ポルステッドと赤納屋殺人事件

ポルステッドの池
前回の記事で、サフォーク州ネイランドからストーク・バイ・ネイランドまでのハイキングの話を書きましたが、その翌週、今度は、ストーク・バイ・ネイランドから出発し、そこから北にある村、ポルステッド(Polstead)へと出向きました。このポルステッドという村は、バスも通っていないので、ストーク・バイ・ネイランドにバスで到着後、歩いてポルステッドまで行き、見学した後、再びまたストーク・バイ・ネイランドへ戻る必要がありました。ポルステッドとは、「池のある場所」を意味したそうで、村には、その名の通り、大きな池があります。

イギリスの片田舎の村々は、スリーピー(sleepy)という形容詞がぴったりのところが沢山あります。スリーピーは、「眠い」という形容詞ですが、そこから更に、何も起こらないような、平和な、静かな・・・という意味にも使用されます。ポルステッドも、外見は、本当に典型的スリーピー・ヴィレッジなのですが、19世紀前半に、「Red Barn Murder、赤納屋殺人事件」という殺人事件の起こった場所として、一躍有名となり、新聞などでも大幅に取り上げられた話題の殺人のあった村を一目見ようと、多くの物見高い人たちが訪れ、事件当時は、スリーピーどころの騒ぎではなかったようです。赤納屋殺人事件を知る人もかなり少なくなった現在では、再び、ポルステッドは平和な面持ちを取り戻しています。うちのだんなも、「レッド・バーン・マーダーのあったポルステッドにお出かけしてくるね。」と私が言っても、「なにレッド・バーン・マーダーって?」「ほら、前に見た推理小説と過去の殺人事件の歴史のドキュメンタリーでやってたでしょ?覚えてないの?」「そうだっけ・・・。」

とりあえずは、イギリス社会史にも残る、この悪名高き、レッド・バーン・マーダーとは・・・

ポルステッドの小さなコテージに、モグラ取りの父と、継母と、共に住んでいたマライア・マーティン(Maria Marten)は、未婚でありながら、26歳までに、二児を設け(二人とも別の男が父親だという話も)、関係を持った紳士から維持費を受け取っていた。やがて、マライアは、また別の男、コーダー・ハウスと呼ばれる大きな館に、未亡人の母親と妹と住む、ウィリアム・コーダー(William Corder)と関係を持ち、身ごもってしまう。生まれた赤ん坊は、すぐに死亡(一説によると、この二人によって殺害されたとか)。二人は、ひそかに赤ん坊を埋葬。その後、コーダーは、マライアとの関係がうざったくなり、殺人を計画。マライアには結婚を約束し、家族に反対されると困るから、夜に駆け落ちして、イプスウィッチに行き結婚しようともちかける。そうして、1827年5月のある夜、村の外れのレッド・バーンと呼ばれる納屋で待ち合わせをした二人。コーダーは、人目をしのぐためマライアに男装をするように告げ、彼女が衣装を変えている最中に殺害、納屋内に埋めて、自分は、一人ですたこらどこかへ消える。コーダーは、その後、マライアと結婚し、ワイト島に住んでいるというような内容の手紙をマライアの家族に送るものの、家族からの更なる消息の問いには一切答えず。心配をし始めた継母は、そのうちに、マライアが、レッド・バーンで殺されて埋められたという天からの通達のような夢を数日続けて見るのです。継母は、夫(マライアの父)を説得し、レッド・バーンへおもむき、埋められていたマライアの死体が発見される。死体鑑定の結果、彼女は目を拳銃で撃たれ、何度かナイフで刺されるという悲惨な死を遂げたとわかる。

大騒ぎの殺人犯探しの結果、やがて、コーダーの行方はつきとめられます。彼はちゃっかりと、別の女と結婚し、ミドルセックス州で平和な生活を送っていたのです。しかも、この結婚相手は、コーダーが新聞に出した結婚相手募集の広告に答えた女性50人の中から選ばれたのだそうですから、やってくれます。この事件は、国中にセンセーションを巻き起こし、コーダーは、やがて、極刑の宣告を受け、1828年8月に、ベリー・セント・エドマンズにて絞首刑。この頃の処刑は、まだ、戸外での見世物的部分がありましたから、見物人が、それは、わんさと押しかけたようです。死刑執行人は、絞首刑に使用されたロープを、3センチずつくらいに短く切って、後で、それを売ったというのです。悪趣味は、それのみで終わらず、牢獄の医師は、コーダーの死体から皮を剥ぎ、その皮を使用して、当殺人事件の事件簿を装丁。このコーダーの皮張りの事件簿と、彼の頭蓋骨、デスマスクなどは、ベリー・セント・エドマンズにある博物館内でお目にかかれるという事。前回、ベリー・セント・エドマンズを訪れた時は、時間切れで入らなかった博物館、次回は、ちゃんと入って、レッド・バーン・マーダーのおどろおどろしい展示物を見てみましょうかね。昔の人を悪趣味だ、と批判しながら、しっかりそういうものを見ようという気になっている私も私です。

殺人事件がらみの観光でポルステッドに足を運んだ当時の一般庶民は、ポルステッドの教会の墓地に埋葬されたマライアの墓石も、土産に、と少しずつ崩して持って行ったそうで、そのために、今は墓石はすべて消えて残っていません。そんなの持って帰って何したのでしょう。マントルピースにでも載せて飾ったのでしょうか。文鎮に使うという手もありですか。

夕日が落ちる時、赤く染まって見える事からレッド・バーンと呼ばれた殺人現場の納屋は、やがて、火事で焼け落ちたそうです。

事件は、その後、三文小説や、芝居にもなり、バラードまで歌われ、しばらくの間は語り継がれます。私は、この事件を知ってから、これを題材にして、1935年代に作られた、「Maria Marten, or The Murder in the Red Barn」という白黒映画をユーチューブで探して、見ました。筋は少々変えてありますが、その大変メロドラマちっくな筋書と演技が、妙に可笑しかったです。

ストーク・バイ・ネイランドの教会
と殺人事件の話はここまで。実際のポルステッド訪問の話に切り替えます。

ストーク・バイ・ネイランドからポルステッドまでのハイキング道もそれは気持ちよく、途中、振り返ると、ストーク・バイ・ネイランドのセント・メアリー教会の塔が見え、

ポルステッドの教会
そして前方には、それに向かい合うようにポルステッドのやはりセント・メアリーと呼ばれる教会の塔が見え。別の丘の斜面に立つ、ふたつの教会を一緒に写真に収めたかったのですが、場所が離れすぎていて、ちょっと無理でした。

上記の通り、マライア・マーティンの墓石は、少しずつ、土産に持っていかれてしまい、ポルステッドの教会の墓地から消えてなくなっているので、

今は、マライアはこの辺りに埋葬されました、という文字も消えかかっている看板が残っているだけ。

ポルステッドの教会は、ヘンリー2世時代の1160年ころに建築されたものだそうで、レンガを使ったノルマン風アーチが独特。ローマ時代の建物のレンガを再使用したものだと言われていますが、レンガを使用したノルマン風アーチというのは、比較的めずらしいのだそうです。

教会の脇には、ポルステッド・ホールという荘園の館が残っています。

教会とポルステッド・ホールを後にし、池にむかい、そこから少々坂を登ってすぐのところに、殺人犯のウィリアム・コーダーが住んだ家があります。なかなか立派。

そのまま、坂を登り続け、途中にも可愛らしいコテージがいくつか並び。ああ、まさに、スリーピー・ヴィレッジですね。


坂を登り切った村の中心部へたどり着くと、村のサインと、かつてはフェアが行われた緑地を望むようにして、コック・インというパブがあります。レッド・バーン・マーダーの調査なども、このパブで最初は行われていたようです。

村の広場の片隅には、ボランティアで経営される非営利の店、兼、郵便局があります。なんでも、1974年に、村にあった最後の店が閉じてしまってから、10年後にオープンしたものだそうで、この手の非営利のコミュニティー・ショップとしては、サフォーク州では初めてのもの、国内でも先駆のもののひとつだそうです。人口少ない村では、ちょっとミルクや新聞が買えるような営利を目的とした店は、たしかに経営困難に陥るでしょうから。このコミュニティーショップは、一応、維持費が賄えるくらいは稼ぎあげているそうです。アイスクリーム売ってます、という看板が外に出ていたので、買おうかと思ったのですが、午後1時で閉まってしまい、ボランティアの人が帰ってしまっていた後で、だめでした。残念。

しばし村の広場のベンチで休憩した後、村の近くを流れるボックス川まで足を延ばし、再びストーク・オン・ネイランドへ戻るための帰途に着きました。

丘の上に立つストーク・バイ・ネイランドの教会を目指して。

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