テンプル・バー

セント・ポール寺院を背景にしたクリストファー・レンによるテンプル・バー・ゲイト(西側)
前回の記事に書いたロンドンのテンプルという地域の北側を東西に走る通りは、かつては新聞社が立ち並んだことで知られたフリート・ストリート。この通りを更に西へウェストミンスター方面へ向かうと、通りの名は、ストランドと変わります。東のシティーとフリートストリートから、西のウェストミンスターとストランドを隔てる境界が、テンプル・バー(Temple Bar)。

ロンドンは、現在のシティー地域からはじまり、広がって行った町で、かつては、ロンドン=シティーであったわけです。よって、要所、要所に、シティーへと入る関、門、のようなものが設けられており、テンプル・バーはそのひとつ。特にこの通りは、西のかつてのウェストミンスター宮殿から、東のロンドン搭をつなぐ通りでもあったので、テンプル・バーは重要な門であったのでしょう。

13世紀後半には、すでにテンプル・バーの名は文献に記述されているそうです。もっとも、このころは、木製のくいの間に鎖をかけただけの簡素なものであったようですが。14世紀の中ごろまでには、2階に牢屋を持つ、木製の門が建てられます。アン・ブリンが、ヘンリー8世と結婚した際には、この門は、修正され、お色直しに塗りなおされているそうです。

クリストファー・レンのテンプル・バー・ゲイト(東側)
さて、この木製のテンプル・バーの門は、ロンドン大火でも焼けずに生き延びるのですが、1670年代に、チャールズ2世の依頼により、クリストファー・レンが、新しくポートランド・ストーンを使用した石の門を作成。前回の記事に載せた近郊のテンプル教会も、同時期にレンによって、改造されていますし。新しいレンの石門の西側には、チャールズ2世のおじいさんのジェームズ1世と妃のアン・オブ・デンマークの彫像。東側には、処刑された父王チャールズ1世と、チャールズ2世自身の彫像が掘り込まれています。

ロンドン橋の南側に、謀反人の首がさらされたのと同様、この新しい門にも、謀反人の首が朽ち果てるまでさらされるようになり、近辺では、この首が良く見えるように、望遠鏡の貸し出しなどもあったのだそうです。有名な謀反人の首だったら、見たくなる人も沢山いたのでしょうか。

テンプル・バーでピロリーにかかるダニエル・デフォー
また、門の近くには、ピロリー(さらし台)も設置され、1703年には、作家、ジャーナリストのダニエル・デフォーも、ここで何日かさらし者になるという経験をするのです。上は、後に描かれた、さらし台に立つダニエル・デフォーですが、背後に描かれているはテンプル・バーの門。

現在のテンプル・バー記念碑(西側から)
1878年にもなると、フリート・ストリートとストランドの交通量が増え、交通渋滞を緩和するため、レンのテンプル・バー・ゲイトは除去されることとなります。代わりに道路の真ん中にテンプル・バーの記念碑が1880年に、建てられ、現在テンプル・バーにあるのは、この時のもの。「ここから東へ行くとシティーだよ」と、記念碑の上で、ドラゴンがお出迎え。

テンプル・バー記念碑(側面)
わきには、ヴィクトリア女王の彫像。

公の用事でシティーへやってくる王・女王を乗せた馬車は、一時的にテンプル・バーに止まり、シティーへ踏み込む前に、ここで、伝統的な儀式が執り行われます。この儀式というのは、テンプル・バーで、王・女王を迎えるロード・メイヤー(Lord Mayor、ロンドン・シティーの長)が、忠誠の印として、剣を王・女王に差し出す、というもの。チャールズ1世以前、剣は、シティー内にいる間は、そのまま王・女王に渡したままとなっていたそうですが、チャールズ1世が、テンプル・バーで、剣に触った後、それをそのまま返して以来、触った後は、そのままロード・メイヤーに返され、シティーにいる間は、剣は、王・女王は、ロード・メイヤーの庇護の下にある事を示すため、王・女王の前に掲げられます。

上のエリザベス女王の肖像は、この儀式の様子を描いたもの。馬車の窓から、小さく、テンプル・バー記念碑のドラゴンが見えます。何でも、この肖像のために、女王は、寒い中、戸外で長時間ポーズを取ったのだそうですが、観光客の記念写真のように、大きなチーズ・スマイル。(上の絵は、シティーとシティー内の同業者団体であるリヴァリ・カンパニーに関するサイトより拝借。こちら。)

シティーの儀式用の剣は、全部で5つあるのだそうですが、この儀式に使われるのは、真珠をちりばめた、真珠の剣(Pearl Sword)と称されるものだそうで、16世紀に、エリザベス1世が、シティーへ贈ったものと言われています。

時折、セント・ポール寺院での式典などに、エリザベス2世が参列する際に、その前に剣を捧げている人が歩いているのを見たことがある人もいるかもしれません。上は、2012年の、女王のダイヤモンド・ジュビリーの式典の際の、セント・ポール寺院内での写真。女王の前を、剣を掲げた時のロード・メイヤーが歩いています。

さて、それでは、クリストファー・レンのテンプル・バー・ゲイトは、除去された後、どうなったのかと言うと・・・とある貴族が、ハートフォードシャーの自分の屋敷の土地に移動させ、100年近く、その場所に立っていたのだそうですが、ぼろぼろに汚くなってきたゲイトを救出して、ロンドンへ再び持ってくるために、テンプル・バー・トラストなるものが1970年代に設立。巨額と、30年近くの時をかけて、ぴかぴかになったレンの石門は、ようやく、2004年に、やはりレンの設計によるセント・ポール大聖堂の北側、パタノスタースクエア(Paternoster Square)と称される小広場へ入る門として設置されます。パタノスタースクエアを含むセント・ポール周辺も、私がロンドンに始めてきた当時は、まだなんだか、ぼろっとした感じで、物悲しい風情でしたが、今ではすっかり綺麗になっています。このパタノスタースクエアは、公も入れる場所でありながら、三菱地所株式会社によって所有されている私有地なのだそうです。最近、ロンドン内で、こういう、一見、公の場所、実は私有地(多くは海外の会社による)というものが増えているのだそうです。こうやって、気が付かないところで、ロンドンの切り売りは続いているんですね。

ちなみに、シティーへ入るための古い門には、他にも、オールドゲイト、ビショップスゲイト、モアゲイト、クリプルゲイト、オルダースゲイト、ニューゲイト、ラドゲイトなどがありましたが、今は地名として残るのみで、19世紀以前に全て除去されており、現存するのは、このテンプル・バー・ゲイトのみです。救出されて良かったです。

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