両者とも、貧民の生活の根本的な改善には、政治が必要と、積極的に政治活動にも参加。最初は自由党(Liberal Party)、後、独立労働党(Independent Labour Party)そして、労働党の(Labour Party)のメンバー。1909年に、エイダは、女性で最初のバーモンジーの地方議員となり、ひどい状態であった工場での、女性の職場環境の向上などに尽力。人間の生活には緑地が必要であると、ガーデンや公園の必要性も説き。エイダは、1922年には、バーモンジーの、初の労働党女性知事ともなるのです。同年、ソルター医師も、バーモンジー代表の国会議員に選ばれています。この2人が行った庶民の生活改善は、バーモンジー革命などとも呼ばれるようです。

二人の間には、ジョイスという一人娘がいたのですが、病気などの蔓延しやすい貧民街に住んでいたため、1910年、8歳で猩紅熱にかかり、死亡。ジョイスは、学校も、他の子供達と同じ地元の学校へ通っていたのだそうですが、「公平な社会作り」と、口だけはえらそうな事を言いながら、自分は高級住宅に住み、子供は、貧しい子たちが絶対入れないようなエリート学校に送り込む、今の労働党の多くの国会議員とはかなり違うのです。また、一方で、親の信条のために死んでしまったジョイスは可愛そうですけどね。こういう事に関する、親の決断も難しいところでしょう。そんな犠牲のかいあって、1930年代半ばまでには、バーモンジー内で、かなり高かった幼児の死亡率もぐっと下がり、出産で命を落とす女性の数も減り。

また、第一次世界大戦中(1914-1918年)は、平和主義をうたい、武力を取る事に反対したクエーカー教徒たちは、往々にして、一般市民から、臆病者とさげすまれ、ののしられる事も多々あり、ソルター夫妻も、戦時中は、群集に石を投げつけられたりという経験もしているそうです。

ソルター夫妻亡き後、第2次世界大戦を超えた、1960年代、70年代に、ドックランズが次々と閉鎖され、地域内での仕事が消えて行くと、今度は、バーモンジーを含む、かつてのドックランズのエリアは、失業者がぐっと増えるという問題が起こってくるわけです。80年代になってから、ドックランズの開発が始まり、特に、タワーブリッジに近いウォーターフロントは、バトラーズウォーフの様に、高級アパート、お洒落カフェなどが立ち並ぶようになるのです。それでも、今でも、少し内陸部に入ると、低所得者用居住地であるカウンシル・フラットやハウスが並ぶ場所なども、まだ多くあります。ニューマネーと貧しい住民が混合している場所。

さて、テムズ川沿いのこの像たちは、年老いたソルター医師が、まだジョイスが生きていた頃の昔を、思い起こしている姿なのだそうです。ソルター医師の前でジョイスと猫が遊び、エイダも少し離れて、佇み、それを見つめ。

実は、このソルター医師の像、2番目のものなのです。最初のものは、すぐそばの、普通のベンチに腰を下ろして、ジョイスに手を振っているものであったそうですが、これが、2011年に、金属泥棒に盗まれてしまい、現在のものは、去年(2014年)11月に新しく設置されたもの。一緒に、エイダの像も、この時、加えられたそうです。今回、ドクターのおしりは、しっかりと土台にくっつけられています。盗みにくくするためか・・・。こういう大切なものを破壊する金属泥棒などは、捕まえたら、2,3日、ピロリーにでもかけて見世物にして、皆で、顔にトマトでも投げつけてやるのがいいですよ。牢屋に入れると税金がかかるし。その後、3ヶ月くらいは、周辺のゴミ拾いなどの強制労働でもやらせて。

上の写真、ソルター医師の像の背景に写っているのは、エンゼル・パブ(The Angel)。

このエンゼル・パブ、現在の建物は、19世紀初めのものだそうですが、その歴史は、15世紀に遡るのだそうで、近郊にあったバーモンジー修道院の坊さん達が営んでいた居酒屋に端を発するのだとか。太った陽気な坊さん達が赤い顔をしている姿を思い浮かべると愉快です。坊さん達が去った後には、密輸を行う場所としても使用されたようで、キッチンの床には、その時に使用された秘密の荷上げドアがあるのだとか。また、17世紀に多くの人間を絞首刑にかけ「Hanging Judge」(絞首判事)の悪名を取った、Judge Jeffreys(ジェフリーズ判事、1645-1689)は、ここで一杯やりながら、対岸のワッピングで行われていた海賊達の処刑を見物したのだそうです。

ソルター医師は、お酒はやらなかったようなので、彼は内部には入らなかったかもしれません。

さて、ソルター医師の見るデイドリームと、川にに背をむけ、南側を見ると、道を隔てた向こう側に、ちょっとした緑地があるのですが、何でしょうね、とちょっと移動してみると・・・

緑地の前に立っている掲示板の情報によると、「Edward III Manor House」とあり、エドワード3世(在位1327-77)が使用していた館の跡。17世紀には陶器を作る場所として使用され、その後の18、19世紀に倉庫と化した後、1980年代のドックランズの開発で掘り起こされ、このエドワード3世の館の土台が確認され、現在こうして、「え、こんなところに、中世の遺跡?」という、唐突な感じで、通りがかりの一般人が見れるようになっています。まあ、掲示板が無ければ、そのまま行き過ぎてしまうかもしれません。

上の絵がおそらくこうであったろうという、在りし日の館の姿。当時は、テムズ川は、館のぎりぎりまで来ており、館の他の側面は堀で囲まれ、王様はボートで到着。何のために建てた館は定かでないそうなのですが、鷹狩りが好きだったエドワードが、テムズ川上と、湿地帯であった館周辺で、鷹狩りを楽しんだ場所であったのでは、という説があるようです。

というわけで、オフ・ザ・ビートン・トラックをしたおかげで知ることができた、ソルター医師の話とエドワード鷹狩りの館。こんな小さな空間で、道を隔てただけで、全く違う時代からの記念碑二つにめぐり合え、それだけで、なんだか得した気分になれました。

この場所への最寄り駅は、地下鉄ジュビリーラインのBermondsey駅、またはロンドン・オーバーグラウンドのRotherhithe駅となります。

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