投稿

2月, 2012の投稿を表示しています

書くことについて

イメージ
The task of an author is, either to teach what is not known, or to recommend known truths by his manner of adorning them; either to let new light in upon the mind, and open new scenes to the prospect, or to vary the dress and situation of common objects, so as to give them fresh grace and more powerful attractions, to spread such flowers over the regions through which the intellect has already made its progress, as may tempt it to return, and take a second view of things hastily passed over, or negligently regarded. と、サミュエル・ジョンソンは言いました。同感ですので、今までのブログポストも、それを旨に書いてきたつもりです。自分で、どこまで目指すとおりに書けているかどうかは、わかりませんが。(上の文は、面倒なので、訳はしません。) サミュエル・ジョンソンはまた、こうも言いました。 No man but a blockhead ever wrote, except for money. 金銭を目的にせずに書くのはバカ者だけ。 ブログをする上で、金銭的に見返りの無いのは覚悟ですが、精神的な見返りも、ほぼ0に近いと感じる昨今、そんな作業にエネルギーを費やすのは、これは、私は、本当にblockheadかもしれない。 少しでも良いものを書こうと、時間とエネルギーをかけるに値する行為か? その時間とエネルギーを他の物に向けたほうが意義が無いか? ただの、骨折り損のくたびれもうけ? 所詮、個人でやっているブログなどに、いいと思うような物を書いたところで、ヒットのみを目的とするようなサイトや個人に、時に、コピーペイストされて、どこかで無記

骨髄移植その後

イメージ
だんなが、急性白血病のため、 骨髄移植 を受けてから、約7週間経ち、やっと、昨日、病院から、移植自体は成功したようだ、という事を聞かされました。時折、ドナーさんからもらった骨髄が、受け手の身体を拒絶して、定着しない事があるようなのです。新しい住処に移って来た骨髄が、この場所はどうも嫌だ、と住むのを拒否する・・・といったらわかりやすいでしょうか。とりあえず、まず、その心配はなくなったようで、第1ハードルを乗り越えた感じです。 先週、その判定のために、腰骨のあたりから、骨髄サンプルを取りました。日本では、マルクと呼ばれる、この作業が、部分麻酔をかけるものの、非常に居心地が悪いらしいです。巨大注射器を、ぐりっと骨に差し込んで骨髄を抽出するのですが、先週は、若いお医者さんが、それは深く注射器を差し込んで、なかなか抜けなくなったのだそうです。ぬこうとすると、だんなの体が、宙に浮いてしまうくらいだったらしく、最終的に、お医者さんはベッドに足をかけて引き抜いた・・・という話。うちのだんなは、かなり体が大きいおじさんなのに。まるで漫画の様に聞こえてしまうかもしれませんが、本人、その後数日間、腫れた感じがすると、嘆いていました。「骨髄サンプルを取るのには、もう慣れているはずなのに、前回のは、ちょっと参ったな。」 それだけ苦労して取ったサンプルを検査した結果、100%がドナーさんの骨髄になっており、これが新しい血液を作りつつある事と、(現時点では)白血病細胞が一切発見されなかった事がわかった次第です。血液はまだ以前のB型で、ドナーさんのO型には変化していませんが、血液が完全に変わるには時間がかかるようです。また、山の様な薬も、まだ飲み続ける必要があります。 移植後、退院してからすぐに、血尿が出始めて、再入院するというハプニングも経験しましたが、これは、何かのウィルスによるものだそうで、膀胱から血の塊を掻き出す簡単な手術をし、ウィルス用の薬も投入されて、現在はおさまっています。また、しばらくの間、血小板の数値があがらず、鼻血なども出し、時折、血小板の投入を受けていましたが、こちらも、徐々に自分で作り始めているようです。しばらく、おかしくなっていた味覚もすっかり元へ戻り、食べ物への情熱も、再び燃え上がっている模様。 今、一番彼を悩ましているのは、体中が、かゆい・・・事。

不満の冬

イメージ
Now is the winter of our discontent Made glorious summer by this sun of York; And all the clounds that lour'd upon our house In the deep bosom of the ocean burried. 不満の冬は 今や、我らヨーク家の陽光により輝かしき夏となり 我家を覆っていた雲は全て 深い海の底に沈む リチャード3世、第一幕、第一場 (ウィリアム・シェークスピア) これは、薔薇戦争の終結を描いた芝居、「リチャード3世」での、ヨーク家のせむし男リチャードの最初の台詞です。宿敵ランカスター家をくだし、リチャードの兄が、エドワード4世として王座につき、権力を求める血みどろの戦いは、ヨーク家の勝利により、無事終わったかに見えた・・・が・・・。と、芝居と中世の歴史の話は、いつかまた別の機会に書くこととして、場面を、早送りで、20世紀へ移します。 この、シェークスピアの台詞からとった「 winter of discontent 」(不満の冬)というフレーズは、1978・79年のイギリスの冬を指して、良く使われます。この冬に繰り広げられた悲喜劇の主人公は、時の労働党の首相ジェームズ・キャラハン。サニー・ジム(陽気なジム、ジムはジェームズの愛称)とニックネームされた比較的人気だったキャラハン首相と労働党内閣が、政治的致命傷を受ける冬と化します。 1973年10月の第4次中東戦争(ヨム・キプル戦争)を原因として起こったオイル・ショックの影響と、賃金の上昇で、イギリスのインフレは、以前に増して、歯止めが利かぬものとなり。1970年代を通してのインフレ平均年間上昇率は13%、1975年には、これが25%に達します。政府は、インフレの更なる悪化抑制のため、公共サービス労働者(パブリック・セクター)の給与上昇率を5%までと制限し、その他一般職(プライベート・セクター)の給与もそれに見習うものとする苦肉の対策にでるのです。 が・・・政府にとって頭が痛かったのは、当時の労働組合が非常に強力であったこと。ストライキを規制する法もなく、労組は、比較的安易に、ストライキを起こすことができたこと。戦後の50年代から、労組は、国の財政状況

ボディー・スナッチャー

イメージ
宇宙から、ゼリー状のバクテリアの様な生物が地上に降ってきた。それは、赤い奇妙な花を咲かせ、やがて、そこから、巨大なさなぎにも似たポッド(さや)が育つ。さやは、其々の人間の外見をコピーして、新しい人間を複製する。複製が完了すると、元となった人間は消滅してしまう。こうして生まれたポッド・ピープル(さや人間)は、元の人間と外見は同じでありながら、一切の感情を持たない。さや人間たちは、次第に、その数を増し、普通の人間達は、いなくなっていく・・・というのが、この映画「Invasion of the Body Snatchers」(邦題:SF/ボディー・スナッチャー)の概要。 サンフランシスコの衛生管理官であるエリザベスは、外から摘んできた赤い花をコップに入れ、寝る前に、同居している彼氏、ジェフリーの枕元へ置く。翌朝、花は消えており、ジェフリーは、外見は同じながら、今までとは全く変わった感情を示さぬ冷たい人物と化していた。理由がわからぬエリザベスは、「ジェフリーがジェフリーでなくなった」と仲の良い同僚マシュー(ドナルド・サザランド)にうちあける。マシューは友人の精神科医デイビッド(スポックでお馴染みのレナード・ニモイ)にエリザベスを紹介するが、すでにさや人間と化していたデイビッドは、ジェフリーが変わったように見えるのは、エリザベスの精神的なものだとする。 そうこうするうち、さや人間はどんどん増えていき、警察や職場の人間も変身してしまう。事態に気づくと、マシューとエリザベスは、マシューの友人の売れない作家ジャック(ジェフ・ゴールドブラム)と、どろ風呂を経営するジャックの妻のナンシーと共に、自分達も仲間に加えようと追ってくる、さや人間達から、必死で逃れようとする。このさや人間達が追いかけてくる様子が、怖いのです。仲間でないと分かると、そちらへむかって指を刺して、「きーっ!」と異様な声を張り上げて、後ろをつけて走ってくる。途中、ジャックとナンシーは、追っ手をばかす為、他の2人を離れ、2手に別れるのですが、さあ、この4人は全員、逃げ切ることができるのか。 ラストまで、さや人間になってしまったかどうか定かでないナンシーとマシューが、最後に対面するところが、この映画の一番記憶に残る場面です。ドナルド・サザランドの、異様な雄たけびと、あの怖い顔が・・・忘れられない。

出陣、雪かきシャベル!

イメージ
ヨーロッパ大陸が、ここしばらく、寒さと雪で大変な事になっていたのは、テレビのニュースなどで見て知っていましたし、このヨーロッパの寒さをもたらしていた高気圧の影響で、うちの室内の気圧計(バロメーター)も、しばらく、異様な高さを示していました。そして、昨日、ついに、イギリスにも雪が上陸。 一昨日の夜から、さらさら降り始め、一晩で、20センチくらいは積もったでしょうか。朝起きると、一面、真っ白。今冬は、 暖冬 だ、暖冬だと、喜んでいたのを、やられた!というところです。積もりたての雪はきれいで、ちょっとその辺を歩き回るのも楽しくはありますが。 前回の冬の雪騒動 の際もそうでしたが、雪は鳥達にはありあがたくないニュース。しかも、すでに春の兆しをみせていたのに、いきなりこれですから。朝から、ボールの様に、羽を立ててふくらんだブラックバード達が、餌をもらいに、キッチンのわきの塀に列を作って待っていました。そこで、干しぶどう、パンくず、粗くすったチーズ、その他諸々の、贅沢な鳥用バイキングを用意してさしあげたのです。 そして・・・こんなこともあろうかと、11月に購入してあった雪かき専用シャベルが大活躍。鉄製の普通のシャベルとは違い、幅の広いプラスチック製で、軽量なので、効率的に雪かき可能。だんなは、体力づくりにも良いとか言いながら、このおニューのシャベルで車庫の前の車道の雪かき。私は、パティオの雪かきをしました。身体も暖かくなるので、一石二鳥なのです。終わった後は、通りがかった隣のご主人に貸して、有り難がられました。「雪かきシャペルなんぞ、買うときに限って、雪は降らないものだ」などと言っていたのが、無事役立つチャンスがやってきて・・・ まさに、転ばぬ先のシャベル、となったのです。

クィーン

イメージ
ヘレン・ミレンがエリザベス2世を演じるこの映画は、トニー・ブレアが首相となった、 1997年5月 に始まり、同年夏のダイアナ妃のパリでの事故死、その葬式と、王室の対応を描いたものです。 総選挙で、ジョン・メージャー率いる保守党をやぶり、大勝利をおさめた、労働党党首トニー・ブレア(マイケル・シーン)。正式に首相と名乗るのは、形式上、国家の長である女王を、バッキンガム宮殿に訪問する「kissing hands」という儀式の後となります。宮殿に着いて女王に合う前は、ミスター・ブレア、女王と会見後、女王陛下の首相として認められ、宮殿を去る際には、ブレア首相と変身するわけです。映画内でも似たようなセリフが出てきますが、トニー・ブレアの自伝によると、この際、女王いわく、「あなたは私の10番目の首相よ。私の最初の首相はウィンストン(チャーチル)。あなたがまだ生まれる前の話だけれど。」 その夏のダイアナ妃の事故死に、国民は、半ヒステリーとしか思えないような嘆きぶりを示し、スコットランドにある、王室の屋敷バルモラルに引きこもったままで、特別な対処をするわけでもない女王に、その怒りが向けられる。何事にも動じず、感情を赤裸々に表す事を良しとせず、黙々と任務を果たす、昔のイギリス人気質に慣れていた女王は、この変わっていく国民性に当惑を見せ。 事態への、国民と王室との反応のギャップを埋めるべく、調停に奔走するブレアの助言を、徐々に、聞き入れ始め、女王は、今までの姿勢を曲げ、バルモラルから、予定よりはやく、ロンドンへ戻り、バッキンガム宮殿の旗をハーフマスト(半旗)にし、国民のためのダイアナに関する特別のメッセージを録画しと、柔軟姿勢を見せて、危機を乗り越える。 大体、ダイアナ事故死の後、やれ女王の態度が冷たいだのと大騒ぎしたのは、タブロイド(芸能週刊誌に毛が生えたような新聞)の読者がほとんどで、ダイアナ妃生存時代は、そのスクープを毎日の様に読んでは喜んでいた人たち。タブロイド紙と、その読者達が、女王は、バッキンガム宮殿の旗を、ダイアナへの弔意を示すため、半旗にするべきだ、とのキャンペーンを始めたときに、トニー・ブレアが、映画でもらすセリフは、 Will someone please save these people from themselves! 誰か、こ

グッバイ、レーニン !

イメージ
「グッバイ、レーニン!」は、東ドイツの社会主義の崩壊を時代背景とした、コメディー・タッチの人間ドラマです。 ***** 1989年、東ドイツ領ベルリン。青年アレックスの父は、彼が幼い時に西へ亡命したまま行方がわからず、母は、熱狂的社会主義者。ある日、アレックスは、反社会主義デモに参加し、その際、偶然、通りかかった母親が、それを目撃。母は、ショックで心臓麻痺を起こし、そのまま昏睡状態に。数ヵ月後、母が昏睡から覚めたときには、すでにベルリンの壁はくずれ落ちていた。 部屋でしばらく療養する事となった母の様態を心配し、再びショックを与えぬようにと、アレックスは、社会主義が崩れ落ちた現実を母から必死で隠すため、あの手、この手の工作・・・店の棚から消えていっている、社会主義時代出回っていた食べ物を入手、テレビのニュースを友人の力を借りて、自分達で作製。それでも、母の部屋の窓からも、西の資本主義の影響が見え始めてくる。アレックスは、西ドイツの人間達が、東へ亡命してきている、など、苦し紛れの説明。 その間、しばらく会わなかった父と、アレックス家族の再会もあり、アレックスは、父が、自分達を捨てたのではなく、父が西へ逃げた後、子供達を連れて追っていく予定でいた母が、怖くなって、西へ逃げずに、居残った事情を知らされる。 やがて、看護婦である、アレックスの恋人ラーラから、真実を説明された母は、それを冷静に受け入れ、まだ、母をかばうための芝居を続けるアレックスには何も言わず、1990年10月、統合ドイツが成立した3日後、静かに息を引き取る。 ***** 共産時代の食べ物の、きゅーりの酢漬けのようなものを、このお母さんは好物としているのですが、これが、なかなかおいしそう。共産時代のポスターや物資なども、いまや、レトロものとしての価値がありそうな。 人づての話だと、西側のドイツ人は、東側の人間を、いまだ少々、見下している事が多いなどという話を聞きます。自分で住んでいるわけでもないので、何とも言えませんが。そして、社会主義の下で生まれ育った世代には、東時代をノスタルジーを抱いて思い起こす人もまだいるとか。まあ、統合してからまだ、20年ちょっとですから。全体としては、非常に良くやっている国に見えるのです。統合10年くらいで、「グッバイ・レーニン!」のような映画が作

深夜の告白

イメージ
原題の「Double Indemnity」とは、倍額保険のこと。脚本をビリー・ワイルダーとレイモンド・チャンドラーが書いたこの映画は、そう、保険金殺人の話です。 ロスにある保険会社のセールスマン、ウォルター・ネフは、車の保険の更新を促すため、顧客のひとり、ディートリクソン氏の家を訪れるが、氏は留守で、ネフが出会うのが、氏の2度目の美しい妻、フィリス。典型的ファム・ファタール(Femme fatale)のフィリスの魅力にやられてしまったネフは、夫がもう我慢できないと言う彼女と共謀して、氏に気づかれないように、彼を保険にかけ、その保険金を目当てに、殺害するのです。 「Double Indemnity」は、あまりありえない状況で事故死した場合に、通常の倍額の金額が遺族に与えられるというもの。この場合は、鉄道事故で死亡した場合、倍額もらえる、という内容。2人は綿密に計画を練り、鉄道路線上に、すでに殺害した氏の遺体を横たえ、氏が、乗っていた列車から、誤って線路に転がり落ち、後から来た列車に轢かれたように見せかける。 この事件の後、活躍するのが、ネフとは仲の良い同僚のキーズ。彼は、長年に渡る、保険金の請求審査官としての経験から、いつわりの請求を嗅ぎ当てるのに優れた能力を示すのです。警察は、事故死としたものの、キーズは、ディートリクソンが、死亡の際、足に怪我をして松葉杖をついていたのに関わらず、この足の怪我に対しては、保険の請求をしていない事実に気づき、この事件、何かがおかしい、と感じ始める。こうして、キーズが、調査を開始し、徐々に真相に近づいていく様子は、シャーロック・ホームズも顔負け。そんなキーズを見ながら、冷や汗もののネフは、やがて、ディートリクソン氏の最初の妻の娘、ローラから、最初の妻の死にも、当時彼女の看護婦であったフィリスが関わっている疑いがある事を知らされる。 可愛さ余って憎さ100倍となるネフ。したたかな悪女によって、とんでもない事に巻き込まれた、と、殺意を持ってフィリスの家を訪れるのです。彼女は彼女で、拳銃をソファーの下に隠し、ネフを待ち構えていた。ネフに向け、銃を発射し、傷を負わせながらも、とどめをさせなかったフィリスを、ネフは殺害。彼は、その足で、真夜中、会社へ行き、キーズのオフィスに入り、録音機にむかって、事件の真相の告白をする・・・そ

恋はデジャ・ブ

イメージ
2月2日はグラウンドホッグデー。アメリカで、春がいつ到来するかをグラウンドホッグにお伺いする日。冬眠からさめて穴から出てきたグラウンドホッグが、自分の影を見ると春はまだ先、曇りで影を見ずに済むと春はすぐそこ。なんとも非科学的で、まだ、ぬくぬく眠っていたグラウンドホッグにとっては、迷惑きわまりないイベントでありましょう。アメリカ各地で開かれるこの日のイベントの中でも、一番有名なものが、ペンシルバニアのパンクサトーニー(Punxsutawney)のもの。 さて、この映画、2月2日のパンクサトーニーでのこのグラウンドホッグ・デーの報道をするために、現地に送られた、テレビの人気お天気おじさん、フィル(ビル・マーレイ)が主人公。 苦虫噛み潰したような顔で、人生斜に構えた彼は、「ねずみを崇拝する」くだらないこのイベントの報道をさっさとすませて、帰りたい。・・・ところが、翌日、目が覚めると、その日もグラウンドホッグ・デーで、まったく同じ事が繰り返される。そして、その翌日も、その翌日も、同じ日に、同じ町で、同じ出来事の繰り返し。 そんな繰り返される日の中で、番組プロデューサーのリタ(アンディ・マクダウェル)と何とかベッド・インしたいとがんばるフィル。失敗に失敗を重ねるうちに、彼女の興味や考えに関心を持ち始め、それがわかると、彼女もフィルを好きになり。「大学で、19世紀フランスの詩を勉強した」という彼女を感心させるために、毎日フランス語を勉強し、彼女にフランスの詩を暗誦してみせ。「フランス語が喋れるの?」の彼女の問いに「ウィー!」と答えるそのすまし顔が何とも言えない、可愛いおじさんぶりです。 最初は閉じ込められた気分になり、絶望的になり、自殺まで試みるフィルが、徐々に、今までは目もくれなかった周囲の人たちに興味を持ち、彼らのことを良く知ろうと努力を始め、また自分磨きにも力を入れていく・・・。 牢獄に入っているうちに、学位を取ったり、哲学に目覚めたり、本を書いたりなどする人がいますが、閉じ込められた状況は、自分と周囲の再発見をする機会でもあるのかもしれません。何の変哲も無い繰り返しの日常の中に、知識や技術を向上させる、人間として昨日より少しでも、何かの面で向上するチャンスがあるもの・・・。笑わせながら、学校の道徳の本に出てくるような教訓を学ばしてくれる映画です。