ウィリアム・マーシャル
ウィリアム・マーシャルの像、テンプル教会内 |
ウィリアム・マーシャルは、比較的位の低い貴族の家系に生まれたため、はっきりとした生年月日はわからないようですが、おそらく1146年か1147年に誕生。イングランドは、当時、スティーブンとマチルダが王権を争い、内戦状態。スティーブン王、プランタジネット朝第一番目の王ヘンリー2世(マチルダの息子)から、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と5人のイングランドの王様の時代を生き抜き、戦場でも名の知れた騎士でありながら、実に73歳まで生きた人。がっしりとし、背丈も6フィート(約182センチ)と、当時にしては異例の高さだったそうです。
騎士としての訓練を受けるのは、母方の故郷である、フランスのノルマンディーにて。父は死後、長男ではないウィリアムには一切何も残さなかったため、自分で、騎士として名を上げ生きていくしかない。
この頃は、プロのエリート戦士である騎士達の一種のトレーニングとして、トーナメントが各地で開かれていたようですが、マーシャルは、盛んに、北フランスなどで、こうしたトーナメントに参加。これは、多くの騎士達が2手に別れて戦うという一種のモック・バトル(偽の戦闘)のようなもの。偽、とは言え、かなり本格的なものであり、時に死者が出る事もあり、怪我人は必ずと言ってよいほど、多数出たようです。戦闘での、騎士達同士の目的は、敵を殺すことより、特に裕福そうな名のある騎士を捕まえて、身代金を得ることにあったと言います。ウィリアム・マーシャルは、いくつものトーナメントをはしごし、すぐれた騎士として名を成し、戦闘技術を磨くと同時に、身代金で、徐々に富もなして行き。また、こうしたトーナメントは、ソーシャル・ネットワークの場としても有益であり、有力な貴族達の間でも知られるようになり、やがては、王様達の目にもついていくわけです。
ウィリアム・マーシャルは、息子リチャードに反旗を翻されたヘンリー2世に最後まで忠誠をつくしたと言われ、死後、召使に周りのものを盗まれ、着ていた物も半分はがされていた王の死体を、埋葬の地まで運んだのも彼。父の死後、王となったリチャードは、ヘンリーと共に自分に対して戦った人物でありながら、彼の忠誠を重視し、ウィリアム・マーシャルを、自分の側近として大切にしたといいます。リチャード1世の取り計らいにより、ウェールズ、アイルランド、ノルマンディーの土地を持つイザベル・ド・クレアと結婚し、ペンブルック伯の称号も獲得。ウェールズのペンブルック城を拠点とします。
その後、バロン(有力貴族)たちの中でもリーダー格となっていき、困り者王、ジョン王の時代に、不満のバロン達の意見を統括し、1215年に、王の権利を抑制するマグナ・カルタ作成と調印も、彼の尽力によるところが大きいのだそうです。もっとも、どうしょうもなく横暴なジョン王に対しても、おおっぴらに反旗を翻す事無く、忠実であったそうで、調停役という感じであったようです。
ジョン王の悪政の下、弱小となっていたイングランドは、フランス王太子ルイ(後のルイ8世)に目を付けられ、ルイは、スコットランドのアレクサンダー3世と組して、イングランドへ攻め込むのです。そして、あわよくば、イングランドをフランスの支配下に置こうというもくろみ。マグナ・カルタ調停後も、不満の消えないイングランドのバロンの中にも、ルイとアレクサンダーにに組するものもが出てくる始末。そんなドタバタの真っ最中、2016年に、ジョン王は病死。残されたのは、9歳の息子ヘンリー3世。
このピンチの時に、「助けてください」とウィリアム・マーシャルに慈悲を乞いに来た少年王ヘンリー3世に、「たとえどんな事になろうとも、この若い王を守る。自分で王を背負って、放浪し、日々の糧を乞う事になっても。」のような誓いをたて、居合わせた騎士たちは、ほろり、ほろほろ涙したと言う記述が残っているそうです。こうして、へンリー3世の保護者、そして、1216年、イングランドの摂政となるウィリアム・マーシャルは、なんと70歳。1217年、高齢にして、フランス側を相手取ってのの決定的な戦いとなる、リンカーンの戦いへ乗り込むのです。自ら、馬にまたがり、突進、リンカーン大聖堂の前での戦闘に参加し、ヘンリー3世に勝利をもたらす。この後、ルイはイングランドを諦め、すごすごフランスへ帰国。ウィリアム・マーシャルは、また、いまだ王というものに対する不信感くすぶるバロンたちを安心させるため、再びヘンリー3世に、マグナ・カルタを調印させています。
リンカーンの戦い2年後、1219年、マーシャルは家族、親しい騎士たちに囲まれベッドの中で寿命をまっとうします。テンプル騎士団のメンバーなることが、長らくの希望であったため、死の床で、テンプル騎士団に入団。死体はロンドンのテンプル教会に埋葬され、上述の通り、今でも、彼の彫像を見ることができます。数々のトーナメントや戦闘で敵を打ち破ってきた彼は、死の前に、「死からは、私も、身を守ることはできない。」と言ったとか。彼の人生は、死の直後の、1220年に、彼の息子によって伝記の形で記述されています。当時の騎士の伝記と言うのは、他に例を見ないものであるそうで、貴重な記録であるようです。
それにしても、侵略軍が一切、イングランドの地に足を踏み込むことが無かった、エリザベス1世時代のスペインの無敵艦隊の話や、ナポレオンのイギリスに対する野心を打ち砕いたトラファルガーの海戦の話などは、有名に語り継がれ、ほとんど誰でも知っているのに、実際に、フランスが、イングランドに上陸し、イングランド内で戦われたリンカーンの戦いが、ほぼ忘れ去られているというのも不思議な話です。まあ、考えてみれば、当時の貴族は、まだほとんどフランス語を喋り、イングランドというのは、統一された国と言うより、ヨーロッパのひとつの地域的感覚が強かったわけですから、イングランドが国として一致団結し、敵国をやっつける、というはっきりした図式ではなかったからかもしれません。
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