書くことについて

The task of an author is, either to teach what is not known, or to recommend known truths by his manner of adorning them; either to let new light in upon the mind, and open new scenes to the prospect, or to vary the dress and situation of common objects, so as to give them fresh grace and more powerful attractions, to spread such flowers over the regions through which the intellect has already made its progress, as may tempt it to return, and take a second view of things hastily passed over, or negligently regarded.

と、サミュエル・ジョンソンは言いました。同感ですので、今までのブログポストも、それを旨に書いてきたつもりです。自分で、どこまで目指すとおりに書けているかどうかは、わかりませんが。(上の文は、面倒なので、訳はしません。)

サミュエル・ジョンソンはまた、こうも言いました。
No man but a blockhead ever wrote, except for money.
金銭を目的にせずに書くのはバカ者だけ。

ブログをする上で、金銭的に見返りの無いのは覚悟ですが、精神的な見返りも、ほぼ0に近いと感じる昨今、そんな作業にエネルギーを費やすのは、これは、私は、本当にblockheadかもしれない。

少しでも良いものを書こうと、時間とエネルギーをかけるに値する行為か?
その時間とエネルギーを他の物に向けたほうが意義が無いか?
ただの、骨折り損のくたびれもうけ?

所詮、個人でやっているブログなどに、いいと思うような物を書いたところで、ヒットのみを目的とするようなサイトや個人に、時に、コピーペイストされて、どこかで無記名で使用されてしまっておしまいじゃないかなどと思う事も多々。それにしても、自分で書いたものでもないものを、自分のもののように上げる事で、どんな精神的見返りがあるのか、それはそれで、不思議ですね。

ブログを続けることによって、得てきたことは、書くときに調べ物などをして、知識が広がり、それをまとめて、書く行為で、記憶に良く焼き付いたこと。また、1年前、2年前に、何をしていたかと振り返る時の自己記録として。そういった意味では、日記ですので。

When a man writes from his own mind, he writes very rapidly. The greatest part of a writer's time is spent in reading, in order to write; a man will turn over half a library to make one book.

心に思っている事をただつらねるだけなら、それは素早く書くことが出来る。作家が執筆に携わる時、その時間の多くは、読むことに費やされる。書くためには、一冊の本を仕上げるためには、図書館にある本の半分はひっくり返して見ることになる。

I never desire to converse with a man who has written more than he has read.

読む量より、書く量の多い人間とは、決して、会話をしたくない。

と、これらもまたサミュエル・ジョンソンからの引用となりますが、誰もがブログを書き綴り、ツイートをする今、書く前に、良質のものを沢山読む、できるだけ信頼のできる情報を仕入れる、そしてそれについて、良く考える、という態度は、大切な事に思えます。他人の言っている事を聞くより、自分で喋りたい・・・他人の書いたものを読むより、自分で書きたい・・・という人の方が圧倒的に多いでしょうが、口を開く前に、物を書く前に、どれだけ、喋ろうとしている事実を、自分が把握しているか、いろんな角度から考えてみたか、ポーズする時間は必要です。

ボタンを押すだけの簡単な行為で、自分の書いた物がインターネット上に出現する安易さから、書くことは安易だ、という感覚が強まっている現在、ドクター・ジョンソンのこうした言葉は、いつも心にとめておきたいと思う次第です。

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