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3月, 2010の投稿を表示しています

ブリティッシュ・サマータイム

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ブリティッシュ・サマータイム(夏時間)が本日始まりました。日照時間をもっと有効に使えるようにと、本日から10月の終わりまで、イギリスの時間はGMT(グリニッジ・ミーン・タイム)より1時間早くなります。よって、昨夜はラジオやテレビで、「寝る前に、時計の針を一時間進めるのを忘れないでね」とやっていました。日本との時差も、冬季は、日本はイギリスより9時間早いのですが、ブリティッシュ・サマータイムの間は、その時差は8時間となります。 この夏時間というのを、実際にヨーロッパで最初に使い始めたのは、第1次大戦中のドイツだったそうで、減っていく石炭のたくわえを節約する手段だったといいます。夜間、明るい時間が長ければ、電気や暖房の必要が減るというわけです。これが、他の国によって徐々に模倣され、第2次大戦中は、イギリスでも資源節約のため、夏時間を使用したとか。大戦後、夏時間システムは一般化され、今では、夏季は時間が一時間早い、というのは、すっかり習慣となりました。 現在、GMTからは、永久におさらばし、シングル・ダブル・サマー・タイム(SDST)というシステムを導入したらどうか、という話が持ち上がっているようです。どういう事かというと、冬の間は、GMTより1時間時計の針を進め、夏の間は、GMTより2時間早くする、というもの。省エネ的な意味からも、好ましく、また、暗くなるのが早い冬季の道路等での事故の削減、仕事後や学校後も野外でのリクリエーションの時間が長くなるという健康面、また観光の促進にもつながり、望ましいのでは、というのがSDST賛成派の理由。これを導入すると、イギリスも、現在の大陸ヨーロッパと同じ時間で動くことになるわけです。 私も、すぐ日が暮れる冬の午後はたまらなく憂鬱なので、冬に時計を1時間進めるのは賛成ですが、夏に2時間は、ちょっと日が暮れるのが遅すぎやしないかな・・・という気がしないでもありません。いずれにしても、お日様を浴びる時間が長くなるサマータイムの始まりは、心弾む時期である事はたしかです。

天体と時と・・・グリニッジ天文台

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「以後、最大の注意と勤勉をもって、天体の動きの目録と、動かぬ星の場所を記録することに従事し、航海の術を完璧なものとする旨に必要である、経度の判明に、貢献できるよう尽力する事を要求する。」 以上は、1675年、チャールズ2世が、王立天文台(Royal Observatory)を、 グリニッジ (Greenwich)に設立した際に、初代の天文台長ジョン・フラムスティード(John Flamsteed)へ出した任免状の一部です。 グリニッジ王立天文台・・・その設立の理由は、海にあり。航海に役立つよう、天体を観測し、そして何より、空を鍵として、船がいる場所の経度を知る事が出来るようにすること。世界各地からの貴重な積荷を乗せた船が難破ばかりされては困る。 緯度は、北半球では北極星、南半球では南十字星を使い、船上からその角度を測ることで、比較的判明が容易であったものの、経度の判明は、至難の業で、なかなか事が進まなかった。 地球は自転で360度を一日で回る。360度を24時間で割ると、15度。要は15度の経度の違いが、1時間の時間差となるわけです。ですから、経度は、地球上の2地点の時間(グリニッジなどの基準となる場所の時間と、船の場所の時間)がわかれば、算出できるわけですが、当時は、まだ、航海に耐え、船上で正確な時を刻むことができる時計が無かった。従って、船上での時間は太陽の位置などで判断できても、それと比べられる基準地の時間がわからない。そこで、チャールズ2世は、「答えは、やはり天体にあり」と、天体を詳しく観測することにより、経度を知る何らかの打開策を得たかったところ。 フラムスティード・ハウスと称される、一番最初の天文台の建物の主要デザインは、本人も天文学者でもあった建築家クリストファー・レン。天文台長の住まいも兼ねており、その寝室等も見ることができます。天体観測にあたっては、フラムスティードは、観測機器を地球を南北に走る線(子午線・meridian)にそって設置し、任務に当たります。 第2代目の天文台長は、エドモンド・ハレー(Edmund Halley)。ハレー彗星の名は、この人から取ったものです。彼の任命後、オリジナルのフラムスティード・ハウスの東側に増築がなされ、観測に使用する子午線も、フラムスティードのものから、東へ移します。 新しい

早春のグリニッジ

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ロンドン南東に位置するグリニッジ(Greenwich)を訪れたのは実に久しぶりです。ちなみに、この土地名、日本語で、いつもグリニッジとあるのが常々疑問でした。実際は、グリニッチと書いたほうが発音に近い気がしますが、一応、グリニッジとして統一して書いておきます。 今回の訪問では、ロンドンの地下鉄バンク駅から、ドックランズ・ライト・レールウェイを使い、カティー・サーク駅下車しました。観光要所は、当駅を出て徒歩で簡単に行けます。 前回行った時は、確か、ドックランズ・ライト・レールウェイが、グリニッジのあるテムズ南岸までまだ延びておらず、よって、カティー・サーク駅もまだ無く、対岸のアイランド・ガーデンズ駅から、テムズ川の下を通る地下道を歩いて、グリニッジに辿り着いたと記憶します。上の写真は、その地下道への出入り口。 残念ながら、2007年に火災で被害を受けたカティー・サーク号は、まだ修理中の様で、見当たりません。 テムズの向こう側に聳え立つ高層ビルは、ロンドン・シティーと肩を並べる金融街のカナリー・ワーフ(Canary Wharf)。 グリニッジの主な観光名所として、カティー・サークの他に、 旧王立海軍学校(Old Royal Naval College) クイーンズ・ハウス(Queen's House) 国立海事博物館(National Maritime Museum) そして観光客には人気ナンバー1の旧王立天文台(Royal Observatory) などがあります。 前回は、後者3つの博物館は、有料だった気がするのですが、今回3つとも無料となっていました。これは、全部入らない手は無い。 この威厳ある建物が、旧王立海軍学校(Old Royal Naval College)。 ここは、チューダー朝の時代には、プラセンティア宮殿(Palace of Placentia)があった場所です。今は無きこの宮殿で、ヘンリー8世が生まれ。後には、メアリー1世、更に、エリザベス1世も、ここで生まれています。当宮殿は、チャールズ2世の際に取り壊されます。 1694年に、負傷した船乗り達の居住地として、グリニッジ・ホスピタルがこの跡地に設立されます。設計は主にクリストファー・レン及びニコラス・ホークスモア。このグリニッチ・ホ

ラム酒と船乗り

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ラム酒(rum)・・・サトウキビから作られるこのリカーは、1655年に、イギリスがスペインよりジャマイカを獲得して以来、イギリス海軍とは切っても切れない仲となり、船員達には、大切な飲み物となります。 昔の船乗りは、船内で、一日、最低でも半パイント(注:1パイント=568ml)の薄めていないラム酒を供給されていたそうですが、アルコールが強すぎて、酔っ払いが出たせいでしょうか、1740年、エドワード・ヴァーノン提督によって、水を2、ラムを1の割合で薄めたもの(Grog)を代わりに配給するようになったという事です。このイギリス海軍の伝統が終わったのは1970年と、わりと近年。 HMSベルファスト 内にも、配給用のラム酒を入れていた樽が展示されていました。 さて、トラファルガーの海戦にて船内で死亡したネルソン提督。その死体は、陸に戻るまで保存するため、ラム酒の入った樽に入れられたそうです。ある逸話によると、ネルソン漬けの、彼の血の混じったラム酒を飲むと、勇敢になれるのでは、と船員達が樽の下に穴を開け、その液体をくすねて飲んだ、という話があります。面白い話ですが、やはり真偽のほどはわからないようです。 我家は、それほどアルコール好きの家ではないので、キャビネットに一応2本入っているラム酒のボトル、なかなか使い切らず、残っています。前回大量に使ったのは、 クリスマス・プディング を作った際に、ブランデーの代用にして、ドライフルーツをラム漬けにした際でしたか・・・。 1本は、ニカラグアの知り合いからのお土産でもらったもの。裏ラベルには、「7年間、オークの樽で寝かせた一級品。できれば、割らずにストレートで飲むか、オンザロックで、水割りか、ソーダウォーターで割るのが良し」、なんて書かれてます。ドライフルーツ漬けるのに使ったら申し訳ないところでしょうか。 もう1本は、その辺のスーパーで売っているLamb's Navy Rum(ラムのネイビー・ラム:日本人には、ちょっと手ごわい発音の商品名です)。こちらのボトルの裏ラベルには、「アルフレッド・ラムが、テムズ川沿いに倉庫を設けたのは、1849年の事。当時は、まだ、貴重なこのリカーをロンドンへ運ぶため、ウィンドジャマー(windjammer、貨物を運ぶ大型帆船)が、海賊船を振り切って海を渡

ダッフル・コート

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テムズ川に停泊する戦艦 HMSベルファスト を訪れた際、お土産にパンフレットを買って帰りましたが、それを家でぱらぱらめくっていると、氷ついた甲板でポーズを取る乗組員の数人が、ダッフル・コート(duffle coat)を着ている写真に目が留まりました。映画、 「第三の男」 の記事を書いた際、同映画内、メージャー・キャロウェイ役で、ダッフル・コートを着て登場するトレヴァー・ハワードが良かったという意見をもらってから、何となく気になっていたダッフル・コート。ちょいと調べてみることにしました。 その名の言われは、17世紀、防寒に優れた厚手のウールの布地がフランダース(現ベルギー内)のダッフルで作られたことに由来すると言います。 この布地を使ったダッフル・コートは、第1次世界大戦中、英国海軍に使われ始めたそうですが、その形を少々変えたものが、更に、第2次世界大戦中の英海軍(特に、HMSベルファストを含む、寒い北方の海での任務にあたる軍船)にて着用され、後に人気に。 凍りつくような寒さを防ぐため、他の厚手の服や、コートの上から羽織れるよう、たっぷりと作られ、フードも、帽子の上から被れるよう大きめ。前部を、ボタンではなく、木製のトグルで閉じられるようになっているのは、手袋をはずさずに開け閉めが出来るようにするため。 海軍上部の人も着ていたようで、上の絵の様な感じの写真も、HMSベルファストのパンフレットに載っていました。 デザイン的にかわいい感じがしないでもないダッフル・コートを、あまり、漫画チックにならないように、中年男性が着こなすには、やはり苦みばしった顔は有利です。「第三の男」のトレヴァー・ハワードは、ベレー帽とダッフル・コートといういでたちでした。これも似合っていました。 防寒素材の開発が進んだ現在では、野外で働く者が、雨風と寒さを防ぐ上着・・・という当初の実用的な目的は無くし、おしゃれアイタムとなりましたが。確かに、厚着の上に、更にダッフルを羽織って任務に当たるのは、さぞかし、重く、動きにくかった事でしょう。ちなみに、購買量で、最近のダッフル・コートの世界市場の40%を占めるのは、日本なのだそうです(約10年前の新聞記事の情報なので、現時点でも同じ数値かは、わかりませんが。)。 さて、良きダッフル・コー

HMSベルファスト

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いつでも行けると思って、いまだ訪れていないロンドンの観光スポット、まだあるのです。先日、何度わきを通ったかわからないのに、観光した事がなかったHMSベルファストの内部を見学してきました。 テムズ川南岸、タワーブリッジを近くに臨む、この第2次世界大戦に活躍した戦艦(Cruiser: 巡洋艦)は、今では帝国戦争博物館(Imperial War Museum)の一部。その名の通り、1938年に、北アイルランドのベルファストにて造られました。ちなみに、HMSは、His Majesty's Ship(陛下の船・王様の場合)、またはHer Majesty's Ship(女王陛下の船・女王様の場合)の省略です。 ざっと、ベルファストの経歴を書くと、 第2次世界大戦勃発後、1939年9月から、ドイツへ物資が流れぬよう、北海のパトロールの仕事を開始。ところが、同年11月には、ドイツの仕掛けた磁気機雷によって大被害を受け、修理のため、その後3年は任務を外れます。 復活後の1943年11月より、ロシアへの貨物を輸送する船の護衛に当たります。北極海で、そりゃ寒かったでしょう。むくむくと重ね着した姿で、氷に覆われた甲板に立つ乗組員の写真など、南極探検隊のようです。 そして、1944年6月6日のD-Day(ノルマンディー上陸の日)には、上陸部隊の援護射撃にベルファストも出動。それから5週間、ドイツ軍を押して内陸へと進む部隊の援護射撃を続け、前線が、ミサイルの射撃範囲からはずれた段階で、一休みにプリマス港へ戻ります。 大戦残りの期間は、極東へ赴き、日本軍の捕虜となっていた生存者と市民の救助非難活動。 1950年から52年にかけては、今度は朝鮮戦争で極東へ赴きます。 かつての大英帝国の領域内の国が、次々独立する中、世界の海をパトロール必要も段々なくなり、ベルファストの完全引退は1971年5月。帝国戦争博物館による、第2次大戦中の巡洋艦をぜひ保存したいという申し出と働きかけで、解体を逃れ、同年の10月21日(トラファルガー海戦記念日)テムズ川にて博物館としてオープンされ、現在にいたっています。 船内には、人形を使って、船乗りの生活の再現の展示があります。と、書くと、なんだか子供だましの人形館のようですが、これが結構面白かったです。長期、陸を離れ船中生活となるので、船内は、小さな町のよ

人頭税で頭を無くし・・・

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1990年3月31日、時の保守党首相マーガレット・サッチャー(在職1979-1990年)が導入した人頭税(Poll Tax)の施行開始の直前。ロンドンで反人頭税の大掛かりなデモが繰り広げられます。人頭税は、個々人の財産や収入、貧富の差に関わらず、万人に一律にかかる地方税。不人気だったわけです。 初めは平和的なデモとして始まったものの、警察とデモ側との小競り合いから、大暴動へとエスカレート。ロンドンで起こった最大の暴動とされています。負傷者113人(うち45人は警察官)、警察の負傷馬20匹、逮捕者340人。店やレストランのドアや窓ガラスは破壊され、道端の車はひっくり返され、火をつけられ。数日後、リージェント・ストリートを歩いたとき、窓ガラスが割られたため、板で塞いであるショップ・ウィンドウをいくつか見かけました。暴動のあった日に、のこのこ、ウェストエンドを歩いてなくてよかったな、と思ったものです。 人頭税導入に対しては、与党内でも、「政治的混乱をもたらす」と不賛成を表明した者がかなりいたようですが、サッチャーさん、強行に推し進め、その結果、この大暴動。暴動に関しては、サッチャー女史は、ただの不正行為、と軽くあしらおうとしたものの、保守党の人気は落ち込んで行きます。あまりにも長い間、お山の大将で首相をしていると、段々、皇帝か何かのように、自分の決めた事は何でもできる、と幻想を抱いてしまうのでしょうか。 この年の11月、彼女のリーダーシップに疑問を持ち始めた党内部のプレッシャーから、サッチャー女史、ついに辞職を余儀なくされダウニング・ストリートを去ります。その後の、ジョン・メージャー政権の下、人頭税は廃止され、持ち家の価値によって課税される、現在の地方税、カウンセル・タックスに取り変わります。 ***** 人頭税は政治家の運のつき・・・というのは、今も昔も同じようです。 時代遡ること14世紀。リチャード2世の下、当時のカンタベリー大司教、また大法官(Lord Chancellor)であったサイモン・サドベリーは、1380年に、フランスとの百年戦争の資金調達のため、人頭税を導入。 この事が一因となり、翌年、1381年には、ワット・タイラーの乱とも呼ばれる百姓一揆(Peasants'Revolt)が勃発。サイモン・サドベリーは、ロンドン

サドベリーに残る犬のポンゴとトマス・ゲインズバラの足跡

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上の写真は、スタワー川から臨むサドベリー(Sudbury)の町。 Just before midnight they came to the market town of Sudbury.Pongo paused as they crossed the bridge over the River Stour.“Here we enter Suffolk,” he said, triumphantly. They ran on through the quiet streets of old houses and into the market square. They had hoped they might meet some dogs and hear if any news of the puppies had come at the Twilight Barking, but not so much as a cat was stirring. While they were drinking at the fountain, church clocks began to strike Midnight. The Hundred and One Dalmecians (Dodie Smith) 真夜中の少し前、彼らは、マーケット・タウンのサドベリーに辿り着きました。ポンゴは、スタワー川にかかる橋を渡りながら、立ち止まり、「さあ、ここからサフォークだ。」と誇らしげにいいました。古い家々の建つ静かな通りを走りぬけ、マーケット広場に入ります。他の犬たちに会い、「夕暮れの遠吠え」で、小犬たちの近況が入ったか知ることができるかもしれない、と期待していましたが、猫もいないほど、ひっそりとしています。水のみ場で、渇きを癒していると、教会の鐘が真夜中12時をうち始めました。 101匹のダルメシアン (ドディー・スミス) 今では、ディズニー映画として有名な「101匹わんちゃん」の原作からの引用です。1956年出版の原作は、英作家、ドディー・スミス著。  自分の子犬達が、毛皮好きのクルエラ・デ・ヴィルに盗まれた、ダルメシアンのポンゴと奥さん。犬の情報ネットワークのような「夕暮れの遠吠え」によって、子犬達は、サフォーク州にあるクルエラの先祖代々の邸宅に

第三の男

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去年の年末、テレビで第三の男がかかり、実に久しぶりに見ました。前回見たのは、たしかまだ、高校くらいの頃で、父親が名作だ、などと言うものだから、東京は飯田橋にあった名画座の「佳作座」なる映画館にわざわざ見に行ったのでした。非常に混んでおり、はっきり言って、時代背景なども把握していなかったので、筋が良くつかめず、観覧車、下水道、並木道シーン、そして、あのメロディーのおぼろげな記憶だけ。 台本を書いたのは、英作家グレアム・グリーン。今回、久しぶりに見て、なるほど、良く出来た映画だね、と改めて思いました。 舞台は、第2次大戦後のウィーン・・・都市は、英米仏露が其々管轄する4区に分けられていた。 米の三文小説家、ホリー・マーチンスは、古い友人のハリー・ライム(オーソン・ウェルズ)から、仕事がある、と誘われ、そんなウィーンに辿り着く。ところが、着いてみれば、ライムは、交通事故で轢かれて死んだという。警察から、ライムが、悪事を働いていたと聞かされ、よせばいいのに、マーティンスは、ライムの死の真相を調べ始める。また、ライムの愛人だった美人のアナと知り合い、惚れてしまう。チェコ人の彼女は、共産圏に住む羽目にならないよう、偽造パスポートで国籍を偽っていた。 冒頭に書いたいくつかの有名シーンの他、この映画の印象の名場面は、死んだはずだったライムが、マーチンスの前に姿を見せる対面場面。夜のウィーンの街中、建物の戸口に隠れた一人の男。近くのアパートの明かりがぱっとついたとたんに照らし出されるのが、ライムの顔。照れたようににまっと笑うと、明かりはふっと消え、また彼は闇に消える。この時の表情は、チャーミングな悪党という奴です。 ライムが働いていた悪事というのは、病院より、当時貴重だったペニシリンを盗み出し、それを薄めて、闇市場で売る、というもの。マーティンスは、病院で、ライムの犯罪の結果苦しむ病人達を見せられ、アナをロシア側に引き渡さず、西側に逃がすという約束と引き換えに、ライムを捕らえるため警察に協力することに。 さて、観覧車の中。ライムが、マーティンスに、自分の悪事を正当化して言うには・・・観覧車の上から眺めれば、人間なんて点のようなもの。金儲けのため、その点のひとつやふたつが消えたからって、どうだっていうんだ、しかも収入税なしの金儲け・・・。そして、観覧車を降